白姫、一名、吟遊詩人の話
私の名はヴェスパ、旅のまにまに、歌などを編んでおります。功しもなく、それ以上はとりたてて申し上げることもございません。仮に昔日の勇名があったとしても、今は関係なきこと。今宵、皆様にお聞かせするのは、私が旅のついでに見聞きした、妖しい物語の切れ端。ひとつ、奏でさせていただきましょう。
……あれは秋草に虫の音が偲ばれる、涼しげな夜のことでした。夕羽振る風の凪いだ山奥で独り、私は道を求めて彷徨い歩いておりました。人里は遠く離り、灯の影も星と見分けがつかぬほど心細くなっています。道の端々で幾度も振り返ってみるのですが、この闇ではさすがに甲斐なく、有り合いの木陰で一夜を過ごすことに致しました。
火を起こすあいだ、何とも言えぬ侘しげな心地が湧いて参りましたので、竪琴を取り、ひとつふたつ、手ずからの歌などを奏でておりました。焚き火が赤々と燃え上がり、あたりを夕映えのごとく照らし始めた頃のこと、どこからともなく歌声のようなものが聞こえてきました。空耳か、はたまた鳥の哭か。私が木立の奥を窺いましたところ、霧のように白い影が、蠢く茂みの向こう側からぼうっと、浮かび上がったのです。
「旅のお方、ここで何を為さっているのですか」
炎を背にしており、その姿かたちをつぶさに見ることは適いませんでしたが、声音は女の響きを漂わせていました。私は心を和らげるとともに、訝しい思いがしてなりません。このような夜更け、歌など吟じて森を渡り歩く女の身に、私はひとかけらほどの心当たりも持ち合わせていなかったのです。
「旅のお方、どうぞお答えください……わたくしの庭で、何をお探しなのか……」
私は色づいた梢の葉を見渡し、それから女へと向き直りました。
「この空き地は、貴女様の持ち物ですか」
「この庭もこの森も、はてはこの山々も、全てわたくしが治めております……」
針で刺すような声が、私のみぞおちを冷たく吹き抜けました。瞳を凝らすと、女は静かに憤っているようでした。私は竪琴を脇に退け、深々とこうべを垂れました。
「初めて足を踏み入れましたゆえ、どうかお赦しください」
私が赦しを請うと、女は夜風に波打つ声で話を転じました。
「このあたりは物の怪も強く、旅のお方にはなかなか厳しい土地でございます。もしよろしければ、わたくしの館でお泊まりになりませぬか」
私は怪しく思いました。追い剥ぎの中には、美しい娘を撒き餌にして、旅人を誘い込む手口がございます。目の前にいる女も、そのような紛い物かもしれません。
とはいえ、私はしがない旅の歌人。追い剥がれるような品は、持ち合わせていなかったのです。
「ありがたく存じます……貴女様のお名前は?」
「白姫」
そう名乗った女は、絹擦れの音をさせて、いよいよ焚き火の縁へと姿を現しました。宵闇から浮き出た女の見栄えに、私は息を呑みます。歳は十六、七。月明かりに溶け込む白い衣服を纏い、靴は銀のように輝いていました。女は白々と光る靴底を鳴らして、私に道を示したのです。私は焚き火の始末を終え、急いで後を追いました。
女は、どこへ向かっているのでしょうか。近くを何度も巡ってみたのですが、人の住んでいる気配はありませんでした。それとも私が見落としただけで、どこかに集落のようなものがあったのでしょうか。私は念のため、竪琴を手にしたまま、女の一寸後ろをついて行きました。左右に広がる木々の間で、女の白く長い髪がふわふわと、天の川のように振れておりました。まるで、光の粉をまき散らしているかのようでした。
どれほど歩いたでしょうか。私がだんだん時間の感覚を失っておりますと、目の前の森が急に開けて参りました。そして、ひとつの洋館が、星明かりに浮かび上がったのです。それはずいぶんと古い建物のようで、庭は荒れるに任せておりました。しかし、窓からはちらちらと灯りが漏れており、妙な温もりが漂っておりました。
「この地の領主様ですか?」
「……」
私の質問をはぐらかし、白姫は館の門をくぐりました。私は左右を見回し、伏兵などがいないことを確かめた上で、玄関へと続く小さな階段を上りました。
白姫が扉の前に立つと、蝶番が音を立て、ゆっくりと広間が開きました。敷居の向こう側では、正装した召使いたちが、深々と頭を垂れております。これはいよいよ高貴な身分の方だと思い、私も少々居住まいを正したほどでございます。
白姫は客人の到来を告げると、私を置いて正面の広間へと消えて行きました。私は礼を述べる機会を逸してしまい、何とも気まずい思いをしたものです。それから召使いのひとりに連れられて、寝室へと案内されました。それは館の二階、窓から見える月の位置からして、東向きの部屋だったかと思います。私のような旅人に、わざわざ東側の上等な部屋を用意してくださったことに、深く感謝し、かつ驚いたことを、今でも覚えております。
