十五 現実は残酷で
「怖い?俺が?」
「うん。」
「どうして?」
俺が努めて優しく訊ねると、『婚約者』は顔を背けながら呟く。
「だって、なんか目がわらってない。わたしのこと、すきじゃないでしょ?」
俺は驚いた。『婚約者』には彼女の好きな玩具やお菓子をたくさん与え、彼女が好みそうな男を完璧に演じていたつもりだったから。
「そんなことないよ。君の事が好きだよ。」
「うそつき。」
彼女は瞳を細めて視線だけを俺に向けた。
「ムリしなくていいよ。わたしも、たつみお兄ちゃんのことはすきじゃないから。」
俺はもう一度驚いた。初めて向けられる、妬み嫉みの無い純粋な『嫌悪』に俺は感動してしまった。
ーーー俺の心の内にある空虚を『嫌悪』する彼女に。
俺が黙り込んでいる間に、彼女は本棚から小説を手に取って俺から離れて行った。そのまま部屋の隅っこで座り込み、俺を無視して本を読み始める。
思わず笑ってしまった。
そんな俺を、彼女は訝しげに見てくる。
「どうしたら、俺のことを好きになってくれる?」
遠く離れてしまった彼女に訊ねてみたが、無視をされてしまった。俺は彼女が読んでいる本のタイトルを見る。グリム童話のラプンツェルだった。俺はその本を彼女が選んだことにも思わず笑ってしまう。
「どうしたら君の王子様になれるかな。」
少し大きめの声で訊ねてみると、彼女は首を横に振った。
「わたしが王子さまになって会いに行くの。」
その瞬間、俺の胸にゾワゾワとした不快感が襲った。
「誰に?」
「わかんない。けど、わたしのすきな人に。」
「ダメだ。」
俺はすぐに彼女の傍に寄って本を取り上げた。
「返して!」
「嫌だね。」
俺はムキになってその本を本棚の上に向かって投げた。本は高い場所に放り投げられ、彼女の手には届かなくなってしまった。
「ちょっと!なにするの!!」
彼女は物凄く怒った顔をして俺を睨み上げた。そしてその手を振り上げて、しかし驚いた顔をして硬直してしまった。
「………ごめん。」
突然、彼女に謝られて俺は困惑した。
「何が?」
「たつみお兄ちゃん、苦しそうな顔してるから…。」
彼女に指摘されて、俺は自分の胸がズキズキと痛んでいることに気付いた。
(なんだ……これ……)
そこでようやく俺は、彼女が自分ではない他の誰かに会いに行こうとしているのが嫌だったことに気付いたのだ。
(誰にも渡したくない)
ーーーたった一人、俺の『空虚』に気付いた彼女を。
雪が俺にとってただの『婚約者』ではなくなったのは、俺が十二歳で彼女が九歳の時だった。
俺は必ず彼女と結婚する。
他人が、神が何と言おうとどうでもいい。
俺は彼女の『婚約者』であり、彼女は俺が愛するたった一人の人間だから。
ーーーー
ーー
「パパ……ママ………」
真っ白な二つの棺桶の前で、雪は力無く泣き崩れている。
現在、二十四歳になった彼女は最愛の両親を亡くした。
科学捜査研究所により、全焼した雪の自宅から見つかった二つの焼死体は有栖 晴陽と有栖 氷雨で断定された。遺体の損傷が激しく、元の形すら分からない状態だったが二人は白装束に包まれていた。頭だと思われる部分にも、白い布が被せられている。
雪は自宅の爆発があった日から、ろくに食事も睡眠も摂れておらず憔悴しきっている。彼女には喪主として両親の葬儀を執り行う務めがあるが、そんな状態で何も出来る訳がない。彼女に了承を得て、俺と俺の両親が代わりに葬儀を取り仕切った。
火葬場で僧侶の炉前読経が終わり、火葬を始めるというタイミングで雪が再び滂沱の涙を流しながら棺桶に縋りついたのだ。
「また焼かれるなんて……」
雪の悲痛な泣き声に、俺の両親もつられて涙を流す。
「雪ちゃん。これでお二人はようやく天へと昇れるんだよ。苦しみから解放されるんだよ。」
