黒頭巾、一名、従者の話
語りを終えたイゾルデは、間髪を置かずに、貴族の少年を指差した。
「よし、次は、おまえだ」
指名された少年は、困惑したように視線を漂わせた。
「すこし待っていただけませんか? まだ話がまとまって……」
「ぼやぼやしてんじゃねぇぞ。四人目だ。時間は十分にあったろ」
イゾルデは前のめりになって、となりの少年に圧力をかけた。
少年も負けじと、イゾルデを強く見つめ返した。
そんなふたりのあいだに、スッと白い手が割り込んだ。
「イゾルデさん、ここは、私を先にしていただけませんでしょうか」
涼やかな声でそう尋ねたのは、少年の従者だった。細い瞳で、じっとイゾルデの顔を見つめていた。イゾルデは、その気迫に押されて、うしろに身を引いた。
「わ、わかったよ……勝手にしろ」
「ありがとうございます」
従者は礼を込めるように、右手を自分の胸元に軽く押し当てた。
「では、拙いながらも、始めさせていただきましょう」
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私の名前はアルジェナ、こちらにいらっしゃる、ホルス様の付き人をしております。残念ながら、取り立てて面白い体験などもございませんので、旅先で聞き及んだことを、ありのままにお伝えしようかと思います。
皆さん、黒頭巾というニックネームを、お聞きになられたことがありますか……おや、顔色が変わられましたね……その通りです。私がこれからお話しするのは、いくつものサーバでひとびとを恐れさせた、殺し屋にまつわる逸話でございます。
黒頭巾の伝説は、数多くあります。人殺しの好きなサイコパス、ライバルの企業から派遣された産業スパイ……などなど、その正体についても、枚挙に暇がありません。手にかけた顔ぶれも、一国の大臣から、富豪、聖人まで、逃れる術がないかのようです。そのエピソードをまとめるだけでも、一冊の本が書けてしまうかもしれませんね。
私が今回お話するのは、その中でも、比較的知られていないものに致しましょう。さもないと、皆さん退屈なさるでしょうから……私が耳にしたところによれば、黒頭巾の正体は、迷惑プレイヤーを処分するために雇われた、運営の死刑執行人なのです。
……皆さん、どうなさいました? 特にイゾルデさん、なんだか信じられないような顔をなさっていますね。いえいえ、否定なさらずとも結構ですよ。いずれにせよ、知りようのないことですから、あれこれ詮議するのは止しましょう。興味深いのは、この黒頭巾、数ヶ月ほど前から、全く姿を見せなくなったことです。これについては皆さんも、風の噂でご存知かと思います。管理人に特定されてアカウントを剥奪された、というのが一般的な見解のようですけれども……はてさて。
さて、黒頭巾がこのサーバに現れたのは、今から二年ほど前のことでしょうか。もともと遊ぶ気などなく、最初から死刑執行人として、企業のあいだを渡り歩いていたようです。そして、黒頭巾の最大の武器も、そこにありました。変装方法から脱出ルートまで、運営から便宜を図ってもらっていたのです。とはいえ、高名な殺し屋のために弁護しておきますが、それでも簡単な仕事ではないように思われます。わざわざチートを使ったのに、あっさりとリタイアしてしまうプレイヤーが、山のようにいるわけですから。
無論、黒頭巾は、そのように軽薄な人物ではありません。犯行は、常に人気のない時間帯と決まっていました。カフェテラスで、ひとびとが穏やかな風に身を委ねる昼下がり、思考力の鈍る、幻想的な夕暮れどき、あるいは、月と星しか証人のいない夜に、黒頭巾はやってくるのです。
黒頭巾の仕事は、簡単なものでした。規約違反ではないレベルのマナー違反。それを繰り返すプレイヤーに、ゲームからご退場いただくことです。暴言、チャット荒らし、アイテムの公正でない価格による取引……皆さんも、きっと目にしたことがあるかと思います。報酬も、それこそランキング入りできそうなほどに貰っていましたが、黒頭巾は、あくまでも暗殺者。目立つようなことは致しません。平凡な旅人のように装って、日々を過ごしていたそうです。
