爺ちゃんの夢枕
この歳になって無職とは「寂しい。」というか、「情けない。」というのが正しいだろう。
啓輔は一カ月前に勤めていた会社を退職し、その後「なんとかなる。」という根拠のない自信をもってのんびり過ごしていた。二年前から習い始めた音楽が生活に潤いをもたらし、いろんな不安を払いのけてくれていたのかもしれない。啓輔は三十代最後の春を当てもなく過ごしていた。
二月のある日、高校時代の同窓会が企画されている話を聞いた。
「お前、来月の同窓会行くの?」
「えっ?何それ?いつ?」
啓輔の所には知らせの葉書は届いていなかった。
「三月十一日の日曜日だよ。場所は確か・・・・・あっそうそう、新宿や。行く?」
一瞬、自分が無職であることを思い出したが、その場は興味のないふりをしてやり過ごすことにした。
「行けたら行くよ。」
「幹事の岡村に聞いとくから、お前も行こうや。予定空けとけよ。」
そう言って、北島は電話を切った。
北島は高校二年の始業式の後、出席番号順で並んだ啓輔の席のすぐ後ろに座ったことから仲良くなり、また、北島が野球部、啓輔が応援団ということもあり、自然と話をするようになり、もう二十年以上の付き合いの親友だった。今は大手外資コンピューターメーカーで部長のバリバリの企業マンである。二年前に結婚した十六歳年下の奥さんとの間に、昨年子供が産まれ、仕事と家庭ともに満たされていた。啓輔にとっては眩しいほどの幸せに満ち溢れていた。
啓輔と言えば、四年前に離婚し、今は仕事もなく、人生の目標すら見失っていた。
離婚のきっかけは啓輔だった。仕事に行き詰っていたことに加え、同じ会社の若いアシスタントに告白されたことから始まる。優子というその女子社員は容姿もよく、男慣れしているのか、自分のほうを向かせるテクニックというものを身につけていて、啓輔はまんまとそれに乗ってしまった。「結婚」、「子供」という言葉をちらつかせ、啓輔にはそこが楽園のごとく幸せに見えて、妻との生活を捨ててしまった。
しかし、その後三カ月で優子との関係も破綻。結局その後、独り身の寂しい生活を過ごしていた。
仕事においても、退職した会社に引っ張ってくれた上司が業績不振でクビになり、後ろ盾を無くして風向きが百八十度変わった。同じく転職した先輩が昇格したが、話をする機会がめっきり減り、徐々にモチベーションを無くしていった。啓輔にとっては何となく人生の終着点が見えた気がして、最後に沈没してしまった。
だから猶のこと、北島がうらやましく思えた。
翌日、啓輔は週末のピアノのレッスンに出かけた。
ここ数カ月、課題曲であるベートーベンのピアノソナタ「悲愴」が進展もなく、先生も少しイライラし始めていた。
「川島さん、やっぱり練習しないとうまくなりませんよ。」
そんなことは啓輔自身が一番わかっていた。ピアノを始めたきっかけは、何か新しいことを始めたかっただけで、初めての発表会を経験した時点で燃え尽きていたのだ。でも、続けていればそのうち、何かやりたいことが出てくるだろうと週末の三十分のレッスンに通い続けていた。
「悲愴」を選んだのは先生がクラッシック出身の先生の勧めがあったからだ。本当はジャズを弾いてみたかったが、バックグラウンドが違いすぎるのがわかって、それ以降口にしなくなった。
ある日、
「次の課題曲は何にしますか?」
と何げなく先生は聞いたのだが、
「なんかいい曲ありますか?」
と咄嗟に質問返ししてしまった。
「じゃあ、ベートーベンなんてどうですか?川島さんのタッチに合っていますよ。」
「じゃあ、それで行きましょう。」
・・・と、そんな風に始まった。
啓輔は完全にいろんなことを見失い始めていた。
