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エピローグ

 八月某日


『あの店は雰囲気が良い。とても静かだった』『あとフルーツサンドが大きくて好き』

『えー』『もうちょっと賑やかな店の方が声量気にせず喋りやすくない?』

『美鈴はいつも声が大きいんだよ』

『あとちょっとお値段高めだったしさあ』

『奢ってくれる?』

『ふざけんな』

「ふふ」

 思わず顔が綻ぶ。少し迷い、アボカドを模したキャラクターが「お願い」と手を合わせているスタンプを送る。美鈴は意外と押しに弱い。奢りって事は無いけど、店は私に合わせてくれるだろう。

「星せんせー、一緒にドッチボールやろうぜー」

 画面から顔を上げると、受け持っているクラスの男子生徒の一人がこちらを見ていた。「お仕事があるからちょっとだけね」と言いながらスマホをポケットにしまう。今日はあの場所に行って仕事をしたかったけどしょうがない。放課後の校内はあちこちから喧騒が遠く聞こえていた。

「今日はどっちがいい?」

「この前の手加減モードは弱すぎたしなー。本気モードでやってよ」

「いいけど、先生強いよ?」

「は? 負けねえし」

 体力には多少の自信がある。この後も問題なく仕事はできるだろう。汗臭くならないかだけが少し心配だ。

 生徒に連れられる形で教室を出る。廊下の窓から見えた夏空は、なんだか悲しくなるくらいに綺麗だった。何か大切な記憶を思い出せそうで思い出せないような、そんな気分になる。そもそもそんな記憶なんて無いのかもしれないけど。

「何人いるの?」「五人」「じゃあ一対五だ」「なめんな」なんて会話をしながら二人で廊下を歩く。その時ふと、校内放送を意味するチャイムの音が鳴った。

『星先生、校内にいましたら第二校舎までお願いします』

 ざらついた電子音はそれだけ淡白に告げると、プチンと放送を切ってしまう。ただでさえ放課後の校内放送なんて稀なのに、私に何の用だろう。

 ちらりと男子生徒を見る。彼は不満げな表情でこちらを見上げていた。私は安心させたくて、目線を合わせる為にその場にしゃがみ込む。

「今の放送聞こえた?」

 優しく訊ねてみると、少し間を置き小さく頷く。まあ、納得はできないだろう。

「ごめんなさい。やっぱり今日はできない」

「……やるって言った」

「そうだね。一度言った事を守らないのは悪い事だよね」

 歳を重ねるについて実感する。人生にはやっぱり、どうしようもない事はある。以前の私はそれが嫌で納得するまで何度も前に足を勧めた。いや、今だってそうしたい気持ちは山々だ。

 私を睨む彼の瞳を見つめる。この子にとってこの出来事が、そんな風に映ってはいけない。諦めを知るにはあまりに早すぎる。だから。

「じゃあ約束しよう」

 私はそう言って右手の小指を差し出す。彼は虚を突かれたような表情でそれを見ていた。

 私にとって、あるいは私の受け持つクラスにとって、それは強い意味を持つ。約束は守るべきものだと普段から口酸っぱく言っている。

「明日は絶対やろう。約束」

「……ほんとに?」

「ほんとに」

 私は優しく笑いながら頷く。すると彼は自分の右手をゆっくりと持ち上げ、私と優しく指切りをしてくれた。


「すいません、お待たせしました」

 早足で辿り着いた昇降口では先輩にあたる教師が待っていた。優し気な雰囲気のある四十代半ばくらいの女性だ。

「ごめんなさいね、急に呼び出したりして」

「何かありましたか」

 汗ばむ首筋に少し張り付いてしまった髪をはらいながら訊ねる。先輩はそれに「困った事になってね」と眉をよせながら言った。

「来週のあれの打ち合わせにお客様がいらっしゃってたのだけど、急にいなくなってしまったのよね」

「……はい?」

 思わず素っ頓狂な声が出る。いなくなったとは一体どういう意味だろう。

「打ち合わせ自体はもう終わったんだけど、校門まで送ろうとしてたらふと目を離した時にいなくなったみたいで」

「まだ見つかっていないという事ですか」

「まあ勝手に帰ったならいいんだけど、最悪迷子になってるかもしれないし」

「迷子って、この学校で?」

 私が言うと先輩は小さく頷き、そしてちらりと階段の方を見る。

「星先生にはここの校舎を見回って欲しくて呼んだの。急ぎじゃないからゆっくりでいいから」

 それに対して私は「はい」と「はあ」の中間くらいの返事をした。大の大人が勝手に出歩いて迷子になるなんて考えにくいけど。

 先輩は「よろしくね」とだけ言って本校舎の方へ向かう。放課後に手隙の人なんて少ないだろうし、もっと探すべき場所があるのだろう。こういうのは確かに新人のやる仕事だ。そう思いながら階段へと向かう。