……ある夏のことでした。運営もとい城主に呼び出された黒頭巾は、ある女の暗殺を命じられました。それは、貧民街に住む、クリシュナという名の少女でした。
「貧民街の少女……出会い系の取締ですか?」
黒頭巾は、さりげなくそう尋ねました。城主は、
「そうだ」
と返し、報酬にレアな短剣を提示しました。
黒頭巾は依頼を請け負うと、早速、貧民街へと向かいました。
貧民街……この呼び名を嫌う人がいるのは知っています。無料体験版を延々と遊び続けるひとびとの総称で、現実世界でも貧乏なのかどうかは分かりません。ただ、エリアの外見はあからさまにスラム街地味ていますし、普通の都市へ出ることもできません。運営側としても、できるだけ早く課金してもらうための、ブランド戦略と言えましょう。
しかし、そのような雰囲気がいいという人もいて、貧民街に定住する者たちも、後を絶ちませんでした。その中には、サーバを出会い系に利用する者もおり、警察沙汰になることもしばしばです。今回の依頼は、そのひとつに過ぎないと思われました。
クリシュナは、貧民街の酒場にいました。踊り子として生計を立てていたのです。彼女が踊るのは、いつも夕方からと相場が決まっているらしく、黒頭巾がやって来たときには、まだ酒場も閉まっているような有様。黒頭巾は、とりあえず部屋を借り、客を装って暗殺の機会を窺うことに決めました。
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「踊り子かぁ……ちょっと同情しちゃうね」
テーブルを囲んでいる踊り子の少女が、そう呟いた。
アルジェナは語りを中断し、彼女のほうへ、その細い眼差しを向けた。
「あなたのお名前は……マーヤさんでしたか。クリシュナさんを、ご存知で?」
「ごめん、その娘は知らないよ。私は冒険に参加するタイプで、宿屋で踊ったりはしないからね。でも、踊り子仲間に聞けば、誰か知ってるかも。同業者ギルドって、バカにならないんだよ。リアルの話なんかも入ってきてね。このまえも、お婆さんがログインカプセルの中でショック死……っと」
マーヤは、すぐに口を噤んだ。話の腰を折ってしまったことに気付いたからだ。
「へへ、その婆さんの話が、あんたの持ちネタかい?」
ハーンは、杯の縁を、指で弾いた。
「ち、違うよ……って、ごめん、しゃべりすぎた」
「いえいえ、振ったのは私のほうですので……さて、夜の帳が下りました……」
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黒頭巾が二階から降りたとき、酒場は非常な賑わいを見せていました。市内のギルドと見紛うほどです。貧民街がここまで盛況だとは、黒頭巾も知らされていませんでした。もっと寂れたところを予想していましたし、実際そのはずだったのです。なぜなら、無料体験版のエリアでも、夜間の酒場には課金されてしまうのですから。そうしないと、チャットルーム代わりに利用するならず者が出てきますので。
黒頭巾は、カウンターに座りました。舞台からは遠いのですが、目立たないと思ったのです。ほかのひとびとは、我先にと、舞台に近い席を占めていました。
「お客さん、ここは初めてかい?」
恰幅のよいマスターが、グラスを拭きながら現れました。
「キール」
黒頭巾は酒を一杯注文し、踊り子の演技が始まるのを待ちました。
リアルでも耳にしたことのある古い曲が、酒場の雰囲気によく合っていました。
「待ち合わせかい? それとも、おひとりさん?」
店主が、余計な質問をしてきます。黒頭巾は黙って、グラスを眺めていました。白ワインとカシスの混ざり合った、ルビー色の水面に、天井のランプが照り輝くのです。
店主は不快になる暇もなく、テーブル席の注文に応じて、その場を去りました。
