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ウルトラマリンの少女

作者: 白宮
掲載日:2026/02/06

 毎朝、大学のカフェテリアの隅に姫川さんがいる。

 法学部の同級生。僕より半年早く生まれただけなのに、どこか別の時間軸に立っているように見える。メイクをする姿は、静かな儀式だ。ファンデーションを叩き込む指先は確かで、まるで自分の顔を少しずつ別の素材に置き換えているようだった。


「おはよう、悟くん」


 彼女は手を止めずに言う。目はちゃんと僕を見て、朝の薄い光の中で微笑む。コーヒーの匂いとトーストの焦げた香りが混じる空間で、彼女の声だけが少し遠い。


「おはよう。今日も早いね」


 僕はトレイを置いて対面に座る。空きコマが重なってから、こんな時間が習慣になった。新歓で出会い、合宿で意気投合し、上野の美術館を一緒に回るようになって──すべてが自然だった。でも、いつの間にか、僕の中で彼女は特別になっていた。


 姫川さんはリップを塗りながら、ふと手を止めた。


「昨日のニュース見た? フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』が大阪に来るんだって」


 ヨハネス・フェルメールのあの絵を知らない人はいない。暗い背景に浮かぶ少女の横顔。青いターバンが、少ない色数の中で異様に鮮やかだ。あの青はウルトラマリン──アフガニスタンの山奥から採れるラピスラズリを砕き、遠い海を越えて運ばれた顔料。当時は金より高価で、聖母マリアのマントにしか許されない神聖な色だった。フェルメールはそれを、ただの町娘の頭に巻いた。特別ではない少女に、贅沢な永遠を与えた。


「ああ、見たよ。遠いけど」


 彼女は小さく笑った。


「私は絶対行く。参考になるから」


「参考?」


「うん。あの少女が、何百年も人を惹きつける理由」


 彼女は鏡を覗き込んだまま続ける。声は明るいのに、どこか掠れている。


「私、"すごくかわいい"からだと思うの」


 僕は少し驚いた。あの絵に「かわいい」という言葉を重ねる人は少ない。神秘的、静謐、魅惑的──そんな言葉が並ぶのに。


「かわいい、か。確かに、目が離せないけど」


「かわいいって、人の欲を直接刺激するでしょ。SNSで『かわいい』って言われたら、いいねが爆発する。でも、それって表層だけ」


 彼女はチークブラシを動かしながら、ふと息を吐いた。


「私はかわいい。でも、すごくかわいいには届かない」


 メイクが進むにつれて、姫川さんは「完成形」に近づいていく。ナチュラルだと言いながら、実際はすべてが計算だ。眉の角度、チークの濃淡、唇の輪郭──どれも戦略的。


「姫川さんは十分かわいいよ。少なくともこのキャンパスで一番だと思う」


 本心だった。でも彼女は小さく首を振った。


「ありがと。でも違うの。私はあの青になりたい。ウルトラマリンみたいに」


 彼女の声が、少しだけ震えた。

 表層ではない、深い場所から輝く青になりたいと彼女は言う。


「今の時代、かわいいってすぐ消費されるだけじゃない? 加工してバズって、数日で忘れられる。私、そういう一過性のものはいやなの。コスパが悪くても、毎日努力して、誰かの心に残る青になりたい」


 彼女は鏡を閉じて、コーヒーを一口飲んだ。カップを持つ手が、わずかに震えていることに気づいた。


「でも、疲れるよね」


 僕が言うと、姫川さんは一瞬、目を伏せた。


「疲れるよ。すごく」


 沈黙が落ちる。カフェテリアの喧騒──トレイを運ぶ音、笑い声、スマホの通知音──が少し遠のいた。


「私、頭はいいほうだと思う。給付型の奨学金も取れたし、法曹だって狙える。でも、かわいさには小さいころから執着してる。褒められるたび嬉しいのに、満たされない。もっと、もっとって」


 その瞬間、完璧なメイクの下で、彼女の唇がわずかに尖った。大学生なのに、子どもが駄々をこねるような仕草が漏れる。大人びた言葉を並べながら、孤独を隠しきれていない。


 僕も同じだ。大学生になっても、将来の不安と今の欲の間で揺れている。就職活動の話が出るたび胸が締めつけられるのに、夜はSNSをスクロールして誰かの生活を消費してしまう。彼女に惹かれるのは、きっとその揺れが鏡のように映るからだ。


 姫川さんはふと顔を上げた。


「悟くんは、私のこと、どう思ってる?」


 突然の質問に、言葉に詰まる。


「すごく……魅力的だよ」


 彼女は小さく笑った。

 外の光が強くなってきた。カフェテリアの窓から、キャンパスの木々が揺れている。


「大阪、一緒に行かない?」


 彼女の声は、いつもの明るさを取り戻していた。でも、その奥に何かがあった。

 僕は少し迷って、首を振った。


「遠慮しておくよ」


 近づきすぎたら、僕も彼女を消費してしまう気がしたから。

 それに、僕自身がまだ、彼女の青に耐えられるほど強くないから。

 席を立つとき、姫川さんは小さく手を振った。

 完璧なメイクのかわいい顔で、でも目だけが少し赤かった。


 僕の心は、すでに彼女のウルトラマリンに染まっていた。

 あの青は、遠くから見れば完璧で、近くで見れば砕かれた石の欠片の集合体だ。

 それでも、光を放ち続ける。

 姫川さんも、きっと。


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