耳鳴り
耳鳴りがしたら近くに幽霊がいるなんて話を会社の後輩から聞かされたときは、鼻で笑ってしまう程度に軽く流していた。
耳鳴りの原因は、疲労や精神的ストレスによるものが大きいだろう。
百歩譲って仮に後輩の怪談が事実であったとして、耳鳴りがした時に果たして自分の間近に幽霊がいるのか、それともストレスによるものなのか、一般人には判別のしようがないので恐怖を感じるに至らない。
真夏の暑さにその程度の怪談話じゃ背筋は凍らないと後輩に皮肉を言ったところ、オフィスの冷房の方がまだ冷えますよね、と皮肉で返された。
売上未達の時の営業部長の逆鱗の方が、そこいらの心霊よりよっぽど怖いけどなとさらに被せると、後輩は爆笑した。
お前まだ売上数字未達だろうと現実的に突っ込みたくなったが、それは心に留めておいて。
時折脳内にキーンと鳴り響く耳鳴りという現象に対して、これまで40年余りの生涯を生きてきて深く考えたことなどなかったし、耳鳴りと幽霊に因果関係があるなど信じることもなかった…………あの日までは。
電車通勤で自宅と最寄り駅を往復するときにいつも通る小さな登山道入り口付近の、とある寂れた電話ボックス。
ここの前を通るとき、まるでタイミングを図ったように耳鳴りがするのだ。
電話ボックスに近づくにつれて耳鳴りは激しくなり、離れていくにしたがって耳鳴りは弱まっていく。
ここ2週間ほど前からこの謎の耳鳴りが始まり、一向に収まる気配はなく、電話ボックスに近づくたびに鼓膜をすり抜けて脳の奥にまで響き渡る。
まさか、この電話ボックスに幽霊がとり憑いているというのか。
後輩の怪談話を聞いた時は馬鹿馬鹿しいと一笑に付したが、日を追うごとに胸にわだかまる不穏の質量が増していき、歩を進める両足は重くなっていく。
すぐ近くに高校があるので朝は通学の学生が多く、放課後夕方の時間になると、グラウンドから鳴り響く野球部の掛け声や吹奏楽部の演奏などで一帯は賑やかになるのだが、俺が仕事を終えて帰る夜の時間帯になると、日中の喧騒が嘘のような静寂に包まれる。
連なる低山に沿うように走る細い市道は低くそびえる山々と田園地帯の境界の役割を果たしているようでいて、しかし夜中にもなると、人間世界と異界を隔てているのかと思えるほど夜の山から下りてくる暗闇はどこまでも深い。
電話ボックスの横にひっそりと佇む登山道は、異界への入り口と言わんばかりに物々しく口を開けている。
それとは対照的に煌々と照明を放ちながら異界の入り口手前で立っている電話ボックスは、異界の山を背にしてどこか怪しげな雰囲気を放っている。
その電話ボックスの電話を手に取ると、異界のモノがこちらを呼ぶ声が聴こえてくる…………なんてことはないだろうが、いつも自然と目を逸らして通り過ぎていた。
帰宅ルートを変えるという手もあるが、山沿いを走るこの市道以外となると、川を跨いで迂回した道を歩かざるをえないため、やや遠回りになってしまう。
それに、40歳半ばの中年にもなって幽霊が怖いからという理由で行動パターンを変えるなんてみっともない。
耳鳴り以外は全く問題が起きていないこともあって、今日も明日も耳鳴りに悩まされながらも電話ボックスの前を通り過ぎるし別にそれでいい。
対処するほどのことでもない。
たかが耳鳴りなんてそのうち収まるだろう。
月末近くということで、残業で帰りが遅くなった今日も、真夜中で人通りの全くない山沿いの道を自宅アパートに向かって歩いていく。
等間隔に並んだ街灯の下を通るたびに自分の影が伸びては縮み、伸びては縮みを繰り返す。
自身の影以外にいつの間にか別の存在の影が現れ…………いやいや、ないって。
しかし、電話ボックスが近づくにつれて心臓の鼓動は自然と速まっていく。
そして、今日も耳鳴りが始まった。
イヤホンで音楽を流しても耳鳴りが濁ることはなく、無心になってただひたすらに歩くことに徹する。
今日も何事もなくただ通過していくだけだろうと自身を安心させるように言い聞かせて。
そんな淡い希望はいつまでも続かなかったようだ。
電話ボックスの中に、女が立っていた。
女の姿が視界に入った瞬間に身体が少し強張る。
