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旧校舎の意思

作者: hibana


 この学校には七不思議というものがない。時々、あそこは出るよとか、昔ここで自殺した人がいるらしいよとか、噂したりするだけだ。この学校には面白味のある奴がいないからだ、と千尋は認識している。

 杉山千尋には友人がいない。もちろん人並みにクラスメイトと付き合ったりはするが、それを馬鹿馬鹿しいとも思わないが、どうやら自由を好むらしいのだ。好きなようにやっている代わりに、千尋には特定の友人がいない。

 そんな千尋の趣味といえば、これしかなかった。

 学校の周りの、小学生の背丈程度の柵を越え、千尋は辺りを見渡す。セーラー服のままなのは、いざ見つかったときに忘れ物をしたなどと誤魔化せるのではと思っているからだ。息を潜め、静かに学校の中へ侵入する。この学校には警備員などはいない。千尋は、警備員が巡回する学校があることを知りもしないのだ。

 満月らしい月の光に照らされた廊下を闊歩すると、自然に笑みがこぼれた。

 千尋は、この瞬間が最高に好きだった。誰もが知ってる学校の、誰も知らない夜の顔。私一人が、それを知っている。そんなことでワクワクして侵入までする自分が、子供っぽくて恥ずかしくてなぜか好きだった。

 廊下を歩き、一つ一つ教室を覗いていく。人なんているわけがないのに、いないほうがいいのに、誰かがいることを期待している。そんな風に学校を回り、最後に屋上に出るのがいつものパターンだ。

 しかし、この日は違った。

 一階の体育館。いつもは静謐な暗闇に包まれているそこは、今日に限って安っぽい灯りが点いていた。誰も蛍光灯を替えようと思わないのだろう、切れた蛍光灯がそのままに、中途半端な光だった。千尋はその安っぽさに、ドキドキしながら近づく。影に隠れて恐る恐る覗くと、そこには若い男がいた。バスケットボールを一心に突いているが、お世辞にも上手とは言えない。

 タン、タン、タン、トッ、タッタッタッタン──

 手から離れたボールを慌てて追いかけている。男はため息まじりにボールを抱え、また突き始めた。

 タン、タン、タン、タン、タン、ダンッ、キッ、ダンッ──

 突いたボールが足にぶつかって見当違いの方向へ飛んでいったのを見たとき、千尋は堪えきれずに吹き出してしまった。男は驚いたふうもなく千尋を見て言った。

「何をしているんですか、杉山さん」

 ハッとして千尋はとっさに笑いを飲み込む。

「忘れ物を取りに来たんです」

 男は少し呆れた顔をした。

「まさか、今までそれで済んでいたわけではないだろうね」

 だって今まで誰かがいたことなんてなかったから、と言いかけて慌てて口を塞ぐ。危ない。墓穴を掘るところだった。

「だって先生、私忘れ物をしたの、今日が初めてです」

 どうだか、と言いながら教師はまたボールを突き始めた。

「先生……バスケ、とても下手ですね」

「うるさいね、不法侵入娘。下手だから練習しているんじゃないか。君なんか補導されるがいい」

 どうやら千尋に興味はないらしい。親にも警察にも連絡するつもりはないようで、出会ったのがこんなに無気力な教師だったことは運がいいとしか言いようがない。体育館を出ようと背中を向けたとき、後ろから声をかけられた。

「早く帰りなさいよ、今すぐに。絶対ですよ」

 はい先生さようなら、なんて言って千尋は微笑む。教師はまだ、バスケットボールに翻弄されていた。

 帰ったほうがいい、というのはわかっていた。あの教師も、もう一度会ってしまったら気が変わって親に連絡しようと思うかもしれない。しかし、今日は満月だ。屋上から満月を見上げることなんて、次はいつできるというのだろう。惜しい。少しくらいのリスクがあっても、惜しいと思わせるシチュエーションだ。

 千尋は、足早に屋上への道を急いだ。

 この学校は二階建てだ。右端と左端に階段がある。千尋は近いほうの階段を探していた。人と出会ってしまったからか、心拍数が上がっている。ここからだと右端の階段が近いだろう、と思っていた。が、右端の階段まで行かなくても階段はあった。学校の、ちょうど真ん中あたりだ。ここを忘れていた自分に笑ってしまう。緊張しすぎだ。あの教師のせいで。

