夜の森を歩く
※狩りの描写が続きます。苦手な方は、飛ばしてください。
夜露に濡れた石畳で、きゅっと靴底が鳴った。
息を吸い込むと、肺一杯に冷たい空気が入ってきて、一気に意識が覚醒する。
夜明け前には程遠く、深夜というには遅い時間。
リオンは弓を片手に白い息を吐いた。
「もう朝晩は冷え込むようになりましたね」
足元のキャスに声をかけると、キャスはにゃ〜と鳴いた。
リオンは、襟の立ったコートに、革手袋、耳当てのついた帽子と、完全防寒の装いだった。
肩には矢を担ぎ、背中のカバンには解体用のナイフが何本か入っている。
「行きましょう。今日は、泉の辺りで待ち伏せしますよ」
了解、というようにキャスが鳴き、二人は泉に向けて出発した。
音を、というより気配を消して森の中を歩く。
光源はリオンの持っている小さなランタンだけだ。
それで森の中を迷わないのかというと、ここでキャスの夜目が効いてくる。
キャスにとっては、星あかりだけで十分すぎるくらい明るいのだ。
キャスの先導を受けながら、無言で歩く二人。
泉は遠いとはいえ、狩りの最中に無駄に音を立てる必要はない。
森の中を黙々と歩いて、冷えた体が十分温まった頃――。
二人は泉のほとりへとついていた。
この泉は、中心から湧き出し、大きい池を作った後、森の中へと流れ出ている。
そして、その流れに沿って、この森に住む動物たちは喉を潤しにくるのだ。
水の流れに従って、慎重に下る。
動物の足跡を探しながら、ゆっくりと移動する。
しばらく下ると、下生えが踏み荒らされているところを見つけた。
蹄の形と深さから、レッドディールだと当たりをつける。
その足跡から、ルートを推測する。
風下から移動し、ルートと思われるところを見下ろせる、高台にある低木の茂みに隠れる。
ここからはひたすら「待ち」の時間だ。
ジリジリと夜が明け、森が目を覚ます。
コマドリやクロウタドリの鳴き声に混じって、鹿の甲高く笛のような鳴き声もそう遠くない位置から聞こえてきた。
リオンとキャスは目線を交わす。
リオンは、弓と矢を触って確かめた。
山の稜線から太陽が顔を出し、辺りを金色の朝日で染める頃――。
お目当ての一団が目線の下、リオンが予想したルートからそう外れていないところに顔を出した。
辺りを警戒しながら、じわじわと近づいてくるレッドディールの群れを見て、キャスが臨戦体制をとるのを、片手で止める。まだ、遠い。
「……あの折れ角」
リオンが端的に今回の獲物を決定する。
キャスに異論はないようで、尻尾をリオンに当てて同意を示す。
リオンがゆっくり動いて、矢をつがえる。
キリ……と引き絞られた微かな音が届いたのか、折れた角を持つ鹿がこちらに顔を向けた。だが、遅い。
リオンが放った矢が朝の清澄な空気を切り裂き、それと同時にキャスが茂みから飛び出す。
レッドディールの群れは驚いて一目散に駆け出す。折れ角も、同様に駆け出そうとしたが、その胴体をリオンの矢が貫いた。
悲痛な叫びを上げながら、それでも生きるために足掻く折れ角。
くるりと方向転換して、駆け出そうとしたところに、キャスが飛びかかった。
過たず頸動脈に噛み付く。
折れ角はキャスを振り落とそうと上下に激しく動いていたが、だんだんその動きが弱くなり――リオンが高台から降りてきた頃には、ぐったりと横たわっていた。
キャスはその隣で、胸を張って尻尾を振っている。
その表情は、僕が仕留めたんだ、すごいだろと、言わんばかりだった。
リオンは、それに苦笑しながら、獲物に近づく。
獲物にかすかに息があるのを確認し、苦しまないように介錯してやる。
そして、その口元に、そっと近くの木から取った葉を置き、神に祈る。
これは、獲物に敬意を、神に今日の糧を与えてくれた感謝を表すこの地方の風習だ。
リオンが顔を上げる頃には、キャスは人の姿になっていた。
今から、ここで一次解体をするので、それを手伝うつもりなのだろう。
折れ角が逃げた際に、森に入り込んでしまっていたから、キャスに周囲の警戒を依頼する。
鹿の血の匂いで、大型の肉食獣が来ないとも限らないからだ。
リオンは背負い袋の中から、解体用のナイフを取り出し、さっと血を抜き、内臓を取り出す。
そして、内臓の中から赤くツヤっとしたハツとレバーを選り分ける。
「キャス、食べますか?」
「もちろん!」
キャスは、人型をとっているが、人間ではない。
リオンに出会うまで、狩った獲物をそのまま食べていたから、今でも、狩りの時に捨ててしまうところの中でおいしいところだけその場で食べてしまう。
「う〜〜まっ」