背中まで伸びる長い黒髪、学校の制服らしい服の袖口から露出する腕は白く、女は受話器を耳に当てたまま静止している。
制服ということは学生だろう。
制服のデザインからすぐ近くにある高校の生徒だということを察した。
しかし、なぜこんな真夜中に電話ボックスにいるのか。
それに、学生にとっては必須アイテムだと当時小学生だった娘が豪語するくらいにみなが当たり前にスマホを持っている現代にもかかわらず、女子学生が電話ボックスを利用しているという奇妙な状況。
スマホが壊れてしまったから帰り道にあった電話ボックスを利用しただけとか。
きっとご両親に電話をして迎えに来てもらうようお願いしているところかもしれない。
自然に考えてみればこれといって怖がるような点はどこにもない。
それなのに、両足は金縛りにあったように動かない。
不自然なのは状況ではなく、彼女自身の様子だ。
受話器を持ったまま微動だにしない彼女からは温度が全く感じられないのだ。
こちらからだと彼女の後ろ姿しか捉えられないので表情を窺い知ることはできないが、それでも人と会話する時は顎、肩、手や指先など身体の動きが感情の一つとして現れる。
それが全くないのだ、まるで時が止まってしまっているかのように。
こちらが足音を立てた途端、止まった彼女の時間が急に動き出すのではないか。
こちらへ意識が向いて振り向いた彼女の顔は…………恐怖は風船のように膨らんでいく。
しかし、その風船は破裂することなく急速に萎んでいった。
「電話ボックスの利用待ちだったかしら。すいません、全然気がつかなくて」
受話器を置き、呆然と立ち尽くすこちらの存在に気づいて振り返った彼女は、至って普通の女子校生だった。
のっぺらぼうでもなければ、口が大きく裂けている様子もない。
申し訳なさそうにはにかんだ笑みはどこか作り物っぽく見えるが、この時間に俺みたいな中年と遭遇したら誰だって警戒はするだろう。
すらっとした手足は血色悪そうにほんのり青白く見えるものの、夜闇の中で街灯に照らされているせいでそう見えるだけだろう。
どこにも不自然な点はない。
「あぁいや、電話待ちしていたわけではないんだ。急かしたようでごめんね」
「いえ、こちらこそ。それなら、この電話ボックスに何の用でお並びに?」
……………………。
咄嗟に言い訳が思い浮かばず、しどろもどろになってしまう。
これじゃあまるで女子校生をつけ狙う不審者だ。
警察を呼ばれてもおかしくない事案だと別の意味で恐怖を覚えたが、女子高生は何かを察したようにこちらの様子を見てクスッと笑った。
「もしかして、おじさんもこの冥界電話ボックスの噂を聞いてここにやってきたんですか」
「…………冥界電話ボックス?」
予想外の返答に思わず声が裏返る。
「最近この地域で噂されている都市伝説。深夜0時ちょうどの時間、この電話ボックスを通して亡くなった人の電話番号に電話をかけると、繋がるんですって。冥界の人と繋がることができる冥界電話ボックス。死者と交信できるか試しに来たんじゃなくって?」
そう言って持っていた受話器をこちらに差し出してきたが、俺は慌てて首を横に振った。
「ただの仕事帰りさ。こんな夜遅い時間に女の子が道中にぽつんといるもんだから狼狽えてしまってね。親御さんが心配しているから早く帰った方がいい。この時間に女の子1人でいるのは危ないよ」
「ご心配ありがとうございます。残念ながら、今日も死者と交信はできなかったのでちょうど諦めて帰ろうとしたところだったんです」
「誰か大事な人を失くされたんだね」
「学校の友達です」
「…………それは悲しいね。ちなみに、君が通っている学校というのは、すぐ近くにある----」
「はい、黒浜高校です」
暗雲で月明りが降りてこないどんよりとした空の下、黒浜高校は壁面を真っ黒いペンキで塗りたくられたように暗い影に覆われながら、田んぼと住宅街の中でぽつんとそびえ立っている。
この道を通るときは意図的に目を背けて歩いていたが、彼女との会話の中でつい意識を向けてしまいハッとした。
「ウチの高校に何か嫌な思い出が…………?」
「いや、別に…………。そんなことより、君は早く帰った方がいい。変質者に襲われるかもしれないよ」