何とかレッスンを終えての帰り、啓輔も少しイライラしていたのか、渋滞の列に横入りされた車にクラクションを不快な感じで鳴らした。すると、前方の車から空き缶が飛んできた。空き缶にはまだコーヒーが入っていたらしく、フロントガラスに当たった後、車窓を茶色に染めた。啓輔は頭に来て車を降りた。
「お前、なめんなよ。出てこいコラ。」
すると、車から男三人が出てきて、夜の県道でちょっとした乱闘になった。
啓輔は数発殴られて、口の中に鉄っぽい味がしていた。シャツのボタンも飛んでなくなっていて、後続車のクラクションに導かれるまま車に戻った。
家に戻ってからも気分が落ち着かず、イライラしていたので、その日は焼酎をあおって寝ることにした。
その夜のことである。
「ケースケ、ケースケ」
何かが聞こえる。
「ワシのこと覚えとるか?ハハハ、お前、ええ歳して、何やってんねん。」
「・・・ん?! 誰?」
「ワシや。」
どこかで聞き覚えのある声で笑っていた。が、その笑い声が耳につき、イライラしてきたので、
「だれじゃ?!」
と目が覚めた。夢だったのだ。啓輔はその不快な目覚めに、朝からまたもイライラしていた。
『今日も最悪だな。』とぶつぶつ言いながら、コンビニに向かった。
『あの声だれだっけ?』と心の中で何度も反芻しながら、朝食のハムサンドをつまみながらTVをつけた。
その時携帯が鳴った。
「起きとるか?お母さんやけど、三月にお爺ちゃんお婆ちゃんの墓参り行こうと思っとんねんけど、あんた帰って来れる?」
その言葉を聞いて思い出した。
「あっ?!爺ちゃんや。」
「えっ、爺ちゃんがどないしたん?」
話がかみ合わない母に、戸惑う啓輔、
「わかった。わかった。行くからまた連絡する。」
そう言って啓輔はすぐに電話を切った。
|(爺ちゃんなんて久しぶりだな。成仏してないのかな。)
啓輔の家は仏教徒で、朝晩に回向|(亡くなった人たちの成仏を祈念する)習慣があった。啓輔もサボり気味ではあるが、日に一度は祈っていたので、その朝も祖父母の成仏を祈念した。
翌週だった、同じ会社の後輩である森田から電話がかかってきた。
「川島さん、元気にしてますか?仕事決まりましたか?」
誰に会っても、だいたいこの手の話になる。啓輔はお決まりの返答をする。
「いや。そんな簡単に決められないし、いろいろ探しているよ。」
「今度、どこかで飯食いませんか?」
「いいよ。いつでも《・・・・》。」
「じゃ、また連絡しますね。フォースと共に。」
「フォースと共に。」
森田は会話の最後にいつも「フォースと共に」と付け加える。映画『スターウォーズ』でいう『ジェダイ』になるためらしい。そんな彼のエネルギーに少し反応して、応えた。
森田はいわゆるやんちゃ《・・・・》な後輩で、なぜか啓輔のことを慕っていた。森田が新社会人として入社してきたのは、十四年前。当時啓輔は森田のメンターで、社会人としてのマナーや、仕事の相談係として森田を担当していた。その年の暮に転職したので、一緒に働いたのは七カ月ほどだったが、その時のことを森田はいつも話に出す。
「その時川島さんがいてくれなかったら、僕は会社を辞めていました。本当に不安で、会社に行くのが嫌だったんです。でも、仕事の楽しみを教えてくれたのが川島さんなんですよ。本当にうれしかった。だから僕は川島さんのために仕事するんです。」
森田はいつもそう言った。啓輔としては、何をしたというわけでもなく、かわいい後輩ができて、また愛嬌のある奴だったことで、『俺に出来ることは何でもしてやろう。』とだけ心に決めていた。しかし、森田はすぐに営業マンとして結果を出してくるようなやつで、ほとんど手のかからない後輩だった。
三月に入って、北島から連絡が来た。
「幹事の藤村に連絡したんやけど、集まり悪いみたいだから、猶の事お前を連れて来い!!だってさ。大丈夫なんやろうな。」
「たぶんな。」
啓輔は曖昧な返答をしながら、考えていた。