酒が半分ほどなくなったところで、舞台の近くがざわめきます……どうやら、標的のおでましのようだ。そう気付いた黒頭巾は、舞台へと視線を移しました。カウンター席と舞台とのあいだには、観葉植物が並んでおり、観察には不向きでした。しかし、そのおかげで、他の客に見咎められるおそれもありませんでした。
ビロードの幕を上げ、ひとりの女が現れました。褐色の肌と艶やかな黒髪を持つ、美しい踊り子です。黒頭巾がひとつだけ意外に思ったのは、彼女が大していかがわしい服装をしていなかったことでしょうか……マーヤさん、そうお怒りにならないでください。黒頭巾は、出会い系の元締めを暗殺しに来たのです。VRMMOをそういう目的で使うプレイヤーの多くは、やはり見た目も刺激的な服装を選ぶものなのですよ。
右脚を軸にして一回転。いよいよ踊りが始まりました。穏やかな音色に合わせて、踊り子は右へ左へ、ひらひらと舞い続けます。その腰の動きは軽やかで、四肢はしなやか。黒頭巾は、しばしその舞いに魅入っていました。仕事を忘れたわけではありません。ただ、違和感を覚え始めたのです。
音楽が止み、踊りが終わると、酒場に拍手が鳴り響きました。黒頭巾は軽く手を叩き、そのままカウンターへ向き直ります。標的は分かりました。しかし、この場では、どうしようもありません。観衆が多過ぎるのです。
……出直すか。そう思った矢先、隣に誰かが腰を下ろしました。香水と汗の匂い……それは、心地よく頬を上気させた、クリシュナそのひとだったのです。
「水」
店主は、用意してあったコップに水を注ぎ、クリシュナの前に置きました。彼女はそれを一気に飲み干すと、グラスの底でカウンターを打ちます。
「ふぅ、今日もお客さんが一杯ね……あら、新顔さん?」
クリシュナの視線が、黒頭巾のフードに向けられました。黒頭巾は前を向いたまま、沈黙を続けます。
「あなた、何でフード被ってるの? ……顔に怪我でもした?」
「……デフォルトのアバターなので、恥ずかしいのです」
黒頭巾は、そう誤摩化しました。確かに、無装飾のデフォルトキャラを使っているあいだは、なるべく外見を晒さないのがマナーになっていますね。おかしな話ですが……。
「貧民街で、そんなこと気にしなくていいのよ。この店だって、四人に一人くらいは同じ顔してるでしょ。ほら、フードを取って」
黒頭巾は、黙ってフードを外しました。うかつとお思いかもしれませんが、どうせ変装した顔です。むしろ、取り調べがあったときに、好都合なくらいでした。目撃者の証言は、役に立たなくなるのですから。
「あら、なかなか男前ね。ほんとに無料のアバター? 番号は?」
「……店主、勘定を頼む」
財布から金貨を取り出そうとした瞬間、黒頭巾の腕をクリシュナが掴みました。
その動作に驚いたのは、黒頭巾だけではありません。店主も目を見開いています。
「クリシュナちゃん、今日は、どうしたんだい? ずいぶんと積極的だね」
「だって、珍しいじゃない。カウンターでひとり酒なんて」
黒頭巾は悩みました。暗殺者ならば、このまま引き下がるのがベストでしょう。しかし、この暗殺者の胸中には、今回の依頼に対する、疑念が芽生え始めていました。本当に彼女が出会い系の元締めなのか、それを確認したくなったのです。
「親父、もう一杯……」
黒頭巾は、金貨をテーブルの上に置き、二杯目を注文しました。グラスが運ばれてくると同時に、クリシュナはその美しい人差し指を立てました。
「私にも、同じものを」
ルビー色のキールがもうひとグラス、クリシュナの前に置かれました
黒頭巾は、クリシュナに尋ねます。
「あなたは、踊り子をなさっているのですか?」
黒頭巾の質問に、クリシュナはきょとんとした顔を浮かべました。
「あら、さっきのダンス、観てなかったの?」
「もちろん……ですが、ただ踊っているだけ、というわけではないでしょう?」
クリシュナは、目立った反応を示しませんでした。むしろ、質問が分からなかったかのような顔をして、こう返します。
「私は、ここにしか出入りしてないわよ。課金もしてないし……」
