第二章 「君の傷付け方さえ、さよならの過程」
八月三日
個室でも外からのがやがやとした喧騒が耳に入る。それに少し居心地の良さを感じた。一人でいる時は静かでも気にしないけど、人といる時は無音に気を遣うからそれなりに雑音混じりの方が楽だ。
「あと揚げ出し豆腐も食べたいなあ。私好きなの」
「じゃあ頼む?」
「小高君の奢りなら」
「駄目。今日は割り勘だよ」
メニュー表を見ながら渡良瀬さんが大きく笑う。人の奢りだと遠慮しないけど、そうでないと分かると自分の財布を気にせずにいられないらしい。
「とりあえずこんなもんかな。和香那が来る頃には料理揃ってるだろうし。というかあいつ遅いね」
「なんか迷子になってるらしいよ。さっき連絡来た」
渡良瀬さんは鞄からスマホを取り出し、和香那とのトーク履歴を開いて僕に見せる。『ここどこ』というメッセージと共に近場の写真が送られていて、渡良瀬さんが『多分真後ろ』と送ったところで話は終わっている。既読にはなっているし大丈夫だろう。
「主役が遅刻って、ほんっとにあの人はさあ」
「あいつがマイペースなのは昔からずっとだよ。メッセージに既読だけして後は何も言わないところとか」
「お礼は言うべきだと思うけど」
「お礼のメッセージを送るよりは、一刻も早くここに来る事を優先してるんだと思う」
「たった五文字も送れないくらいに切羽詰まってるの?」
「機械音痴だからね。それだけでも時間がかかる」
僕が言うと、渡良瀬さんは呆れたように溜め息を吐いてスマホをしまう。実際、こういう状況じゃなければお礼くらいは言っていただろう。やり取りが終わったと思ったからスマホをしまったら、しばらくして『ありがとう』とだけ送られてきたというのは、和香那とやり取りをしているとよくある。
「いい加減スタンプの使い方くらいは教えた方がいいかもね。一々文字を打つより早いでしょ」
「そのスタンプの使い方を学ぶのに労力使うよ」
「何もできないじゃん。むかつく」
渡良瀬さんはそう言いながらメニュー表を元の場所に戻した。その拍子に彼女のスモックブラウスの袖が引っ張られて、白い二の腕が露わになる。僕はそこに、黒い線画で書かれた蝶のマークを見つけた。
「もしかしてそれ、タトゥー?」
僕が訊ねると渡良瀬さんは一瞬僕の顔を見て、すぐに「ああ、これ?」と自分の二の腕を見た。袖を更に捲り上げてそれを見せてくれる。
「どう? これ」
「可愛いと思うよ」
「うーん、つまんない」
袖を戻しながら少し不満そうな顔をする。その時ちょうど、店員が扉をノックして飲み物を三つ持ってきてくれた。渡良瀬さんが気の良い笑顔で『ありがとうございまーす』と言い、店員が去っていくとすぐに顔を戻す。
「なんか、百点の予想できた答えって感じ。そんなんじゃ女の子は落とせないよ?」
「口説く気のある女の子にはもっと気を利かせるよ」
「へえ? じゃあ私ならどんな風に口説いてみる?」
少しテーブルに身を乗り出し、上目遣いにこちらを見る。
少し深い緑色のスモックブラウス、ややウエーブのかかった長い髪、いくつも空いた左耳のピアス。グレージュのアイシャドウを纏った彼女の瞳は、とても大人っぽく見えた。
「教えてあげようか? 私の落とし方」
渡良瀬さんがそう言うのと、個室の扉が勢いよく開かれるのはほぼ同時だった。二人同時にそちらを見ると、少し息を切らした和香那が立っている。渡良瀬さんが小さく舌打ちをした音が聞こえたのは気のせいだろうか。
「ごめん。遅れた」
扉を開けたままの態勢で和香那が言う。僕が「知ってる」と答えると、彼女はゆっくりとこちらを見てほんの少し、驚いたように目を大きくさせた。そして今度は渡良瀬さんの方を見る。
「葵がいるって、聞いてない」
「そりゃあ言わなかったから」
「え? 僕のこと言わなかったの? なんで」
「特に意味は無いけど、まあ、サプライズ?」
渡良瀬さんが少し意地の悪そうな笑顔を浮かべて首を傾げる。それを見て和香那は無表情で前髪を少し整える。外は暑かったのか、首筋には少し汗が滲んでいた。
「葵がいるって知ったら、もう少しお洒落してきた」
和香那は黒パンツに半袖の白シャツというシンプルな服装だった。強いて言えばシャツにはデフォルメされた豚がトンカツを食べているイラストが印刷されている。夜中にコンビニに行く恰好みたいと言ったら怒られるだろうか。言葉を飲み込み、代わりに「お洒落って具体的にどんなの?」と訊ねてみる。
「前に美鈴がコーディネートしてくれたの。それがある」
「星さんの服が見るに堪えなかったから仕方なくね。っていうかそれを馬鹿の一つ覚えみたいに着回したら駄目だから」
「どうして?」
和香那が純粋無垢な瞳で首を傾げる。渡良瀬さんは一瞬眉をひそめて苛立ったような表情を浮かべたが、すぐに溜め息を吐いて「もういいから早く座って」と言った。諦めたようだ。
和香那は僕と渡良瀬さんを交互に見て、少し悩んだ後で渡良瀬さんの隣に座った。胡坐をかいて座っている僕と、テーブルを挟んで横座りをする渡良瀬さんと正座をする和香那。これで今日のメンバーは揃った。
「よし。早く始めよう。私もう我慢できない」
そう言って渡良瀬さんは鞄から煙草を取り出し、それに火を付ける。和香那が「煙草止めてって言ってるのに」と苦言を呈したのを無視し、僕はビールの注がれたグラスを持つ。
「はい。じゃあ、和香那の二十二歳の誕生日に乾杯」
僕が少し早口に言うと、渡良瀬さんが煙草を咥えながら「乾杯」と素早くグラスをぶつけた。それに少し遅れて和香那も「か、かんぱい」とグラスを持ち上げる。
八月三日。三人の中では一番誕生日の遅い和香那が、ようやく二十二歳になった。そしてこの日は最高気温を更新した日でもあった。
馬鹿にでも分かりやすく説明ができる人が、頭の良い人だと聞いた事がある。その真偽は定かではないけど、渡良瀬さんを見ていると本当かもしれないと少し思う。
高二の時点で観るに堪えなかった和香那の成績は、渡良瀬さんが勉強を見ていた甲斐があってかなり良くなった。学部は違うらしいけど、渡良瀬さんと同じ大学に入学できたのはそのおかげだ。ちなみに和香那が何の学部に通っているかは知らない。一度だけ訊いてみた事はあったけど、はぐらかされてしまったから僕もそれ以上は詮索しないようにしている。
その一方で、僕は二人とは違う大学へと進学した。明確な目的もなく文学部を選択し、授業のつまらなさに辟易とする毎日を送っている。とは言えもう半年もすれば卒業だし、何より僕の最終目標に学部はあまり関係ない。
「スタンプは、少し、難しい。まだ早い。私には」
店を出ながら少し酔った和香那が言った。渡良瀬さんはそれを無視しながら手を取って外に連れ出す。僕はその様子を後ろから眺めていた。
「この人、お酒弱いのにたくさん飲もうとするの本当質が悪いよ。いい加減ちゃんとした飲み方教えてあげないと」
「たまに羽目を外すくらいは許してやってよ。いつも大変だと思うから」
店の前にあったベンチに和香那を座らせる。少し伏し目がちにどこか遠くを見ている。頬と耳が驚くほど赤くなっていた。僕と渡良瀬さんはそれを見下ろす形で和香那の傍に立っている。
「さて、この酔っ払いどうする?」
「僕が送っていくよ。どうせ同じ方向だし」
僕ら三人はそれぞれ一人暮らしをしている。僕と和香那はここから徒歩圏内、渡良瀬さんは電車で数駅の距離だ。和香那は両親の説得に骨が折れたらしいがなんとか頑張ったらしい。もう私も解放されていいはずと、高校卒業間際に言っていた。なるべくお金を借りたくないようで、僕や渡良瀬さんよりたくさんのアルバイトを掛け持ちしていると聞いた事がある。
「もう星さんここに置いていってさ、もう一軒行かない? ここから少し歩いたら良いバーがあるんだけど」
「今度二人の時に連れて行ってよ。楽しみにしてるから」
僕が言うと、渡良瀬さんは「けち」と言って煙草の箱を取り出した。そこから一本引き抜いて口に咥え、百円ライターで火を付ける。煙草の箱を差し出されたが遠慮した。
「じゃあ私は一人寂しく帰りますね」
「一緒に和香那の家に行って、こいつだけ置いていった後だったらいいけど」
「勘弁してよ」
渡良瀬さんは少し皮肉っぽく笑った後、こちらに背を向けて歩き出す。僕が「気を付けて」と声をかけると、向こうを向いたまま手振りだけで返事をした。
僕はすぐ傍にあった自販機で水を買い、そのまま和香那の左隣に腰を下ろす。一つ息を吐いて空を見上げると、ぼんやりとした月と星明りが灯っていた。熱気と湿度を多分に含んだ空気感が不思議とそれらを遠く感じさせる。
三人でお酒を飲む機会は滅多にない。渡良瀬さんは人付き合いで飲み会によく参加するらしいけど、僕と和香那に限ってはそれすらない。だから和香那がどんな風になるかは未だに把握できていない節がある。どこかにフラフラ歩いて行って、それこそまた迷子にでもなられたら面倒くさい。だからこれが最善だ。渡良瀬さんには悪いけど一人で帰ってもらう他になかった。
ちらりと和香那の横顔を見る。彼女の左頬には線になった傷跡がある。五年前のあの日、木の上から落ちた際に負った怪我の痕だ。思っていたよりも深い傷だったらしく、今もこうやって残ってしまっている。
傷跡に触れようと、そっと右手を持ち上げる。しかしそのタイミングでスマホがけたたましく着信音を鳴らした。慌ててベンチを立って電話を取る。
それから十分程が経っただろうか。電話が終わってふと和香那を見ると、先ほどより瞼が開いている。「大丈夫?」と訊ねてみると小さく頷いた。
「ちょっと醒めた」
和香那が小さく言う。僕は「みたいだね」とだけ言い水を手渡す。それをゆっくりと飲む横顔はまだ少しだけ赤かった。
「歩ける?」
「うん。というか、少し歩きたいかも。夜風が気持ちいい」
「じゃあ遠回りしようか」
そう言うと和香那はベンチから立ち上がって僕の隣に並ぶ。足取りもしっかりしているし大丈夫だろう。
「酔うのが早い人は醒めるのも早いのかな、君みたいに」
「葵が酔ってるところ見た事ない。どうなるの?」
「自分でも分からないよ。酔う前にお腹が一杯になる」
「お酒に強いのか胃が小さいのか、分からないね」
飲み屋街から少し外れると、比較的人通りの少ない道に出る。歩道も車道も大きい方ではあるけど、夜中は人の気配が無い。夜風がたまに首元を撫で、どこかで鈴虫が鳴いている。そんな静けさが心地よかった。
「そう言えば美鈴は?」
「先に帰ったよ。君、渡良瀬さんに迷惑かけてない?」
「それは、どういう意味で?」
「なんか君の対応にうんざりしてるって感じだった。普段から何かしてるんじゃないの」
訊ねてみると少し俯きながら考える表情を見せる。どうせ周りが見えてないだろうと思って行く先の地面をちらりと確認する。段差も転がっている物も特に無い。
「勉強を教えてもらったり、たまに買い物に行ったり、色々話したり。そのくらいだよ」
「色々って何を」
「色々だよ。葵の話もたまにする」
「僕?」
「葵がスランプになった時のやつとか」
「え? あれ話したの?」
僕は驚いて少し大きな声で言った。それに和香那は静かな顔で頷いただけだ。正直あれは誰にも知られたくなかった。
「もしかして嫌だった?」
「嫌に決まってる。恥ずかしいだろ」
「葵にも恥ずかしいものがあるんだね」
「たくさんある。君に知られたくないものがたくさん」
「そっか。いいこと知れた」
僅かにだけ声音が楽しそうなものに聞こえたのは、きっと気のせいではない。僕は大きく溜め息を吐く。
「もう恥ずかしい思いをしないよう、ちゃんと小説を書かないとね。最近はどう?」
和香那の問いに僕は少し答えを悩ませる。ごまかそうかとも思ったけど、彼女に対して嘘はあまり意味が無いだろうと思って、結局は正直に話す事にした。
「今はその、充電期間っていうかさ。一旦筆を置いてみてるんだ。ほら、本を読んだり映画を観たり。インプットも大事だろ?」
「またそんな言い訳してるの? 駄目だってば」
「嘘じゃないよ」
「どっちでもいいけど、次またサボってたら今度は渡良瀬さんに叱ってもらうから」
「渡良瀬さんはそういうタイプじゃないと思うな。『一緒にサボろう』って言ってくれそう」
そう言うと少しだけ眉をひそめてむすっとした顔を作った。渡良瀬さんが僕を誘惑する様子がありありと浮かんだのだろう。
和香那は「じゃあ」と言い、人差し指を前に向けた。僕はその指が差した先を見る。
「女神ちゃんに叱ってもらう」
その先には、いつもの公園が見えていた。
五年前、高二の夏。僕は世界から八月三十一日を奪った。些細でありながら大きすぎる僕の我儘のせいで。
もう小説なんて書かないと思っていたはずだけど、和香那はそれを許してくれなかった。なにがなんでも十年前、つまり小六の夏に交わした約束を果たさせようとした。僕は半ば諦めながら、それを受け入れた。
それから彼女はずっと僕の傍にいた。逐一進捗状況を確認し、ネタが思いつかないと言えば一緒に考えてくれて、書き方を忘れたと言えば昔の記憶を遡って思い出させてくれた。
他にも、こんな事があった。大学に入学して一人暮らしに慣れてきた頃だろうか。時たま彼女は唐突に僕の家にやってきては、後ろから様子を監視していた。ある時、スランプ気味だった僕は苛立ち、彼女に少し八つ当たりをしてしまった。あまり覚えていないけど「意味が無い」だとか「完璧なものなんて書けない」だとか、まあそういう事をまくし立てたんだと思う。
そんな僕に彼女は、「偉そうに作家みたいに悩むのは、小説家になってからにして」と一喝した。いつものように正しいと思う事を口にした、というよりはちゃんと怒っているようだった。真っ向から怒られる事なんて珍しくて、僕は情けなさと苛立ちを我慢しながらまたパソコンと向かい合った。あんなにも恥ずかしい日はない。駄々をこねた上に、それを同い年に窘められるなんて。
兎にも角にも、あの日から五年間彼女はずっと僕を見ていてくれた。どれだけ逃げたくても諦めたくても彼女には関係ない。だから僕は嫌々彼女に従う。
なんて、嘘だ。自分で分かっている。僕は彼女に甘えているだけだ。
逃げられない理由が欲しかった。言い訳が欲しかった。一人じゃ小説を書く事も生きていく事もできなくて、それを全部彼女に押し付けたかったのだ。そうする事でしか歩けない、どこまでも弱い人間だから。
ずっと彼女に縋っている。その事実こそが多分、和香那に知られたくない恥ずかしさの一つだろう。
深夜の公園は周辺の街灯に薄っすらと照らされているだけで、他に光は何も無かった。だから彼女がいつのように座っているのも、数メートル近くの距離にならないと見えなかった。
「こんばんは」