俺の母が雪の背中を擦りながら優しく語りかける。すると雪はようやく棺桶から離れたが、そのまま倒れ込んでしまった。俺は慌てて彼女を抱き上げ、両親に目配せをしてから控え室へと向かった。向かってる最中、彼女はずっとすすり泣いていた。控え室の畳の上に彼女を下ろすと、彼女は力無く座布団の上で崩れた。
「雪。」
蹲っている彼女の背中を撫でながら、俺は殊更ゆっくりと優しく話しかける。
「お骨上げの時間になったら俺が連れてってやる。俺がずっと傍にいるから、大声で泣いてもいいし、このまま眠ってもいい。」
彼女の背中が震えた。
「大丈夫。大丈夫だ。俺がいる。」
途端、彼女はバッと上体を起こして俺を見つめた。いつもは真っ直ぐに整えられている黒髪は乱れ、いつもはパッチリと大きな二重の瞳が赤く腫れ上がっている。
ーーーそれでも、彼女が可愛くて堪らなかった。
「おいで。」
俺は演技でも狙いでも何でもなく、ただ無意識に両手を広げて微笑んだ。可哀想な彼女を抱き締めてあげたいと思ったのだ。
「たつにぃい…」
翡翠の瞳が揺れて大粒の涙を溢れさせた。
「たつにぃい〜!!」
ガバッと俺の胸に彼女が抱きついてきた。そのままわんわんと大きな声を上げて泣き始めた。
(懐かしいな。)
昔、雪がまだ幼稚舎にいた頃や初等部に入りたてだった頃は、よくこうして泣いている彼女を抱き締めてあげていた。昔の雪は泣き虫で、悲しいことや辛いことがあると必ず俺に泣きついてきた。
「大丈夫、大丈夫。」
そうしていつも、俺は彼女が泣き止むまで頭や背中を撫でてあげていた。
でも、初等部二年生になった頃に雪は俺に泣き付かなくなった。それどころか俺を避けるようになった。
『わたしのこと、すきじゃないでしょ。』
心身ともに成長した彼女が俺の演技に気付いてしまったからだろう。
あの日、彼女が俺を無視して読んでいた小説を本棚の上に投げた日。俺が初めて彼女に『意地悪』をした日。
あの日から、彼女は再び俺を慕ってくれるようになった。俺の演技ではない姿を見て安心したのだろう。無視をされることは無くなったし、また笑顔を見せてくれるようになった。
でも、彼女が幼児期の頃に見せてくれたような手放しの信頼や甘えを取り戻すことはできなかった。
ーーー彼女も心のどこかで気付いているのかもしれない。
(俺が、お前の運命じゃないって。)
『この子は将来、お前のお嫁さんになる女の子だよ。』
父が彼女を俺の前に連れてきた日、俺は直感的に父の発言が嘘だと感じた。本能が否定した。
それでも。
「雪、警察官を辞めて俺と一緒にいてくれ。」
泣きじゃくる彼女の頭に頬を擦り寄せながら俺は囁く。
「俺はお前を失いたくない。お前を守りたい。」
たとえ運命に否定されようとも関係ない。
「お前は何もしなくていい、俺が全部何とかする。お前が寂しくて堪らないのなら、家でも職場でもずっと一緒にいられるように俺が手配する。」
彼女は俺の『空虚』に気付いてくれた、唯一のひと。
「頷いてくれ、雪。愛してる。大好きだ。絶対に俺が、お前を守るから。」
絶対に逃すものか。
俺は彼女を抱き締める力を強めた。泣き疲れている彼女は抵抗することなく俺の腕に囚われている。最高の気分だ。このまま俺の胸に顔を埋めて誰も見なければいい。そうすれば、彼女が本当の『運命』に出会うことだって無い。彼女が俺から離れることも、彼女が俺の知らない秘密を抱えることだって無い。彼女の全てを独占することができる。
「雪。」
俺は優しく優しく名前を呼んだ。すると彼女はゆっくりと顔を上げた。睫毛が瞼にくっ付いているくらい涙で潤んだ翡翠の瞳で、まっすぐに俺を見つめる。
「雪、どうする?」
もう一度。焦らずに、慎重に。俺は優しく優しく訊ねた。
「たつにぃ……」
彼女が震える唇を開く。
「私、わたし、は……」
トロリと溶けたような瞳には俺だけが映っている。
「たつにぃと……」
そう。そうだ。そのまま。
高揚で心臓がバクバクと高鳴る。恋に溺れる盲目な乙女の気持ちが、今ならわかる気がする!