「夜間の酒場は、貧民街と言えど、課金されるでしょう? なにか特権でも?」
「それは、場所代みたいなもんよ。そんなに高くないし……」
黒頭巾は信用しませんでした。ただ踊るためだけに貧民街へ出入りするなど、聞いたことがなかったからです。
「踊るためにわざわざ、このゲームをプレイしているのですか?」
「その言い方は、なんか刺があるなあ……踊るだけって言っても、自宅でひとり踊ってるわけじゃないわよ。ほら、こうして……」
クリシュナは、席の埋まった酒場を指差します。
「たくさんのお客さんが、観に来てくれるもの」
黒頭巾は、もとから気づいていました。この酒場は、クリシュナの踊りを観に来た冒険者たちで溢れ返っているのだ、と。なぜそのようなことが起こるのか、イマイチ見当がつきませんでした。
「彼らも課金……入場料を払っているのですか? あなたのために?」
「あら、それって、私のダンスには価値がないってことかしら?」
クリシュナは、少しばかり毒のある笑みを見せました。
「私、リアルでもダンサーだったのよ」
黒頭巾は納得しました。確かに、先ほどの踊りは、素人が観てもプロ級と分かるもので、ゲーム上の職業選択では、身に付かないスキルだったからです。
黒頭巾は同時に、女のあけすけな態度を訝りました。やはり出会い系なのではないか。自分に声をかけているのも、それが目的ではないか。そう勘ぐったのです。
「ほぉ……ダンサーをなさっているのですか……」
「昔は、ね。あなた、もしかして私に興味があるの? ナンパのつもり?」
「クリシュナさん、私はこう見えても、女性です。お間違えのなきように」
クリシュナは……そう、ちょうどあなたがたと同じように、驚きました。
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「ちょ、ちょっと待ったッ!」
イゾルデの大声が、アルジェナの語りを止めた。
その場にいた全員が、彼女のほうを向いた。
「……いかがなされましたか?」
「黒頭巾が女だって? そんな話、聞いたことが……」
「暗殺者が女性だと、何かまずいことでも?」
アルジェナの口調は、いたって冷静だった。
疑われたことも、不快には思っていないようだ。
イゾルデは勢いを失い、小声で返した。
「い、いや、女じゃまずいってわけじゃねぇけど……黒頭巾は、男って話だぜ?」
「それもまた、噂のひとつに過ぎません。黒頭巾が男なのか女なのか……それは、誰も知る由のないところです。私にこの話をした人が、黒頭巾は女だと告げたまで……この回答で、満足いただけましたか?」
イゾルデは、不承不承、頷き返した。
アルジェナは、のこりの面子を見やる。
「他に、ご質問は? ……ないようですね。では、先を続けさせていただきます」
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「ほんとに? キャラデザを間違えたんじゃないの?」
「好みの問題です……ところで、リアルでもダンサーをなさっていたというのは?」
「こっちから言い出した話だけど、その質問は禁忌よ。利用規約にも、『プレイヤーの個人情報に関する質問は禁じる』って書いてあるでしょ」
ブラフでしょうか。黒頭巾は、判断しかねました。人目が多いので、建前上、利用規約を持ち出しただけかもしれません。
黒頭巾は、話を一歩、戻すことにします。
「ここの観客は皆、あなたのダンスを観に来ているのですか?」
黒頭巾が尋ねると、クリシュナは子供のような笑みを浮かべた。
「冗談よ、冗談。そりゃ、そういう目的で来てくれてる人もいるかもね。でも、ここに来る人たちは、昼間は無料のダンジョンを攻略して、夜中に交流会をしてる人ばかり。私は、そこにちょっとした華を添えるだけ」
「無料ダンジョン……新規のものが出たのですか?」
「そんなわけないでしょ。無料体験版は、変更なしでβ版からずうっと一緒だよ」
「ならば、なぜ……?」
クリシュナは、両肘をカウンターにつき、大きく溜め息を吐きました。