声をかけると女神様はゆっくりと顔を上げ、口角を僅かに上げた。膝上のジーは一度こちらを見て、「なんだお前らか」とでも言いたげにまた顔を逸らす。
「女神ちゃん、久しぶり」
和香那も女神様に向かって言う。それに対してもやはり小さく微笑んで返すだけだった。白猫の仮面は変わらないけど、その表情は少し大人っぽく見える。
どういう理屈、というかどういう意図かは分からないけど、女神様の見た目はこの五年で相応に成長していた。つまり五年前は小学五年生の見た目だったのが、高校二年生の女子生徒になっている。その証左として女神様は高校の制服に身を包んでいる。僕らが通っていた高校と同じものだ。女神様なのだから容姿や服装なんて好きなように変えられると思うし、何か意味があるのかもしれない。もちろん、意味も他意もなく何となくそうしているだけなのかもしれないけど。
「ちゃんと学校には通ってる?」
そう訊ねたのは和香那だ。女神様はそれに何も答えず、また少し微笑んだ後で膝上のジーに目をやった。それに和香那は「相変わらずだね」と柔らかい口調で言う。学校になど通っていない事は知っている。和香那なりの下手なコミュニケーションだろう。
「そう言えば私、夜に会うのは初めて。ずっとここにいるの?」
「まあ女神様にとっては地球の全部が家みたいなものじゃない? 家にお気に入りの定位置があるみたいな感覚だと思う」
「でもずっと外は嫌だよ。夏は暑いし冬は寒いし」
「そんな人間の常識を当てはめてもね」
「それもそっか」
和香那は女神様の前にしゃがみ、「撫でてもいい?」と訊ねる。ゆっくりと頷いた女神様を確認して「ありがとう」とジーを優しく撫でた。
五年前、八月三十一日が世界に戻ってから和香那は女神様が女神様だとちゃんと認識した。つまり、普通の女の子ではないと一応は認めている。でも対応は年相応の女の子に対するそれと変わらなくて、お菓子を買ってあげたりお下がりの服をあげようとしたりする。その方が女神様も気兼ねしなくていいのかなと少し思う。
しかしその反面、時たま女神様に会うと和香那はこんな風に訊ねるようになった。
「私に三十一日が無い理由、分かったかな?」
ジーを撫でながら顔を上げ、女神様の顔を見る。女神様は表情を大きくは変えないまま、やっぱりゆっくりと首を横に振った。
五年前の出来事で残った一番の疑問と言えば、和香那の事だ。和香那はずっと八月三十一日の存在を知らないままこれまで生きてきたらしかった。これまで三十一日は何をしていたかと訊ねても分からないまま。信じられないような話だけど、嘘をつく意味は無いしそもそも嘘なんて一番嫌悪しているだろうから、きっと真実だ。
僕はやはり、女神様が関与していると思っている。女神様自身にそういう意図や意思があったかは分からないけど、こんな荒唐無稽な話はそうでないと説明がつかない。でも女神様自身も分からないと言うなら、もう解明のしようがない気もしている。
「どうしてだろうね。私はその一日分だけ、短く生きているのかな」
あるいは歴史を調べてみるのはどうだろう。女神様が生きてきたこれまでは、そのまま地球の歴史そのものだ。僕らで何か探してみれば、女神様も気付かなかったようなものが発見できないだろうか。
和香那がどうして事実とは異なる記憶や過去を持っているのか。何か調べる方法があればいいけど。そう思った時だ。
「え?」
ふと、和香那が声を上げた。女神様が和香那に何か差し出している。折りたたまれた小さな紙のようだ。
「これ、もしかして供物?」
和香那の問いに女神様が小さく頷く。僕は和香那の隣に同じようにしゃがみ、「見せて」と中身を促した。和香那がゆっくりと紙を開く。周囲が暗いせいで最初は分からなかったけど、よく目を凝らすと黒い筆跡で書かれた文字列が徐々に見えてきた。
「……『おすすめの小説』」
抑揚の無い声で文字を読み上げたのは和香那だ。僕は自然と女神様を見上げていた。中々難しそうなお題だ。
「葵はなにか思い付く?」
「家の本棚を軽く思い出してみたけど、いまいちパッとしないかも」
「私も。好きな本なら分かるけど、女神ちゃんにおすすめってなると難易度が一気に上がるね」
夏の夜空には星が瞬いている。無数にある小説の中から、たった一冊を吟味しなければならない。しかもただの一般人の僕らが、女神様である彼女に勧めたい物語。
「好きなジャンルとかあるかな? ミステリー、SF、恋愛、ファンタジー、歴史。他にも色々あるんだけど」
和香那が女神様に訊ねる。何か返答が無いかと僕も反応を待ったけど、やっぱりいつもと変わらない表情で静かに微笑むだけだった。
女神様は女神様なのだから、文字通りに全知全能だ。和香那の三十一日の件を除けば、他に知らないものは無いだろうという気がしている。だから、本当に小説が読みたいというわけでもないはずだ。なのにおすすめの小説を知りたい意図が分からない。
「葵」
名前を呼ばれて隣を向く。和香那が黒く澄んだ瞳でこちらを見ている。
「明日って空いてる?」
「昼過ぎからなら」
「図書館行こうよ」
「どうして」
「本を探しに」
手に持っていた紙をこちらに見せる。小説をそこで探そうという事らしい。ちょうどいい。地球の歴史について因果関係がありそうなものを調べてみよう。無謀かもしれないけど、何もしないよりマシだろう。
「もちろんいいけど、僕に小説を書かせなくていいの?」
「充電期間なんでしょ? 図書館ならそれなりに刺激があるはずだよ。それでも構想が見えないようなら、いよいよ縛り付けて女神ちゃんに叱ってもらう」
そう言いながら女神様の方を上目遣いに覗き見る。女神様は和香那を見たまま首を傾げた。分かりやすくとぼけている、というような表情だ。
「そろそろ帰ろうか」
そう言いながら立ち上がると、和香那も「そうだね」と同じように立ち上がった。座ったままの女神様とジーがこちらを見上げている。
「私、一人暮らしなの。行く場所が無かったらいつでも来ていいからね」
少し優しい表情をしながら和香那が言う。女神様はそれに微笑むだけだった。
女神様に別れの挨拶をし、手を振って背を向ける。公園を抜ける直前、僕は一瞬だけ後ろを振り向いて女神様を一瞥した。仄暗いブランコに腰をかけて静かに、あるいは寂しそうにジーを撫でている。
「どうかしたの?」
隣を歩く和香那に訊ねられて「なんでもないよ」と前を向く。和香那もそれ以上は何も言わずに前方を見て足を進めた。
ところで僕には一つ、気にかかっている事がある。
女神様について、僕はここ数年である違和感を覚えていた。その違和感の正体が何なのかは僕自身掴めずにいる。ただ、仮面越しに彼女の瞳を見る度、本当に極稀に声を発してくれる度。僕の胸が言い様も無くざわついてしまう。
「……女神様の事なんだけどさ」
和香那が「なに?」とこちらを見る。僕はそれを口にしようとして、やっぱり止めた。なぜか直感的に、和香那には言ってはいけない気がした。
* * * * *
人は思春期に得たものでその後の人生を左右されるとどこかで聞いた事がある。思春期に得られなかった物をずっと求めるようになったり、一度読んだ鮮烈な小説に呪われ続けたり。
「つまり、女神ちゃんにとっての思春期って何なのかが分からないなって思ったの」
本棚を眺めながら、少し小さな声で和香那が言う。黒いスニーカー、黒のロングスカート、水色のシャツ。シンプルだけど夏っぽい涼し気な装いだった。和香那が自分でコーデしたとは考えづらくて、渡良瀬さんのチョイスだろうかと少し思った。
二メートル以上の高さがある本棚にはぎっしりと本が並べられている。適当に一冊を手にとって開いてみる。一行目が何やら物騒な書き出しで、これはあまり勧めたくないなと思ってまた戻した。なんとなく、もう少し穏やかな方がいい気がする。
「例えば女神ちゃんの年齢が地球と同じ四十六億歳だとして、人間に当てはめるとしたら十五億歳くらいの時期に、女神ちゃんに何があったか知りたい」
「そもそも人間に当てはめようとするのが間違いじゃないかな。思春期なんて無いのかもしれないし、あるいはずっと思春期が続いてるのかもしれない」
「続いてるってどういう事?」
「女神様はこの先も生き続けるんだよ。だったら今現在が人間の十五歳なのかもしれない」
「だったら尚更慎重に選ばないとね。私達の軽はずみな選択が、今後の女神ちゃんの人生を決定付けてしまうかもしれないから」
そう言って本を一つ一つ吟味していく。弱い冷房が効いた図書館にはあまり人がいなかった。これなら集中し過ぎて周りが見えなくても多少は大丈夫だろう。
女神様に対して「人生」か。皮肉めいてるというか、考えようによっては罰当たりというか。でも罰が下るとしてもそれが正しいなら和香那はそうするのだろう。
「僕はちょっと向こうを探してみるよ」
そう言葉をかけたが、和香那は本棚に釘付けで「ん」と生返事をするだけ。僕はそれを横目に別の本棚に移動する。小説を選ぶよりも優先したい事があったから。
和香那が八月三十一日の存在を知らない理由。それを女神様さえ知らない理由。目下の問題はそれだ。些細なものでいい。地球の歴史から何かヒントを掴めないか。それを探り当てたかった。
館内の地図を確認し、階段を使って一つ上の階に移動する。どこから手を付けようか迷って、とりあえず歴史と案内のある本棚の間を練り歩く。当たり前だけど本は、つまり歴史は膨大にあるわけで、ここから何のヒントも無く欲しいものを見つける事はあまりにも無謀だった。それこそ無数にある星の中からたった一つの輝きを見つけ出すような奇跡だろう。
また適当に本を手に取って開いてみる。日本史のちょうど戦国時代についての話だった。これが何かに繋がるわけではない。もし万が一手掛かりになるような一文があったとして、それを見つけたとして、それを手掛かりだと証明する方法は何も無い。すぐに嫌になって本を戻した。
僕はこういう時、和香那の考え方を真似てみる。つまり物事を逆に見る。答えから考えるべきものを逆算する。
そもそも僕はどうして女神様が関係していると思ったんだっけ。もちろん三百六十五日の中から一日の存在が抜けるなんて、人間にはどうにかできる話ではないからだ。でも今はそういう考えを捨てるべきだ。
もし女神様なんて関係なく、本当に和香那自身に問題があるとしたら? つまり、和香那が何かしらの理由で自分の中から三十一日の存在を消している。あるいは和香那以外の人間とは違う記憶を持っている。そう考える方がまだ現実的な気がした。
すぐ傍にはパソコンがあって、色々と機能を調べてみると本だけではなく論文についても閲覧やコピーができる事が分かった。僕はとりあえず手当たり次第にそれっぽいものを流し読みしてみて、何か掴めそうならコピーを取った。
そうして結構な時間が経った。「葵」と声をかけられてそちらを見ると和香那が立っている。僕は「どうしたの」と言おうとしたけど、渇いた喉から声にならない掠れた音が出てしまった。唾を飲み込んで改めて同じ事を言う。
「とりあえず何冊か小説を選ぶところまで終わったから、葵は何してるのかなって思って」
「僕も一通りは終わったよ。戻ろうか」
僕はコピーした論文の数枚を手に取り、和香那と一緒に下の階に降りた。和香那は「こんな感じ」と机の上を指差す。そこには数冊の本が積み重なっていた。
「これはどういう基準で選んだの?」
「各ジャンルから一冊ずつ、人気なものとか良さそうなものを漠然と選んでみた」
「人気は分かるけど、良さそうってどんな感じ?」
「分からない。直感というか感覚というか。でもなるべく穏やかなものが多いかも。女神ちゃん、そういうの好きかなって」
「そうだね。僕もそう思うよ」
僕と和香那は机を挟み向かい合って座る。和香那は自分で選んだ本を流し読みしてみるらしい。中身が良さそうなものを更に厳選して、一冊か二冊を女神様に勧めてみると。僕はその間、コピーした論文を細かく読んでみる事にした。
それからはまたしばらく時間が経った。時折僕があくびをしたり体を伸ばしたり、あるいは和香那がくしゃみをしたり何となくと言った感じで話しかけたり。そういう時以外は動きも会話も無く静かなものだった。それが心地よかった。人生が、世界がずっとこんな風に穏やかであればいいのに。そう思わずにはいられなかった。
僕らが図書館にやってきたのがお昼過ぎ。空はうんざりするほどの青色だったけど、ふと窓の外を見るとそれが夕焼けの橙色に変色していた。無数に群れる羊雲がゆっくりとどこかへ流れていく。もうすぐやってくる夜から逃げ惑っているように見えた。
顔を前に向け和香那を見る。彼女はいつの間にか寝てしまっていた。机に突っ伏して、組まれた腕の中で静かに寝息を立てている。本の選定は終わったのだろうか。
和香那の傍には何冊か本があって、そのうちの一冊のハードカバーからスピンが伸びているのが目に入る。本を手に取り、スピンを和香那の人差し指に軽く巻き付ける。そしてそのままそっと抜き、論文のコピー用紙の裏に和香那の指周りの太さを直線で取った。
「……いま何時」
そのタイミングで和香那が目を覚ます。僕はもう一度窓の外を見て、「もう帰る時間かな」とだけ言った。和香那は「そっか」と体を起こす。
「本は全部読んだの?」
「さっと流し読みで。なんとなくだけどこれがよさそう」
和香那は自分の傍にあった一冊の文庫本を手に取る。表紙には優しいタッチのイラストが描かれていた。
「じゃあそろそろ帰ろうか」
僕は論文のコピーを折り曲げて肩掛けの鞄にしまう。そしてさっきのハードカバーを手に取った。
「葵はそれにしたの?」
「いや、これは単純に僕が読みたいから借りるだけ」
「じゃあ女神様には何の小説を?」
そう問われて少し迷う。どういう風に言おうか。全部を言うにはまだ少し早い。だから僕は、とりあえずこう言ってみた。
「実は、女神様に勧めたい小説は最初から決まってたんだ。この図書館に来る前から」
「じゃあそれを借りて帰らないと」
「でもここには無かった。だから自分で探して買うよ」
僕が言うと和香那は「そっか」とだけ言って納得したような表情を見せる。僕は鞄を肩にかけ、和香那も小さめのトートバッグを持って立ち上がる。そのままカウンターに行き、貸出の手続きをして図書館を出た。
街はすっかり茜色に染まっていた。図書館の涼しい気温から一変、まとわりつくような湿度と熱気が鬱陶しい。半袖から伸びた腕に日が当たって暑かった。
「結局何を調べてたの?」
隣を歩く和香那が訊ねる。僕は見てもらった方が早いだろうと思い、鞄から折りたたんだ論文の一枚を取り出して手渡した。
「色々探したけど、一番気になったのはこれかな」
「……『マンデラ効果』?」
和香那は論文に書かれていた見慣れない単語を読み上げる。僕はそれに小さく頷いた。