啓輔の出身高校は、学区内でも有名な進学校で、ほぼ全員が進学する。同級生の多く有名大学に進学し、卒業して二十年も経つと、それぞれが一流企業の管理職、中小の社長になっていたりする。中には議員になっているものや、ニューヨーク住まいなど、海外拠点で仕事をしている者もいる。そんな中、無職の啓輔はどのような顔をしていけばいいのだろう。啓輔は北島には転職することは話していたが、転職先が決まっての転職だろうと北島は思っていた。だから、ますます同窓会に参加するのが億劫であった。完全に劣等感に苛まれていた。
「ええから、来いや。また連絡する。」
と言って北島は電話を切った。啓輔は来週にでも、北島に嘘の予定で行けなくなったと連絡しようと決めた。
その夜だった。
またも夢の中であの人が出てきた。
「ケースケ、何しょぼくれとんのや。」
「爺ちゃん、なんだよ。」
「何だよ。・・・って東京弁しゃべっとんのか?まぁそんなことはええんや。」
「それで、何だよ。」
「何やいうことあらへん。久しぶりにお前に説教したろう思えてな。」
「爺ちゃん成仏したんだろ、こんなとこいたら、帰れなくなって、地縛霊になっちゃうよ。」
「心配せんでええ。成仏はしている。もうすぐ生まれ変わる予定や。今度はええとこの坊ちゃんかもな。・・・ってそんなことより、お前や。」
相変わらず、能天気な爺ちゃんだ。小さい頃、良く爺ちゃんに戦争の話を聞きながら、『男はな・・・』と“男道”を説かれたのを思い出した。
「何だよ。
「お前なぁ。・・・・」
とそのまま爺ちゃんは消えてしまった。
そうして目覚まし時計の音で目が覚めた。相変わらず一方的に話して消えていく爺ちゃんに物申したかったが、何となく思い当たる節もあったので、そっとしておこうと啓輔は忘れることにした。
とうとう三月十一日が来た。
啓輔は北島に断りの連絡を掛けたが、北島はそれを見越してか、留守電になっており、伝言を残したら、メールで『却下や。来い。』とだけ返信してきた。啓輔は昔から北島の押しには負けるジンクスがあり、今回も仕方なく行くことになった。
JR新宿西口の地下で待ち合わせしたが、少し早目だったので、同窓会会場のイタリアンレストランの近くで時間をつぶした。
啓輔は北島にだけ、本当のことを話しておこうと切り出した。
「あのさ、実はまだ仕事きまってないんだ。」
「そうなんや。・・・で、活動はしてんのか?」
北島は啓輔の一言で悟ったようだが、敢えて気付かないふりをした。
「活動はしてるけど、なかなか厳しいな。今日やけど、適当に話あわせてくれる?」
「そんなこと気にすんな。それより時間やからいこうで。」
北島はそれだけ言って、店をでた。
会場である「Maggii」という店に入ると、幹事の岡村が話しかけてきた。
「よう、久しぶり、お前太ったな。まぁ入れよ」
岡村は高校時代、生徒会長を務め、人脈の広い男だった。と言っても、悪い意味ではなく、嫌いになれない不思議な魅力を持った男だった。
隣を見ると、クラスで一番きれいだった有田が視界に入った。啓輔はぱっと見てわかったが、北島は、
「お前だれやっけ?」
「私、有田。北島くん最悪や。」
と相変わらず関西のノリで、お互い歳は取っているが、高校の頃と変わらない雰囲気で話し始めた。
店に来ているのは、男が大半で、女性陣はやはり家庭の事情で来れないのが多かった。啓輔の居たクラスは理系であったため、もともと絶対的に女子が少なかった。それに加えて参加も少ないため、店には有田と、有田と仲の良かった、林がいたくらいだった。
男子はと言うと、それでも半分くらい。結局、海外組は参加せず、東京近県のメンバーということで集まった。
ところどころに塊になりながら、それぞれに話に盛り上がっている中、岡村がマイクを取った。
