猫の鼻と竜の残り香
思わぬ訪問者に会ったものの、リオンは普段とそう変わらない時間に、うちに帰ることができた。
リオンが小屋へ戻ると、煙突から煙が薄く立っていた。
そして、玄関を開けた瞬間――
「……いつもと違う匂いがする」
低く、不機嫌そうな声。
黒猫のキャスが、扉の影から鋭い目でこちらを睨んでいた。柔らかなベルベットの毛並みが少し逆立っている。
「ただいま」
それに構わず、いつも通りのリオンが荷を下ろす。
ドラゴンの気配を纏ってしまったので、生憎獲物には恵まれなかったが、セルグラシアから魚をいくつか手土産にもらった。それを夕飯にしようと思っている。
「『ただいま』じゃない。何か連れてきたろ」
「何も連れて帰っていませんよ」
しれっと論点をずらしたが、キャスはそもそも言葉に頼るタイプではなかった。
「ウソつけ。空気の匂いが違う」
キャスは鼻をひくつかせながら、リオンの足元をぐるぐると回った。
つま先から裾、背負い袋――そして、背中によじ登り、まるで審問官のように嗅ぎ回る。
「キャス、重いですよ」
「……あ〜、なるほど。セルグラシアだな」
黒い耳がピンと立つ。匂いの原因に思い当たったらしい。
「また来たのか。あの羽付きトカゲ」
「そんなふうにいうものではありませんよ」
苦笑するリオンからピョンと飛び降りると、キャスは暖炉の近くに戻っていった。
「どうせまた、面倒事だろ? リオンは人がよすぎるんだ」
ツンと顔を背けるキャスだが、本当に嫌がっているわけではない。
その証拠に、リオンの動きに合わせて、耳がピクピク動く。
リオンの反応を待っている証拠だ。
「そんなこと言わないで。ほら、これ。セルグラシアからキャスに」
立派な川魚を見せると、キャスの尻尾が揺れた。
あと一押しだと、リオンはブルンブルを取り出す。
これは、夏の終わりから秋にかけてとれる黒っぽい果実で、ジャムなどにするとおいしいのだ。それをキャスも知っている。
「今日はブルンブルもたくさん取れたので、砂糖をたっぷり使ってジャムも作りましょう」
「――ドラゴンどもにはやるなよ。あいつらは大食いで、口に入るものの違いなんてわからないんだから」
「はいはい」
食い意地のはったキャスの言葉に苦笑するリオン。
キャスがまだ話したそうにしている気配を感じたので、リオンも暖炉のそばに寄る。
暖炉の火を起こしながら待っていると、キャスがポツンとつぶやいた。
「僕、あいつ苦手なんだよ」
「セルグラシアが?」
「そう。なんかこう……気配がきれいすぎる。あいつの隣に立つと、僕の毛並みがくすんで見える気がする」
リオンはしばらく黙った。
それから、火が爆ぜる音の合間に、静かに言った。
「……澄んでいる空気の中にも、風の動きはありますよ」
「ん?」
「空の上で生きている者は、下を見ようとしても遠すぎて見えないことが多いんです。だから、私やキャスみたいに、土の匂いを知っている人がそばにいると、助かるんですよ」
キャスは尻尾をゆらりと揺らすと、そっぽを向いた。
「……口がうまいな」
「年の功ですかね?」
キャスの機嫌が浮上したのを感じ、リオンは席を立つ。
ダイニングにおいてあった川魚を手に取ると、キャスに尋ねた。
「魚はどうしますか。スープ? それとも香草焼き?」
「香草焼き」
返事は早かった。
キャスは猫の姿のまま、リオンを追いかける。
「別に、嫉妬とかじゃないからな。ただ……」
「はい?」
リオンの歩みを邪魔するように、足にまとわりつく。
寂しいとキャスはこのような行動をすることを、リオンは知っている。
「リオン、セルグラシアのことになると、優しい顔するからさ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。だから……、なんか、ちょっと、ムカつく」
リオンは笑った。
その笑いは静かで、どこか家族のような暖かさがあった。
「今は、どうでしょうか?」
「ん?」
「私は、怖い顔をしていますか?」
「……してないけど」
リオンは川魚をタライに入れると、キャスをヒョイと持ち上げた。
「今のこの顔は、あなたにしか見せていませんよ」
「……煙に巻こうとしてないか?」
「していません」
迷いなく言い切ったりオンに満足したのか、キャスはスルリとリオンの手から抜け出した。
「魚、焼くんだろ。手伝ってやるよ」
「おや。……じゃ、まずは洗って内臓を取りましょうか」
珍しい、という一言を飲み込んで、リオンは指示を出す。
キャスは魚に集中している……ふりをしながら、リオンの方に目線がいかないようにしていた。
だが、その目はずいぶん穏やかな光を湛えていた。
外では、風が梢を揺らし、夕暮れの空を鳥が家路につく。
夕日の柔らかな光が、二人を包んでいた。
「なぁ、リオン」
「はい」
「……ドラゴンたちの困り事、僕も手伝ってやってもいい」
「そうですか。きっと、喜びますよ」
「でも、僕はリオンみたいに甘やかさないからな」
「それは、手厳しい」
フッとキャスの横顔が緩む。
穏やかな時間が、夕暮れの中に溶けていった。