昔、とある国に大統領を務めた指導者がいた。国民の多くは彼が投獄され獄中死したという記憶を持っていた。しかし実際には投獄されてはいたものの、それから釈放されて二十年以上存命だった。この出来事から、数多くの人間が実際とは違う記憶を持っている現象を、この大統領の名を取ってこう呼ぶ。
「都市伝説や超常現象の類に近い。でも、実際にこういう事が度々起きているのは事実なんだ」
「……えっと、つまり?」
「君の記憶についてもその類かもしれないって事。君だけがなぜかマンデラ効果にかかっていて、八月が三十日までだと思い込んでいた」
マンデラ効果は大衆が事実と異なる記憶を持っている現象を呼ぶ。だから実際にはマンデラ効果と呼ぶのは間違っている。ただの『勘違い』でもいいのかもしれない。でも判例として近いのは事実だ。僕が調べた中では、これが最も腑に落ちた。
「マンデラ効果が起きるのは、他世界が存在している証拠だとも言われてる。君が僕らとは違う世界から来たのかも」
「でも私はずっと小学校の頃から葵と一緒にいたよ」
「初めて僕と会う直前に何かの拍子でこちらに来た、とか。君の中では八月が三十日までなんて当たり前で疑う事もしなかったんだ。僕らが八月は三十一日までって事実を疑っていないように」
「可能性としてはゼロとは言わないけど。でも信じられない」
「僕もだよ。だからもっと他に現実的な案があるんだとは思うけど」
和香那からコピー用紙を受け取って鞄にしまう。あまりに突飛な話だと女神様を疑いたくなる。でもいくら女神様とは言え他世界とかパラレルワールドとか、そんなものまで掌握しているのだろうか。それともやっぱり関係ないのか。
「確認だけど、八月三十一日の記憶は無いんだよね?」
「三十日の記憶は明確にある。九月一日の記憶もある。でも、『これは間違いなく三十一日だ』って断言できるものはない」
「五年前、僕と海で再会した日は? あれは間違いなく八月三十一日だったはずだけど」
「もちろん記憶にはある。でも三十一日だとは記憶してない。今思い出してみても何日の出来事だったかは分からない。私以外の人が『あれは八月三十二日の出来事だった』って言われても信じられないのと同じじゃないかな」
「他に誰かと一緒に過ごした事は? 例えば渡良瀬さんとか」
「夏の終わりは五年前以外毎年一人だった。別にそうするって決めてるわけじゃないけど、誰かと過ごす予定も無かったし」
「じゃあ今年の三十一日を迎える瞬間は僕と一緒にいよう。それなら一緒に証明ができる」
三十日の夜、日付が変わる瞬間。一緒に時計を見ていれば、三十一日を共に迎えた証明になるだろう。これまでの彼女がどうであれ、他人がいれば三十日の次が九月初日という結果にはならないはずだ。
「……もしかして、今日一日ずっとそれを調べてたの?」
和香那が僕の顔を覗きながら訊ねる。僕はそれを視界の隅に入れつつ「まあ」と頷いた。
「だって君、一番どうにかしたい問題がこれだろ?」
特に何も考えず思ったままを口にする。和香那は少しキョトンとした目をして、また前を向いた。そして小さく「そっか」とだけ呟く。
しばらくはそのまま無言で歩き続けた。信号を二回ほど待ち、四回くらい曲がり角を曲がって二回歩く場所の左右を入れ替わった。三回目の信号待ちの時、僕は鞄からスマホを取り出して渡良瀬さんにとあるメッセージを送った。
「葵は、私がいないと何もできない」
唐突に和香那が言った。僕はそれに少し驚きつつ「どういう意味?」と訊ねる。メッセージが送信完了されたのを確認してスマホをしまう。
「そのままの意味だよ。私がいないと小説を書けないから」
「まあ、それは確かにそうだけど」
「でも、それだけじゃない」
隣を見る。夕に照らされた彼女の横顔は、いつもより綺麗に見えた。その視線に気が付いたのか和香那も僕の方を見て、そして一瞬目が合った後ですぐに逸らして前を向いた。
「私も同じだよ。葵がどこかで待ってるなら、私はどこにでも行ける。葵が隣にいるから、私は一緒に歩ける。葵がいるから、私はなんだってできる」
信号が青になる。和香那はそのまま進む。僕も前を向き、隣に並んだまま歩き出す。
「葵が私を必要としてくれるみたいに。私にも葵が必要なんだ」
またしばらく無言のまま歩く。信号待ちは無く、二回の曲がり角があった。一度だけ場所を入れ替わった。三回目の角を曲がってまた場所を入れ替わった時、僕は和香那にこう言った。
「もし無事に八月三十一日を迎えたら、君に告白しようと思う」
どうしてこのタイミングだったのかは分からない。でもごく自然に、言葉は口から流れていた。
和香那は歩き続けたまま、ゆっくりと僕の顔を見た。三秒ほどこちらを見た後でまた前を向く。そして小さく「そっか」と呟き、そして少しだけ、ほんの少しだけ笑った。
「楽しみ」
* * * * *
それから数日後のお昼前、僕は最寄り駅の前にいた。木製のベンチに座り一人で本を読んでいた。図書館で借りたハードカバーだ。小説家志望の男が夢を諦めるまでの物語だった。大きなドラマや感動的なシーンがあるわけではない。ただ、周囲の人間関係やちょっとした出来事が少しずつ彼の運命を変えていく。こんな風に夢を諦められたら幸せだろうなと、少し思った。
「小高君」
名前を呼ぶ声が聞こえて顔を上げる。そこには渡良瀬さんが立っていた。黒のサンダル、鶯色のカーゴパンツ、上には白い半袖のジャケットを羽織っている。さっぱりとした印象を受ける服装だった。右肩にはエンベロープバックを下げている。
「ごめん遅れた」
「いや、時間通りだよ」
時計台を見ると丁度十一時を指している。僕は本のページにスピンを挟んで閉じ、「行こうか」と立ち上がる。
「私何も聞いてないんだけど」
「あれ、買い物に付き合って欲しいって言わなかったっけ」
「それだけだったじゃん」
駅を出てそれなりに人通りのある道を並んで歩く。そう言えば今日は祝日だったかとふと思い出した。
「行く場所は決めてるの?」
「行く場所も買う物も決めてる。けど、センスが無いから協力して欲しくて」
「無いって事は無いと思うけど」
渡良瀬さんは僕の服装を見ながら言った。白い半袖シャツの上から暗い灰色のテーラードジャケットを羽織り、下も同じ色のテーラードパンツを着ている。服屋で適当にマネキン買いしたものだ。
「まあ、いつも隣にセンスの無い人がいるからそう思うのかな」
「あいつそんなに酷いの?」
「センスに関して言えば、垢抜けない小学生みたいな感じだよ。この前なんかいよいよウンコのイラストが描かれたシャツを——」
そんな風に、目的地までの道のりは渡良瀬さんと和香那についての話を聞いていた。普段は大学内でも外でも大きく交流があるわけではないらしい。ただ、たまに和香那の方から渡良瀬さんに連絡がある。勉強についてだったりそれ以外についてだったり、分からない事があるととりあえず渡良瀬さんに訊く癖があるようだ。僕はそれを少し意外に思った。
「仲が良いんだね。和香那の性格上、そんな風に信頼できる人は少ない」
「というか多分消去法だよ。星さんから小高君には中々連絡できないから」
「どうして?」
「『小説を書く邪魔をしたくない』、だってさ。愛されてんね」
渡良瀬さんは前を向いて歩きながら、どこかぶっきらぼうにも聞こえる声で言った。
そうだろうか。邪魔をしたくないというのは和香那らしくて分かる。でも、それを理由に頻繁に連絡を取ろうとするのはやっぱり信頼の証だ。そうでなきゃ一緒に買い物に行ったりはしないだろう。
「喧嘩したりは?」
「さすがに無いかな。というか喧嘩にもならないというか。元々星さんとの約束があった時、私が急に彼氏との予定ができちゃって。そっちに行きたいって言ったら寂しそうな顔で『そっか』って。さすがに罪悪感があったからちゃんとお詫びはしたけど」
少し申し訳なさそうな声で渡良瀬さんが言う。僕はふっと笑って「よかった」と言った。
「やっぱり渡良瀬さんは、悪い子には向いてないんじゃないかな」
「どういう意味?」
「〝いい子は天国に行ける。でも悪い子はどこへでも行ける〟、だっけ?」
僕が言うと少し考えるような間があって、でもすぐに「あ、あれか」と思い出したように声を出した。
「悪い子はきっと罪悪感なんて考えず、一人で突っ走ると思うから」
「じゃあ私はもっと悪い子になれるように頑張らなきゃ。どこにも行けなくなっちゃう」
頑張ってなるようなものじゃない。そう言おうとして止めた。どこか遠くに行きたい彼女の気持ちをそんな風に踏みにじっていいはずがないから。だから適当に「そうだね」とだけ生返事をした。
「というか恋人がいたんだ」
「もう別れたけど」
「どんな人だったの?」
「興味あるの?」
どこか皮肉交じりに、あるいは自虐交じりに少し笑う。僕はそれに「少しだけ」と嘘をついてみた。
「どんな人だったかなんて私も知らないよ。あっちから来たくせに被害者ヅラしていつのまにかどっかに行った。知らないうちに何かが始まって、勝手に終わってたって感じ」
それ以上は何も言わなかったから、僕も何も訊かなかった。無言のまま少し歩いて、次の話題を探していた辺りで目的地が見えてきた。
「ここなんだけど」
僕が視線で差したのはとある雑貨屋だ。ここからだと母校の高校が少し近い。前に和香那と一緒に傘を買ったのも確かここだった。
「懐かしい。学校帰りによく寄ってた」
「授業終わりに雑貨屋で何を買うの」
「何も買わないよ。必要のない物を眺めて、それが生活の一部になったらって想像するだけ。いざ買ってみたら『やっぱりいらなかった』ってなるのがオチなんだから」
自動扉をくぐって入店すると、一気に冷房の効いた涼しい空気が体を包んだ。思わず二人同時に息を吐く。
高校を卒業してから来ていなかったけど、店内はあまり変わっていない。商品の入れ替えが少しあるくらいだろうか。五年前に戻ったような、不思議でフワフワとした感覚になる。
渡良瀬さんを先導する形で店内を練り歩く。道中にキッチン用品が並ぶコーナーがあって、いい加減に自炊を覚えなければと少し思った。家には鍋が一つあるくらいでそれ以外には包丁も無い。
「……なるほど。これか」
目的の品が並ぶ棚に辿り着くと、渡良瀬さんがそんな風に呟いた。棚にはピアスやイヤリング、ネックレスなど様々なアクセサリーが並んでいる。渡良瀬さんはそこからピアスを一つ手に取って「これいいね」と品定めを始める。
「ピアス開ける気になったの?」
「いや、開けないよ。痛いのは苦手だ」
「じゃあ何を?」
僕はその問いに答える代わりに、そこにあった一つの指輪を手にとって人差し指にはめてみた。少し大きかったから、それより小さい十八号サイズをはめてみる。ちょうどいいくらいだった。
「指輪買うの?」
「うん。でもさっき言った通り僕にはセンスが無いから。渡良瀬さんに選んで欲しいなって。いいかな?」
「もちろん。私で良ければ」
渡良瀬さんは「ちょっと時間ちょうだい」と言って、棚にある指輪を吟味し始めた。集中すると周りが見えなくなるのは彼女も同じらしく、その間僕は傍に立っているだけだった。たまに好きな色をヒアリングされたり、参考として僕の手を見たりしたくらいだ。
十分ほどが経っただろうか。渡良瀬さんは「これかなあ」と一つの指輪を手に取った。色はシルバーで、少し削ったような捻じったような、そんなデザインだった。
「小高君の服装と言うか雰囲気が割とシンプルだから、一点アクセントがあってもいいかなって思ったの。シンプル過ぎると無くてもいいじゃんってなりそうで」
渡良瀬さんが少し恥ずかしそうにも聞こえる声音で言う。僕はそれを意外に思いつつ、少し笑って「嬉しいよ」と言った。
「ありがとう。これにする」
「本当にいいの? 私が選んだやつで」
「渡良瀬さんだからいいんだよ。僕も和香那もセンスが無いから、きっと喜ぶ」
僕は棚にあった指輪の、同じデザインで少し小さめのサイズのものを手に取る。それと同時に渡良瀬さんが「は?」と言ったのが聞こえた。
「なんで星さん?」
「言ってなかったけど、和香那にあげようと思って」
僕が言うと、渡良瀬さんはぽかんとした表情のまま僕を見た。そのまま数十秒が過ぎ、ようやく「えっと」と口を開く。困惑を隠しきれない声で。
「じゃあ私は、星さんにあげるものを選んでたの? それならもちろん選ぶ指輪も変わってくるんだけど」
「いや、僕と同じものをあげようと思ってる」
「……ペアリングって事? なんで? どういう意図で?」
僕は渡良瀬さんの問いに何と答えようか少し迷った。適当にはぐらかそうかとも思ったけど、買い物に付き合わせて品を選んでもらっている以上、それはあまりに不誠実だ。だから僕は全てを簡潔に話す事にした。
「和香那に告白をするつもりなんだ。その時に渡そうと思って」
渡良瀬さんはまず、僕の言葉に目を大きくさせてしばらく僕を見つめていた。そしてそのまま息を吸い込んだと思ったら、大きな声を出しながらそれを吐きつつ、その場にしゃがみ込んでしまった。僕はそれに驚いて周囲を見渡す。他に客はいないようでよかった。
渡良瀬さんはしゃがみ込んだ態勢のまま、数分は下を向いていた。声をかけようかとも思ったけど、何をどんな風に言えばいいのか分からなくてずっとオロオロしているだけだった。でもずっとこのままというわけにもいかなくて、「あの」と声をかけようとしたところで今度は勢いよく立ち上がった。僕の顔を数秒見た後で、自分の両頬を強く叩き「よし」と小さく言った。
「まず大前提を言うね。告白に指輪はヤバい。正直引くレベル」
「何が駄目なの」
「さすがに重い。だってそれ、プロポーズでようやく許されるやつだよ」
はっきりと言われてしまって僕は戸惑う。和香那がそんな事を気にするタイプとは思わないけど、プロポーズでする行為を今からするのだと思うと少し躊躇いが出てくる。
「それでも渡したいって言うならもちろん止めないけど、どうする?」
僕は少し、いや、かなり迷ったが結局は頷いた。最悪、嫌なら外してもらおう。それこそオシャレのワンポイントくらいに考えてくれればいいはずだ。渡良瀬さんは僕の反応を見て「分かった」と同じように頷く。
「じゃあもちろん、これは無しね」
そう言って僕の手にあった指輪を取って棚に戻す。僕はそれを呆然と眺めていた。
「やっぱりデザインが変わってくるから?」
「違う。女の子に渡すプレゼントを別の女に選んでもらっていいわけがないから」
「でも渡良瀬さんに選んでもらうのが正解だと思うよ。きっとあいつも喜ぶ」
「そういう問題じゃない。自分で選べ」
僕はそれに反論しようとしたけど、どこか怒っているような様子の渡良瀬さんを前にして何も言えなくなってしまった。「分かった」と小さな声で頷き、棚に並ぶ商品に目をやる。
