第2話 生理現象の実践的観察
羽瀬川凛という人間にとって、『排泄』とは単なる効率の悪い生理現象に過ぎなかった。
元来、彼女はトイレが非常に遠い体質である。集中し始めれば半日は席を立たず、水分補給すら最小限で済ませる。物心がついてこのかた、下着を汚した記憶など一度もない。
唯一覚えているのは、幼稚園のお遊戯会の最中、隣にいた友達が衣装を濡らして泣きじゃくっていた光景だけだ。当時の凛は、それを「自分を制御できない幼い子供の失態」として、冷ややかに、どこか遠い世界の出来事のように眺めていた。
そんな潔癖で完璧だった彼女の自室が今、かつてない異質な緊張感に包まれている。
(……準備は整った)
凛はデスクの上に、先ほど用意したノートとストップウォッチ、そして優斗宅からの帰宅途中に買った二リットルのミネラルウォーターを並べた。
無機質で不必要な装飾を排除したこの聖域で、彼女は今、人生で初めて「自分を制御できない側」へと堕ちようとしていた。
凛は無表情のまま、水を一口、また一口と喉に流し込んでいく。
ペースを上げ、無理やり胃に流し込まれた液体が、重く、冷たく腹部を圧迫する。
「……ふぅ」
ストップウォッチを起動させた。
彼女が選んだ衣装は、仕事場でも愛用している、タイトな黒のスキニーパンツだ。丈夫で伸縮性の少ないデニム生地。これが「決壊」した際、どのような肌触りになり、どのような染みを作るのか。
それを自身の肌で、神経で、確かめる必要がある。
凛はそのままデスクに向かい、ペンを握った。
一時間が経過した。下腹部に、微かな、だが確かな違和感が宿り始める。
凛はノートに、冷徹な筆致でペンを走らせた。
『摂取から六十分。膀胱周辺に微かな圧迫感。集中力に支障なし。……これまでの人生で感じてきた、ごく一般的な尿意に過ぎない』
二時間が経過。
違和感は鈍い疼きへと変わり、時折、鋭い差し込みが下腹部を貫くようになる。
凛の額に、じわりと薄い汗が滲んだ。彼女の人生において、尿意を「我慢する」という経験自体が希少だった。内腿を固く密着させ、椅子の上でわずかに姿勢を正し、記録を取る。
「……くっ」
三時間を超えた頃、実験は未知の領域へと突入した。
もはやネームを考える余裕などない。思考の全てが、下腹部の一点に集約されていく。
筋肉を固く締め、呼吸を浅くする。少しでも気を抜けば、その瞬間に全てが瓦解するという恐怖。
先ほどの記録からの一時間が、まるで半日にも、一日のようにも長く感じられた。
幼稚園のあの日、隣で泣いていた同級生が感じていたのは、この、足元から尊厳が崩れ落ちるような絶望だったのか。
『三時間。筋肉の震えが止まらない。失敗を拒む理性と、限界を迎えた肉体の摩擦。……ペンを動かすことすら困難』
もはや、指先すら震えている。
凛は椅子から立ち上がった。彼の本にあった『トイレに先客がいて入れない』という絶望を再現するため、彼女はフラフラとした足取りで、予めロックを掛けておいた、自室のトイレへと向かう。
一歩、足を踏み出すごとに、膀胱が揺れ、悲鳴を上げる。
「あ、…………ぁ…………」
――じわっ……と下着が少し温かくなった気がした。
ようやくたどり着いた。ドアノブに手をかけて、ノブを引いたその瞬間だった。
ドアノブのひんやりとした感覚が、ガチッとロックに阻まれた反発が、何とかギリギリのラインでせき止めていた下腹部の筋肉を弛緩させ、凛の強固な意志を貫いた。
――ジュウゥッ…… ジュイーッ……ッ!!
「っ!? あ、あ、あ、ああああ…………っ!!」
衝撃が全身を貫いた。
静まり返った室内で、あってはならない「音」が下腹部周辺から鳴り響く。
硬いデニムの繊維を、下着を、熱い奔流が内側から無理やり抉じ開け、噴き出す。
一度決壊した本能は、二十四年間完璧であり続けた彼女のプライドなど、微塵も顧みることはない。
――ジュゥゥゥ…………
凛はドアに縋り付いたまま、全身を弓なりにしならせた。
熱い。そして、恐ろしいほどの解放感。
逃げ場のない強固なデニム生地が、熱い奔流を吸い込んで一気に重さを増す。皮膚に張り付く不快なほどの熱量と、指先まで伝わる脈動。二十四年間、清浄を保ってきた私の聖域が、今、無残に蹂躙されていく。
生地が吸収しきれなかった雫が、彼女の太ももを、膝を、ふくらはぎを、熱く愛撫しながら伝い落ちる。
――ビタビタビタッ! ビチャチャチャッ!!
出し始めてから一呼吸を置いて、フローリングを叩く、無慈悲な湿った打撃音。
二十四年間の「羽瀬川凛」が崩壊していく音が、空しく、けれど甘美に響いた。
「……はぁ、……ぁ、あぁ…………っ」
すべてを出し尽くしたあと、凛はその場に力なく膝をついた。
下半身にまとわりつく、じっとりと重く、不快なほどに温かい生地の感触。
鼻腔を突く、自分の体温を孕んだ、鋭く、それでいてどこか甘い芳香。
手は震え、視界は涙で滲んでいる。だが、彼女の瞳には、プロとしての、そして一人の女性としての狂気的な悦びが宿っていた。
「……解放の瞬間、意識が白濁するほどの快楽を伴う。尊厳の崩壊こそが、このジャンルにおける最大のカタルシス。……優斗くん、貴方は、これに……。そう、これを、求めていたのね」
凛は濡れたままの姿で、床に広がる水溜まりを指先でなぞった。
かつて冷笑していた『お遊戯会のあの子』の絶望を、今の自分は『至福』として飲み込んでいる。
きっと、この汚泥のような快感が、優斗との距離を決定的に縮める鍵になるのだと、彼女は確信した。
その後、凛は仕事の合間を縫っては、あの日見た彼の秘密を一ページずつなぞるように『実験』を繰り返した。ある日は椅子に座ったまま、ある日はスカートを穿いて。
ノートの余白は、彼女の羞恥心と引き換えに、びっしりと狂気の記録で埋め尽くされていった。
優斗は、凛の変化に気づかない。
相変わらず冷徹で、仕事に厳しい師匠。
だが、凛が自分を見る瞳の奥に、かつてない『湿り気』が混じっていることに、
そして、彼女が作業中に時折見せる、不自然に内股を擦り合わせる仕草の真意に、
彼はまだ気づくはずもなかった。