「ずっと……いっしょに……」
お前の口から、ついに!やっと!俺は
「それは彼女の為にはならない。悪手だ。」
俺と雪だけの二人の世界に、突如として侵入者が現れた。ビシッと分厚いガラスに割れ目が走ったかのような衝撃だった。俺の額にも稲妻のように血管が浮き出る。
「は?」
地獄のような深い地底を這うような怒声が出た。俺が睨み上げた先にある、控え室の出入口には日本の内閣総理大臣が立っていた。
(なんで今更、お前が。)
如月 氷河。雪の母親の兄。直系ではないにしろ、雪の血縁者だ。
「姪。自分自身の人生のことだ、最終的な決定権はお前にある。ただ、その男に従うのが正解なのかはよくよく考えろ。運命がお前を警察官に選んだ理由を考えろ。」
「いきなり現れて何なんですか。」
俺は咄嗟に彼女を自分の背後に隠した。相も変わらず傲慢で勝手なことばかり言い連ねる男を睨み上げる。
「部外者が俺たちのことに口を出さないでください。」
「部外者?私は姪にとって三親等の親族だ。」
「俺は彼女の婚約者です。」
「籍は入れていないのだろう?だったら戸籍上は赤の他人。それに住所だって生計だって別だった。内縁の夫にもなり得ない。法律上でも赤の他人だ。」
「それはっ…」
「如月さんっ!!」
俺が言い返そうとしたところで、俺の両親が控え室に駆け込んで来た。俺の父が顔を赤くして怒鳴っている。
「ここは関係者のみ入れる場所ですよ!勝手に入らないでください!!」
「私は氷雨の兄だ。関係親族だろう。」
「今までこの子に全く関わろうとしなかったくせに!この子が一番辛かった時に何もしなかったくせに!!突然訪ねて来てどういうおつもりです!?」
俺の母まで怒りで顔を赤くして怒っている。そんな騒ぎを聞き付けた火葬場のスタッフ達が、慌てて駆け付けてきて廊下から心配そうにこちらを覗いている。そして皆が、シルバーアッシュの髪色をした長身の男を見て驚愕の表情を浮かべた。それはそうだろう、テレビでしか見ることの無い内閣総理大臣がそこに立っているのだから。
「突然の訪問になったのは、私の父からの命令が突然だったからです。」
如月 氷河にとっての父とはつまり、如月家本家の当主であり前内閣総理大臣である如月 氷室のことだ。
「今まで父も私も姪と関わらなかったのは、妹からの頼みだったからです。妹は如月家とは絶縁状態でしたから、如月家の人間は娘には一切関わらないで欲しいという妹からの頼みを守っていたまでです。」
「貴方のお父様の命令って何なんですか。」
俺の母が訊ねると、如月 氷河は表情を変えずに淡々と答える。
「私と父は妹から、もう一つ頼まれていたのです。もし、自分の身に何かあったら、その時は娘を頼むと。だから父は姪を保護するように私に命じたのです。」
俺の父が舌打ちをした。そして憎らしそうに控え室の外を見る。どうやら如月 氷雨は予想していたよりも『娘』に思い入れがあったようだ。
俺は観念して溜息を吐きながら目を閉じる。
(まぁ、アイツを片付けないと雪が危険なのは変わらない。)
「何が保護ですって!貴方のお父様は如月の血が流れている者はみんな自分の所有物だとでも言いたいのでしょう!?」
悔しさと焦りで如月を睨む母を手で制して俺は首を横に振る。
「正直、俺も腹立たしいけど、確かに如月さんに保護してもらうのが一番安全ではある。」
俺が言うと、如月は表情を変えずに雪の近くに歩み寄って畳に膝をついた。そして俺の背中に隠れている雪に手を差し伸べる。
「お前の父である有栖 晴陽は身寄りがない、孤児院育ちの男だ。君は母方にしか親族がいない状況だ。」
雪は俺の背中で黙り込んでいる。そんな彼女に、優しさの欠片も無い氷のような無表情で如月は手を差し伸べ続ける。
「来なさい。私と私の父には君を保護する義務がある。」
「ちょっと如月さ……」
如月の肩を掴もうとした父を、俺は手で遮った。
「父さん。これは如月家当主の命令だ。俺たちがどれだけ騒いだって逆らうことは不可能だ。……雪。」
背後にいる雪に声を掛けると、俺の背中で彼女がピクリと小さく動いた。
「警察官を続けるかどうかは如月さんが言ったとおり、最終的な決定権は雪にある。」
振り返ると、彼女は虚ろな目で俺を見た。俺はそんな彼女の手を取って優しく握る。
「如月さんの家にいる間に考えておいてくれ。返事はメールでも電話でも何でもいい。」
彼女の真っ白な手の甲を親指の腹で優しく撫でて、そのまま彼女の手を如月の掌の上に乗せた。
「忌引休暇が終わったら、俺が如月さんの家に迎えに行ってやる。もし警察官を続ける気なら寮まで俺が送ってくよ。それまでは如月さんのところでゆっくり休んでてくれ。」
俺が微笑むと、彼女は無言のままコクリと首を縦に振って見せた。