色々と迷ったが結局は数あるデザインのうち一番シンプルなものを選んだ。色はシルバーで、さっきのように凝った形をしているわけでも何か文字が彫られたり石がはめられているわけでもない。どこまでもシンプルなシルバーのリングだ。手に取ってゆっくりと渡良瀬さんの方を見ると、「いいんじゃない?」と言ってくれた。
「星さんの指のサイズは?」
「測ってみたけど、確か十三号のはず」
「どうやって測ったの?」
渡良瀬さんに問われて僕は鞄から本を取り出した。彼女との待ち合わせまでの時間で読み進めていた本だ。
「これのスピンを使った。和香那が寝てる間に人差し指に巻いて」
「スピン?」
「この紐みたいな栞だよ」
図書館でこれを和香那の人差し指に巻き、形を崩さないようそっと抜き取る。そしてそれを伸ばして紙に同じ長さの線を引けば、指のサイズと同じ直線になる。家に帰ってサイズを改めて測ってみたら十三号だった。古い本でスピンがクタクタだったのが幸いした。新品だったら上手くいかなかっただろう。
「……なんか、いいね」
「なにが?」
「分かんないけどなんかいい」
渡良瀬さんが指輪を見ながら呟く。僕はそれに何も言わず、同じデザインの指輪を二つ手に取った。
ちょうど新しいピアスが欲しかったとの事で、渡良瀬さんはピアスを一つ購入しようとしていた。ここまで付き合ってくれたお礼も兼ねて僕がお金を出すと言うと、デザインも選んで欲しいと言われてしまった。僕はまた悩み、シンプルな黒いリング状のピアスを選んだ。何となく似合うかなと思ったものだけど、これもあまりセンス的に自信は無い。
指輪を二つとピアスを一つ買い、僕らは雑貨屋を出た。店の外は案の定暑くてうんざりしてしまう。
「この後はどうする?」
「お昼まだなら適当に食べようか。奢るよ」
「知ってると思うけど遠慮しないよ?」
「よく知ってる」
僕が言うと渡良瀬さんは大きく笑った。とにかくどこか涼しいお店に入りたいというのが本音だった。
「星さんの指のサイズっていつ測ったの?」
「ついこの前だよ。図書館で」
「図書館」
「女神様からのお題をもらったんだ。『おすすめの小説』って」
「また難しそうだね」
「かなりね」
渡良瀬さんは「私なら何にするかなあ」と少し悩み始めた。和香那にも言った通り、僕は割と早くから勧めたい本を決めていた。あとはそれを用意するタイミングだ。
「あ、そう言えば、マンデラ効果って知ってる?」
「なにそれ」
「図書館に行った時にそういう論文を見つけたんだけど——」
僕はマンデラ効果について調べた事を、和香那が八月三十一日を知らない事実と関連付けて話した。彼女にはロストデイを含めた五年前の出来事、そして和香那についても全て話してある。話を聞いた時、彼女は「小高君の方がよっぽど悪い子だね」と言った。
渡良瀬さんは僕の話を全て聞いた後、少し難しい顔をして「なるほどね」と呟いた。
「つまり、星さんについてもそのマンデラ効果じゃないかって話か」
「もちろん違う可能性の方が高い。たまたま図書館で似たような事例を見つけたってだけの話だから」
僕がそこまで言うと、渡良瀬さんはふと「あ」と声を上げた。何かを唐突に思い出したように。僕はそれに「どうしたの」と訊ねる。
「そう言えば、星さんからも似たような話を聞いたなって思い出して」
「似たような話?」
僕が訊ね返すと、渡良瀬さんは「それこそ五年前くらいに聞いたんだけど」と前置きをして話を聞かせてくれた。
「昔、星さんと小高君って約束をしたんだよね? 小説家になるって」
「まあ、うん」
僕は少し曖昧に頷く。和香那がその過去を渡良瀬さんに話していた事実に少し驚いた。やっぱり、あの日の出来事を話せるくらいには渡良瀬さんを信頼しているのだろう。
「その時小高君は笑って約束をしたって言ってた。ちゃんと指切りをしてくれたって。でも、星さんはこうも言ってた」
渡良瀬さんの顔を見る。渡良瀬さんも同時に僕の方を見た。その瞳はなぜか不安を表しているように見える。
「『確かに笑い合って約束をしたはず。でも同時に、葵が泣いていた気もするんだ』って」
その時、僕がどんな顔をしていたかは分からない。でも僕の表情を見て、渡良瀬さんは少し目を開いた後で無理やり口角を上げた。多分、僕を安心させる為に笑おうとした。
「私には何の事か分からないけど、これもマンデラ効果なのかな?」
* * * * * *
スマホの画面で時刻を確認する。八月三十日、午後十一時五十五分。日付の変わる五分前だ。空を見上げると、黒の中にいくつもの白い光が点在している。
「私はやっぱり、正しい事は正しいって信じたい」
隣に座る和香那が言った。彼女は目の前の海をぼうっと眺めている。
五年前、僕が望まない再会を果たした海。彼女と一緒に三十一日を迎えるならここだろうと直感的に思った。だからここにした。二人並んで、砂浜に腰をかけている。
「約束は果たされるべきだし、どれだけ辛くても逃げちゃいけない瞬間はある。どんな運命だったとしても、目を逸らしちゃいけないって思う」
「……つまり?」
「どうなっても、私は受け入れる。葵がいるから」
和香那はこちらを向いて、僕の目を真っ直ぐに見つめる。彼女の瞳は夜より深い黒で、僕はそれがなんだか酷く恐ろしくなって目を逸らした。
「別に何も起きないよ。ただ三十一日になって、それで終わりだ」
「そうじゃなかったら?」
「僕にはそれ以外に何が起きるか考えられない」
本心だった。僕が女神様にまた何かお願いしているならともかく、普通は三十一日になって終わりだ。そうじゃなきゃ、夏休みの課題が終わっていない学生が困ってしまう。
「ところで、何を言うかは決めてきたの?」
「何の話?」
「告白の言葉」
僕は目の前にある真っ暗な海を眺めていた。だから、彼女がどんな顔でそう言ったのかは知らない。でもそれはポケットに忍ばせている指輪を意識させるには充分な言葉だった。
「そういうのは前もって準備するものじゃない気がする。なんだか、不誠実だ」
少なくとも、君に届ける言葉は。口には出さなかったけどそう思った。和香那はそれに対してただ「そっか」とだけ小さく呟いた。
スマホをもう一度確認する。午後十一時五十九分。僕はスマホをそのまま点け続けていた。画面の明かりだけが周囲をぼんやりと照らしている。和香那も僕の方に近付いて、スマホを覗き込む態勢を取る。
ちらりと、和香那の顔を見る。白い光に照らされる彼女の顔は、それこそ線香花火を覗き込むように弱い光に照らされていた。左頬には薄っすらと傷跡が見える。なんだか柔らかくて触れたら消えてしまいそうで、そして、綺麗だった。
「あ」
和香那が声を上げる。スマホに顔を戻す。八月三十一日、午前〇時。
「本当に、三十一日だ。初めて見た」
やっぱり本当に、彼女は三十一日の存在を知らなかったらしい。疑っていたわけじゃない。でもどうして今日のタイミングで三十一日を迎えられたのだろう。
「やっぱり誰かと一緒にいると三十一日になるのかな。来年、再来年も誰かと一緒じゃないとまた君だけ八月三十日のままなのか」
「それはもう大丈夫だよ」
「どうして」
「だって、葵がいる」
スマホから顔を上げる。光に照らされた和香那が、こちらを真っ直ぐに見つめている。きっと彼女は待っていた。僕の言葉を。少し悩みながらも僕はゆっくりと口を開く。
「……言いたい事も、伝えたい事もたくさんあり過ぎる」
「うん」
「全部を話すには時間が足りない。きっと朝になる」
「そうやって明かす夜も悪くないけどね」
「だから、言葉をまとめないといけない。でもその準備がまだできてない」
言葉も心も、まだ何も。
和香那はしばらく無言だったけど、「分かった」と言って立ち上がった。僕は座ったまま、彼女の顔を見上げる。
「何か飲み物でも買ってくる。その間にまとめて。それで、ちゃんと聞かせて。時間をかけて、ちゃんと」
「でも」
「逆に見ないと。私が今一番に優先したいのは、どんな形でも葵の心を知る事だから。また『話が長くなる』ってぞんざいにされるのはもう嫌だよ」
和香那は珍しく冗談めかしたような口調で言った。彼女にそんな事を言われてしまったら、僕は何も言えなくなってしまう。和香那は砂浜をゆっくりと歩きながらそのまま立ち去っていった。
ポケットから小さな箱を取り出す。もちろんこの中には指輪が入っている。プロポーズのつもりなんて毛頭ない。むしろそうであってはいけないのだ。僕らにしかない関係であって欲しい。名前のある関係性じゃなくていい。だからもっと、僕らに相応しい言葉を。もっと、彼女に届けるに値するものを。僕の心を渡せる、何かを。
「こんばんは」
声が聞こえた。和香那が去っていった方とは逆方向だ。
そちらに目を向けると、暗がりの中にうっすらと人影がある。顔は見えないけど、何かスカートのようなものが潮風に揺れている。そして足元には、猫の影もあった。
「……女神様?」
僕がそう言うと彼女は優しく微笑んだ。いつもと変わらない制服、いつもと変わらない仮面。もちろんジーはいつもと変わらない首輪を付けている。
「びっくりした。どうしてここに?」
「散歩してただけ。何となくここに来たら、葵がいたから声かけてみた」
はっきりとした違和感、いや、不安感を覚える。
目の前にいる彼女は確かに女神様だ。でも何か違う。まるで別人だと頭で警鐘が鳴っている。
「私達が花火をしたのもここだったよね。楽しかった。もう一回やりたいな」
「もちろんいいよ。今度は和香那や渡良瀬さんも誘ってみようか」
「渡良瀬さんはいいけど、あいつは嫌だ」
「あいつって、和香那の事?」
「あいつの事は好きじゃない。というか、嫌いかも」
「今日はよく喋るね」
「私は元々よく喋る。今まで我慢してきただけ」
「我慢って、じゃあどうして今になって」
僕が訊ねると、女神様はまた少し微笑んだ。今までと変わらない微笑みだ。でも僕にはそれが全く違うものに見えた。
「我慢する必要が無くなったから」
そう言うと女神様は制服のポケットに手を入れ、そこから一枚の紙を取り出した。二枚織で、中を開いてこちらに見せる。何か文字が書いてあるけど暗くて読めない。
「新しい供物?」
「違うよ。よく見て」
そう言って紙切れを差し出す。僕は立ち上がり、彼女からそれを受け取った。よく目を凝らし、そこに書いてある文字を読む。僕は酷く驚いた。その文字に見覚えがあったから。
『私は世界の秘密を知っています W』
「私ね、あいつの事は嫌いだけど、共感できるところもあるの」
紙から顔を上げて女神様を見る。僕の目を真っ直ぐに見つめている。
「よく言ってるでしょ。『逆に見る』って」
「……どういう意味?」
「分からないの? それが何を表してるのか」
そう言って視線だけで手元の紙を指す。僕は少し考えて「Wじゃなくて、M?」と答えた。女神様はそれに何か言う代わりに、やっぱり少しだけ笑った。
「でも例えMだったとして、それが何になるんだ」
僕が問い詰めると、彼女は「うーん」と少しだけ悩むような仕草を見せた。わざとらしく顎に手を当ててどこか遠くを見つめている。そして続けてこう言った。
「それがねえ、私もちょっと間違えたっていうか」
「間違えた? 君が?」
「私だって間違える事くらいあるよ。私を何だと思ってるの」
「女神様だ。君が間違えるって事は、世界が間違っているって事だ」
「そうでもないよ。単純な学力だと中々頭が悪いんだ。その証拠に、私は女神を英訳したら何になるかも知らなかったの。それを書いた時にはね」
「……英訳」
そこで僕は唐突に思い出す。
五年前、和香那が転校してきたばかりの時にあった英語の小テスト。そこには「女神」を英訳する問いがあった。そこに和香那が書いていた誤答が確か。
「もしかして、マリアって言いたいのか?」
「あとで調べたんだけど聖母って意味らしいね。女神とは違う。ま、無知だった私を許して。それこそ聖母みたいに寛大な心で」
「この手紙を書いて僕の靴箱に入れたのも、和香那が三十一日の存在を知らなかったのも、君が全部やったのか? どうして」
「知らないの? 人生には伏線があった方が楽しいんだよ。まあこの場合は私が楽しかっただけなんだけど」
「……その台詞、どこかで」
僕が記憶の糸をたどろうとするのと、女神様がふと顔を背けたのは同時だった。その視線を追って見ると、数十メートル先の街灯の下に和香那が立っている。彼女の両手には缶コーヒーが握られていた。
僕はほぼ反射的に、右手の親指だけを上げて和香那に見せた。例のハンドサインだ。和香那はここに来てはいけない。なぜかそう直感したから。
「それともう一つ。私は女神様なんかじゃないよ」
そう言って女神様は後頭部に手を伸ばす。仮面の紐を解こうとしていた。
和香那はここに来ちゃいけない。分からないけど、女神様の話を聞いてはいけない。そう強く思った。だからハンドサインを送った。和香那ならその意味が理解できたはずだ。
でも、気付いた時には彼女は走り出していた。缶コーヒーをその辺に投げ出し、こちらに向かってきている。僕はなぜかその一瞬だけ、投げ出された缶コーヒーに思いを馳せた。
僕はコーヒーが好きだった事をまだ覚えていてくれたんだ。君は確か苦手だって言ってたっけ。それとももう飲めるようになったから、同じものを買ったのかな。もしそうじゃないなら、嫌いなのに僕と同じものを買ったんだ。
『葵が泣きそうな顔をしていたらすぐに行く。葵が泣いているなら涙を拭う。私はずっと、そうやって葵の隣にいたんだよ』
分かっていたはずだ。君はそういう奴だって。
どれだけ理性で制したところで、それが正しいと思えば君は行動を躊躇わないんだ。誰かが傷付き涙を流せば、例え誰だろうとどこにいようと、それを止めようとする。
約束は守られるべきと君は何度も言っていた。でもそれ以上に守るべきものがあるなら、そうする事が正しいならそれすら躊躇なく破り捨ててしまうのも君なのだろう。
迷いも躊躇いも曇りも無い、ただ真っ直ぐな君が美しかった。美しくて眩しかった。だから五年前、僕は君を遠ざけようとしたんだ。でも君は。
「どうしたの?」
少し息を切らしながら和香那が問う。そして僕の隣にいた女神様に顔を向けた。
「教えてあげるよ。私の名前は——」
柔らかい砂浜に、仮面が落とされた音が聞こえた。
気が付くと女神様はいなくなっていた。さざ波の音が優しいこの空間に、僕と和香那が二人で取り残されている。
「……和香那」
和香那はぼうっと目の前の海を眺めていたが、名前を呼ぶとゆっくりとこちらを見た。彼女は、泣いていた。彼女の泣き顔を見るのはこれが二度目だった。一度目は卒業式の後の教室だった。
僕は何か言おうとして、でも何を言うか決めていなかった事に気が付く。ただ名前を呼んだだけだ。僕は和香那に、何を言えばいい?