「それもそうですね。今日はこのへんでお暇します。それじゃ、失礼します」
フフッ、とからかうような笑みを浮かべて彼女は立ち去った。
俺が変質者に見えると暗に言われているような気がして気恥ずかしくなる。
今日はこのへんで……か。
翌日も夜遅くまで残業していつもの帰り道を歩いていると、例の電話ボックスの中に彼女は再び立っていた。
「亡くなった友達との交信はできたのかい」
彼女は受話器をそっと置いてこちらを振り向くと、残念そうに首を横に振った。
「興味があるなら、おじさんも冥界電話ボックスを試してみますか」
「風祭だ」
こちらが名乗った瞬間、彼女の顔は驚いたように一瞬目を見開いたが、俺はあえて触れずにおく。
あいにく幽霊や都市伝説と言ったオカルトには興味がない。
普段なら馬鹿馬鹿しいと一蹴しているところだが、最近頭を悩ませる耳鳴りの件あるし、不承不承ながらもその誘いに乗ることにした。
彼女から受話器を受け取り、財布に入っていた10円玉を数枚投入する。
番号のボタンに触れてみると、最近はスマホの画面でタップし慣れていたせいか、無骨なボタンの手触りに懐かしさを覚える。
俺が学生時代の頃はテレホンカードなんてものを使っていたり、コレクションしている奴がいたなぁ。
今の若い子は電話ボックスどころかガラケーですら知らない子が多いだろう。
番号を打ち終わり、電話のコール音が鳴り始める。
トゥルルルル。
トゥルルルル。
鼓膜を打つこれまた懐かしいコール音。
相手側が応答する気配はない。
そんなの当然だと分かっていながらも、どこかで期待している自分を感じて自己嫌悪に陥る。
しっかりと弔い、全てに決着をつけたはずなのに。
それからしばらく待ったがコール音が鳴り止むことはなかったので諦めて受話器を置いた。
「残念でしたね。風祭さんが電話をかけた相手はどんな方なんですか」
「俺の娘だ。高校生でちょうど君と同じくらいの年でね。3ヵ月前、駅のホームから飛び降りて自殺したんだ。…………学校内でのイジメを苦に」
「……………………そうですか」
彼女はこちらの話を神妙な面持ちで聞いていた。
「ちなみに、君がここで電話をかけ続けているお友達というのはどんな子なんだい」
彼女は注意深く、言葉を吟味して選ぶように口元に手を当てながら
「鶴ヶ島京子という子で、活発な性格でした。周りからも好かれていて、いつもクラスの中心にいる、スクールカーストでは最上位みたいな」
名前を聞いた瞬間、耳鳴りが若干強まった気がする。
死を纏った透明人間がたった今真横に立っているということを暗に告げているのか。
自分の名前を呼ばれた鶴ヶ島京子の幽霊が目と鼻の先にいるかもしれない、なんて…………いやいや。
「どうして亡くなってしまったのか聞いてもいいかな」
「正確に言うと、京子ちゃんが死んだのかはまだはっきりしていないんです。2週間くらい前に、ある日突然姿を消してしまった。
警察は家出の可能性という線で行方を捜索しているらしいんですけど、彼女は家出なんかしていないと思うんです。それどころか失踪すらしていない。恐らく殺されたんです」
ふざけている風もなく、真剣な表情で彼女はそう主張した。
「俺は部外者だからなんとも言えないけど、その考えはさすがに飛躍しすぎなんじゃないかな。君が知らないだけで、鶴ヶ島さんという女の子は家庭で問題を抱えていたのかもしれないよ。もしくは学校内の人間関係でトラブルがあったとか」
「そんなはずはありません。私は京子ちゃんと小学生の頃からの幼馴染で彼女の家にも何度も遊びに行ったことがあります。悩みもお互いに打ち明け合うし、隠し事なんてほとんどありません。だから、京子ちゃんが家出をする理由が全く思い当たらないんです」
「それでも、殺されたなんて発想は突飛すぎる気がするんだが……、誰かに恨まれるような事をしたのかな」
「それは…………なんとも言えませんが、京子ちゃんが失踪する以前、誰かに付き纏われている気がするって相談を受けましたね」
「変質者のストーカーとか?」
「分かりません。警察にも相談したらしいんですが、実害がまだ出ていなかったので、パトロールを強化しますとだけ言われてそれっきりだったみたいです」
