第3話 女兵士の綻び・確信
羽瀬川凛という人間にとって、仕事部屋はただの作業場ではない。そこは彼女の規律と尊厳が支配する、一点の曇りもない聖域のはずだった。
きっちりと整頓された画材、静謐な空気、そして張り詰めた緊張感。その中で彼女が紡ぎ出す物語『アイギスの盾』は、その高潔さゆえに多くの読者を魅了してきた。
だが、その日は、かつてない異質な、そしてどこか湿り気を帯びた緊張感に包まれていた。
「……これ、どうかしら。優斗くん、確認して」
凛の声は、いつもと変わらぬ、冷徹で凪いだ湖面のようなトーン。原稿を差し出す腕も、その所作もまるで一つの作品のような美しさを纏う。
優斗は、いつものように背景の描き込みやパースのチェックをするつもりで、その紙面に目を落とした。
瞬間、心臓が大きく、重く、肺を圧迫するように跳ねた。
それは物語のメインシーンではない。敗走するアイギスの軍勢。その群衆の影に紛れた、名もなきモブの女兵士。恐怖と絶望に打ちひしがれ、崩れ落ちるその兵士の股間が、じわりと、けれど残酷なまでの階調で『濡れて』いた。
「…………っ!」
優斗の喉が、引き攣るように鳴った。
これまでの凛が描く生理現象は、どこか記号的で、知識として知っているだけの乾いた描写だった。しかし、この一コマは、あまりにも異質だ。
たったのワンシーン。それでも、恐怖で強張る太ももの筋肉のライン、厚手の軍服が水分を吸い込み、重く皮膚に張り付いていく質感。繊維の隙間から滲み出す、熱気すら予感させる生々しい飛沫。
それは、優斗が自分のベッドの下に隠し持っている、世俗的な欲望にまみれた秘密のコレクションのどれよりも――。
完璧な師匠が描いた、あまりにも不浄で、けれどこの世の何よりも美しい『綻び』。優斗は自らの倫理観が音を立てて崩れるのを感じながら、それでもその小さな黒い深淵から目を逸らすことができなかった。
「……何か、不自然な箇所がある?」
「あ、いえ。……その、ありません。完璧、だと……思います」
優斗は真っ赤になりながら、原稿を持つ指先が、その『濡れたワンシーン』に触れるのを恐れるように、わずかに震えていた。
その指の震え。原稿を見つめる、隠しきれない好奇と興奮の火が灯った熱い視線。
凛は、デスクに向かったまま振り返りもせず、けれど針のように研ぎ澄まされた感性で、背後にいる愛弟子の『変質』を克明に感じ取っていた。
(……ああ。やっぱり、そうなのね)
凛の胸の奥で、確信という名の熱が広がった。
清廉で、自分の高潔さを敬愛していると思っていた青年。
だが、彼は私の描いた『綻び』に、これほどまでに見惚れている。
凛は自らの仮面の下で、心臓が爆ぜるような羞恥と、それ以上の、得体の知れない高揚感に焼かれていた。深夜の孤独の中で、自らの尊厳を仮想的に汚してまで手に入れた『リアリティ』。
それが、最愛の読者であり弟子である彼の、最も醜く、最も純粋な本能を完璧に射抜いたのだ。
(……あなたは、こういうのが見たいのね。……私が、こんな風に、みじめな姿を晒すところを、きっと期待しているのね……)
凛の頬に、微かな、けれど確かな熱が宿る。
彼が本当に求めているのは、紙の中の記号的な美少女ではない。
目の前にいる『完璧な師匠』が、その矜持を保ちながらも、抗いがたい力に屈して崩れ落ちる瞬間。
それを、彼は言葉にせずとも、魂の奥底で、きっと渇望しているのだ。
(見せてあげるわ。……羽瀬川凛の全霊を賭した、最高のリアリティを)
「……早く作業を進めてくれる?クライマックスのネーム……今夜中に終わらせるわ」
両者を現実に引き戻す凛の言葉には、以前よりも少しだけ、湿度を含んだ重みが含まれていた。
それは、これから近い未来に訪れるであろう破滅への、そして彼への、不器用すぎる挑戦状だった。
優斗は、自分が気づいたことを彼女は知らないと思っている。
凛は、彼が「気づいたこと」を自分が知っていることを、彼には絶対に悟らせない。
静寂の執筆室。二人の距離感は、かつてないほど遠く、そしてかつてないほど狂おしく密接していた。
(……これが私の、あなたへの返答)
凛はペンを握り直し、白紙の原稿用紙を見つめた。
次は、モブではない。
自分が心血を注いだ、自分そのものとも言える主人公、アイギス。
彼女の『決壊』を、目の前の愛する彼に、どう見せつけるべきか。
その想像だけで、凛の下腹部は、熱い溜息をつくように微かに疼く。
繰り返されてきた『実験』のせいか、あるいは彼への高揚感のせいか。麻痺し始めた下腹部の感覚の奥底で、鈍い『重み』が刻一刻と蓄積されていくのにも気づかずに。