「……ごめん。私、今日は帰った方がいいと思う」
ぽつりと和香那が言った。僕は少し迷って小さく頷いた。
僕はゆっくりと、彼女の顔に向かって手を伸ばす。でも和香那は僕に背を向けると、何も言い残さずにゆっくりと歩き去っていった。僕はその場に再び座り込む。柔らかな砂の感覚が椅子代わりになっていた。
たった一言を口にする為だけに、彼女はどれだけの思考を要しただろう。どれだけの感情を噛み殺しただろう。どれだけの重圧がのしかかっただろう。僕にはそれを想像する術すらなくて、ただ頷いただけだった。何を言えばいいかなんて分からない。そして、その選択をすぐに後悔した。僕が泣きそうな顔をしていた時、君は一瞬の躊躇も無く走り出していたのに。僕は君に、何もしてやれないのか。
「まあこうなるよな」
まただ。また誰かの声が聞こえた。僕の声じゃない。声の主を探すのすら億劫で、ずっと目の前の海を眺めていた。いっそ殺人犯で、僕の事を殺してくれたっていいのにと思った。
「あいつが話した事は事実だよ。そんで、俺のせいでもある。まあ一パーセントくらいだけどな」
足元に動く影があった。見るとジーがこちらを睨んでいる。
「まさか、君か?」
「それはどういう意味だ? お前が喋ったのかって訊きたいのか、和香那がああなったのはお前のせいかと問い詰めたいのか」
「……いや、どうでもいいよ」
「その様子だと前者だったらしいな。まあ猫が喋るなんて、この世界じゃ些細な事だよ」
ああ、そうだろう。和香那が傷付く事以外は、僕にとっては全てが些細な事だ。
「詳しい話をしてやろうか。ちゃんと一から十まで分かるように」
「それで和香那の傷が癒えるなら無理やりにでも話させる」
「残念だけどそれはお門違いだな。けど、あいつは全部聞きたがるだろ」
そう言ってジーは僕の後ろを顎で指した。一瞬和香那かと思って振り向いたが、そこに立っていたのは渡良瀬さんだった。上下を黒いスウェットでセットアップさせて、黒い眼鏡をかけている。渡良瀬さんは僕と目が合うと、やりづらそうに小さく手を振りながらこちらへ歩いてきた。
「なんでここに」
「え? 小高君が来いって言うから」
「……何の話?」
「俺が呼んだんだよ」
ジーが僕の前から渡良瀬さんの前に移動しながら言った。渡良瀬さんは無言のまま数秒ジーを見つめた後で眉を寄せる。
「……これも女神様関連? つまり、女神様がジーを喋るようにしたの?」
「僕にもよく分かってない。どうでもいいよ」
「どうでもいいって事ないと思うけど……」
「渡良瀬さんを呼んだってどうして」
僕がジーに訊ねる。「どうやって、とは訊かないんだな」となぜか少し楽しそうに言った。人間じみた感情の機微はあるらしい。
「簡単な事だ。猫は気まぐれなんだよ」
気まぐれで状況をややこしくされてはたまったもんじゃない。この空気も文句を言うのも全てが面倒で僕は舌打ちをした。
渡良瀬さんは深く息を吐いたと思ったら、ゆっくりと僕の隣に腰をかける。「なんだか大変な事になってるね」と少し呆れたように言いながら。
「私は小高君からここに来てってメッセージを貰ったから来た。でも話を聞いてる感じ、それは小高君の本位じゃなくてジーがやったって感じかな。そこまでは理解するよ。飲み込む。でも小高君が苦しそうな顔をしているのには納得できない。それは貴方に訊けば答えてくれる?」
目の前で退屈そうな顔をしているジーに渡良瀬さんが訊ねる。ジーは渡良瀬さんから僕へと視線を移して「だから言っただろ?」と呆れたように言った。
「お前がどうであれ、こいつは全部聞きたがるって」
ならやっぱり呼ばなければよかったんじゃないか。言おうとしたけどそれも面倒くさくて止めた。どうやらここでジーの、喋る猫の話を聞かなければならないらしい。いや、ただの猫だと思っていた彼の話を。
「まず、お前らが女神様って呼んでたあいつは女神様でもなんでもない。出生は少し変だけど、普通の人間だ。多分な」
「でもロストデイがあったのは女神様にそういう力があるからでしょ? 小高君が女神様に頼んでそうしてもらったって聞いたよ。それだけじゃない。どう考えても普通じゃ説明がつかないような事象がたくさんあった」
「力があるのはあいつじゃない。俺だ」
「え、貴方は一体なんなの」
「決まってるだろ。神ってやつだよ」
渡良瀬さんはそれを聞いて少し驚いた表情をし、でもすぐに「そうなんだ」とやや神妙そうに言っただけだった。ジーが人語を話した事と言い、なんでもすぐに受け入れ過ぎだと思う。でも元々は女神様の力を目の前で見てきたのだから、こんなものかもしれないとも思った。
「じゃあ貴方が神様だとして。私達が女神様って呼んでたあの女の子は誰なの?」
渡良瀬さんが訊ねるとジーは、いや、神様は僕らを見つめたまたその場に座った。そして退屈そうに一つ欠伸をする。
「誰って言われたら説明が難しい。まあでも、強いて名前を付けるとしたらあいつが自分で言ってた通りだよ」
神様が僕の顔を見る。渡良瀬さんもそれに倣って僕の顔を見た。その答えを知りたいらしい。口には出さなかったけど目がそう言っている。
正直、僕は言いたくなかった。渡良瀬さんに言ったからってどうにかなる問題じゃない。でもだからと言って僕一人でどうにかなるわけでもない。
いや、違うか。多分誰にもどうにもできないのだ。だったらもうどうでもいい気がした。世界の終わりの直前に、どうすれば回避できたかもしれないのか御託を並べたくないのと同じだ。
もっとも、世界の終わりというのは僕にとってはあながち遠からずなのかもしれない。
* * * * *
小学六年生 八月最終日
「人が最後に忘れるのは匂いらしいけど、学校を卒業した後、この部屋を思い出そうとしたら埃の匂いを思い出すのかな」
パソコン室の安いオフィスチェアに体重をかけ、脱力しきった態勢で天井を眺めながら私は言った。葵は変わらずパソコンを難しい顔で睨んだまま「そうかもね」とだけ小さく言った。
「葵は好きな匂いとかってある?」
パソコンの電源を落としながら訊ねてみる。葵は私の問いに「別に無い」とぶっきらぼうに言った。
「嘘だ。一つくらいあるでしょ」
私が言うと葵は一度溜め息を吐き、顔を上げて考えるような表情を見せた。今日の葵は少し変だ。なんていうか、いつもより態度が悪い。
「夏の香り、かな」
「夏って匂いするの?」
「たまに空気がそういう匂いなんだ。それが本当に夏の匂いかどうかは分からないけど、そうだって信じたい」
当時の私には、彼の言葉はあまりしっくりとこなかった。分からないならどうして自分の中でそうだと決めつけるのだろう。自分が信じたいから信じるだなんて、そんなの正しくない気がしたのだ。
でもそれと同時に、信じてみたくもなったのも本当だ。葵がそう言うのだから、夏の香りはきっとあるのだろう。あるいは無くとも、葵がそう呼んだ香りを夏の匂いと呼びたい。率直にそう思えた。
「やっぱり葵は小説家に向いてる」
古びたパソコンの電源がようやく落ちたのを確認し、私は隣の葵を見る。彼は「そんな事ない」と不機嫌そうに言った。
「私に難しい事は分からないけど、でも、そういうのを言葉にするのが小説を書くって事なんじゃないかな」
なんて言いながら私は、自分が葵と同じ事を言っている事に気が付いた。分からないけど、信じてみたい。彼はきっとそういうのに向いている。
「ねえ、葵」
なるべく優しい声音を選び、私は彼の名前を呼ぶ。安物の椅子に深く腰掛けて彼の方へ向き直る。葵は「なんだよ」とキーボードを叩きながら言った。
「いつか、夏の香りがする小説を書いてね」
「そんなの書けない」
「葵だもん。書けるに決まってる。あと、私が埃の匂いが好きな理由も書いて」
「それは和香那が自分で考えろよ」
彼の言葉に思わず笑ってしまう。それは確かにそうだけど。でも、なんとなく葵が書いてくれた方がいい気がした。私が見ている私の世界より、葵が見ている世界の方がずっと綺麗に見える。それに期待してみたかった。だから私は。
「いつか小説を書いたら、私に読ませてね」
そう言いながら私は、左手の小指を彼に差し出す。彼はちらりと横目で一瞬見た後で、でもすぐに画面に目を戻した。
「なんだよ」
「約束しよう。小説家になるって」
「保証できない約束はしない」
「できるよ。葵だもん」
「勝手に期待するなよ」
「期待する。だって」
「あのさ」
そこで葵は少し強めに机を叩いて大きな声を出した。私はそれに驚いて思わず手を引っ込める。葵は、私を睨んでいた。
「君は小説を書いてといいながら、今進行形でその邪魔をしてるんだよ。それが自分で分からないの? ちょっと黙っててくれないか」
「……えっと、ごめん」
「君はいつも同じような事しか言わない。だったらもう何も言わないでくれよ」
「それも、ごめん、なさい」
「僕は君からの重圧を抱えながら、それでも無いセンスとか才能とかを無理やり絞ろうと必死なんだよ。まるで雑巾みたいに」
「……才能はあるよ。絶対」
恐る恐る反論する。これだけは言わないといけなかったから。でも、それが間違いだった。言葉はどれだけ正しくても、言わない方が正しい事もあるらしい。
「いい加減にしろ」
叫ぶように、大きな声で言いながら葵は立ち上がる。私はそれにまた驚いて椅子ごと少し後退する。彼は抑えきれない感情を、それでも必死に抑えようとしているみたいに泳いだ目でどこかを見ていた。
「才能がどうとか小説家になるとか、簡単に言うなよ。僕がどうして小説を書いてるのか分かってるのかよ。君が言うからだよ。君に言われて、僕が調子に乗ったからだよ。今僕が苦しんでるのが君のせいとは言わない。でも、君がいなけりゃ僕は小説を書いてないんだ。書かない方が楽だと思う。こんな事せずに、楽しい事だけやってりゃよかったって後悔もする」
その時、葵は泣いていた。
彼が涙を流したのを何度か見た事ある。でも今までのそれとは全く違っていた。何が違うのかは分からない。痛いわけでも悔しいわけでもない。でも彼は今、私の前で泣いている。
たった一つだけ分かる事。私が、彼を泣かせてしまったという事。私がずっと、彼を苦しめていたのだと言う事。
「僕は、小説なんか書きたくないんだよ」
八月三十一日だと言うのに外は土砂降りだった。その土砂降りの街を、私はひたすらに走った。行く当てなんかない。とにかく逃げたかった。何から? 葵から。葵を泣かせてしまった事実から。葵を苦しめ続けた自分から。世界から。何もかもから逃げたくて、何もかもを壊して欲しくて。だから私は走り続けた。
私はどうすればよかったのだろう。もう止めていいと言えばよかったのか。一言謝ればよかったのか。私はどうしたいのだろう。彼に小説を止めて欲しいのか。彼に許して欲しいのか。分からない。ただひたすらに苦しい。息ができない。寒い。顔を伝っているものが雨粒なのか涙なのか、自分でも分からない。苦しい。死んでしまいたい。
ふと気付くと私は地面に転がっていた。手の平と膝が酷く痛くて、それでようやくつまずいたのだと分かった。体を無理やりに起こす。コンクリートに座り込んだまま目を瞑ってみたけど、葵の悲痛な声と泣き顔が離れてくれない。雨は涙も血も流すくせに、苦しみだけは洗い流してくれないらしい。
もう一度目を開けて横を見る。濡れた視界と煙る雨の向こうに、辛うじて何かが見えた。あれは、鳥居だ。
痛む足で無理やり立ち上がり、鳥居をくぐる。本殿に続く階段は滝のように水が流れていて、足を取られないようにするのが精一杯だった。一段一段、強く足を踏みしめる。
階段を登りきると小さな社が現れた。ボロボロで塗装もされていない、古びた木製の社だ。私は屋根の下に移動し、倒れ込むようにしてその場に寝転がる。
このまま消えてしまえたら楽だろう。このまま死んでしまえたら楽だろう。でも、死ねたら楽だけど、死ぬのは楽じゃないのは何となく分かる。きっと風邪でもひいてあの気持ち悪い家に帰って、それで数日休んだらまた学校に行くのだろう。また葵に会うのだろう。彼はまだ小説を書くだろうか。いや、私は書いて欲しいのだろうか。それとももう止めて欲しいのだろうか。やっぱり分からない。
神様、もしいるのなら教えてください。私は何がしたいのでしょう。
「うわ、汚ねえな」
どこからか声が聞こえた。体を起こすのが面倒で、寝転んだ態勢のままそちらを見る。すると、社の裏から白い猫が現れた。猫はこちらを睨んでいる。
「貴方が喋ったの?」
「猫が喋ったら問題でも?」
「……いや、別に」
普段の私なら問い詰めていたかもしれない。でもその気力も湧かなくて、そう言うだけに留めた。猫は「なんだよ」とつまらなさそうに言った。幻覚と幻聴を同時に起こしているかもしれない。もう風邪をひいたのだろうか。
「さっさと帰れ。ここ俺んちなんだよ」
「嫌だ。帰りたくない」
「なんだ、反抗期か」
「色々あるんだよ」
「お前、俺に向かって色々とかよく言えるな」
なぜかうんざりしたように言われてしまった。猫には猫の事情があるのかもしれないけど、私にだって人間なりの事情がある。いや、分類は関係ないか。私個人の問題だ。
「じゃあその色々を解決してやったら帰るか?」
「それが本当にできるなら」
「できるかどうかは聞いてから考える」
そこで私はようやく、上半身をゆっくりと起こした。隣でこちらを睨む猫を見る。どこからどう見ても普通の猫だ。
「貴方、なに?」
「質問が雑だな。もっと簡潔に聞け」
「本当に猫なの?」
「そうともそうじゃないとも言える」
「ふざけないで」
「ふざけてない。今は猫だよ。あるいは、猫の形をしてるだけかもな」
「じゃあ本当の形はどんなの?」
「それは俺も知らない。別に知りたいとも思わない」
「もう一回だけ訊くね。貴方、なに?」
私が言うと、猫はしばらく私を見つめた後で一つ小さな欠伸をした。そして「怖いもの知らずだなお前」と少し苛立ったような声で言われてしまった。
「なにってそりゃあ、あれだよ。お前らの言うところの神様ってやつ」
その言葉を百パーセント信じたかと言われると、全くもってそうではない。でもよかったと思ったのも事実だ。そのくらい非現実的でぶっ飛んでいた方が幾分か楽だった。少しの間嫌な事から目を逸らせる気がしたから。
私はついさっきまでの出来事を彼に話した。いや、それよりもっと前の話からだ。私がどれだけ彼を苦しめていたのか、追い詰めていたのか。そしてそれを今日になって瓦解させて泣かせてしまった事も。彼は黙って耳を傾けていたが、話し終えると「反抗期じゃなくて思春期か」と呆れたように言った。
「それで、お前はどうしたいんだよ」
「それが分からないから話したんだよ」
「分からないから話したって、悩み相談じゃねえんだぞ」
「悩むのも面倒だからもう死にたい」
掠れた声が口から漏れ出る。彼はしばらく口を閉ざしていたけど、やがて一言だけ、私に向かってこう言ったのだ。
「やり直せばいいんじゃねえの」
私はその言葉の意味がすぐには理解できず、首を傾げた。
「やり直すって、何を? どうやって」
「何をやり直すかは知らねえよ。でももう一回今日をやり直せるなら、そうするだろ?」
それは、もちろんだ。そんな事が本当に可能ならそうしたい。今日を、八月三十一日をもう一度。
「でも私の中から過去は消えない。葵を泣かせてしまった事実はずっとある」
「じゃあ上書きだな。お前の記憶も塗り替えればいい」
「できるの?」
「俺にできない事は無い」
これが幻覚でも幻聴でもよかった。とにかく縋ってみたかった。だから私は頷いた。あるいは、もうどうでもいいというある種の破滅願望だったかもしれない。
「じゃあお願い。今日という日を書き換えて欲しい。私と葵は笑い合って約束をした。そういう風に」
「それはいいが、たった今日の日だけをあれこれ弄るのは面倒だ。繊細な作業なんでな。だからお前の中から今日という日を、つまり八月三十一日って概念を消す。それなら飲み込んでやる」
「それじゃあ私と葵が約束をしたって事実はどうなるの?」
「そのまま三十日、お前にとっては八月の最終日にずらす。そっちの方が楽でいい」
「分かった。それでいい」
私と葵は八月三十日に、笑い合って約束をした。そして今後、私の中から八月三十一日という概念は無くなる、らしい。事の大きさを測りかねているが、別にどうでもよかった。今日の出来事が最初から無かった事になるなら、それだけでいい。