「なんでなんだろうね……私にも分からないけど……でもさ、このサーバも、もう登録者が五桁を超えて……現実と何も変わらないんだよね。ランキングに入るのは、一日中ログインしっぱなしの重課金プレイヤーだけだし、それ以外の冒険者は、商売をするか、たまに友人たちと狩りに出掛けるか……それくらいのもんでしょ。それって、私たちが現実世界でやってることと一緒だよね。会社に行って仕事して、ときどき友だちと遊んで……」
クリシュナは、右腕で頬肘をつき、正面の酒瓶を眺めました。色とりどりの液体が、天井のランプに輝いています。まるで、宝石の群れのようでした。
「それに、ゲームがリアルになればなるほど、人間関係もリアルになるでしょ。町中に役所があって、給料体系が決まってて、市場が需要と供給の法則で動いて……これじゃ、何のためにVRMMOをやってるのか、分からないじゃない」
黒頭巾は、黙ってクリシュナの話に、耳を傾けていました。黒頭巾自身、そのようなことは、ずっと以前から感じていたのです。彼女がこのサーバで管理人に雇われたのも、運営のひとりとリアルな顔見知りというだけで、結局のところ、現実世界の人間関係の延長でしかありませんでした。
しかし、同情する気も起こりません。プレイヤーはそれぞれの自由意志で、ゲームに参加しているのですから。文句があるならば、辞めればよいだけなのです。
「私ね、何て言うか……もっと深い遊びをしてみたかったの……」
黒頭巾の手が止まりました……しっぽを出したか。そう思ったのです。
「深い遊び、というのは?」
「うまい言葉が見当たらないんだけど……背景のあるプレイングって言うのかな。ただ登録してモンスターと戦ってポイントを稼ぐんじゃなくて……何かこう……思いのこもった遊び方があるんじゃないかなって……」
当てが外れた黒頭巾は、クリシュナの話についていけなくなっていました。どうやらクリシュナは、あくまでもVRMMOの話をしているようなのです。いかがわしいことに誘ってくる気配は、微塵も感じられませんでした。
しかし、黒頭巾は、どこか引っかかるものを感じ、次のように答えました。
「思いを込める……そんなことは、イベントになんの影響も及ぼしませんよ。金貨が欲しいからモンスターを倒すのか、それとも人助けのために倒すのか……あるいは、自分の楽しみのために殺すのでも同様です。動機は、結果と無関係なのですから」
「そうよ、動機は結果と無関係だからこそ、尊重されなきゃ」
黒頭巾は、クリシュナの話術に呑まれていました……いえ、話術というのは、あまり適切ではないかもしれません。ともかく、クリシュナの発する言葉の何かが、黒頭巾を捕えて放さなかったのです。
「……どういうことですか?」
「結果なんて、誰にもどうすることもできないのよ。バタフライ効果って知ってる? 蝶の羽ばたきが、台風を引き起こすとか何とかってヤツ。子供の頃、なにかの本で読んだことがあるわ。本当かどうか知らないけど、ゲームのイベントだって同じ。ある冒険者の行動が、別の冒険者の行動を、助けたり邪魔したりするわけでしょ。それは、自分じゃどうしようもないのよ」
「つまり……結果は、おしなべて偶然だとおっしゃるわけですか……?」
「全部が全部って言うわけじゃないけど……ただね、よく思うんだ。もし結果が偶然に左右されるなら……人間がコントロールできるのは、動機の方だけなんじゃないかって」
「……その考えは危険だと思いますね」
黒頭巾は、独り言のようにつぶやきました。
「あら、どうして?」
「動機というものは、常に美辞麗句ですからね。現実社会でもVRMMOでもそうです。人助けと称してお金を集めたり、社会貢献と称して結局は税金逃れだったり……」
「うふふ、あなたって、悲観的なのね」
「現実的と言ってもらいましょうか。ところで……」
黒頭巾は、脱線した話を戻そうとしました。
しかし、うまい話題を思いつきませんでした。気分転換にカクテルでも飲もうと、グラスに指を伸ばした瞬間、クリシュナの手がそれを遮りました。触れ合う肌は、おそろしいほどの速さで離れ、黒頭巾は、女の瞳を覗き込みました。
