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エルドウィス森譚〜私と猫と、ときどきドラゴン〜  作者: 川津 聡


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パンと恋と、竜の魔法(後編)

 うららかな昼下がり。

 人々の喧騒に負けないくらい、ヴァレオの鼓動は高鳴っていた。

 初めての狩りだって、こんなに緊張していなかった。


 二本足での歩き方を忘れてしまったかのようにぎこちなく歩くヴァレオの目の前には、一軒の小さなパン屋があった。

 少し離れたところで隠れて見守っているリオンたち一行のところにも、ふんわりとしたパンのいい匂いが漂ってくる。


 小さなドアをくぐると、若い娘が接客をしていた。

 飾り気のないシンプルな三つ編みに、そばかすの散った目元。

 町娘らしく飾り気の少ないシンプルなブラウスとスカートの上にエプロンをつけている。


 娘は、ヴァレオの姿を見ると、思い当たることがあったのかにこりと笑った。

 その顔は、夏の大輪のひまわりのようだとヴァレオは思う。


「あの時のお兄さん」


(覚えていてくれた……!)

 ヴァレオはその事実だけで、頭が沸騰しそうなくらい嬉しかった。


「は、はい。あの、えっと……」

「? 今日はお買い物ですか?」

「はい、そうです。いや、それもあるけど、そうじゃなくて、えっと、」

「??」


 モゴモゴと、うまく答えられなくて、気持ちばかり焦るヴァレオ。

 焦るあまり、足元に小さな旋風つむじかぜができ始めているのにも気がついていない。

 それがヴァレオの焦りと共に決定的な大きさになりかけた瞬間――。


「よ〜、パン屋さん、今日のオススメは?」

「キャ、キャスさん!?」


 どこから入り込んだのか、人の姿のキャスがヴァレオの肩越しにパンをのぞいていた。


「いらっしゃいませ」

「はい、いらっしゃいました。――僕は、キャス。で、こっちがヴァレオ」


 キャスはおどけて返事をすると、サラッと自己紹介をした。

 そして、自然な流れで娘さんの名前を聞く。


「で、おねーさんの名前は?」

「私ですか? アンナです」

「アンナちゃん! よろしく〜」


 キャスが軽薄にアンナと握手をした瞬間、室内を風が通り抜け、バンとドアが開いた。


「すごい風」

「おい、ヴァレオ。お前はアンナちゃんとよろしくしたくないのかよ」


 キャスはアンナの驚きに構わず、ヴァレオの脇腹を突いた。

 先ほどの風が、ヴァレオの嫉妬心だと気づいているからだ。


「あ、あの、僕、私は、ヴァレオです。その、この前はありがとうございました」


 ようやくここにきた目的の一つであるお礼の言葉を口にできた。

 そして、キャスに促されるまま、アンナの手を握る。

 それは、働き者の手らしく少しカサついていたが、その小さいのにしっかりとした手に、ヴァレオの好感度は上がるばかりだった。


「あら。ご丁寧にありがとうございます。でも、当たり前のことをしただけなので、あまり気にしないでくださいね」


 アンナはにっこりと笑い、それを見たヴァレオは尻尾が出かけて、慌ててお尻を押さえた。

「クフフ。こいつ、ここのパンが大好きになったんだって。――特に、君が焼いたヤツが」

「キャスさん!!」


 何を言うんだと声を荒げたヴァレオ。

 しかし、キャスのセリフに、ほんのり頬を染めたアンナを見て、もうそのことしか考えられなくなった。


「気に入ってもらえたなら、うれしいです……」


 ヴァレオは、頭が爆発しそうだったが、ドラゴンの棲家のある霊峰の万年雪の冷たさを思い出して耐えた。

 ここで爆発して、ドラゴンのかけらを出してしまったら、何もできないまま帰るしかないからだ。それに、アンナを怖がらせたくない。


 ぐっ――と、唾と一緒にいろいろなものを飲み込んだヴァレオは、持っていた小さな袋を見えるように持ち上げた。


「……あの、これ、お礼です」

「まぁ、そんな。本当に気にしなくていいのに」

「いえ、僕は嬉しかったんで」


 袋の中から出てきたのは、いい匂いのする髪油だった。

 アンナがすぅっとその匂いを嗅いだ。


「いい匂い。――森の中を駆け抜ける風のような匂いですね」


 うっとりと呟いたアンナを見て、ヴァレオの中で何かが弾けた。

 ぽんっと、尻尾が飛び出る。

 それを見たキャスが、おわ〜あっ! と大袈裟な声をあげる。


「パン! アンナちゃん、あのパン、いい匂いするね! あのパンちょうだい!!」


 ヴァレオを隠すように前に出ると、厨房に置いて冷ましてあるパンを指差した。


「あれですか? もう粗熱は取れたかな……」


 アンナの意識が厨房に向いたのを確認してから、キャスが小声で「早く尻尾を隠せ!」と小突いた。


「キャスさん! 急には無理です! おわっ!」


 焦ったヴァレオは、尻尾を消すどころか、耳も鋭く鱗の生えた耳になってしまった。


「お前、何やってんだよ」

「キャスさ〜ん」


 焦るキャスと、半泣きになるヴァレオ。

 すると、カランとドアベルが鳴り、ヴァレオの頭の上に布が降ってきた。

 慌てて後ろを見ると、ルミアスが扉から出ていくところだった。

 ルミアスが、先ほど気に入って買ったベルファ族のマントをヴァレオにかけてくれたのだ。


「粗熱、取れていましたよ。お包みしますね」

「あ、僕には、こちらのパンをお願いします」


 アンナがパンを片手に戻ってきた時には、ヴァレオはフードまですっぽりかぶって、しゃっきり立っていた。


「あら? ヴァレオさん、マントなんてかぶっていましたっけ?」

「あはは〜、ちょっとね」


 マントの下には耳も尻尾も出たままだったが、見えるところはまだ人間らしさをキープしているヴァレオが笑う。


「はい、二つで銅貨12枚です」

「じゃ、これで……」


 チャリチャリと銅貨を渡す。


「ちょうどですね、ありがとうございます」


 にっこりと笑うアンナに、他のものも諸々《もろもろ》出てしまいそうになったヴァレオは、後ろ髪をひかれつつもパン屋を後にした。

 ご贔屓ひいきに〜というアンナの挨拶に、めちゃめちゃ贔屓ひいきにします! と心の中で返事をしながら。


 なんとか無事にプレゼントを渡し、パンを買ったヴァレオを、ハラハラしながら見守っていた面々はよくやったと口々に褒め称えたのだった。


   ◇ ◇ ◇


 ――その夜。


 髪を洗ったアンナは、髪油をもらったのだと思い出した。

 小さな壺から、慎重に油を手に垂らす。


 ふわりと部屋の中に香りが広がる。

 洗い終わった髪に丁寧に塗り込んで、くしけずると、心なしかいつもより髪がツヤツヤしているような気がした。


 気分の上がったまま、アンナはベッドに入った。

 その日、アンナは大きな生き物の背中に乗って、空を駆ける夢を見たのだった。

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