第4話 最も困難な「ネーム」の果て
深夜二時。
羽瀬川凛の作業部屋の窓の外は、深淵のような闇に飲み込まれていた。
室内にはデスクライトの鋭い光と、二人の重い呼吸音、そして原稿を削るペン先のカリカリという乾いた音だけが、絶え間なく響いている。
月刊少年誌連載『アイギスの盾』。物語はいよいよ、一つのクライマックスを迎えていた。
主人公である気高き女騎士アイギスが、敵の卑劣な罠に嵌まり、魔力による肉体制御を奪われる。屈辱の中で失禁し、恥辱にまみれながらも、なお剣を杖にして立ち上がり勝利をもぎ取る――。
それは物語の魂を問う、最も残酷で、最も美しいシーンだった。
「…………っ」
凛は、椅子に座ったまま、全身を石のように硬直させていた。
彼女の目の前の原稿には、羞恥に顔を歪めるアイギスの、震える指先が描かれている。だが、今の凛にとって、それはもはや他人事ではなかった。
連日の『実験』、そしてこの極限のシーンへの異常なまでの没入。作業に熱中するあまり、彼女は自身の生理現象もまた限界に達しているという、生物としての警告に気付くのが、致命的なまでに遅れてしまったのだ。
優斗は、ペンを動かしながらも、時々凛の姿を確認し、密かに喉を鳴らした。
彼は気づいていた。凛が、もう数時間も一度として席を立っていないことを。
たまにあることだが、今回は様子が違う。凛の太ももが、小刻みに、それでいて激しく震え、黒いスキニーデニムが、彼女の激しい動きに合わせて摩擦音を立てている。時折、彼女がペンを握る右手に力を込めすぎて、指関節が白く浮き上がっているのも。
沈黙の中、凛の呼吸が、一段と荒く、熱を帯びたものに変わる。
下腹部を内側から無慈悲に突き上げる、灼熱の質量。
一秒、また一秒と、彼女の自尊心の堤防が削られていく。
「……優斗くん」
不意に、凛が掠れた声を出した。
その声は、いつもの冷徹な師匠のものとは思えないほど、弱々しく、切迫していた。
原稿から目を離さず優斗が答える。
「……何でしょうか、先生」
「……出てって」
「え……?」
全く意味のわからない凛の声に優斗が顔を上げると、そこには、これまでに見たこともないほど蒼白な、それでいて頬だけを異常に赤く染めた凛の顔があった。彼女の瞳は潤み、焦点が定まっていない。
「いいから!聞けないの?……お願い。早く、部屋から、出ていって……っ」
「先生? 大丈夫ですか!? 顔色が……」
「お願いだから! 早く!…………っ、あ……。……あ、あっ、あっ」
凛が、デスクの端を指が白くなるほど強く掴んだ。
瞬間、彼女の全身が、落雷に打たれたように大きく波打つ。
「…………あっ!!」
――じゅおぉっ…………。
沈黙を切り裂いて、決定的な音が響いた。
それは、彼女をプロの漫画家たらしめる布地が耐えきれず、一気に熱い奔流に屈した音だった。
「っ……、あ……、ぁぁぁ……」
せめて声だけでもこぼれないよう、両手で口を押える。
凛は椅子の上で弓なりに硬直し、そして顔を覆った。
――じゅぅぅぅ…………!!
一度決壊した本能は、二十四年間守り続けてきた彼女の自尊心を、一瞬で濁流の中に押し流していった。
黒のスキニーの股間が、見る間に重く、更に暗い色へと沈み、範囲を広げていく。
それはもはや「漏れる」などという生易しいものではなかった。彼女の身体の中に溜め込まれていた、剥き出しの体温そのものが、暴力的な勢いで放出されていた。
――ビチャチャチャチャ……、バシャバシャバシャッ!!
メッシュの隙間を熱い奔流が容赦なく透過し、直下のフローリングを叩く。遮るもののない硬い床の音が、静寂の部屋に暴力的なほど鮮明に反響した。
静かな部屋に響き渡る、あまりにも鮮明で、あまりにも残酷な、完璧な女性の崩壊音。
優斗は、その光景を、瞬きすら忘れて凝視していた。
何度も見返した、どの「秘密のコレクション」も、目の前にあるこの光景のリアリティには、足元にも及ばない。
高潔で、凛然として、大好きな師匠が、目の前で、無様にすべてをさらけ出していく姿はあまりにも美ししく、絶対に忘れないよう、目に焼き付けようと見つめ続けた。
「…………っ、…………ぅ」
徐々に床に落ちる雫の音が小さくなる。
凛は、顔を覆った指の間から、熱い涙を零した。
膝ががくがくと震え、視界が涙で滲んでも、彼女が折れることはない。震える手でペンを握り直す。
自らの尊厳を代償に差し出して得た『真実の感覚』を、一滴も零さず紙に刻みつけるために。
部屋を支配していた無機質なインクの匂いを、彼女の生々しい体温を孕んだ芳香が塗り替えていく。
その全てを、自身の神経へと焼き付けながら、震える手でペンを動かし続けた。
アイギスが立ち上がる最後の一コマ。
その筆致には、あの日見たモブ兵士とは比較にならないほどの、凄絶な「真実」が宿っていた。
カチャッ…と、ペンを置く乾いた音がした。
最後の一線を書き終える頃には、デニムも水溜まりもすっかり冷え切っていたが、
優斗は、あまりにもの状況に、声をかけることも、片付けることも、何一つできずに見ていることしかできなかった。
(あまりにも…美しい……)
凛は、肩を激しく上下させながら、ゆっくりと顔を上げる。
羞恥で火が出るほど赤く染まった頬。
彼女は、濡れそぼった姿のまま、床に広がる自らの「証拠」を隠すこともせず、優斗を真っ直ぐに見つめた。
「……不器用で、ごめんなさい。……これが、私のあなたに対する気持ち。……私の……全て」
それは、作家としての矜持であり、
一人の女性としての、むき出しの告白だった。
優斗は、その言葉に、椅子から滑り落ちるようにして、彼女の足元に膝をついた。
「……先生!」
「……ダメ、私ので汚れるから!」
漂う、濃密な熱気。
優斗は、フローリングに広がるその大きな水溜まりに入り、恍惚とした表情で凛を見つめた。
「……全てが、完璧です。……こんなに美しい光景を、僕は、一生忘れません」
優斗は、凛の震える手を、両手で包み込んだ。
「……改めて、好きです。先生。……いや、凛さん。僕は、あなたのこの『完璧』を、一生守り続けたい」
凛は、初めて見る『一人の少女』のような、晴れやかで、けれど恥ずかしさに震える笑顔を見せた。
「……馬鹿ね。……こんな私を、美しいなんて」
冷え切った作業部屋で、二人は初めて、仕事以上の『何か』を共有した。
窓の外。夜明けの光が、二人の足元に広がる、琥珀色に輝く水溜まりを静かに照らし始めていた。
それは、世界で一番不潔で、一番純粋な、恋の始まりを告げる光だった。