 その階段を駆け昇り、千尋はようやく二階へとたどり着いた。まったく、二階に行くだけなのにこの学校の階段は何段あるのかと呆れながら。

 一歩、踏み出した瞬間だった。ぐるり、とまるで鉄棒で前回りしたような感覚。千尋は立ち眩みなどしたことがなかったが、もしかしたらそれと同じようなものだったのかもしれない。

 まさか、と思いながら歩く。思考をどこかに置き忘れてしまったように、初めは驚きしかなかった。ようやく思考が追い付いたとき、千尋は呟いた。

 ここ、どこ──?

 そこは、埃の積もった古くさい建物だった。所々木造で、廊下はキシキシと鳴る。もちろん千尋の学校だって最新の設備が整っているとは言えないが、それとこれとは別次元の古さだった。

 呆然と歩く。今の千尋の行動理念は『一体これはどういうことなのか』という疑問一つだけだった。それだけを考えて歩く。我を失っていた。

 不意に、背後から床の軋む音がした。ギッ、ギッ、ギッ、とどこか規則正しい足音。千尋はその時初めて恐怖を感じた。

 立ち止まってじっとその音を聞く。自分の荒い呼吸音と鼓動の音。そして誰かの足音。その足音の主が、それ以外の音をたてていないことに気づいたとき、千尋はたまらずに走り出した。

 走った。走った。自分のたてる、床が軋む音に一々悲鳴をあげそうになりながら走った。

 一つの部屋に入り、息を潜める。息を整えて、その部屋を見渡したとき、千尋はあることに気づいた。並んだ机、堂々とした黒板。ここは、教室だ。落ち着いて考えれば、ここは古くさくはなっているが学校だった。

 そうわかってしまえば、逃げてきた自分がひどく滑稽なように思える。あの足音はきっと、あの教師のものだったに違いない。そうじゃなくても、他に誰かがいても可笑しくはない。

 そう笑いかけたとき、足音が近づいてきた。ドキリとするが、千尋は迷った末にそこで待つことにした。これはどういうことなのか聞かなければならない。カラカラと引き戸が開いたとき、千尋は今度こそ本気で呆気にとられた。

 それは、黒い影だった。かろうじて人の形をした黒いだけの影。千尋が思わずその影の主を探してしまったのも無理はない。しかし、その影の近くに人の気配はなく、引き戸を引いたのは間違いなくその影だった。

 近づいてくる影に、千尋はもちろん後ずさりした。しかしそれは、本気で逃げる体勢ではなかった。もしこれがドッキリだったら、無様な所は見せられない。そんな考えがまだ頭を掠めていたのだ。

 それまで規則正しかった足音が、不意に速くなった。あ、と思ったその時には足を掴まれている。そのまま引きずられて転んだとき、千尋は初めて悲鳴をあげた。

 それは人の手とは明らかに違う感覚だった。どこか、無数の髪の毛にがんじがらめにされているような気味の悪い感覚。千尋は必死に振りほどこうとした。その手を執拗に殴った。自分の足も痛かったが構わない。ようやくその手が離れ、千尋は四つ這いと二足歩行の狭間のような体勢でその教室を出た。

 それからはなにも考えずに走った。ただ純粋な生への渇望で、十分な力が出た。

 階段を探した。ここがどこなのかもわからないのに、階段がどこなのか、わかるはずもなくただ宛もなく走っていた。もはや自分がどこから来たのか辿ることもできそうになかった。

 走っていると、上から額縁が落ちてきた。腰を抜かして、それをじっと見つめる。ギッ、ギッ、と音が聞こえて鳥肌がたつ。信じられないことに、その足音は一つではなかった。

 震える腕と足で必死に這う。早く逃げなくては。やっと歩けるようになったその時、千尋は階段を見つけた。

 一段一段なんてもどかしくて、ほとんど落ちるように駆け降りる。一階にたどり着いて、千尋は失望した。古くさい学校のままだったからだ。二階を脱すれば元通りだという楽天的な予想は裏切られたことになる。

