逃走
「どうしてそんなに、ゆっくり歩くの?」
通学中、よく弟は私にそう言った。
「はやく行かないと遅れちゃうよ」
急かされながらも、私は頑なに歩調を変えなかった。ゆっくり着くほど望ましい事だったからだ。
それに対して弟は、不満そうにしながらも、何故か私と一緒に遅刻した。
まだ小学生だった頃の話だ。
中学に入っても、私の歩調は遅いままだったが、弟とは歳が3つ離れていたので、卒業まで誰にも文句を言われずに済んだ。
しかし私が高校に入り、髪を染めた瞬間、今度はそこに文句を言ってきた。
「どうして髪を染めるの?」
校則違反だった。弟はそのことを言いたいようだったが、実際学校では黙認されていたので、私はいままで通り聞き流した。
でも弟の不満はもう一つあった。
「どうして女子校に行ったの?」
「いい加減にしろ」
高校3年生になって、早数ヶ月。私は進路の事で悩みを抱える周りの人たちを横目に、今日も学校をサボって公園をふらついていた。
朝の公園にはささやかな活気が満ちている。体操をしているおじさん。犬の散歩をするおばさん。ベンチに座り、談笑しているおじいさんたち。
制服を着ている私だけが、その場から浮いている気がしたが、もう慣れてしまった。
お気に入りのブランコに腰を下ろし、タバコを一本取り出した。
もう去年の事だ。
弟は塾の帰りに変質者に刺され、そのまま亡くなった。唐突すぎる死だった。
犯人はいまだに捕まっておらず、両親はいまも血眼になって足取りを追っている。
家族の中で、私だけが以前と変わらぬ日々を送った。もう、文句を言う人はいない。
次第に私は、タバコを吸い始めるようになり、学校もサボり始めた。
短くなったタバコをその場に落とし、足でもみ消した。いつもそのままにしているが、毎日ブランコの下は綺麗に掃除されている。私のいない間に、誰かがゴミを拾っているらしい。きっと、文句を言っている事だろう。私に聞こえないところで……。
犬が一匹、こちらにやって来た。毛並みの良い柴犬だった。ハッハッと舌を出しながら、なんの躊躇もなく私の目の前に座り込んだ。
首輪をしていたが、周囲に飼い主らしき姿は見あたらない。リードをしていないところを見ると、恐らく近所の犬だろう。離し飼いとは無責任な。
追い払う理由もないので、とりあえず頭を撫でまわした。犬は目を細めながらも、相変わらずハッハッと舌を出している。
試しに「お手」と言ってみたら、差し出した手を舐められた。
「あざといヤツだ」
カバンの中からポッキーを取り出すと、一本分け与えた。犬はしばらく匂いをかいだが、結局口にしなかった。
「お腹空いてんじゃないのか?」
別のお菓子も渡してみたが、食べなかった。ただの人懐っこい犬らしい。
もう一度頭を撫でると、また目を細めた。
――大好き。
突然、声が聞こえた。
驚いて周りを見回したが、近くに人の姿は見あたらない。……まさか犬の言葉でも聞こえたのだろうか。
もう一回撫でて見たが、ハッハッと舌を出しているだけだった。
幻でも聞こえたか?
――大好き。
もう一度、それははっきりと聞こえた。
自然と、目のまえの犬と見つめ合った。犬のまるい瞳のなかに、私の顔が写り込んでいる。
……よしてくれ。私は好かれるような人間じゃないんだ。
ブランコから立ち上がると、犬も一緒に腰を上げた。この先の行方を探る
ように、私の顔をまだ見つめている。
「ついてくるなよ」
そうとだけ言って、私は駆け足で公園をあとにした。犬は付いて来なかった。
走り出したところで、特別向かう場所はなかった。学校にも、家にも行く気はない。ただ、バレないように。バレてしまわないように、私はしばらく走り続けた。
おわり