「ありがたいけど、でも、どうしてここまでしてくれるの?」
ふと、全く関係も脈絡も無い疑問が湧いた。彼は少し鼻で笑った後でこう答える。
「簡単な話だ。猫は気まぐれなんだよ」
理由になってない。言おうとしたけどそれも面倒で止めた。変な事を言って気が変わってしまったら大変だ。このままでいい。
雨が絶えず社を打ち続けている。明日、私と葵はどうなっているのだろう。いつも通りに笑っていられるだろうか。あるいは今この瞬間家のベッドで目が覚めて、全てが夢だったとしても別に驚かない。むしろそちらの方が可能性としては高い。まあ、もうどっちだっていいか。どうでもいいか。考えるのも億劫で溜め息を一つ吐いた時、隣の彼が「ところで」と口を開いた。
「書き換えるって行為はすっかり消すよりも少しややこしくてな。とある問題が起きる」
「問題?」
「今日起きた事、今日という概念。それだけを独立して別で置かなければいけない。早い話、葵を泣かせた記憶を持った別のお前が生き続ける」
「……つまり?」
「今、お前は苦しんでいるだろう。その苦しみを別のお前に押し付ける。そいつはその苦しみのままに生きていく。もちろん、お前はそんな事すら忘れてのうのうと生きていく」
私がもう一人。でも関係ない。そいつは私じゃないし、そいつが苦しんでいたところで私は苦しくない。他の誰かが苦しんでいたら助けるのが正しいけど、私自身なら構わない。
「葵と笑っていた事実を抱き留めておけるなら、そんなのどうでもいいよ」
私が言うと、彼は「そうか」とだけ言った。
これで本当に何か変わるのだろうか。いや、彼の言う通りなら記憶が無くなるのだから変わった事すら認識できないのだろう。まっさらに、私はまた葵と笑って生きていく。指切りをして約束を交わす。
「……お前が消え去ってしまいたい苦しみそのもの。強いて名前を付けるなら、それは」
* * * * *
百円玉を二枚入れて缶コーヒーを一本買う。微糖と無糖で少し迷って無糖にした。コーヒーは飲まないから味の違いは分からない。でもこういうのを飲む人は苦いのが好きなのだろうし無糖でいいはずだ。安直かなと思いつつお釣りを取る。
取り出したお釣りをそのまま全て入れて、百円玉をもう一枚だけ追加する。あとは私の分だけどどうしよう。この中ならリンゴジュースかミルクティーだろうか。いや、こっちの抹茶ラテも捨てがたい。どれも美味しいのは間違いないけど迷ってしまう。
こういう時に自分の性格が徒になっているなと感じる。映画館やファミレスならまだ人気のものが分かりやすくてそちらを選びやすい。でも自動販売機で一番人気の商品が教えられている事は稀だから正解が選びにくい。どうしたものか。
その場で立ち尽くしていた時、並んだ商品の中から缶コーヒーのパッケージが目に留まった。葵の為に買った無糖のものだ。私は少しだけ迷った後、そのボタンを押す。ごとりと商品が落ちた重々しい音がした。
両手に缶コーヒーを持って歩きながら考える。私は未だにコーヒーが苦手だ。これを買うのが一番不正解だと分かっている。でも、海が綺麗なあの砂浜でコーヒーを飲む葵を想像した時、なぜか私もそうしたいと思った。彼と同じものを同じ場所で体験したいと思ってしまった。その一瞬の衝動が私の身体を走った時には、もう既にボタンを押していた。まあ、たまにはこういうのもいいか。どうしても駄目なら葵に押し付けよう。
口元が少し緩くなっているのが自分で分かる。彼は私に告白をしてくれるらしい。とても長い話になるとも言っていた。それがたまらなく嬉しい。もう彼はそれを言い訳に私の前から消えたりしないから。ゆっくり、ゆっくり。地球の自転のように、あるいは私達がこの世界を歩んできた速度のように。気の遠くなるくらいの時間をかけて話して欲しい。そしてその全てをしっかりと受け止めたい。そんな事を考えながら防波堤沿いを歩き続け、ようやく海へと続く場所に辿り着く。
街灯の下に差し掛かった時、海の方へと目を向けて私は気が付いた。人影が二つ見える。一つはもちろん葵だ。でも、彼に相対するようにもう一人誰かがいる。女性と思われる細くて華奢な線、そして覚えのある形をした制服のスカート。あれは。
「……女神様?」
私が呟いたのと同時に、彼女がこちらを見た。顔にはいつもの仮面が付けられている。やっぱり女神様だ。足元にはジーもいる。
その直後に葵もこちらを見た。目が合った。そして、私は気付いてしまった。彼が、泣いてしまいそうな顔をしている。
その瞬間、彼は右手の親指だけを立ててこちらに見せてきた。例のハンドサインだ。君はここに来てはいけない。私はあそこに行ってはいけない。
でも私は、その意味を考える前に走り出していた。両手に握っていた缶コーヒーをその場に投げ捨て、一直線に葵の元へと向かう。彼は駆け寄ってくる私を見て、絶望したような表情をした。行ってはいけないというのは分かる。直感でも理性でも理解している。でも、そんなの関係ない。それ以上に大事な事があるから。
何があったの。どうして泣きそうな顔をしているの。私はもう、君のそんな顔なんか見たくないのに。どうしても泣かないといけないなら、私の隣で泣いてよ。私が涙を止めてあげるから。
すぐに二人の元まで辿り着き、私は息も絶え絶えに「どうしたの?」と訊ねる。葵は未だに泣きそうな顔をしていて、そして女神様はなぜか少し楽しそうだった。
女神様は両手を後頭部に回して何かをしている。一瞬だけその意味を考えたが、理解する前に全て分かってしまった。ポトリと、砂浜の上に仮面が落ちる。
「私の名前は、八月三十一日だよ」
女神様の顔を見て思わず息を呑む。目の前にいたのは私自身だった。私が着ていた高校の制服を着て、高校の時の私と同じ顔をしている。一つだけ違う点があるとすれば、私はこんなにも楽しそうな顔で笑わない。
そしてようやく、その瞬間に全て思い出した。思い出してしまった。十年前の夏を。葵を泣かせてしまった後悔を。あの神社で神様にお願いした甘っちょろい戯言を。私の中の、三十一日の概念を。
葵を見る。震える瞳を見た瞬間に理解した。葵も同じように、あの日の全てを思い出したのだと。
「よかった。ちゃんと思い出したみたいだね。まあそうじゃなきゃ神様が嘘ついてるって事になるから」
「……どうして」
「そういう風にお願いしたからだよ。このタイミングで、あんたが全部思い出すようにって」
違う。そんな事を聞きたいんじゃない。でも何を聞きたいのか私にも分からない。何を言えばいいのかも分からない。
そして目の前の彼女は、三十一日は、私は。私の中で渦巻く全てを見透かした上で楽しそうに笑っていた。
「いつも通る道に知らない占い屋がいて引っ越した方がいいって言われたらしいね? なんとなく知らない土地を歩いて、そっちには海があって、早朝には珍しい暖かい風が吹いて、前を見たら葵がいたらしいね? まさか全部信じるとは思わなかった。全部運が良いとか悪いとかで片付けてたの? どんだけ頭お花畑なのやら。我ながら恥ずかしくなる」
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。でもすぐに理解した。させられた。
十年前、あのタイミングで親の前に占い屋が現れて突然に転校させられた事も。
五年前、あのタイミングで海に行って葵と再会した事も。全て、こいつが。いや、私が。
「あんた、葵にずっと言ってたよね。『逃げるな』って。どの口が言ってるんだよ、ほんと。あんたが自分の過去から逃げ続けてたせいで、私はずっと苦しんでた。この十年ずっと。悲しかった。辛かった。私はずっと葵を苦しめてたから。そして今もこれからも、あんたは自分のやった事から逃げて葵を苦しめようとしてるんだ」
葵に目を向ける。不安げな瞳で、泣きそうな瞳で私を見つめている。
「あんたは私なんだ。あんたが一番嫌いな『間違い』から生まれたあんた自身だよ」
苦しい。息ができない。寒い。泣いてしまいたい。死んでしまいたい。
「葵と再会して運命だと思った? 報われたと思った?」
そうか。私はずっと。
「残念。罪からは逃げられない」
* * * * *
「残念。私からは逃げられない」
どうして気付けなかったんだ。彼女に抱いていた違和感の正体を。
彼女が僕らと同様に成長する度、容姿は明らかに和香那に似ていった。時たま声を発する時だって和香那の声に似ていたはずだ。あとほんの少しだけでも違和感の糸を手繰り寄せていれば、きっと気付いていた。
『……えっと、名前だよね? 〝みいち〟ちゃん、とかかな? 珍しい名前だね』
『名前じゃなくて年齢じゃないかな?』
『三十一歳には見えない』
『逆じゃない?』
『あ、十三歳か』
違う。あれはやっぱり名前だった。右手で数字の三、左手で一を示していた。名前を訊かれて「三十一日」と確かに言っていたのだ。
『……えっと、五歳?』
『学年じゃないかな』
『あ、五年生って事か。じゃあ、小学五年生の十三歳だ』
年齢だってそうだ。五年生だと言ったわけじゃない。ちゃんと五歳だった。十年前のあの夏、僕と和香那が約束をした日に生まれたのだとしたら、あの時は年単位で数えて本当に五歳だったのだ。
恐る恐る和香那の顔を見る。けど、すぐに逸らした。逸らしてしまった。見てはいけないと直感的に思ったから。こんな顔をする和香那を僕は初めて見た。どういう風に言い表せばいいのかも分からない。映画のどんな悲惨なシーンでも、きっと僕は目を逸らさないのに。
「考えたんだよ。どうすればあんたに復讐できるか。幸せの絶頂からどん底に落としてやれるか。だからまずは葵と物理的な距離を置いた。そうすれば再会した時に喜びが生まれるから。でもそれだけじゃ足りない。私は女神様として葵に接触して、一度完全に筆を折らせた。そうすればあんたがまた無理やり小説を書かせようとするのは知ってたから。あとは口実さえ与えれば、葵はすぐにでもあんたを遠ざけようとする。当然、あんたがそれを止めようとするのも分かる」
少し興奮気味に、早口にまくし立てる。彼女は本当に楽しそうだった。普通の高校生がテーマパークを楽しむように笑っていた。だから怖かった。和香那がこんなにも大きく笑っている顔を僕は初めて見たから。本人だけど本人じゃない。CGで無理やり笑わせていると言われた方が納得できる。
「そこで種を明かしても良かったけど、せっかくならあんたと葵が再会した時と同じ、高校生の姿でやってやろうと思ってまた五年待った。その方があんたが傷付きそうだから。ついでにその五年って時間で、あんたと葵がもう引きはがせないような関係になるのも分かってた。まるで翼みたいにね。まあ一石二鳥ってやつだよ」
彼女は笑った顔のまま、細い目でずっと和香那を見つめている。和香那の方は酷く怯えたような目のままだった。そんな顔を僕は見たくなくて、和香那の手に目をやった。夏の夜は蒸し暑いのに、ガタガタと震えている。
「……どうして?」
「え? それはどうしてこんな事をするのかって言いたいの?」
「どうしてそんなに、私を憎むの?」
「理屈じゃないんだよ。あんたが一番よく知ってるでしょ。星和香那って人間が、どれだけ間違いを憎んでいるのか。その憎しみがそっくりそのままあんたに返ってきてるってだけの話。それに加えて葵を苦しめてた事実もね。よくもまあ、のうのうとできるよね。どの面下げて生きてるのやら」
息を吸う音が聞こえた。和香那の息遣いが荒くなっている。
「君の目的は?」
女神様に訊ねたのは僕だ。質問の内容はなんでもよかったけど、とにかくお互いの意識からお互いを遠ざけたかった。
「こいつに復讐すること」
「じゃあもう用件は済んだはずだ。散歩の続きでもしてきたら?」
「え? どうしてこれで終わりだと思うの?」
舌打ちが出そうになったのを我慢する。どうやら僕は今明確に、彼女に苛立っているらしい。和香那以外の誰かに腹を立てるのは初めてかもしれなかった。
「このまま何もしなければ、あんたはずっと葵に小説を書かせる事になる。葵はきっと苦悩する。そして葵にそれを強制させている自分の存在も許せなくなる。苦しいよね。しんどいよね。このまま死んじゃいたいくらいだよね。でも、一つだけ解決する方法を教えてあげる」
彼女がそう言った時、本当に一瞬だけ和香那の瞳が動いた。多分期待していた。ここから救われる方法があるのだと。でもそれが既に間違いだ。彼女の目的はどこまでも、和香那を傷付ける事にある。
「あんたがお願いするなら、最初から全部無かった事にしてあげる。五年前、葵がしようとしてたみたいに。つまり、あんたの記憶から葵を消してあげる」
「いやだ」
震える声で言ったのは和香那だ。和香那は涙を流していないのが不思議なくらいに歪んだ顔をしていた。
「私には、葵が必要」
「うん。知ってる。だからこんな方法を提示したんだよ。あんたは絶対に選べない。だからこれ以上苦しまないよう、自分から消えちゃう方を選ぶしかない」
「和香那を舐め過ぎだ。こいつはそんなに弱くない」
「弱いよ。弱いに決まってる。弱くて脆くて情けなくて醜い。だって私自身だもん。私が一番よく分かってる」
また楽しそうに和香那を見ながら言った。和香那はそれに何も言わず、ずっと口を固く結んで彼女を睨もうとしている。山で熊に出会った時のように、怯えを帯びた目で。
「あんたが消える事を選ぶなら当然、一人取り残される葵の事も考えてあげないとね?」
「……なにが言いたいの」
「葵の記憶から、あんたの存在を消してあげてもいいよって話」
和香那の目が僅かに大きく開かれる。僕はそれを見て彼女の発言の意図を理解した。
和香那が僕の前からいなくなるなら、僕は一人で苦しみ続ける。和香那の不在と、たった一つだけ残された十年前の約束に縛られ続ける。だったらもう、僕の中から自分の存在を消した方がいいのではないか。最初から自分などいなかった事にするべきではないか。和香那ならきっと、こう考える。
「あんたは私。だから分かる。断言する。あんたは私に首を垂れてお願いするしかない。『葵の中から私を消してください』って。それで、葵の前から姿を消すしかない」
そこまで言うと彼女はうんと身体を伸ばして、小さく口を開いて欠伸をした。傍から見れば潮風に気持ちよく当てられているだけに見える。確かに、熱の籠る体にはちょうどいいのかもしれない。でも僕と和香那は、どちらかと言えば寒気を感じていたはずだ。
「まあ安心してよ。あんたのいない世界で、小説なんかに関わらず穏やかに過ごす葵を私が見ててあげるから。そもそも私は最初から、葵に小説なんか書いて欲しくなかったんだ」
女神様は最後にそれだけ言って、ようやく立ち去った。
* * * * *
八月が終わって九月になると、誰かが示したかのように気温が低くなった。タンスの一番下にあった適当な長袖を出してみたが、少しかび臭くて着る気にはなれない。代わりにクローゼットに下げっぱなしだった上着を一枚羽織って外に出てみた。半袖だと少し肌寒いくらいの気温だったからちょうど良かった。
図書館の入り口の、その横に備え付けられている返却ボックスに本を入れる。ごとん、と本が落ちる音がした。わざわざカウンターまで行かなくても済むのは手間がかからなくていい。
「それ、面白かった?」
やや後ろから声が聞こえる。振り向くと、同じように本を一冊手に持っている和香那が立っている。同じ日に借りたのだから当然返却期限も同じだ。けれど期限日は明日。和香那も明日に返すだろうと思って一日ずらしたのだが、どうやら向こうも同じ考えだったらしい。
和香那はいつもと変わらない、どこまでも静かな顔でこちらを見ている。僕は彼女の問いかけに対し、少し考えてこう言ってみた。
「あまり好きな本じゃなかったな」
小説家を目指していた男が、夢を諦めるまでの物語。後半に差し掛かるまでは良かった。くどいくらいに書かれている心情と情景が心地良くて、穏やかな気持ちでいられた。ところが終わり際になると、主人公は「やっぱりもう少しだけ」と筆を握る。自分の夢を見限る事ができず、かと言って本気で立ち向かうわけでもない。その中途半端な姿勢が気に食わなかった。
僕がそんな風に感想を伝えると、和香那は歩きながら「そうかな」と無感情に言った。
「きっぱり諦めるよりはいいと思う。何かの拍子で叶う事もあるかもしれない」