 私の勤務している学校、母校でもあるこの小学校には複数の校舎がある。その中でも第二校舎は特別教室の集められた建物になっている。家庭科室や理科室、音楽室や美術室がその類だ。普通教室が無い分、他の校舎よりも比較的小さめだ。

 一階、二階、三階、と軽く校舎内を見て回る。そもそもこの校舎は学校の敷地の隅、言い換えれば奥に位置しているから、普通に帰ろうと思えば立ち寄る事はまず無い。勝手に敷地をウロウロする変人じゃない限り、ここにいるとは思えない。

 校舎の最上階である四階に辿り着く。窓の外からは鬱蒼とした木々が見えるだけ。日の差さない廊下は少し薄暗く、夏とは思えないくらいに静かだった。

 だから、教室から薄っすらと漏れる光にはすぐに気が付いた。私は驚く。放課後にこの校舎を使う生徒や教員なんていない。まさか、本当に。

 少し慌てながら廊下を進み、教室の前に辿り着く。扉に付けられているプレートには「パソコン室」とある。ゆっくりと扉を開けて教室内を見渡す。

 教室の真ん中、数あるパソコンのうちの一つに電源が入れられている。そしてその前には、画面を見つめる男性が腰かけていた。見覚えはないけど、間違いなく彼が「そう」なのだろう。何と声をかけるべきか迷っていると、先に彼の方が私の存在に気が付いた。

「こんにちは」

 男性は優しい表情で言った。どうすべきか迷い、結局私も「こんにちは」とだけ小さく返す。元々はお客様なのだから邪険にする理由は無いだろう。まあ、勝手に学校を出歩かれたのは少し問題かもしれないけど。

「すいません、どうしても懐かしくてお邪魔しちゃいました。パソコン室は思い出の場所なんです。……あ、申し遅れました。僕は」

「小高葵さんですよね」

 私が言った瞬間、彼は驚いたように目を開いた。「どうして」とでも言いたげな顔だ。私はその反応の意味が分からず逆に困惑してしまう。

「えっと、来週の講演会の打ち合わせにお越しいただいたのですよね? 存じております」

 そう言いながらぺこりと頭を下げる。もう一度顔を上げた時には驚いた顔はそこに無く、彼は少し目を伏せながら「そうです」と苦笑いしていた。

 小説家、小高葵はこの学校の卒業生だ。自分達の学校から著名人が生まれたと知ったお偉いさんが彼に声をかけたのだろう。小学生に向けて小説家が何を語るのか私には想像できない。

 彼は少し目を細めて下手くそな愛想笑いを浮かべこちらを見ている。私は沈黙がきまずくて、間を埋めるように「えっと」と適当に話を繋いだ。

「ここが思い出の場所と仰っていましたが、どういう意味でしょうか。授業を受けた教室ではではなく、どうしてパソコン室が」

「ここで小説を書いていたんです。この場所が無ければ、あの日々が無ければ僕は小説を書いていない」

 彼は少し目を伏せて言いながらパソコンの電源を落とした。私が在籍していた時よりずっと性能の上がったパソコンだ。見た目も大分違う。

「僕がいた時のパソコンとは使い勝手が違いました。動きが遅くてもっと使いにくかったのに。あれが懐かしかったので少し残念ですね」

 彼がまた苦笑する間に、パソコンは一瞬にして画面を落とした。私は思い立ち、「あの」と気になっていた事を訊ねてみる。

「差し支えなければ、何年に卒業されたか教えてくれませんか。見たところ、私とあまり変わらないですよね。どこかでお会いした事もあるかもしれません」

 私がその言葉を口にした瞬間の、彼の表情はとても奇妙だった。困ったような、驚いたような。そんな複雑な顔をした。そして一瞬考える顔を見せたかと思ったら、今度は呆気ないくらい簡単に卒業年度を教えてくれた。私は彼の返答に「やっぱり」と声を上げる。

「私と同じです。同級生だ。あれ、でも」

 小高葵なんて名前の人がいただろうか。口にしようとして慌てて止めた。本人を目の前にして言うのはあまりに失礼だ。けれど彼はそれを察したのか、少し笑って「大丈夫ですよ」と言った。

「小高葵はペンネームなんです。覚えが無くて当然です」

「そうでしたか。……ちなみに、お名前はお聞きしてもいいんですか」

 私が訊ねると、彼は「えっと」と分かりやすく戸惑ってしまった。だから私はその時点で「やっぱり大丈夫です」と少し強めに言った。

「きっと理由があるんですよね。無理に知ろうとは思いません。もしかすると、どこかで一緒だったかもしれません。それが分かっただけでよかったです」

 その事実があるだけで、私達の距離が縮まるには充分なはず。そう思っただけだ。

 でも彼は違った。彼はとても、本当に悲しそうな顔で笑った。そしてそんな彼の顔を見た私も、同じくらいに悲しくなった。どうしてそんな顔をするのだろう。どうして、こんなにも悲しいのだろう。