「そうか…………。実は君が気づいていないだけで、鶴ヶ島さんには何か人間関係で問題を抱えていたんじゃないかな」
「…………彼女のことを知りもしないのに、どうして風祭さんがそんなことを言えるんですか」
やや怒気を孕んだ声色。
大事な友人を悪く言われれば当然だろうが、気にせずに続ける。
「殺人の7割は家族、恋人、友人など、身内が犯人という統計データをテレビで観たことがある。理由の多くは金銭絡みか異性関係の怨恨。もし仮にこれが事件だったとして、統計上から妥当な線を考えるなら……ということさ。学生で金銭絡みのトラブルは考えづらいだろうから、怨恨と考えるのが妥当だろう。良い子に思える鶴ヶ島さんには、実は君の知らない裏の顔があったのかもしれないよ」
挑発にも取れる発言。
彼女は憤るだろうか。
しかし、淡白で抑揚の少ない彼女の面が感情でひび割れることはなかった。
怒りを覚えるどころか、彼女は眉を顰めている。
こちらの言葉の真意を読み解こうとしている、あるいは、自身が試されているのではないかという疑念。
思索を一旦区切るように小さく息を吐く。
「仮にそうだとしても、京子ちゃんは私の親友だったんです。だから私はここで彼女にコールし続けます」
「今日はもう帰ったら?親御さんが心配するよ」
「…………今日はもう帰ります」
電話ボックスから立ち去る彼女の後ろ姿が徐々に夜の闇に溶けていく。
彼女と開いていく距離に比例して耳鳴りは少しずつ和らいでいく。
人気のない真夜中の道を闊歩する、制服姿の女子高生。
陶器を思わせるような艶のある白い肌に背中まで伸びる長い黒髪。
彼女は夏の亡霊なのだろうか。
あるいは、この電話ボックスに呼び寄せられた鶴ヶ島京子の幽霊が彼女にとり憑いていて、たった今それが離れていったおかげで耳鳴りが和らいだとか?
非現実的だなぁ。
それに、彼女の姿が完全に見えなくなるまで離れていったが耳鳴りが完全に鳴りやむことはなかった。
じゃあこの耳鳴りの正体はなにか。
まさか本当にこの電話ボックスに心霊的な力が宿っているのか。
電話ボックスに入って10円玉を投入し再度コールを試みたが、死者が電話に出ることはない。
ちゃんと機能してくれよ都市伝説さん。
過去の記憶にかき乱される心中を訴えるようにガラスのドアを殴りつけるが、殴打音がボックス内を空しく反響するだけで、超自然的奇跡なんてそうそう起きやしない。
まぁ、俺と話がしたいと思っている死者は、案外娘よりも鶴ヶ島京子の方かもしれないが。
「私が言うことではないかもしれませんが、都市伝説を信じて毎晩ここの電話ボックスに顔を出しに来るなんて相当物好きですね」
「確かに君が言えることではないね、不良学生さん」
翌日の深夜も電話ボックスに制服姿の彼女が立っていて、繋がることのないデッドコールをかけ続けていた。
「よくもまぁ毎晩警察に補導されずにここまで来れるね」
「……………………私は、透明人間ですから」
え…………、ドキりと心臓が跳ねる。
「いえ、私が幽霊という意味ではありませんから。京子ちゃんがいなくなった後の私は空っぽなんです。穴の開いた、中身が空っぽの水槽。だから透明で、何を入れても穴から抜けていっちゃうんです」
「なるほどね。それは俺も同じかもしれないな。娘を失くして、妻とも別居、何もかも失ってしまった。俗にいう、"無敵の人"だな」
娘が死んでからというもの、涙はすぐに枯れ果て、自虐じみた乾いた笑いしか出なくなっていた。
そこに向けられる周囲からの感情は哀切、憐憫。
そんな同情を誘うような発言はもうしないように気をつけていたのに。
ところが、彼女の表情には疑惑と静かな怒りが滲んでいた。
「たとえどんな理由があっても、犯罪をしていい口実にはなりませんよ。被害者に非があったとしても、その被害者には家族がいて友人がいる。被害者を大事に思う大切な人がいるんですから」
空っぽの水槽にも思い出の残り香が残っていて、心の穴からこれ以上抜けないようにそっと胸を抑えながら、それでも諦めずに彼女は電話ボックスの受話器を手に取ってコールし続けている、とでも言いたげだ。
自己欺瞞甚だしい。
ふっと鼻を鳴らして正面から視線をぶつけ返す。