 しかし失望してばかりもいられない。千尋はすぐそこの窓から脱出を試みた。廊下の大きな窓は、千尋が通るには十分な大きさだ。そのはずだった。

 結果から言えば、千尋は窓から出ることはできなかった。鍵さえ開けることはできなかった。いつもはカチリと軽い音をたてて開くはずの鍵が、今日はどんなに力を入れても開かない。千尋は焦燥感から力一杯窓を殴った。何度も何度も殴った。びくともしないどころか、音さえない。

 ギッ、ギッ、ギッ、ギッ。

 いくつもの足音。振り向けば、黒い影が揺らめきながら近づいてきていた。

 あ……あ……。

 言葉にならない声がもれる。自分が、泣いていることに気づいた。思わずへたりこみ、瞳を閉じる。どこかで聞いた話を思い出す。

『困ったときは、逆のことを思うんだよ。寒いときは寒くないって、怖いときは怖くないって、悲しいときは悲しくないって念じるんだ。それで大概上手くいく』

 怖くない怖くない怖くない怖くない。

 心のなかで呟きながら手で顔を覆う。何も見えないように。でも音は無遠慮に耳に入ってきた。

 ギッ、ギッ、ギッ、ギッ。

 怖くない怖くない怖くない怖くない。

 ギシッ。

 いきなり強く踏み込んだ音がして、腕をとられる。なにか言う間もなく、千尋は誰かの腕のなかにいた。なぜだか、逃げようとは思わなかった。黒い影が遠ざかっていく。

 抱き上げられている。そして自分を抱いた人が走っている。異常な安心感から、千尋はその人の服を掴んだ。不意にその人は立ち止まり、千尋を下ろした。そこは教室のなかのようだった。

「帰りなさいと、言ったはずだよ」

 先生、と呟いて千尋は泣いた。この教師と出会ったのがまるで遠い昔のような気がしていた。

「先生、もうバスケ、いいんですか」

 嗚咽混じりに言うと、教師はひどく呆れたように千尋を見た。

「そんなことを言っている場合か。泣きながら強がりなど、言うものではないよ」

 それでも嬉しくて。自分の他に人がいるということがこんなに嬉しかったことはない。友人もいない千尋だ。人の温もりを、ありがたいと思ったこともない。

「先生、これ、どうなってるんですか」

「僕に聞くのか。わかるはずがないだろう」

 そう言ってふてくされる。不意に教師が顔を上げた。

「しかし、これだけはわかる。いや、勘違いかもしれないけどね」

 千尋が促すと、教師は言った。

「ここは旧校舎に似ている。十年前に取り壊された旧校舎に。場所は変わっていないよ。十年前、この場所に建っていたんだ」

 十年前にこの学校が建て直されたことは知っている。しかし十年前といえば千尋が六歳か七歳くらいだ。内装など覚えているわけがない。

「十年前、事故で教師だか生徒だかが死んだのをきっかけに新しくしたらしいから、まあこんなことが起こっても不思議ではないね。起こってほしくはないけど」

 教師はどこか飄々と言う。起こっても不思議ではないなんて、そんなわけがない。そう、内心冷静に突っ込む。緊張感の欠片もない男と話していると、千尋も段々落ち着いてきた。

「先生、私、杉山千尋です」

「知ってますが。ああ、僕は和泉ですよ」

「知ってます」

「なんなんだ君は」

「こういう状況って、絆が生まれないと絶対生き残れないじゃないですか。だから」

「どうだか。どうせ、僕の名前を知らなかったのでしょう」

 失礼な。ちょっと顔と名前が一致していなかっただけだ。

 千尋がむくれていると、和泉は何も言わずに人差し指を揺らした。静かに、と目で合図する。千尋はとっさに口を押さえ、和泉を見つめた。やがて、ギッ、ギッ、ギッ、というあの足音が近づいてくることに気づく。

 先生、と言おうとするが和泉はかぶりを振る。仕方なく黙っていると、足音はどんどん近づいてきて、そして遠ざかっていった。足音が聞こえなくなってから千尋は深呼吸をする。無意識に息を止めていたらしい。和泉は千尋の腕を掴み、引っ張った。