クリシュナは、静かに、含みをもたせるように、微笑んでいました。
「あなた、それを飲んだら死ぬわよ」
「……なにをおっしゃるのですか」
「私が店内を指差したとき、グラスになにか入れたでしょ。神業ね」
「仮にそうならば、死ぬのはあなただと思いますが」
「さっき、すり替えておいたの」
凍ったガラスのような緊張感が、あたりを支配しました。
黒頭巾は、まばたきひとつせず、じっとカクテルのグラスを見つめます。
「あなたを一目見たとき、ただものじゃないって思ったわ。ここに集まっているようなひとたちと……いえ、サーバのプレイヤーたちと、全然違うんだもの」
クリシュナは、グラスを器用にあげて、赤い液体を揺らしました。
そして、口元にそっと縁をつけました。
「……あら、とめないのね」
クリシュナは、妖しげなまなざしで、黒頭巾の瞳を覗き返しました。
「さあ……あなたもグラスをあげて」
黒頭巾は、しばらくのあいだ、みじろぎもせず、記憶をたぐり寄せていました。
クリシュナの手の動き……彼女の、美しい手の動きを……。
音楽が、宵闇のリズムへと転じたとき、黒頭巾は、グラスに手を伸ばしました。細い柄をつまみ、クリシュナの顔がカクテルと重なるまで、高くかかげます。
「あなたって、自信家なのね」
「……」
「なにか、気の利いた台詞をお願い」
黒頭巾は、くちびるを動かしませんでした。
クリシュナはフッと笑みをもらして、その白い歯をみせました。
「君の瞳に、乾杯」
「……あなたのオリジナルですか?」
「昔、恋人とテレビで観た、映画の台詞よ」
「では最後に、あなたのオリジナルを聞かせていただけますか?」
「オリジナルなんて、この世界のどこにもないわ……あなたの存在も……」
クリシュナはそう言って、グラスを傾けました。
ガラスが静かにぶつかり合い、ふたりはそっと、口をつけたのです。
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雨の音が、ふたたび激しくなった。
窓ガラスを打つ音だけが、トントンと室内にこだましていた。
「……で? どうなったんだ?」
しびれをきらせたのか、イゾルデが続きを催促した。
「続きはありません」
アルジェナは、澄まし顔で、そう答えた。
当然のように、室内がざわめいた。
「おい、どういうことだよ?」
返答次第では、容赦しない。そんな勢いで、イゾルデは噛み付いた。
「私が聞いたのは、ここまでですので」
「かぁ、ふざけんなッ! オチのない話していいと思ってんのかよッ!」
イゾルデは、右手で頭を掻きむしった。
他の面々も、あまり納得できないような顔立ちを浮かべていた。
「ほんとうに、その先はご存じないのですか?」
そう尋ねたのは、僧侶の女だった。
「申し訳ありません」
アルジェナは、あまり悪びれた様子もなく、そう答えた。
「黒頭巾の消息なんて、だれも知らないからね。続きのあるほうがおかしいよ」
女将は、さも当然のような顔で、そうつぶやいた。
商人も、うんうんと首を縦に振りながら、ひとこと付け加えた。
「それにしても、興味深い話ですな。黒頭巾は、現に最近、姿を現していません」
「踊り子にグラスをすり替えられるなんて、信じられないけどねえ」
女将は、否定的な見解を述べた。
「うむむ、今のお話では、踊り子も相当素性が怪しいような……」
商人は語尾を濁して、杯を傾けた。
語りを終えたアルジェナは、主人の少年に向き直り、そっと唇を開いた。
「さて、話はまとまりましたか、坊ちゃん?」
「ありがとう、きみが語ってくれた間に、なんとかなったよ」
「よく考えりゃ、時間稼ぎのための作り話って可能性もあるよなあ、兄ちゃん」
ハーンの物言いに、アルジェナはうっすらと笑みを浮かべた。
この宿に逗留して以来、初めての笑顔であった。
「ハーンさん、私はこう見えても、女性です。お間違えのなきように」