「では、ごゆっくりどうぞ……」
召使いはそう言うと、静かに廊下の奥へと消えて行きました。私は竪琴をテーブルの上に置き、薄明かりの室内をぼんやりと見回しました。調度品は素晴らしく、目を見張るものがありました。されども、そこかしこに、何とも形容し難い、妙な感じが宿っておりました。幾年も使われた跡がないのです。調度品には埃が溜まっており、ベッドもところどころ湿気で黄ばんでおりました。いずれにせよ、旅人には申し分のないしつらえでした。私は、そのまま眠りについたのです。
……どれほどの時間が経ったでしょうか。戸を叩く音が聞こえました。寝ついたことは覚えていたのですが、窓を見やると、外は暗いままです。私は眠たい目を何とか見開き、扉を開けました。廊下の灯りが、室内へぽっと射し込みました。
ドアの向こうに立っていたのは、燭台を持った女中でした。
「これから晩餐が催されます……お客様もいかがでしょうか……?」
「今は何時でしょうか?」
「ちょうど日付が変わった頃かと」
女中は、何の躊躇いもなく、そう答えました。しかし、日付が変わってから催される晩餐会など、聞いたことがございません。それとも私のような旅人とは違い、高貴な方々はそのような時間帯に食事をお取りになられるのでしょうか。
「私は旅人ゆえ、末席を穢すことも許されぬ身かと存じます」
私はそのように告げ、断りを入れようとしました。ところが女中は、ドアノブを固く握り締めたまま、床を見つめてこう答えるではありませんか。
「今宵は市中から、ご来賓の方々が大勢いらっしゃいます。歌など披露されますゆえ、ぜひお客様も御一奏戴けませんでしょうか?」
女中はそう言うと、私の返事を待たずに戸を離れました。私は急いで竪琴を手にし、彼女の後を追いました。断る暇がなかったのです。女中は私を一階へと導き、大広間へと案内しました。
広間には、色鮮やかな衣装を着た人々が、グラスを片手に歓談しておりました。着ているものは見事で、いったいどこからやって来たのか、見当もつきませんでした。
「白姫様は、後ほどいらっしゃいます。それまでは、ごゆるりとどうぞ……」
そう言い残して、女中は奥の出入り口から姿を消しました。私は客人たちを一瞥し、それから部屋の隅で弦の調整に取りかかりました。私が呼ばれたのは、伴奏のためであり、社交のためではないと考えたのです。なるべく人目につかないよう、竪琴弾きとしてソファに座っておりますと、だんだん喉が渇いて参りました。女中たちは皆、酒類を運ぶばかり。それに手を出して良いのかすら、判然とは致しませんでした。
私は部屋の熱気に耐えられず、水を頂戴するため、広間を後にしました。召使いたちが出入りしている扉から、そっと抜け出したのです。それは、私を広間へ案内した女中の消えた扉でもありました。
……廊下は真っ暗でした。どこにも灯りが見当たりません。あの女中のように、燭台でも持っていなければ、数メートル先も見通せないような有様でした。私は窓から射し込む月明かりを頼りに、壁を伝って先へ進みました。裏口ですから、台所が遠いはずはないと思ったのです。
……ところが、どれだけ進んでも、台所らしき部屋は見えて来ませんでした。それどころか、人っ子一人いないのです。さては、出る扉を間違えたか。そう断じて引き返すと、途中で右手の方に、ぽっかりと大きな穴が見えました。獣の口と見紛うそれは、開け放された扉でした。中を覗き込んだ途端、私は息を呑みました。台所だったのです。カーテンのない窓から、煌々と光が漏れ入り、打ち捨てられた食器類を照らし出していました。何とも幻想的な光景に、私は首を捻らざるを得ませんでした。
なぜ台所が無人なのでしょう。大広間には、飲み物だけでなく、食べ物も大いに振る舞われていました。どこから。別の厨房があるのでしょうか。けれども、何かを調理した残り香すら、嗅ぎ取ることはできませんでした。
私がその場を離れようとしたとき、ふと肩に手が触れました。私は竪琴を抱き締め、壁に飛び退きました。
「何を為さっているのですか?」
私の肩を叩いた者の正体。それは白姫でした。私はそのときになって初めて、白姫の美しい素顔をありありと眺めることができたのです。眉月の下にか細い瞳。唇は冬の朝におりた霜のように薄く、それでいて妙な色気を帯びていました。頬はその名の通り純白で、うっすらと染まる気配すらありません。
私は喉が渇いたことを伝えました。
「それならば、召使いの者に賄わせます……広間へお戻りください」