「上に行こう」

 そんなことをしたら逃げられなくなる、という千尋の抗議を聞かずに和泉はそのまま千尋の腕を引く。千尋も諦めて歩きだした。

 教室を出ると、和泉はいきなり走り出した。千尋も必死になってそれを追う。ギッ、ギッ、ギッ、ギッ、と追いかける足音は段々増えていき、すぐ近くで──耳元で聞こえたような気がした。思わず先生、と叫ぶと和泉が振り向き、千尋の肩を抱くようにして走った。まだ耳元に残る足音に、腰が砕けてしまいそうになる。

 追いかけてこないで、お願いだから。

 ほんの一瞬、和泉が千尋の背中を押し、立ち止まった。千尋は背中を押されたそのままに惰性で走る。来るな、という怒号が聞こえた。立ち止まりかけると、手を握られる。見ると、和泉が千尋の瞳をじっと見つめながら走りなさいと囁いた。

 階段を昇る途中で、和泉が立ち止まった。ため息を吐きつつ座り込む。

「先生、早く、走らなきゃ」

「大丈夫。やつらは階段を昇ることも降りることもできない。階段の途中に入れば安全だよ」

 それでも千尋は座らずに、和泉をじっと見た。

「僕は思うんだが、やつらは“学校の意思”そのものじゃないかな。今の学校ではなくて、旧校舎のころのね。今言うなら“旧校舎の意思”かな」

 千尋は黙って聞いていた。

「十年前、“旧校舎の意思”は一人を飲み込んだ。事故ではなく、ね。そして今度は……ってことだよ。どう思う?」

 和泉は千尋を見て、怪訝そうな顔をした。ひどい顔をしているよ、と心配そうに言ったりもした。千尋は言葉を選びながらゆっくりと口を開く。

「あなたは、その十年前“旧校舎の意思”に飲み込まれた教師?」

 和泉は目を丸くする。

「何を言ってるんだ。いきなりだな」

 千尋はしばらくうつむいて、それから静かに顔を上げた。

「私はあなたのことを知らない」

「だと思ったよ。君の顔覚えの悪さは職員室で有名だ」

「あの影はあなたのことを襲わない」

「僕もそれは不思議だったんだ。そういう趣味なんじゃないのかな」

「どうして階段は安全だと知っているの」

「……試したから」

 最後は、自信がなさそうに小さな声で呟いた。千尋はじりじりと後ずさる。

「待ちなさい」

「いや」

 首を横に振る千尋を見て、和泉は無表情になった。

「ずっと君を見ていた」

 ゆっくりと、和泉は千尋に近付いてくる。

「いや。私、死にたくない……!」

 僕だって、死にたくなんかなかったさ。

 和泉が手を伸ばした瞬間、千尋は階段を駆け下りた。

「待ちなさい! どうせ、一人では逃げられやしない」

 千尋はもちろん立ち止まらなかった。とにかく走って、昇降口へ急ぐ。月明かりに照らされて、少しだけ力が湧いた。細かいところは違っているが、大体の配置はいつもの学校と同じだということに気づく。そうわかってしまえば、夜の学校を我が城と思ってきた千尋は簡単に昇降口へたどり着いた。

 なぜだかこの学校が可笑しくなってから、どの窓も扉も、外につながっているものは施錠されていた。千尋が入ってきた窓もだ。昇降口の大きな扉の鍵を開ける。開かない。鍵はびくともしない。ただ横になっているものを縦に捻るだけの鍵が、動きもしない。精一杯体当たりをしてみるけれど、衝撃も吸収されてしまったようで痛くもない。

 千尋は扉に体を預け、瞳を閉じて泣いた。一人になったことが、悲しくてしょうがなかった。初めて、本当の孤独というものを知ったような気がした。

 ガタガタ、という何かの震える音に、千尋は顔を上げる。左右の靴箱が傾き、自分を潰そうとするのがスローモーションで見えた。

 これも、“旧校舎の意思”? 声が聞こえたような気がした。こっちへおいで、と。ああきっと、この学校は生徒を待ってるんだ。学舎が学舎に戻るその日を。

 ガシャン、と衝撃音がして、靴が何個も落ちてきた。とっさに頭を押さえる。

「早く出なさい」

 目を開けると、すぐ近くで和泉が靴箱を支えていた。ゆっくりと手を離して、左右の靴箱が支え会うようにする。千尋は四つ這いでその間を抜けた。そのまま迷っていると、出てきた和泉に腕を掴まれる。振りほどこうとするが駄目だ。不意に思う。なぜ和泉の手は、人間と同じ感触なのだろう、と。そんなことを思っていると、和泉が口を開いた。

