プロローグ
梅雨が降り続いて、もう幾日であろう。涼やかで、どこか趣がある。麻のように乱れた物語が手もとにある。それを読んで聞かせるひともいない。それならば電子の河に流して、だれか拾うひとがいないか試してみるのも、おなじことかもしれない。ネットというものはうわさ話ばかりで、呆れはてていたが、わたしもまたこうしてうわさ話をしている。それもよかろう。嘘を語ってひとを楽しませる者もあるのだから。キーボードを打ち続けていると、梅雨はいつまでも降り続いてゆく。
嵐の夜だった。
風は刃となり、命あるものは皆、闇の中で震えていた。
その闇の中に輝く、ひとつの灯火があった。それは風に軋む窓の奥から、世界に残された最後の希望のように、明々と漏れ出ていた。
巣穴の狼たちが目を光らせ、木々の鳥たちがその羽を濡らす中、その窓の向こう側に住まう人々は、ただぼんやりと暇を持て余していた。この地で足止めを喰らってから、早三日。様々な衣装に身を包み、様々な目的を抱いた冒険者たちは、嵐の止むのを待ちわびていた。
「はあ、こいつはたまんねぇな」
窓に近いテーブルに座り、椅子を傾けながら闇夜を見やる少女が、ふと呟いた。生まれつき褐色の肌が、隙間風の湿気に濡らされ、ランプの火に怪しく光っていた。少女だと分かるのは、ただ胸元の小さな膨らみだけ。それ以外は少年といってよい容姿と、荒々しい言葉遣いが、彼女の性別を曖昧にしていた。
「文句があるなら、運営にメールしろ……無視されるのがオチだがな」
中央の席で酒を飲んでいた大男が、杯を舐めつつ言葉を返した。筋骨隆々としたその男は、少女の倍ほどの指で、ツマミのスモークハムを口に運んだ。角兜をそばに置いているところからみると、一見冒険者風情であったが、武器は持っていなかった。
「まあまあ、お嬢さん。サーバーのメンテナンスとあっては、我々プレイヤーには、どうしようもありませんからな。おとなしく、再開を待つことに致しましょう」
大男の隣に座っている商人風の中年男性が、でっぷりと突き出た腹を震わせて笑った。愛想のよい目をした、口髭の立派な男だった。着ているものは簡素だが、その素材の質感は、彼が経験豊かな行商人であることを教えてくれた。
「だからって、雰囲気出すために、嵐にしなくてもいいだろ?」
そう答えた少女に、角兜の男が再び口をひらいた。
「へへ、そうでもしねえと、嬢ちゃんみたいなのが、森で迷子になるからな」
角兜の男はいやらしい笑いを浮かべ、もう一枚スモークハムをつまんだ。
その肉切れが男の舌へ乗るまえに、少女は椅子を引き、腰の短剣を抜いた。
「もういっぺん、言ってみな!」
剣先の煌めきに、食堂の空気が凍った。他のテーブルについている人々は、ある者は身を寄せ合い、ある者ふりこのように視線を動かしたが、なかにははみじろぎもせず、音楽を奏でいる者もいた。
「あんたたち、外に放り出すよ」
ややドスの利いた女の声が、カウンターの向こうから聞こえた。調理場の簾から、三十路の女が姿を現した。粗末なワンピースにエプロン。後ろ髪を高く結った女は、妙に威厳のある瞳で、ふたりを交互にまなざした。
女は、宿屋の主人であるらしかった。少女は短剣をおさめ、角兜の男は口を噤んだ。
「チッ」
少女は舌打ちして、どかりと椅子に腰を下ろすと、窓のほうへ視線を向けた。
角兜の男は、なにごともなかったかのように酒をあおった。
「あぁん、つまんなぁい」
緊張した空気を破るように、間の抜けた甘ったるい女の声がした。カウンターのテーブルで、露出の高い服を着た女が、その身を悩まし気にくねらせていた。その衣装は、七色の薄衣を七重にかさねたもので、いかにも踊り子の風情であった。
その踊り子のとなりには、黒人の女僧侶が座っていた。僧侶の衣装は、美しい亜麻色の一枚布だった。僧侶はさきほどから目を閉じ、一心にお祈りをしているようにみえた。
踊り子は、僧侶に声をかけた。
「ねえ、イマナちゃん、ちょっとヒマ過ぎない?」
と尋ねた。イマナと呼ばれた僧侶は、祈りの手を休めて、その穏やかな瞳を踊り子に向けた。
「私の心は、常に神とともにありますので」
「……あっそ」
踊り子はつまらなさそうに視線を上げ、会話をやめた。なぜこのふたりが同じテーブルについているのか、だれも知らない。僧侶は再び目を閉じ、祈りの文句を唱え始めた。
その祈りの背後で、中性的な顔立ちの青年が席を立った。
青年は、おなじテーブルに座っていた貴族の少年に話しかけた。
「ホルス坊ちゃま、そろそろご就寝の時間です」
ふたりは似たような黒い礼服を身に纏い、この安宿のなかで異彩を放っていた。
貴族の少年はうなずいた。
「そうだね、部屋に戻ろう」
少年は、読みかけの魔導書を閉じ、そばのランプに手を掛けた。
すると、今まで一度も言葉を紡いでいない、部屋の奥隅に座っていた男が、その柔らかなくちびるを動かした。
「お待ちください」
