第1話 氷の師匠と、ベッドの下の秘密
羽瀬川凛という漫画家を一言で表すなら、「孤高」という言葉が最も相応しい。
弱冠二十四歳にして、月刊少年誌での連載『アイギスの盾』をヒットさせている彼女は、その美貌に反して、業界内では「氷の鉄仮面」と恐れられていた。
彼女のマンションの一室を使って作られた仕事部屋は、常に完璧な秩序に保たれている。
きっちりと揃えられた画材、埃一つないデスク、そして張り詰めた沈寂。
その中で彼女が発する言葉は、必要最小限の指示のみだ。
「……羽瀬川先生。ここの背景、パースの微調整終わりました」
「……ええ。見せて」
声をかけてきたのは、唯一のアシスタントであり、そして三か月前から交際を始めた恋人、
佐藤優斗だった。
私の作品の熱烈なファンだという彼は、アシスタントの募集掲載日に応募をしてきて、そのまま、アシスタントどころか私の心も射止めてしまった。
凛は無表情に原稿を受け取る。まだ粗削りながらも、性格が表れているようなとても丁寧な仕事だ。
優斗は凛の厳しい要求に一度も音を上げることなく、それどころか、彼女の思考を先読みするかのように理想的な線を引く。
「……合格。次は、メインキャラの服のシワを入れて。……終わったらトーンの切り出しを」
「了解です、先生。……あ、先生、少しだけ前髪、乱れてますよ?」
優斗が、ごく自然な動作で凛の額に手を伸ばす。
その瞬間、凛の背筋に、熱い電流のような緊張が走った。彼の指先が、わずかに彼女の肌に触れる。
凛の心臓は、壊れた時計のように激しく脈打っていた。
本当は、その手を掴んで引き寄せ、彼の胸に飛び込みたい。
彼が自分をどう思っているのか、もっと甘い言葉を聞かせてほしい。
だが、彼女の唇から漏れたのは、冬の風のように冷たい一言だった。
「……作業中よ。何してるの。私に触わらないで」
「あ……。すみません、つい」
優斗が困ったように、けれどどこか申し訳なさそうに笑う。その笑顔を見るたびに、凛の胸は鋭い自責の念で締め付けられた。
(また、やってしまった。……本当は、私の方が、ずっとずっと彼を好きなのに)
漫画に全てを捧げてきた凛にとって、優斗は人生で初めての恋人だった。
これまで机に向かうことしかしてこなかった彼女には、この「清いお付き合い」の次のステップが、異世界の魔法を解読するよりも難解に思えていた。
手を繋ぐ、名前を呼ぶ、その先にあるはずの睦み合い。
それらの「正解」がわからないまま、彼女は防衛本能のように、またプロの漫画家として
仕事に私情は一切持ち込まないという、師匠としての厳格な仮面を被り続けていたのだ。
そんなある土曜日のことだ。凛は、初めて優斗のワンルームマンションを訪れることになった。
きっかけは、休憩中の何気ない会話だった。
「先生、そういえば僕、最近海外の古い漫画を買い集めてるんです。もし興味があったら、今度資料として見に来ませんか?」
凛にとって、それは渡りに船だった。
恋人らしいことをしたい、けれど何をすればいいかわからない。そんな自分にとって、「漫画のコレクションを見学する」という名目は、これ以上ないほど自然な口実だった。
仕事の延長線上なら、私は彼の部屋へ行ける。そう思って、彼女は精一杯の平穏を装って頷いたのだ。
しかし、実際に訪れた彼の部屋で、彼女は所在なさに身を焼かれていた。
整頓された書棚には、確かに貴重な資料が並んでいる。
彼がアシスタントとして優秀な理由も一目で感じ取れる程だった。
狭い室内で二人きりというシチュエーションは、凛の思考を麻痺させるに十分だった。
「……すごいわね。この構図、勉強になるわ」
「そう言ってもらえると嬉しいです。あ、先生。少し喉乾きましたよね。コーヒーで良かったですか?淹れるので、ゆっくり見ててください」
優斗がキッチンでコーヒーを淹れる間、凛は一人、所在無さげに、彼の生活感の溢れる部屋で溜息を吐いた。
ふと、デスクの脚元に落ちていた万年筆に目が留まる。
それは彼女が優斗に贈った、大切な仕事道具だった。
(……落としたのね、うっかりさんなんだから)
緊張が抜けなかったのか、凛はペンを拾うどころか、ベッドの奥に弾いてしまう。
屈み込み、薄暗いベッドの隙間に手を伸ばしたとき、指先に触れたのは、硬い万年筆の感触ではなく、紙の重なり合った独特の質感だった。
「…………これ、は?」
無意識にそれを引き出した瞬間、凛の思考は完全に停止した。
そこに置かれていたのは、資料の漫画などではない。
数冊の薄い、いわゆる『同人誌』だった。
だが、その内容は彼女の想像を絶するものだった。
表紙を飾るのは、顔を真っ赤にして泣きじゃくり、股間を両手で押さえながら、無残に濡れそぼった制服で立ち尽くす少女。
彼が私の方に意識が向いていないことを確認すると、音を立てないよう、禁断の書をめくる。
そこに描かれているのは、生理現象という抗い難い本能に敗北し、羞恥の極致で服や下着を濡らしてしまう女の子達の姿だった。
「…………ッ!?」
凛の指先が、目に見えて震えだした。
何度も捲られた形跡があり、特定のシーンはページがよれている。
優斗。
爽やかで、献身的で、いつも自分を「先生」と呼んで敬ってくれる、あの彼が。
これほどまでに湿り気を帯びた、歪で、汚泥のような欲望を抱えていたなんて。
(……優斗くんは、こういうのが、好きなの……?)
衝撃が波のように押し寄せ、やがてそれは、冷徹なまでの自己分析へと変わった。
彼女は一度も、彼の前で弱さを見せない。氷の彫刻のように振る舞う自分の傍らで、彼はその熱を、屈折した形で、紙の上の少女たちにぶつけるしかなかったのではないか。
(私の……不徳の致すところだわ。私が彼に『本物』を見せられないから、彼は一人でこんな……)
凛の胸の奥で、猛烈な独占欲と、プロとしての奇妙な対抗心が燃え上がった。
彼が愛しているものを、私も愛して、描き出さなくてどうする。
何をすればいいかわからなかった自分に、今、これまでで最も困難な『ネーム』が与えられたのだ。
「……お待たせしました、先生。コーヒー入りましたよ」
背後から、いつもの優しい声がした。
凛は電光石火の速さで本をベッドの下に押し戻し、万年筆を握りしめて振り返った。
彼女の瞳には、締め切り直前のような鋭い光を宿っている。
「……先生? 顔が赤いですよ。やっぱり、暑いですか?」
「……いいえ。なんでもないわ」
彼が何を求めているのか、その正体は分かった。
ならば、羽瀬川凛のやり方は一つだ。徹底的に「研究」し、プロの「リアリティ」を持って、彼に私という作品を叩きつける。
「……優斗君、ごめんなさい。用事を思い出したの。今日は早めに帰るわね。」
その夜、自室に戻った凛は、デスクの上に一冊の白紙のノートを広げた。
表紙には、誰にも見られないよう、小さな文字でこう記した。
『生理現象における羞恥心と解放感の相関関係について――及び、その実践的観察』
彼女の密かな『実験』が、静かに幕を開けた。