私は命じられるまま、広間へと戻りました。会話と哄笑の渦。私は先ほどのことが気に掛かり、すべてを聞き漏らしてしまいました。今となっては、彼らの語った事どもに、興味が湧いてならないのですけれども……。
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ヴェスパは、そこで語りを中断した。そして、女将に向き直った。
「水を一杯いただけませんか」
「ん? ああ、すまないね、気が利かなくて」
女将はカウンタの後ろに引っ込む。その間、薄気味悪い沈黙が周囲を包んでいた。
「そりゃなんだ……残留思念の話か?」
角兜の男が、静かに尋ねた。彼は、空になった杯をこねくり回していた。一同の視線は、角兜の男に集まり、それからヴェスパへと移ろった。
「やはり、そう思われますか?」
ヴェスパは、当たらずとも遠からずのような口ぶりだった。
「いや、話の途中で御法度かもしれねえが、ちとそう思ったんでな」
再び沈黙が襲った。それを破ったのは、快活な少女の声だった。
「ゴーストって低級モンスターだろ? そいつがどう関係するんだ?」
少女の問いに、角兜の男はあからさまな嫌みの笑顔を見せた。
少女は口元を歪めた。
「おい、どう関係するのかって訊いてんだぞ。ちゃんと答えろよ」
角兜の男はニヤついたまま答えなかった。
少女が身を乗り出すと、彼女の隣に座っていた貴族風の少年が口を開いた。
「残留思念というのは、都市伝説のひとつで、プレイヤーの負の感情があまりに強過ぎると、その思念だけが独立してネット上に存在するようになるという噂話です。現実世界における幽霊のようなものですね。モンスターのゴーストとは関係ありません」
少年の解説を聞き終えた少女は、胸元で腕を組み、椅子にどかりと座り直した。
「何だ、最初からそう説明すりゃいいんだよ……サンキュ」
少女はちらりと少年を盗み見、不承不承といった呈で礼を述べた。
「いえ……どう致しまして……」
「ほらほら、喧嘩してるんじゃないよ」
女将が戻って来て、コップをヴェスパの前に置いた。ヴェスパは軽く礼を述べ、それから半分ほど喉を潤した。
ガラスと木のぶつかる音が、室内にしんと木霊した。
「では、続きを語ると致しましょう」
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私は女中の持って来た水で喉を潤し、晩餐会の様子を眺めておりました。途中、広間が急にしんとなり、ちょうど正面の扉から、白姫の入場が垣間見えました。しかし彼女は、人混みへとすぐに溶け込んでしまいました。
私はいったい何のためにその場にいるのやら、さっぱり分からないような始末で、手持ち無沙汰に竪琴を弾きながら、しばらくぼおっとしておりました。すると、ひとりの男が人の波から現れ、私の方へと近付いて来ました。
「お独りですか?」
男は酒を私に勧めて来ましたが、私は断りました。男は隣に座り、逞しい髭を撫でつつ、こう尋ねました。
「どちらにお住まいで?」
「旅の者です……白姫様のご好意で、一晩の宿をお借り致しました」
「驚きになられたでしょう? 白姫様は、このサーバ随一の人気者。四方から足を運ぶ者が絶えません。今宵もこのように……」
男は杯の端で、広間を指し示しました。
「サーバの有力者たちが、皆顔を揃えているのですからな」
私は少しばかり奇妙な感覚に襲われました。それが何であるかは、もはやご説明する必要もないでしょう。私が黙っていると、男は酒の勢いからか、さらに捲し立てました。
「最近は、白姫様の人気を妬む輩が多く、選挙を導入しろなどと申しております」
「これだけご名声がおありなら、選挙でも問題はございませんでしょう」
私は、深く考えずに、そう答えました。男は溜め息を吐いて、首を左右に振りました。杯の中にある赤い葡萄の色が、琥珀のシャンデリアに照り返しました。
「ヴェスパ様」
私の肩に、冷たい手が掛かりました。振り返ると、白姫が私の背後に立ち、その三日月のように細い目で、私を見据えていました。
「ヴェスパ様、ひとつ歌いたい心地です。伴奏をお願いできませんでしょうか」
私が竪琴を構えると、急に広間が静まり返りました。
まるで、最初から申し合わせていたかのようでした。
「何をご所望で?」
「『ある晴れた日に』」
竪琴弾きには難儀な曲を所望され、私はいささか戸惑いました。
「旋律だけでよいのです」
私はうなずくと、ぽろんとひとつ弦を弾きました。
人々は口をつぐみ、月夜に相応しい静寂が訪れたのです。
ひとつの歌声と、ひとつの絹擦れの音だけを残して。
Un bel dì, vedremo
levarsi un fil di fumo sull' estremo
confin del mare.