「加害者だって同じさ。加害者にも大切な人達がいて、大事にしている日常がある。被害者だけが一方的に被害者面をするのは些か不条理かと思うがね!」
受話器を通して向こうに佇んでいるかもしれない鶴ヶ島京子に声が届くように声を荒げる。
突如高圧的なこちらの言動に、彼女は受話器を手に取ったまま固まる。
困惑する彼女の手から受話器をかすめ取ってやった。
「勝手に電話を奪わないでください」
「君よりも俺の声の方に反応するんじゃないかと思ってね」
「なんで京子ちゃんが風祭さんと話したがると思ってるんですか」
「……本当は薄々察しているくせに。白々しい奴だな」
彼女を軽く突き飛ばして電話ボックスの外に追いやり、コール音が鳴り響く受話器に向かって
「俺の声が聴こえるかな。俺のことが分かるかな。知らないとは言わせないぞ。死人に口なしとは言ったものだが、もし死人のお前にもまだ口がついているというなら、この電話に出てみろ。応答してみろよ」
……………………。
…………………………………………。
フッと馬鹿らしさに笑みが零れる。
死人に口なし。
いくら彼女が死人の携帯電話にコールし続けたとしても、反応なんてあるはずがない。
幽霊なんているはずがない、はずなのに、
……………………。
…………………………………………。
……………………………………………………………………………………プツッ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーは?
受話器を持つ手が固まった。
背筋から冷たい何かが這いあがってくるのを感じる。
世界が一変したかのように夏の夜の蒸し暑さが消え、電話ボックスを取り囲む暗闇と、受話器の向こうに潜む死者の息遣いだけが俺の景色を静かに支配する。
そんなのあり得ない。
彼女は、鶴ヶ島京子は確かに死んでいるはずなのだから。
----死者が電話に出るなんて。
----都市伝説なんて。
----心霊現象なんて。
あるはずがない。
「まさか……京子ちゃんが電話に?」
後ろで大きく目を見開きながらこちらの様子を伺う彼女の呼びかけに、ハッと我に返り早々に電話を切った。
「そんなわけないだろう」
「本当ですか」
「本当に何もなかったよ。死人が電話に出るはずがないんだ。君も都市伝説なんて馬鹿なものを信じてないで、早く家に帰って宿題でもした方がいい。こんな所で何度試したところで時間の無駄だ」
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。
耳鳴りが激しく脳内を反響する。
私はここにいると声高に誰かが主張するように見えないナニカが鼓膜を執拗につついてくる。
……………………誰が?
市道を境界に聳える山々は、死者が行き交う異界のごとく深淵がどこまでも広がっていて。
登山口を通して異界の奥に目を向けると、深淵の向こうからもギョロッとこちらをねめつける両目が黒光りしている。
あるはずのない死者の存在を振り切るように、俺は駆け足でその場を立ち去り自宅へ帰った。
枝葉から漏れる薄い月光を背に、シャベルを手に取って土を掘り返していく。
2週間前、自分が掘って埋めた土を。
例の電話ボックスを立ち去ってから数時間後、ジャージに着替えて、電話ボックス付近にある登山口に向かった。
通りがけにちらっと電話ボックスの方を見たが、もう彼女はいなくなっていた。
そのことにホッと胸を撫でおろしながら登山口を上って30分ほどの場所。
登山道から道を逸れ、林をかき分けて進んだ先、休息地でもなんでもない、やや開けた場所。
山道を進むたびに激しくなる耳鳴りは、ここに辿り着いてから一層強く鼓膜を打ち鳴らしてくる。
一本の太い木の枝に撒かれた黒色の帯は真夜中の暗がりに溶け込んでいて非常に見つけづらかったものの、ライトの光線をあちこちに当ててなんとか発見できた。
登山者に見つかりづらい色を選んだことがここにきて仇になったが、リスク回避のためには仕方なかったと、苛々する自身を納得させる。
両手を広げるように木々から降ろされる枝の先で何度も顔を引っ掻かれたせいで顔のあちこちがピリピリと痛むが、そんな些細な痛みは気にせず何度もシャベルを振り下ろす。