その男は、豪奢なベレー帽を被り、顔を白いベールで隠していた。
彼は手に竪琴を持ち、さきほどから曲調を変えては、この場のBGMを司っていた。
声の具合からして、まだ若いのだろうか。
竪琴弾きは、静かに続けた。
「私たちがこの宿で顔を合わせ、既に三日が経ちました。お互い、ほとんど部屋の中にいるばかりで、ろくに話もしておりません。いかがでしょう、ここはひとつ、自己紹介もかねて、夜語りなどし、無聊を紛らわせようではありませんか」
竪琴弾きの言葉に、他の人々は顔を見合わせた。
最初に言葉を継いだのは、先ほどの商人であった。
「面白そうですな。あちこち歩き回っていると、おかしな話を耳にするものです。皆さんにも、そのような珍談奇談の数々がございましょう。そのような話を仕入れて、冗談まじりに客と話すのも、いい商売になるものですからね」
角兜の男は鼻で笑い、杯に口をつけた。もっともその笑いは、小馬鹿にしたのではなく、賛意を示したものらしかった。口元を拭い、唐突に話を始めた。
「それじゃ、俺が話をしてやろう。ここから東にある町の娼婦街で……」
そのとき、わざとらしい咳払いが、隣の席から聞こえた。
角兜の男が振り向くと、僧侶が神妙な顔でこちらを見ていた。
「ハーン殿、そのような穢らわしいお話をなさるなら、私は参加致しません」
これに答えたのは、角兜の男ハーンではなく、踊り子だった。
「あら、説教ばかり聞いてないで、たまにはこういう話も、いいわよ?」
踊り子の混ぜっ返しに、僧侶は頑として譲らなかった。ハーンは押し黙り、杯を大げさに傾けたが、ぽつりと雫が舌に乗るだけで、酒は喉を潤さなかった。
「ちぇ、もう仕舞いか」
ハーンはそうつぶやくと、女主人へ向けて、その逞しい腕をかかげた。
「おい、女将! もう一杯!」
彼の注文に、女主人は眉をひそめた。
「今日は、それで仕舞いだよ。仕入れもできないし、酒樽が底をついちまうよ」
「はん! どうせ俺とオッペンの旦那しか飲まねえんだ。少しくらい、いいだろ」
「だから困るんだよ。あんた、酒がなくなって、一日でも我慢ができるのかい?」
女主人の一喝に、ハーンは黙り込んだ。
うなるように喉を鳴らし、指先でテーブルのうえを叩いた。
「で、他の奴らは、どうすんだ? やらねえんなら、俺は酔ってるうちに寝るぜ」
男のおどすような問いに、踊り子が腰をあげた。
「あたしはやるよ。ヒマだし」
これに、窓際の剣客少女のつづいた。
「オレも参加するぜ。ここじゃ、剣の練習もできないからな」
ハーンは人数をかぞえた。
「ひい、ふう、みい……これで五人だな。残りの連中は?」
「では、私も参加させていただきましょう」
僧侶が静かに立ち上がり、ハーンのテーブルへと席を替えた。そのあいだ、階段のそばでは、貴族の少年と従者が、小声で相談をしていた。
「ホルス坊ちゃま、いかがいたしましょうか?」
「僕たちだけ断るのも失礼だ。ここは、同席させてもらおう」
ふたりは並んでテーブルにつこうとしたが、既に椅子がなかった。
そこへ、女主人が別のテーブルを運んで来た。
「ほらほら、ぼやっとしてないで手伝いな。男どもは飾りかい」
女主人の号令に合わせて、ハーンとオッペンが、あたりから椅子を掻き集めた。ふたつのテーブルと九つの椅子を組み合わせて、めいめいが腰を下ろした。
「では、私はここへ失礼します」
発起人の竪琴弾きが、端の席を占めた。
「よし、これで全員そろったな」
かくして九つの椅子は埋まり、それぞれがお互いの様子をうかがい合っていた。カウンターを背にして、テーブルの中央に居座るのが女主人。そこから時計回りに、剣客少女、少年貴族、その従者、ハーン、オッペン、踊り子、僧侶、竪琴弾きと並んでいた。
「最初は、誰が話す?」
ハーンは、一同をぐるりと見回した。誰も挙手しない。では自分か、と彼が体を動かしたところで、ふいに竪琴弾きが唇を開いた。
「このようなときはやはり、言い出した者が先頭を切らねばなりますまい。ひとつ、私から始めて、以後は自薦か他薦と致しましょう」
若者の提案に、誰も異議を唱えなかった。若者は竪琴を手に取り、弦を一本弾く。雨粒にも似たその音は、波紋のように広がり、空虚な部屋を充たしていった。
「昔々……」
ここで剣客少女が口をはさんだ。
「ちょっと待った。まだ自己紹介してないぜ?」
少女は幾人かの顔を見比べ、それから先を続けた。
「となりにいるガキとは、口を利いたこともないしな」
「ホルスとお呼び下さい。歳も、あなたとはそう変わらないはずです」
「子守りを連れて旅してる奴なんざ、みんなガキさ」
少年が再び口を開こうとしたところで、バンとテーブルを叩く音がした。少女と少年が振り向くと、そこには、無愛想に片肘をついたハーンの姿があった。
「おい、ガキ同士の喧嘩は後にしろ。自己紹介なんざ、話すときにすりゃいいのさ……兄ちゃん、続けてくれ」
「では、始めさせていただきます」