「でも別のものに目を向けたら、もっといい何かを見つけられるかもしれない。そっちの方が手っ取り早く手に入れられるかもしれないし、幸せの密度は高いかもしれない」
僕はそこで、彼女が何か反論をしてくれると思っていた。彼女が一を言えば僕は十を言って、そして十より大きい一を彼女は返してくれる。僕らは当たり前のようにそうやって成り立っていた。
「そういうものなのかな」
だから、彼女が何も言い返してくれなかった事が悲しかった。そして同時に、少し腹立たしくもあった。
「そう言えばご飯は食べた?」
「食べてない。葵は?」
「僕もまだ。どこか食べに行く?」
「外食に行くとお金かかるから迷う。自炊はそれなりにしてるんだけど」
「僕もいい加減に自炊を覚えなきゃ。コンビニばっかりだ」
そこで僕は「あ」と声をあげた。和香那が「え」とこちらを見る。
「あ、いや、キッチン用品を買わないとって思い出してさ。よかったら一緒に見に行かない?」
このまま真っ直ぐ行けば雑貨屋に辿り着く。和香那は僕の問いに「もちろん」と頷いた。
夏休みのシーズンも終わった平日、街中に人は少ない。時たま車が通り過ぎ、風が空を切る音が耳元で鳴るくらいだった。
ふと和香那を見ると、彼女はジーパンと長袖のシャツというシンプルな服装だった。白いシャツの胸元には「あぼかど」とだけ小さく印字されている。なるほど。渡良瀬さんが苦労するわけだ。それを言ってみようかとも思ったけど、なんだか気乗りしなくて止めた。
雑貨屋までは歩いて十分程だった。道中で何の会話をしていたか思い出せない。別に思い出す必要はないけど、思い出せないという事実に少し焦燥感を抱きつつ、お店の入り口を通る。店内は有線か何かの音楽が小さくかかっているくらいで静かなものだった。僕ら以外に人もいない。キッチン用品のコーナーはお店の隅にあった。
「何が欲しいの?」
「何から揃えればいいかも分からないけど、とりあえず包丁とか?」
「え、包丁も無いの」
棚に並んでいたうちの、一つの包丁を手に取ってみる。持ち手が明るい緑色をした中々重厚感のある包丁だ。これならなんでも切れそうで便利かもしれない。
「料理が趣味の人はそれでいいかもしれないけど、葵は普通のセラミックでいいと思うよ」
「何が違うの?」
「セラミックはサビないし長持ちしやすい。だから普段使いしなくて長持ちさせたいって人に向いてる。逆にこっちのステンレスは切れ味は良いけど——」
和香那はそういう風に包丁についての説明をしてくれた。ただ一口に包丁と言っても多種多様なようで、色々と教えてくれたけどあまり理解できなかった。それよりも和香那から何かを教わるという珍しい状況に気を取られていた。
「やっぱり包丁は止めようかな」
「え、じゃあ何買うの。自炊の為じゃなかったの」
「自炊っていうか、手っ取り早く美味しいものが作りたい」
僕は「こういうの」と言い、別の場所に並んでいたコーヒーメーカーを手に取ってみる。これがあれば朝に目覚めの一杯が作れそうだ。
「美味しいかどうかは知らないけど、材料費とか考えたら缶コーヒーの方が安そう」
「出来立ての香りと美味しさに適うものはないよ。少しお金を出したとしてもね」
「私も飲むようになったら分かるのかな」
彼女がそう言ったタイミングで、多分僕と彼女は同じ事を考えていたと思う。あの日彼女が買ってくれて、そして砂浜に投げ出された二本の缶コーヒー。
「……やっぱり、コーヒーはまだ苦手なんだね」
並んだキッチン用品を眺めながら言ってみる。和香那は肯定も否定もしなかった。店内に緩くかかっている音楽が耳を通り抜ける。
「神様から聴いたよ。つまり、あの猫から。君も昔の事を思い出したんだろ?」
僕が訊ねると、今度は静かに頷いた。
何を言うべきか迷った。でも何も言わない方が正解だと気が付いて、だからあの夜の出来事について触れてしまったこと自体に後悔した。何も知らないふりをしていた方がよかったんじゃないかと。
でもきっと違うのだ。和香那を前にしてそんな考えはしちゃいけない。彼女をおおよそ普通の人間扱いするのは、きっと彼女に対する侮辱に値する。どこまでも正しくなくてはいけない。何かを言い淀んだり知らないふりをしたり。そんなのは、僕みたいに普通に弱い人間にだけ通用するものだ。
「君にとって、正しい事ってなに?」
「直感で分かる事だよ。何が正しくて何が間違いなのか。人は苦しまない方がいい。誰も傷付かない方がいい。みんな幸せな方がいい。子供にも分かるくらいに単純な事」
「じゃあ教えてよ。僕らは今、どうするのが正解なのか」
だから僕は訊ねたのだ。彼女はどこまでも正しくて真っ直ぐで眩しくて、そして美しいと思っていたから。彼女が歩む軌跡そのものを正しさと呼ぶから。それが星和香那だと理解していたから。でも。
「……ごめんなさい。わからない」
でもそれは違った。そうだと信じていたかっただけだ。そう在って欲しいと祈っていただけだ。僕の我儘だ。彼女は迷う事なんてなくて、ただ信じた道を進むだけだと思いたかった。五年前と何も変わっちゃいないじゃないか。僕の我儘で僕の理想を押し付け、そして彼女を苦しめている。
「このままじゃいけないって事だけは分かる。でも、葵の記憶から私を消すのか、私の記憶から葵を消すのか。それとも、お互いがお互いを忘れてしまった方が楽になれるんじゃないか。そもそも葵はこのまま小説を書き続けるべきなのかとか。考えるべき事はたくさんある。一つ一つ丁寧に片付けていかなきゃいけない。分かってる。なのに」
和香那はそっと、僕の手首を掴んだ。驚くくらいに冷たく、そして弱々しい。
「たった一つだけ、私を邪魔するものがある。それは小さくて些細で、風に飛ばされてしまうくらい軽くて、でも私にとってあまりに大きすぎる」
途切れ途切れで、たどたどしい言葉。僕がその正体を訊ねる前に、和香那は僕の顔を覗き見た。彼女の瞳は怯えているようにも震えているようにも見えて、怒られた子供が親を見る時の目のようだった。
「私、葵を忘れたくない」
そしてその瞳は、かつての僕だ。
あまりに個人的でエゴイスティックな願い。それを叶える為なら、どんなに大きなものでも犠牲にしたい。他の何を差し置いてでも、それだけは強く抱き抱えていたい。かつての僕もそうだった。だから僕は世界から一日を奪い去った。
「葵がいない世界でどうやって生きていけばいいか分からない。葵のいない世界が怖い。想像もできない。もちろん、葵が私を忘れちゃうのも同じ。私は正しくなきゃいけない。自分自身を肯定する為に、自分以外の全てを守る為に、私は直線でなきゃいけない。葵が愛してくれた私でありたいから。でも」
和香那は、ゆっくりと僕に顔を近づける。壊れる寸前の瞳は、僕を捉えたまま離さない。
ゆっくりと、僕との距離が縮まる。彼女の肌には毛穴が無いんだと知った。眉が切り揃えられているのだと知った。まつ毛の広がり方を知った。琥珀のような瞳の色を知った。鼻の形を知った。唇の色を、形を、厚みを知った。こんなにも近くで、和香那を感じた事は初めてだと気付いた。
「……どうすればいいか分からない。助けて、葵」
彼女が掠れた声で言葉を音にする。その度に唇からの息遣いを知る。和香那は目を閉じる。彼女の息の仕方を知る。繋いだ手の脈拍が一層に逸る。彼女の鼻息が僕の肌を撫でる。彼女の唇から発する体温が僕の唇を伝う。今まで最も近く、左頬の傷跡が視界に入る。
そして。
「……ごめん」
僕は、目を逸らした。
分かっている。彼女が今、何をしようとしたのか。そのくらいは理解できる。でも僕にはできなかった。こんな慰めで彼女の傷が少しでも癒えるならそうした方がいいに決まっているのに、なぜ。分からない。
和香那が瞼を開ける。未だ怯えたような目をする彼女に、僕は何ができる? 何を言ってやれる?
「五年前は僕も同じだった。僕の我儘でロストデイを起こしたんだ。君の我儘が通らない道理は無い。一緒に探そう。君も僕も、あの子も。誰も苦しまない方法を」
言いながら自分で思う。こんな詭弁があるかよ。こんなにも薄っぺらい言葉があるかよ。分かってるはずだろ。誰も彼もが救われる道は、もう無いんだ。だから選ぶしかないんだ。それを彼女に選択させるしかないんだ。何が正しいのかを、彼女に決めてもらう他ないんだ。
「……そうだね。それが、正しいはず」
和香那はそっと手を離す。少し名残惜しそうに。
こんな彼女を見たくなかった。こんなにも弱くて、迷っているような星和香那を僕は知らなかった。それを彼女に強制させているのは彼女自身だ。そして僕だ。
「……ごめん。頭冷やす。一人で考える」
和香那はそう言うと、僕に背を向けて店の出口へと向かった。僕はその背に言葉を投げる事もできなかった。ただ茫然と目で追っていただけだ。教師から僕を庇ってくれた背中を思い出した。十年前と何も変わっていない。
雑貨屋の一角、キッチン用品が並ぶ棚の前。僕は一人、手に残った彼女の体温を強く握りしめる。小さな音で流れているラブソングに心底苛立ちながら。
* * * * *
夜になると気温はより下がり、外気に曝された肌が冷たくなっていく。買い物袋を右手に、空いていた左手をポケットに入れた。
ざりざり、と細かな砂の上を歩く。足が重たい。できればここには来たくなかった。できれば会いたくなかった。だから、もしここに来て誰もいなければ諦めようと思っていた。いないのだからしょうがない、と。
そんな僕の小さな希望は、ブランコに揺れている彼女を見て簡単にひび割れてしまう。彼女は周辺の仄かな街灯に照らされ、いつものようにジーを撫でていた。
「こんばんは」
声をかける。女神様は膝上のジーから顔を上げて「こんばんは」と言った。僕の知っている声音よりも幾分か明るいように感じた。僕は彼女がしっかりと見える距離で正面に立つ。
「葵が来るとは思わなかった」
「どういう意味?」
「あいつの方が先にくると思ってたから」
それはつまり以前に言っていたような理由だろう。僕が和香那を忘れるにしろ、和香那が僕を忘れるにしろ、和香那はここに来る必要がある。その時が来るのは時間の問題だ。女神様はそれを待っているらしい。
「もう猫の仮面は付けないんだね」
「必要なくなったって言ったじゃん。あれ邪魔だったんだよね」
「僕は仮面を付けてる方が好きだったよ。得体が知れないというか、ミステリアスな感じが正に女神様って感じで」
「うそつき。私があいつと同じ顔してるのが気に食わないだけでしょ」
女神様は少し嫌そうな顔をしながら言った。確かに和香那と同じ顔だ。というか元が同じ人間なのだからそれはそうだ。でも嘘を吐いたつもりはない。仮面を付けていた方が好きだと言うのは本音だ。それを口に出して反論する気力は無くて「そうかも」とだけ小さく言った。
「あと分かってると思うけど、私は女神様じゃないよ。私も星和香那そのものなんだから」
「それはそうだけど和香那って呼ぶと面倒でしょ? 二人いるんだからややこしい」
「一方だけを違う名前で呼ぶのは差別だよ」
「言いがかりだ。区別って言って欲しいな」
「偽物扱いされてるみたいで嫌なの。私も本物なのに」
「どっちが本物とか偽物とか、そんな事を決めるつもりはない」
膝上のジーに目をやる。彼は一瞬こちらを見た後で、何事もないようにすぐ目を逸らした。どうやらすっかり猫の気分みたいだ。人語で話すつもりはないらしい。
「私を恨んでる?」
ふと、女神が訊ねる。僕は少し警戒した。質問の意図が分からなかったから。
「逆に訊いてみるけど、恨まれてると思うの?」
「そりゃあそうに決まってる。恨まない方がおかしい」
「どうして」
「だって、全部ぶっ壊したから」
思わず息を吐く。全くもってその通りだ。彼女は僕の全部を壊した。十年前からこの瞬間を虎視眈々と狙っていた。そして狙い通りに全部滅茶苦茶になった。でも。
「恨んでないよ」
ぽつりと言葉が零れる。女神様は少し意外そうに、虚を突かれたように目を丸くした。
「そりゃあ最初は恨んでたかもしれないけど。でも君の言う通り、君も星和香那だ。全部和香那が選んでこうなってる。だったらもうどうしようもない」
本心だった。今、目の間にいる彼女を恨む道理は無い。女神様を恨むという事は、和香那を恨む事だ。悪い言い方をすれば自業自得なのだから。
「……甘いのか厳しいのか分からない」
「正しいと思う事を言っただけだよ。誰かさんみたいに」
僕の言葉に女神様は一瞬また嫌そうな顔をしたが、それを隠すように俯いてジーを見た。顔を見せぬまま「それで?」と問いかける。
「どうしてここに来たの?」
「少し話したい事がある」
「葵が訊きたいような事は全部話したつもりだよ。私の動機も、過去も。他に何かある?」
「君じゃない」
そう言うと女神様はまた顔を上げた。僕は「彼だよ」と膝上で退屈そうにしていたジーに目をやる。
「神様と少し話がしたい」
そう言うとジーは、神様はこちらを鋭い目で睨んだ。どういう感情なのかは分からない。しばらく見つめ合っていたけど、やがて向こうが観念したように息を吐いた。猫がそんな事をする瞬間を僕は初めて見た。
「別に俺にしたって同じだろ。全部話した。他に何が訊きたい?」
「訊きたい事はたくさんあるよ。神様と話す機械なんて中々ない」
「だったらそれこそ供物でも持ってこい。相談料ってやつだ」
「今更欲しいものなんてあるの?」
「勇気とか」
「五年前のあの日、どうして突然いなくなった?」
生産性の無いやり取りに飽きたから本題を突き付ける。神様がそれに小さく舌打ちをしたのが聞こえた。女神様はつまらなそうに、会話の行く末をぼうっと眺めている。
「和香那もそうだったが、お前ら俺を舐めてねえか」
「女神様の動機は理解した。でも分からないのはそこだよ。どうしてあの日、あの雨の中であんな場所にいた? 君が望まない限りああはならないだろ」
ジーがいなくなったあの日、土砂降りだったにも関わらず彼は木の上で雨に打たれていた。偶然か必然か、小学生だった和香那と彼が出会ったあの神社だ。
誰かが書いた筋書き通りなら、和香那が瀕死のジーを助けて、僕がそれを見て別れを決意して、でもやっぱり和香那がそれを止めて。そこまでを完璧に見通していなきゃいけない。彼にそこまでする力があるのかどうかは知らない。でも。
「仮に僕の行動も和香那の行動も全てが君の思い通りだったとして、そんな事をする理由は何? 僕らはどうしてここまで女神様の思い通りにさせられなきゃいけない?」
少し早口にまくし立てる。女神様の狙い通りに和香那は苦しんでいる。そこはまだ納得できる。けれどそれを助長させる彼の狙いが分からなかった。
神様は「質問が多いな」と文句を垂れながらも、僕の質問に一つ一つ説明を始めた。
「まず、人間と世界が百パーセント俺の思い通りって事はない。行動のパターンがいくらか決まってるくらいだ。あとはまあ、その行動の流れを誘導するのも多少できる。ケージの中で虫を飼育するのと似てるかもな」
「じゃあ五年前のあの日もそうだって言いたいの? 全部パターンがあって、それを誘導した結果だって?」
僕が訊ねると神様は一瞬ちらりと女神様を見た。女神様は彼と目を合わせ、少し不思議そうに首を傾げる。
「そうでもねえよ。あの日雨に打たれながら木の上にいたのは、俺が勝手にそうしただけだ。それで和香那が俺を助けたのも、お前が別れを切り出そうとしたのも、それをまた止められたのも、全部予定外だ」
「あの日、小説を書くって葵とあいつが約束したから、じゃあ時間を置いて種明かししようって決めたの。そうじゃなければあの時に全部話すつもりだったよ」
女神様が付け加える形で説明をする。つまり、五年前のあの日に起きた事は全て事故だったわけだ。それをチャンスに変えた女神様の手腕は大したものだとつくづく実感する。学力以外の部分で頭の良さを見せつけられるのは、確かに和香那のそれと同じだ。
「勝手にした事ってなんだよ? 仮にも猫である君が、雨の日に木登りをする理由があるの?」
神様は少しの間じっと僕を睨んでいたが、しばらくするとひょいと女神様の膝から降りた。ブランコの前に立ち尽くしたままの僕の足元にやってくる。
「俺は神ってやつだ。でも形としては、存在としては猫だよ。猫が大雨の日に高い所に上って、そこから落ちて川に流されたらどうなる?」
あの日の記憶を思い出す。彼が縮こまっていた木の下には川が流れていた。しかも大雨のせいで水流は勢いを増していた。もしそれが全て、彼の意図したものだったら?