汗だくになりながら掘り返してどれくらい経っただろうか、ようやく土の中から彼女の姿が現れた。
――――――――鶴ヶ島京子の死体が。
耳鳴りの元凶は、電話ボックスなんかではなく、彼女の死体だった。
死体が主張しているわけでない。
死体が誰かに見つかるかもしれないというストレスか、もしくは人を殺したことによる罪悪感。
電話ボックス付近にあるここの登山口、いわば俺の罪の入り口に近づくたびに、俺は耳鳴りを感じていたのだ。
死体の腐敗は進み、肉が削げ落ち、虫が群がる様は死者というより怪物の様相を呈している。
もはや原型を留めていないが、こんなものが生前は綺麗な女子校生だったのだ。
明るく活発でいつもクラスの中心にいるような人気者で…………俺の娘を虐めて自殺に追い込んだ張本人。
むせ返るような臭気に吐き気をもよおすが、彼女の死体と再会するためにわざわざリスクを冒して掘り返したわけではない。
彼女の持っていたスマートフォンの方だ。
彼女を殺して埋めた際、極度の緊張下でスマートフォンの後始末をすっかり忘れていたことを思い出したのだ。
例の冥界電話ボックスとやらで何度も鶴ヶ島京子に電話し続ける親友の彼女を見て。
彼女がコールするたびに地中の奥深くから鶴ヶ島京子のスマホが鳴り響くなんて、死体の居場所を知らせているようなものだ。
スマホの電源がすでに切れているのであれば幸いなのだが……………………あれ。
ハンカチで鼻を抑えながら死体の身に纏う制服のポケットをまさぐるが、スマホがない。
一緒に埋めたスクールバッグの中身を探してみたものの、バッグからも見つからない。
彼女を襲っている最中に道端にスマホを落としてしまってそのまま気づかなかった?
それとも死体をここまで運んでいる最中にポケットからずり落ちてしまった?
登山口からここまでおおよそ30分ほどの距離だが、死体を運んだ当時も真夜中で、さらに女とはいえ人間一人を背負ってここまで登ってくるのは体力的に相当厳しく、死体の制服のポケットから落としてしまったとしても気づかなかっただろう。
たとえば登山客の誰かがそのスマホを拾っていたとしたら。
今日、冥界電話ボックスで鶴ヶ島京子にコールした際に電話に出たのは、その拾い主かもしれない。
それなら、急に誰とも分からない真夜中の電話を切るのも当然だ。
――――鶴ヶ島京子の幽霊が電話に出るなんて。
――――冥界電話ボックスなんて。
――――ここ最近ずっと俺を悩ませている耳鳴りなんて。
そんな馬鹿げた怪奇のどれもが、至極まっとうで現実的な解に結びつくわけだ。
「さっさと拾い主に事情を話してスマホを回収し処分しよう。娘の父親だとか適当に言えば信じてくれるだろうし」
肝心の鶴ヶ島京子の電話番号は分からないのだが、明日の夜にでも親友の彼女に聞いて電話をかけ直そう。
今日は乱暴に罵ってしまい失礼なことをしてしまったが、ちゃんと謝罪をすれば許してくれるだろうなんて楽観。
それは10秒ともたずに掻き消えてしまった。
「やっぱり、京子ちゃんを殺した犯人は風祭さんだったんですね」
不意に頭上から発せられた女の声に身体が凍り付く。
聞き慣れた声だったが、まるで感情を持ち合わせていない人形が話しているような、空虚で、冷徹で、非人間的な声。
掘り下げた穴の底から見上げる彼女の姿は、背の高い木々の枝葉から漏れる月光を背に、さながら全身を黒に染めた夏の亡霊だった。
「京子ちゃんのスマホをお探しでしょうが、実は私が持っているんですよ」
真っ黒い亡霊は、ポケットからスマホを取り出して掲げてみせる。
「冥界電話ボックスで風祭さんが私から電話の受話器を奪った時、実は私が京子ちゃんのスマホの画面をこっそりとタップして電話に出たんです。風祭さんが殺害の犯人だったとしたら、必ず京子ちゃんのスマホを探すために死体の元までやってくると思っていましたから」
全身から力が抜けていくのを感じる。
まるで亡霊から生気を抜き取られているように。
「どこでそのスマホを拾った」
「そこの登山口前に落ちていましたよ。昨日の夜、冥界電話ボックスに向かう最中に運良く発見しました。雑草や土にまみれてかなり見つけにくかったんですが、京子ちゃんに電話をかけながら歩いていたおかげで、落ちていたスマホのアラーム音に気づいて発見することができました」