「えー。幹事の岡村です。今日は皆さん、忙しい中お集まりいただきありがとうございます。・・・」
元生徒会長である岡村はこういうのになれており、安心してみてとれた。
「卒業して二十年かな?皆それぞれに歳をとり、それぞれの活躍をされていると思いますので、同窓生として、是非名刺交換して、最後に名簿作成用のシートを用意してますので、記入してください。」
啓輔は一瞬青ざめた。予想はしていたが、名簿作成予定は想定できなかった。
啓輔は名刺交換の際、
「俺、今名刺ないんだ。悪いな。」
とだけ言って、同級生たちの名刺を受け取るだけだった。時折、転職先を詮索されそうになると、北島が高校時代の様に皆を茶化してその場の空気を変えてくれた。
国内最大手の武川製薬とクリア製薬、外資の大手の商社ソリッド、食品最大手の日本食品、その他ビール会社や北島と同じくコンピューターの大手の名刺がずらりと並んだ。誰もが知る一流企業の名刺を前に、ますます啓輔は疎外感を深めていった。啓輔はとうとう耐えきれず、
「悪い。ちょっと予定があるから、先帰るよ。」
と北島と岡村に言って、店を出た。
会社を辞め、現実逃避していたこの二カ月、久しぶりに味わう屈辱感だった。駅へ向かう歩道にはカップルが仲良く腕を組んで歩いている。啓輔はふと、別れた妻のことを思い出した。
中村聡子は啓輔の三歳下の会社の後輩だった。あるプロジェクトのメンバーで一緒に仕事をしたことで話し始めた、今時珍しい真面目な女性だった。心配性に加えて嘘がつけないため、人間関係でいろいろ悩んでいた。啓輔は正反対の性格だったので、磁石の様に吸い寄せられていった。それから三年して、啓輔は転職し、別々の会社になったが、聡子との関係は続いた。聡子は啓輔の仕事に一切口を挟むことはなく、仕事と切り離してプライベートを楽しめる女性だった。そんな聡子と結婚を考えるようになったのは、付き合いだしてから四年が経った頃だった。聡子は会社を辞めて留学したいと言い出した時、啓輔は軽い気持ちで、『行ってこいよ。俺は待ってるから頑張ってこいよ。』と背中を押した。それから聡子は十五カ月、トロントに留学することになった。聡子が旅立つ成田空港で、啓輔はプロポーズした。
「帰ってきたら、結婚しよう。それまで頑張ってこい。何かあったらすぐ飛んで行くから。」
何より彼女の不安を取り除いてやりたかった。
留学してからも、安い国際電話を通じて、ほぼ毎日話をした。異国の地でなかなか友達ができなかったり、友達ができても自己主張の強い文化で育ったものと、日本で静かに育ったものでは、発言の強さが違ったりで、思い悩む日が続いた。啓輔が有給をとり、一週間だけトロントに行った時、安心したのか、涙ぐんでいた。
帰国して、改めて聡子にプロポーズした。しかし、啓輔の家が熱心な仏教徒であったこと、啓輔の両親が離婚していることで、聡子の両親に結婚を反対された。それでも二人で何とか認めてもらえるよう、聡子の実家に通い、一年後に結婚を認めてもらえた。
そんな思いをして結婚した時には付き合いだしてから七年半が経っていた。
しかし、結婚生活は啓輔のあこがれたものとは少し違っていた。子供が欲しかった啓輔と育てる自信がないと不安がる聡子、仕事から帰ったら暖かい夕食が待っていると期待した啓輔に、料理はできないという聡子、人としては労わりながらも、少しずつ食い違いが露呈し始めた。そんな時に優子が現れて、啓輔は優子にあこがれた家庭を見出してしまった。
聡子は離婚後、一年くらいして新しい彼氏ができたと人伝いに聞いた。啓輔は自分のしたことを省みながら、聡子の幸せは願っていた。十年という長い年月そばにいた人間として、深く聡子の心を理解していながら、自分の弱さを聡子にぶつけてしまったことを悔いていた。