E poi la nave appare.
素晴らしい歌声でした。
白姫は優雅に歩を進め、それに合わせて人の波が動きます。
ある晴れた日に、港で帰りを待つ人々の間で、通り過ぎてゆくように。
Poi la nave bianca
entra nel porto,
romba il suo saluto.
Vedi? È venuto!
白姫の歌につれて、私は恍惚として参りました。
私の意識から観衆は消え去り、ただひとり、音を奏で続けました。
見よ、あれこそ歌姫だと、だれかが囁きかけてくるようでした。
Io non gli scendo incontro. Io no.
Mi metto là sul ciglio del colle e aspetto,
e aspetto gran tempo e non mi pesa,
la lunga attesa.
白姫の身が宙に浮き、音楽と高揚のなかで舞い始めました。
曲が終わり、盛大な拍手が鳴り響く中、私は気を失ってしまったのです。
……目覚めたとき、窓からは陽の光が射し込んでいました。小鳥のさえずりの奥で、私の耳にはまだ、あの女の歌声が残っているかのようでした。
……広間は閑散としていました。人の姿も、酒宴の跡も、何もかも消え果てていました。私はしばらく、呆然と寝椅子に横たわったあと、おもむろに体を起こしました。
本当に静かな朝でした。私がその静けさに身を委ねていると、ふと扉の開く音が聞こえました。振り向けば、昨晩私のくぐった場所が、ゆらゆらと前後に揺れていました。私は、憑かれたように廊下へと出ました。
廊下は薄暗く、左手の突き当たりから微かに、朝日が煌めいている程度です。なぜその廊下に足を踏み入れたのか、私には分かりませんでした。しかしよく見ると、床に野薔薇の花びらがちらほらと零れ落ちているではありませんか。私はそれを追い、寂れた台所を過ぎて二階へと足を運びます。危険なことは百も承知していましたが、私は床に散る花びらに誘われるかのように、ひたすらに廊下を進んで行ったのです。
花びらは廊下の奥、南向きに誂えられた扉の前に繋がっていました。私は寒々しい北窓を背にして、把っ手を引きました……鍵は掛かっていませんでした。
扉はぎこちない音を立てて開き、朝の空気に混じった薔薇の香りが漂っていました。しかしその中にはどこかしら、ひどく昔を思わせるような澱みも混じっておりました。そしてその香りに囲まれながら、寝台がひとつ、部屋の右隅に横たわっていたのです。
ひとりの女性を乗せて。
「白姫様……?」
私は寝台に歩み寄り、瞼を閉じた白姫の顔をつぶさに眺めました。そして、気付いたのです。月日に乾き切った肌、柔らかさを失った髪、それでいて全く面影の変わらぬ、永遠に同じ歳を繰り返しているような素面……BOTでした。昨晩の出来事は、BOTが私に見せた夢の一部始終であったと、今さらながらに気付かされたのです。
野薔薇がひとつ、床の上に落ちていました。私はそれを拾い、白姫の胸元に置くと、夢の館を後にしたのでした。
葉隠れに 薫る野薔薇の その紅は 昔の人に 遭う心地ぞす
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「その後、館を去った私が聞いたところによれば、あの地はかつて寂れており、管理人が集客のためにこっそりと、美しい女城主をこしらえたそうです。多くのプレイヤーが彼女に惹かれましたが、人の心は移ろいやすいもの。他の地が開拓されるにつれて、だんだんと忘れ去られたのだと言います。管理人もまた、あのサーバを放棄し、自分が作ったBOTのことなど、忘れてしまったのだそうです」
嵐の音。風が強くなり始めていた。雨戸に打ちつける風が、その場に座る聴衆たちの心情を脅かしていた。
「そいつは可哀想な話だな……管理人にも見捨てられるなんて……」
剣客風の少女が、そう呟いた。
幾人かは、それに賛同しない素振りをみせた。
「さあ、どうだろうね。そのお姫様は、自分の世界に閉じこもっちまったんだから、その中では幸せなんじゃないかね。外野がどうこうの言うことじゃないと思うよ」
そう言ったのは、宿屋の女将だった。隣にいた角兜の男も、黙って頷いた。
「しかし、自分の作った舞台の中で満足していたとなると、なぜヴェスパさんを誘ったのでしょうね。それこそ蛇足だと思いますが……」
商人が口を挟んだ。これには、女将も肩をすくめてみせるばかりだった。
「そりゃ、やっぱり寂しかったんじゃねえのか?」
もう一度、剣客少女が会話に割り込んできた。ヴェスパは残りの水を飲み干し、それから歌うように、こう切り上げた。
「思い出とは、時に苦しいものです……さて、次はどなたがお話を為さいますか?」