「十年前、確かに教師が死んだ。飲み込まれた。僕は、彼の意思だ」

「なぜ私を助けるんですか?」

「僕はたった一つ、“旧校舎の意思”とは別の個人の意思だからだよ」

 とにかく外に行こう、と和泉は言う。出られないんです、と言うと、和泉は静かに頷いた。

「ここは全て鍵が施錠される。施錠された鍵は開かない。それなら、鍵がついていないところに行かなくてはならない」

「ないですよ、そんなところ」

「言い方を変えよう。鍵が壊れている扉が、この学校にはあるはずだ」

「……屋上?」

 和泉は頷きながら、旧校舎のころは屋上はなかった、と呟いた。とにかく外に出るんだ、とも言う。

「先生も、行きますよね」

「さっき言った通り、僕はただの意思に過ぎない。行けやしないよ」

 千尋は黙って手を引かれていた。

 死にたくなんかなかったと言ったこの人が、今までどれだけここを出たかったか。孤独も恐怖も、千尋のものよりも大きかったに違いないのだ。

「でもね、杉山さん。僕はやっと意思から解放されそうだよ」

 二階へ上がる階段を昇りながら、和泉は笑った。なぜ、と尋ねると和泉は千尋を見た。

「彼の意思は一つだけだった。君に、『先生』と呼ばれたいっていうね」

 詳しく聞こうと思ったが、和泉がそっぽを向いてしまってできなかった。あの音が、足音が、聞こえてきたことも重なった。

 ギッ、ギッ、ギッ、ギッ、ギッ──。

 走るよ、と言われて頷く。深呼吸をして、跳ねるように走った。二階に出ると、上に飾ってあるものは全て落ちてきた。そんなものは気にしていられない。頭の上に落ちてきたのでなければ無視して走った。

 本当に、屋上へ出られる階段はあるのだろうか。今は和泉を信じて走る。

 和泉に肘を引っ張られ、曲がる。

「あ……」

 確かに旧校舎では屋上へ上がれなかったのだろう。そこだけ近代的な色の壁で、階段があった。和泉に背中を押される。ドアノブを捻る手が滑った。慌てないでいい、という声に頷きながら今度こそドアノブを捻る。キィ、と錆び付いた音で扉が開いた。

 久しぶりに吸う外の空気。夏の夜の匂いが体に満ちていった。

「いいかい、困ったときはね……」

 後ろから優しげな声が聞こえる。

「逆のことを思うんだよ。寒いときは寒くないって、怖いときは怖くないって、悲しいときは悲しくないって念じるんだ。それで大概上手くいく」

 その言葉に、蘇る記憶があった。

『本当に利発なお嬢さんですね』

 それは、あまり運動が得意ではなさそうな青年だった。

『そうかい? こう見えてじゃじゃ馬でね。悪戯ばかりして困っているんだ』

 ご満悦そうな父もいる。千尋は六歳だった。

『へえ、それは将来が楽しみですね。是非、僕の学校に来てほしいものです。いいかい、千尋ちゃん』

 君が心から先生と呼べるように、僕はそれまでにはもうちょっと立派な教師になるからね────。

 千尋はハッとして振り向いた。

 そこには、誰もいなかった。

 恐る恐る扉を開け、階段を降りる。木造の学校などどこにもなく、そこはいつもの学校だった。千尋は入ってきた窓から外に出て、何も言わず家まで歩いた。

 誰にも知られることはなく、布団に入る。眠ろうとしたが思い直して布団から出た。

 アルバムをめくると、確かにそこには彼がいた。

 父の教え子で、よく家に遊びに来ていた。お嫁さんになるとまで言った。大好きだった。

「先生……」

 学校に飲み込まれて、運動ができないままのこの人のことを、私はもう二度と忘れないだろうと、千尋は写真を抱き締めながら静かに思った。

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