三月の肌寒い夜風に、少し感傷的に聡子のことを思いながら、『今の姿は見せられないな』と思った。
そう言えば、あの夢、爺ちゃんは何を言おうとしていたのだろうか。啓輔は京王線の混雑した車両に揺られながら、ずっと考えていた。
就職活動は続けていた。と言っても、転職支援サイトに登録し、エージェントが紹介してくれる会社に応募し、書類選考が通った数社で面接を受けたが、啓輔は情熱も燃え上がることなく、面接を受けに行くのが精一杯で、ますます社会からの疎外感を深めて行った。
|(このままじゃ、俺は駄目になるかもな。)
啓輔は暗雲立ち込める流れに逆らう術も気力も失せていった。
啓輔の生きてきたこれまでに、試練はあった。ただ、それを上回るだけの情熱があった。しかし、今の啓輔は長いトンネルの闇に生命力すら奪われ、大人としての啓輔には、あの頃のようにそれを支援する人たちもいなかった。啓輔は孤独の中で静かに死んでゆく老人の様に思えた。
四月に入っても、状況は変わらなかった。貯蓄をどんどん食いつぶし、現実身を帯びて生活のデッドラインが見えてきたころだった。
「ケースケ。爺ちゃんや。」
「爺ちゃん、この前話途中だったよ。最後まで話さないと、気になるじゃん。」
「そうかそうか。悪いことしたな。お前、最近なんか忘れとらんか。」
そう唇を切って、爺ちゃんは夢の中で語り始めた。
「お前は、何のために生きてんのや?お前は小学生の時に死にかけてるんやで。それでもみんながお前のこと心配して、祈って、お前は生かされたんや。」
|(そんなこと言われても・・・。)
「お前は生かされたことを感謝せなあかん。何で、ありがとうって言わへんのや。そんなんやと、お母さん泣くで。お前は恩知らずや。」
そう言って、またもや爺ちゃんは消えた。
その朝、目が覚めてから、爺ちゃんのことを考えていた。
|(爺ちゃんはどうして、こんなに登場するのだろう。)
啓輔は、心のどこかで爺ちゃんを待っていた。『この状況を脱するにはどうしたらいいのか?』を爺ちゃんに聞いてみたいとさえ思っていた。そんな時の爺ちゃんの夢枕に、啓輔は騙されたと思って、『ありがとう。』と目を閉じて、爺ちゃんに向けて声にしてみた。啓輔は今の生活の先に何もないことを悟っていたし、どこかできっかけを希っていた。しかし、啓輔はそこで立ち止まっていた。
その夜、再び爺ちゃんが現れた。
「ケースケ。爺ちゃんや。何回言わせんねん。ありがとうって、皆に感謝せんかい。」
「だから、爺ちゃんに言ったじゃん。」
「東京弁・・・。」
そう言って、また途中で爺ちゃんは消えてしまった。恐らく、『東京弁やめ。』と言いたかったのだろう。
『皆にありがとう。』って。誰に言えばいいのかわからなかった。しかし、啓輔はとりあえず爺ちゃんの言うとおりにやってみようと思い、セブンイレブンに向かった。そして店員さんに、
「ありがとう。」
と、目を見て言ってみた。すると、店員さんは困惑している。あたかも、|(何?この人変な人。)と言わんばかりの視線だったが、こちらがへこたれては元も子もない。開き直って、もう一度言ってみた。
「いつもありがとう。」
店員さんはさらに困惑している。|(くそぉ、じいちゃん。迷惑がられてるじゃんよ。どないすんねん。明日から気まずい。)啓輔は恥ずかしいのを悟られないように、わざとゆっくりな歩みで店を出た。爺ちゃんの言ったようにしたから、何か変わるはずだと1日、二日待ってみた。当然、予想通りで何も変わらない。翌日から、いつも行くセブンイレブンは気まずいので、少し離れたファミリーマートに通うようになった。あれ以来一週間たっても爺ちゃんは現れない。完全に行き詰った啓輔は家から出るのさえ嫌になっていった。
突然携帯が鳴った。啓輔は無気力で電話に出るのも面倒になり、着信が後輩の森田であることを確認しただけで、電話を枕の下に隠した。