ハツを一口で食べて、血のついた唇をぺろりと舐めるキャス。
満足そうに目が細められる。
その瞳が、人ではありえない金色に煌めく。魔物の本性が強く出る瞬間だ。
こんな時、キャスは本当においしそうに食べるので、リオンも食べてみたくなる。
しかし、人間の味覚だと絶対においしいと思えないとわかっているので、無謀な挑戦はしない。
こういう時だけ、少し、キャスが人間でないことをうらやましく思う。
取り出した内臓は、簡単に埋めて、荒らしてしまったところをできる範囲で簡単に整える。
あまりに荒れたままだと、森の回復が遅れるからだ。
「……なぁ、次の獲物は僕に選ばせてくれよ」
「どうしたんです?」
せっせと働くリオンに、キャスがのんびりと声をかけた。
「だって、リオンの選ぶ獲物は、デカいヤツばかりじゃん。子供の方が肉が柔らかくておいしいの、知らない?」
キャスの言葉に、リオンの手が止まる。
そして、呆れたようにため息をついた。
「……食べることしか、考えていませんね」
「だって、狩りってそういうことだろ」
キュルン、と音がしそうなほど純粋な眼でキャスが答えた。
その目は、肉の塊になってしまったレッドディールを見ている。
「いいえ。狩りとは『食べるため』ではなく、『守るため』にするものですよ」
リオンもレッドディールを見た。
先ほどまで森を駆けていた彼は、今や食べ物だ。
「どういうこと?」
「確かに、子供の方が、肉に臭みがなくておいしいです。しかし、狩りでは基本的に子供を取らないようにしているんですよ」
「なんで?」
「子供を取れば、『不安定』になるからです」
「不安定?」
何を言っているんだと、キャスが首を傾げた。
「子供は生き残れば、来年、親になります。そして、次の世代を産む。そうやって森は続いているんです。しかし、そうでなくても狙われやすい子供を、人間が食欲に負けてたくさんとってしまったら、どうなるでしょう?」
「……来年の親が、いなくなる?」
「そうです。『守るため』の狩りとは、森の将来を考え、命を奪う相手を選ぶ狩りです。森の命は繋がっています。どれを狩り、どれを残すかで、次の年の森が決まるんです」
リオンは、手にした解体用ナイフをしまうと、静かに笑った。
「――もちろん、自分達の命がかかっているときには、このような綺麗事は言えません。でも、私もキャスも、獲物を選ぶだけの余裕――そのための知恵や力はあるでしょう? なら、『守るため』の狩りにしませんか」
その声は、押し付ける強さも、命令する傲慢さもなかった。
それでも、キャスの心の中にすとんと入ってきた。
キャスは、黙ってリオンを見た。
風の音が、少しだけ寂しげに枝を揺らす。
その風の寂しさだけ、リオンがこの森で孤独に暮らしてきた長さを感じた。
「ふぅん。リオンって、人間のくせに森の主みたいなこと言うんだな」
「……そうですね。だからこうして森に住んでいるんでしょう」
リオンが人の世界から遠ざかっている理由を、キャスは知らない。
街での様子を見ると、人間が嫌いだと言う単純な理由ではなさそうだ。
リオンがただ一人、誰もいない森で生活するには相当な覚悟があったのだろう。
「なぁ、なんで……」
「ん?」
秋の森のように、どこか寂しさをはらんだ温もりのある目で見つめられて、キャスはどきりとした。
一瞬、目をそらして……次の瞬間には、ニヤリとイタズラっぽい笑顔を浮かべる。
「まぁ、守るのは、手伝ってやってもいいけど? でも、腹が減るのはごめんだぞ」
「そうですね。この鹿も、ちゃんとおいしい料理にしましょう」
「煮込みにしよう。ほろほろになるまで煮込んだやつ。そしたら、大人の鹿も子供の鹿も関係なくなるだろ?」
「それ、手間がかかるヤツじゃないですか」
「だから、うまいんだろ」
確かに、と言ってリオンは笑う。
そう言う笑顔の方がいいぞ、とキャスは思ったが、リオンには教えてやらなかった。
自分がいれば、あんな寂しそうな笑顔はすぐに吹き飛ばせるからだ。今みたいに。
二人の間を風が駆け抜けていく。
その風は、朝日に暖められた心地いい風だった。
いつの間にか、夜はすっかり明けていたのだ。
「さぁ、泉に戻りましょう。そこで本格的に解体ですよ。今日は、キャス、あなたにも手伝ってもらいますからね」
「まぁ、おいしい料理を食べるためだ。しかたがない。手伝ってやるか」
「本当にあなたは、食い気だけですね」
「そう言うリオンも負けてないと思うぞ。好きだろ。うまいもん食うの」
「……まぁ、否定はしません」
「素直じゃね〜の!」
二人は笑いながら、獲物を運ぶのだった。