「……覚えてますか。この教室がどんな場所だったか」

 彼は私から目を逸らし、窓の外に目をやりながら言った。青く透過している空を見上げる彼の横顔は、寂しくて綺麗だった。

「パソコンの挙動が遅い、あと、埃っぽい匂いがする」

「それです。僕も同じ事を思ってました。それだけは変わってなくて少し安心しました」

「でも私、この匂い結構好きですよ」

 すんすんと小さく匂いを確かめてみる。ここは未だ埃っぽい。十年近くも経つのに変わっていない。

 人が最後に忘れるのは匂いだと言う。私は十年前のこの場所について、埃っぽい空気の匂い以外には何も思い出せない。だからなのかもしれない。

「なにか、大切なものを思い出せそうな気がする」

 誰に言いたいわけでもない言葉が口から落ちる。あの頃の私はどうだっただろう。誰と言葉を交わし、どこで何をしていただろう。この場所で隣にいたあの人は誰だったのだろう。その時の私はきっと、今と同じようにこの埃っぽい空気の中にいたはずなのだ。もしかすると、そんな過去は無かったのかもしれないけど。

「……ごめんなさい。変な事を言いました」

 私が言うと彼は穏やかな顔で首を横に振った。「分かる気がします」と小さく呟く。

「僕も同じです。だから夏の香りが好きなんです。何か思い出せそうな気がするから」

「つまり、『ゼータ・ヒュドラェと、その追いかけ方について』はそういう経緯から生まれた作品ですか」

「読んでくれたんですか」

「もちろんです。夏の香りがする、とても素晴らしい作品でした」

 そう伝えると彼は少し照れたような表情を見せた。分かりやすい人だ。

 小説は好きで割と読んでいる方だと思うけど、『ゼータ・ヒュドラェと、その追いかけ方について』は特に大切な一冊だ。上手く言えないけど、この話は私の為に描かれた作品じゃないかと錯覚してしまうくらいに完璧だった。そしてきっとこの物語を読んだ全ての人間にそう思わせてしまうに違いない。世界とか愛とか、何かの意味とか理由とか。そういう途方も無いような問いに対してたったこの一冊を提示して、それで全てならどれだけ美しいだろうと本気で思う。

「私が見ていた世界よりも、貴方が見ていた世界の方がずっと綺麗だった。貴方が言葉にしてくれるなら、私はそれを信じてみたい」

 僅かにだけ開いていた窓から隙間風が流れ込む。彼の前髪が少しだけ流れ、照れ隠しのように目元を隠してしまう。彼は人差し指で目尻付近を軽く擦った。

「……あ」

 そこでふと、私は見てしまった。彼の人差し指で鈍く光るものがある事に。

 彼は一瞬だけ不思議そうに私の顔を見たが、視線の意味にはすぐに気が付いたらしく「これですか」と思い出したように言った。

「人差し指に指輪って変ですよね。自分でも思います」

「まさか。そんな事ないです。だって」

 私はそう言って自分の左手を彼に見せた。私の人差し指にも、同じように指輪が付けられているから。

「お揃いです」

 私が少し笑ってみると彼は驚いたように目を丸くし、でもまたすぐに笑った。とても悲し気な表情で。

「その指輪はオシャレですか? それとも、誰かからもらったとか」

 私が訊ねると、彼は「難しいですね」と言って少し考えるような仕草を見せた。しばらくの間どこか遠くをぼうっと見ていたが、やがてふっと何かを思い出したように笑う。

「まあ、色々あるんですが、話せば長くなります」

「長い話は好きです。だって」

 私は傍にあった教師用デスクの引き出しを開け、そこから二本の缶コーヒーを取り出す。普段は滅多に誰も使わない教室だ。たまにここでコーヒーを飲みながら仕事をする。

「長い話とコーヒーはよく合いますから」

「……コーヒーがお好きなんですか」

「ええ。昔は得意じゃなかったんですけど」

 私は彼の隣の席に座り、缶コーヒーを一本手渡す。零さないようプルタブを起こして「乾杯」と軽く缶同士をぶつけた。

「よければ聞かせてください。長い話を」

 私は小さく微笑む。彼はそれに「もちろん」と優しく言った。

 夏の空は高く青い。少しだけ開いていた窓の隙間から風が入り込み、それにカーテンが優しくなびいている。彼が好きと言った夏の香りが、私と彼を包んでいた。

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