「なぜ俺が鶴ヶ島京子を殺した犯人だと考えた。こいつが生前俺の娘を虐めていて、俺がその父親だということはもう気づいていると思うが、だからといって殺害の犯人と結論付けるには色々と無理があっただろう」
問いながら忌々しげに死体を足で小突くと、二の腕の腐った肉がべろりと剥がれた。
彼女の原型がまた少し崩れた。
「確かに、あなたが風祭と名乗って自殺した娘の話をしたときに、あなたが京子ちゃんから苛めを受けていた風祭綾乃の父親だということには気づきました。京子ちゃんに恨みを持っているであろうことも。だからといって殺人犯と断定するほどの決め手はありませんでした。ただ、風祭さんには不自然な挙動があったんです」
「…………不自然?」
「風祭さんが冥界電話ボックスに来て私と会話をする際、恐らく無意識なんでしょうが、登山口の方を何度も横目で見ていたんです。最初は特に気にも留めていませんでしたが、後からその登山口付近で京子ちゃんの落としたスマホを拾ったことで疑惑が確信に変わりました。もしかしたら京子ちゃんは、彼女の死体は、この山のどこかで眠っているかもしれない。そして、その犯人は風祭さんだと。でも肝心の京子ちゃんの死体を見つけなければそれを証明できない。そこで、一計を案じたわけです。風祭さんをうまく死体の在り処まで誘導できないかと。まんまと引っかかりましたね」
その名の通り、まんまと墓穴を掘ったというわけだ。
しかし、俺という親友の仇を前にしても、彼女は激情するどころか感情の波すらなく、淡々と事実だけを伝えているような口調だった。
「シャベルを持った大人の男を前に追い詰めたつもりだろうけど、俺がいまここで君を襲うことだってできるんだぞ。君もこの墓穴に埋められちゃうかもしれないとは考えないのかい」
こちらの脅し文句に対して彼女は微動だにしない。
死の恐怖すらないかのように。
彼女はもしかして、本当に亡霊なのか?
「風祭さんはそんなことできませんよ。だって、私は京子ちゃんの苛めに加担していないごく普通の善良な女子校生ですから。善人に悪意を向けるほど風祭さんは悪人ではありません」
「殺人犯に対してよくそんな信頼を向けられるね」
「冥界電話ボックスに毎晩足を運んでいる私のことを、風祭さんは本気で心配してくれてましたよね。悪人にはそんなことできません。だから、風祭さんは悪人ではないんです。それに、風祭さんの言う通り、京子ちゃんは確かに学校で苛めをするような悪い人間でしたから。だからきっと、こうなってしまったのも因果応報で、仕方のないことだと思います」
起伏のない口調の中にもどこか諦観が込められていた。
希望に縋ることに疲れ、哀しむことにも疲れた人間の心に残る大きな空虚。
まるで、戦友がみな死んでしまった敗残兵の顔をしている。
「それでも、京子ちゃんを殺した犯人を見逃すのは違うと思いました。京子ちゃんの無念と、そして自殺した風祭綾乃さんへの罪滅ぼしのためってところでしょうか」
おもむろにポケットからスマホを取り出して、カメラをこちらに向ける。
静謐で澄んだ空気の中でシャッター音が数回鳴り響いた。
フラッシュの光に目が眩む。
「君が罪滅ぼしをする必要はないんじゃないか。罪を犯したのは君の親友の方だろう」
「悪行を見て見ぬフリをするのも立派な罪ですよ」
「じゃあ、俺の悪行も見逃してはくれないってことだな」
なんとか恩寵をもらえないかと天に向けた皮肉交じりの笑みは、夏の亡霊に涼しく返される。
「当然です」
その日以来、耳鳴りはすっかり収まった。
これからしばらくは塀の内側で過ごすことになるので、例の登山口前、冥界電話ボックスを通ることはないし、出所後に再び耳鳴りに悩まされることももうないだろう。
もし、万が一、またあの場所で耳鳴りが起きるようなら、それは――――――――。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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