留守電に切り替わり、微かに森田の声が聞こえた。
「今週飯食いましょう。木曜日あたりに川島さんち行きますんで、泊めてください。また電話します。」
森田は啓輔が引き籠っていることも知らないので、陽気な声でそう言った。啓輔は、日曜からもう三日家を出ていない。完全に引き籠り体制に入ってしまった。
水曜日の夜、森田から再度電話がかかってきた。啓輔は着信だけ確認して、そのまま放置した。静かな部屋に、またしても森田の陽気な声が微かに聞こえた。
「明日行きます。フォースと共に。」
仕方ないので、啓輔はメールで森田に連絡した。『申し訳ないが、風邪ひいてしまったので、また改めて。』、しかし、森田からの返信はなかったが、啓輔はまた、布団の中で丸くなった。
翌夜、家のインターホンが鳴った。布団から出たくなかったが、突然来る母からの宅急便もあるので、インターホンの画面を確認するために起き上った。すると、画面には森田が映っていた。|(風邪引いてるっていったのに。)さすがに部屋の蛍光灯が付いているのも見えてるので、見過ごすこともできず、咳きこみながら応対した。
「川島さん、飯行きましょう。早く出てきてください。」
「メールしたように、風邪ひいちゃってさ。ごめん。また今度にしてもらえないかな。」
すると、意外な答えが返ってきた。
「飯食ったら治りますよ。フォースがついてます。」
その明るい声に、啓輔は力が抜け、諦めた。
森田は典型的なO型である。相手の懐に平気で入っていける気質がある。それが彼の長所であり、欠点でもある。ただ、人懐こい生活も相まって、大抵の場合は許される人徳が備わっている。啓輔はさっと着替えて、家を出た。そして、森田と近くの居酒屋へ入った。
「川島さん、いい本見つけたんですよ。渡そうと思って。はい、これです。」
「ありがとうは魔法みたいなもので、いっぱい言うと奇跡が起こるって書いてありました。だから川島さんに会って、ありがとう言おうと思ったんですよ。」
規格外の発言に戸惑いながらも、啓輔は森田の話を聞いていた。すると、何故か爺ちゃんのことが、頭にちらついた。|(爺ちゃんはこれを言ってのかもしれない。)啓輔は熱く語る森田に、徐々に心が開いていくのを感じた。
『ありがとう。』という言葉の語源は諸説あるが、法句経に『人の生を享くるは難く やがて死すべきもの 今いのちあるは 有り難し』と、今生きていることは、計り知れない偶然と祖先の計らいで生まれてきたのだから、やがて死ぬその時まで、その尊さに感謝して精一杯生きようという経典から来ている。当たり前のことを当たり前とやり過ごすことなく、感謝することから、『有り難し』が『ありがとう』に変わったとされる。
また、ラテン語で『ありがとう。』は『Tibi gratias ago』と書く。『gratia』は『恵み』を意味するが、恵みに感謝するという意味で『Tibi gratias ago』が形成されている。それが名残りで、イタリア語の『grazia』、スペイン語の『gracia』に派生している
ありがとうは、当たり前の現状に感謝することから生まれた言葉なのだ。関西で『おおきに』という表現が使われるが、これも『大きに有り難し』が略され、ありがとうの最大の感謝の意味で『おおきに』だけが残ったとされる。
爺ちゃんが夢枕で言った『ありがとう。』はまさにこの事なのだと、森田に気づかされた。そしてその瞬間、心から溢れ出た。
「ありがとう。」
「えっ?! どうしたんですか?」
森田は不思議そうな顔をしていたが、
「で、最後まで聞いてください。」
と話を続けた。今回はあの時の店員のように、森田は不思議そうにしていたが、啓輔自身はあの時とは違っていた。清々しい気持ちになっていた。