「……死のうとしてた?」
僕の呟きに彼は何も答えなかった。代わりのように女神様が「あの時はちょっと焦った」と苦笑する。
「やっぱり一番理解できないのは君だ。女神様に都合よく使われているかと思ったら、今度は女神様の意思に反して死のうとしてたなんて。行動が全部滅茶苦茶じゃないか」
「まあお前ならそう言うだろうよ。昔に全く同じ経験をしてるはずだからな」
顔をしかめる僕に、神様はぽつりと「親心ってやつだよ」と言った。その単語を聞いた瞬間、僕は十年前の情景を思い出す。小学校の卒業式の後、教室で一人静かに涙を流していた和香那の顔を。
「後悔、とは少し違う。でも責任はある。和香那の願いを聞き入れたのも、こいつをこうなるまで野放しにしたのも俺だからな」
「……それは何に、誰に対する責任?」
「色々だよ。和香那にもお前にも世界にも。何より、神としての在り方にも悖る」
「そこまで悩むのにどうして女神様の言いなりになるんだよ」
「言ってるだろ。親心だって」
女神様を見る。彼女は一瞬戸惑ったように僕と神様を見てまた小さく首を傾げた。何を言っているのか分からない、とでも言いたげに。
確かに、彼女の今までの振る舞いは反抗期の子供のそれだったかもしれない。ただ自分の為だけに産みの親に我儘を言う。そしてそれにどうしていいか分からず、ただ振り回されている彼も親のそれだろう。
「驚いたな。君がこうも人間じみてるとは思わなかった」
「俺も驚いてる。こうも情が移るとはな」
「だから死のうとしたの? その責任とやらを取る為に」
「笑うよな。全知全能の神がそんな事しか思いつかないんだから」
皮肉めいた声音で神様が言う。縮こまったその白い体躯を見て、僕の口からは小さく「笑わないよ」とだけ言葉が漏れていた。
彼が言った通り、親という存在については昔に一度考えを巡らせた事がある。和香那の親はスピリチュアルで熱心な占い信者だった。不確定で何の根拠も無いような迷信を指針にしていた。それで和香那がどれだけ苦しんでいるかも知らずに。目の前の子供より、お金を払った知らない誰かの話の方が大事らしかった。
それと比べれば彼は随分とちゃんとした親だ。目の前にいる子に面と向かい、切実に悩み続けている。僕に子供なんていないから分からないけど、それが親としての正しい在り方なんじゃないかと思う。
「前言は撤回するよ。理解も納得も同情もする。でも、こうなるならやっぱり十年前に和香那の言う事を聞くべきじゃなかった。神社からさっさと追っ払うべきだったね」
「何度も言ってるだろ。猫は気まぐれなんだ」
女神様は退屈そうに一人でゆっくりとブランコを揺らしている。そんな彼女を見て、神様は溜め息を吐くような仕草を見せた。
「で? 俺に訊きたかった話ってのはそれだけか?」
「いや。もう一つだけ確認がしたい。女神様と和香那について」
僕が言うと女神様が「私?」と少し驚いたように言った。僕はそれに頷く。
「元々は一人の人間、星和香那だったのは何となく分かったよ。それで女神様が和香那を恨んでいる理由も」
「一応こいつも和香那だからややこしいけどな」
「でもそれってある意味でバグみたいなものでしょ? 本来はいるはずのない存在なんだから」
「お前ら人間は話が遠回しだからイライラする。もっと簡潔に話せ」
「つまり、そのバグを失くしたらどうなる?」
僕が端的に言うと、神様は僕を強く睨んだ。しばらくそのまま見つめ合っていたが、やがて彼は視線を僕の手元に移す。僕の右手に握られていた買い物袋に。
「なるほどな。それはその為に持ってきたのか?」
「……さすがだね。お見通しか」
僕は買い物袋から箱を取り出し、そこから持ち手が明るい緑色の包丁を取り出す。やっぱり重厚感がある。
「売り場にある中ではこれが一番使い勝手が良さそうだった。刺すのにどのくらいの力がいるか分からないけど」
僕の言葉に神様は分かりやすく顔をしかめる。女神様は考えるように眉をひそめていたが、やがて僕の意図に気が付き「え」と少し大きな声で驚いた。
「刺すって、もしかして私?」
「お前、さっき自分で言ってなかったか? こいつを恨んでないって」
「それはそれ、これはこれだよ。恨んでないけど、そうした方がいいならそうする。しょうがない」
「残念だが、こいつを殺したところで何も変わらねえぞ。こいつがいなくなって和香那はそのまま。今の状況が続くだけだ」
「いや、そうじゃない」
僕は片手で持ち手を握ったまま刃先を足元に向けた。つまり、神様に。
「君を殺したらどうなるのかなって」
彼は一瞬きょとんしたように目を丸くしたが、やがてすぐに弾けたように大きな声で笑いだした。夜の静かな公園に彼の笑い声だけが響く。
神様はそのまましばらく笑い続けていたが、女神様が「そろそろうるさい」と文句を垂れた辺りでようやく声を抑えた。少し息を切らしながら「お前面白いな」と言う。
「確かに。俺が死んだらどうなるんだろうな。俺にも分かんねえよ。でも結果として世界が終わる可能性だってある」
「そうなったら仕方ない。和香那が苦しむ世界は無くてもいいんじゃないかって気がしてるから」
本音だった。同じ人間が二人いる事も、喋る猫がいる事も、世界が終わる事も。和香那が傷付く事以外は、僕にとっては全てが些細な事だ。
「仮に世界の終わりは無いとして。俺が死んで俺が関わった事象は全部無くなったとして。それでも。和香那がお前を苦しめた事実はそのままだぜ? お前らが勝手にやった事だからな」
「そうなったらそうなった時に考えるさ。君が死んだらどうなるか、君にも分からないんだろ? 物は試しだ」
可能性で考える。和香那に言われて神様が作り出した「偽の八月三十日の約束」だけが残り、「正史だった八月三十一日」と女神様の存在はすっかり無くなる可能性もゼロではない。つまり、僕と彼女はただ「小説家になる」と約束をし、今はそれを叶えようと共に過ごしている。文句の無いハッピーエンドだ。かなり強引な希望的観測だけど、可能性があるならやる価値はある。
「それに君は一度、五年前に自殺をしようとしてただろ」
「まあな。親として、神としての務めだ。誰かの感情や一存で世界が決まっていいはずがない。そんな間違いだらけの世界なら滅んだ方がいい」
「……ああ。その気持ちは分かる」
本当に。よく分かる。
誰よりも正しく、潔癖なほどに間違いを嫌って人の幸福を願う。そんな彼女が苦しむ世界があっていいはずがない。僕はそんな場所を世界とは呼ばない。僕は、彼女を愛せる場所を世界と呼びたいから。
「だけどな、この世界を望んだのは和香那自身だ。自分の間違いから目を逸らしたくて、お前を苦しませた事実を受け入れられなくてあいつは俺に縋ったんだから。現状があるのは自分のせいだってあいつは理解してる」
「和香那はただ、僕が泣いた事が許せなかっただけだ。魔王がいなくなった後の穏やかな世界みたいな、誰も泣かなくていい世界を作りたいだけだから」
「なんだ。じゃあお前が泣いたせいじゃねえか」
「……そうだね。僕の責任でもある」
今和香那が苦しんでいるのは、和香那が望んだ事が巡り巡ってきただけだ。でもその元凶は僕でもある。僕があの日泣かなければこうはなっていない。責任を取るべきなのは僕も同じだ。
包丁を握る自分の手を見つめる。あの時、僕がもっと強ければ。僕がもっと正しければ。僕がもっと、和香那と向かい合っていれば。
「ま、それにしたってお前は誰かを殺したりはできねえよ。臆病だからな」
「そうかな。猫なら人より躊躇なく刺せそうな気がするけど」
「違う。お前は臆病だから和香那の顔を思い浮かべる。和香那を行動原理にする。そんで、和香那はお前がこんな事をするのを望まない」
神様の言葉を頭で反芻し、僕は少し考えて「そうかもね」と呟く。
「それに何より。お前が一番許せねえのはお前自身だろ」
神様ってやつは本当に何でもお見通しらしい。僕が自分で気付かなかった、知らないふりをしていたかった事すら言い当てる。本当に、嫌になる。
「……えっと、結局私も神様も殺されずに済むのかな?」
成り行きを見ていた女神様が口を開く。僕はそれに「そうだね」と苦笑交じりに答えた。結局僕には誰かを殺す勇気すら無い。
「ごめんね。怖がらせちゃったかな」
「そうだね。ちょっと怖かった。死ぬのはもちろん嫌だし、神様がいなくなるのも困る。それにまだあいつに復讐してないし」
僕は少し考えて、包丁をその辺に投げ捨てた。カランと乾いた音がする。
「ねえ女神様。お願いがあるんだけど」
「私にできる事?」
「うん。凄く簡単な事だよ」
「なに?」
「やっぱり止めてくれないかな。僕は和香那が苦しんでる顔をもう見たくないんだ」
「あー、それは無理。私は見たい」
「だったら鏡でも見たらいいんじゃないの」
「鏡見ながら苦しんでる顔しろって? そんな面白い事するわけないじゃん」
ポケットからスマホを取り出して時間を確認する。夜も随分と深い。僕は「そろそろ帰るよ」と言って一人と一匹に背を向ける。そのまま公園から去ろうとした時、後ろから「葵」と女神様の声がした。首だけで振り向くと、彼女はブランコから立ち上がってこちらを見ていた。
「じゃあね」
果たして僕は、彼女にどんな感情を抱けばいいのだろう。
真っ当に恨んだ方がいいんじゃないかという気がしている。激情に身を任せてそこに転がっている包丁を拾い上げ、そのままの勢いで腹部を刺してもいいのではと。その方がシンプルで簡潔で分かりやすい。
でも僕はそうしなかった。理由は分からない。肌寒い夜だったからとか、そのくらいでいい気がしている。だから僕は「風邪ひかないようにね」と、思ってもいない言葉を吐き捨ててその場を去った。
* * * * *
それからの数日間、僕は学校にも行かず一人で過ごした。家でなんとなくスマホを触ったり本を読んでみたり。時々コンビニに行く以外は外出もしなかった。
パソコンは一度も立ち上げなかった。書きかけの小説に対する気持ちが続くうちに、感覚が鈍らないうちに進めた方がいいのは分かっている。だけどどうしたって和香那の顔が思い浮かぶ。彼女が苦しむならもう止めた方がいいに決まっている。でもそれを望んだのはかつての彼女だとも知っている。何も分からないのは僕も同じだ。
珍しく昼前に目の覚めた日の事だった。ベッド傍にある窓から見える青天井に目を細め、カーテンを閉めて二度寝しようとした時、スマホが小さな通知音を鳴らした。トークアプリを開くと、渡良瀬さんからのメッセージが入っている。
「涼しくなったね」
駅前のベンチで時計台をぼうっと眺めていた時、後ろから声が聞こえた。振り向くとつまらなそうな顔で僕を見下ろす渡良瀬さんが立っていた。ベージュのワイドパンツに白い長袖のボウタイシャツを裾アウトで合わせている。
「そうだね。少し寒い」
僕の服装はなんのひねりも変哲も無く、白いズボンに藍色の半袖と、その上に上着を一枚羽織っているだけ。渡良瀬さんに急に呼び出されて適当に見繕ったものだ。まあ、呼び出しが急じゃなければもっと考えたというわけでもないけど。
「知ってる? 煙草はね、寒い時が一番美味しいんだよ」
渡良瀬さんはそう言って僕の右隣に腰かける。手持ちの小さな鞄から携帯灰皿と煙草の箱を取り出すと、その中から一本取り出して口に咥えた。
「吸う?」
そう言って煙草の箱を差し出す。僕は少し考えてそこから一本拝借した。渡良瀬さんはそれに「へえ」と物珍しそうに反応する。
「どういう心変わり?」
「別に。そういう気分ってだけ」
「貰ってくれたの初めてだね」
渡良瀬さんはどこからか百円ライターを取り出し、先端に火を付けた。紙の先が赤く燃えると同時に煙草を口から離して煙を吐き出す。煙くてほんの少し甘い香りが周囲を漂う。
「煙草は初めて?」
「何回かあるよ」
「なんだつまんない。むせるところ馬鹿にしようと思ったのに」
そんなどうでもいい言葉を聴き流しながら、煙草を咥えて手を差し出す。ライターを借りようとして伸ばした手だった。渡良瀬さんが左手にあるライターを僕に手渡そうとする。
「多分、煙と一緒にじゃないと吐き出せないようなものってあるんだろうね」
ぽつりと、僕の口から言葉が零れ落ちる。
すると渡良瀬さんは何を思ったのか、ライターを握ったままの手を引っ込めた。僕がそれに何かを言う前に、彼女は突然僕に詰め寄る。顔を近付け、そしてお互いが咥えていた煙草の先端をくっ付ける。僕は少し驚きつつもそのまま小さくゆっくりと息を吸い込んだ。やがて彼女の煙草から僕の煙草へと火が燃え移る。
「溜め息と一緒に吐き出すよりはずっといい」
顔を離しながら渡良瀬さんが言う。僕は肺に煙が流し込まれる感覚を味わいながら黙って彼女の話に耳を傾けていた。
「溜め息にするくらいなら、ニコチンとかき混ぜて煙と吐き出した方がよっぽど有意義だよ」
「健康に悪い。あと周囲からの心象も」
「だからだよ」
渡良瀬さんはそう言って人差し指と中指で煙草を挟んだまま僕を見る。僕は彼女が次に何を言うか、なんとなく分かっていた。
「悪くなれば、どこにでも行ける」
僕は何も言わずに目を逸らして前を向く。もう一度ゆっくりと息を吸い、そして吐き出す。細い紫煙がゆっくりと昇っていき、そして風向きをなぞりながら青空に霞んで消えていった。
「小高君がどこかに行きたいなら手伝うよ。共犯者になってあげる」
それだけ言うと彼女も前を向いて僕と同じように煙草を吸い始めた。人がいないとは言え、駅前のベンチで煙を燻らせる人間が二人。とても褒められた光景ではない。きっと僕らは天国になんて行けないのだろう。
しばらくして渡良瀬さんは一本分を吸い終えたようで、吸殻を携帯灰皿に入れた。僕もほぼ同じタイミングで吸殻をそこに入れる。
「さて、状況を整理しようか。話を聴かせて」
そう言ったのは渡良瀬さんだ。彼女がどういう意図で現状を知りたがっているのかは分からない。今更彼女に話したところで無駄だろう。でもそんな風に反論するのが億劫で、僕は事のあらましを全て話した。渡良瀬さんが知っていたのは和香那の過去に何があったかというところまでだったから。
話を聴き終えた渡良瀬さんは少し難しそうな顔をした。そうなる気持ちも分かる。女神様の思惑、和香那の感情と僕の感情。その三つが複雑に交差しているから。
「このままいけば、まず星さんが苦しむ。小高君に小説を強要したのが、そして十年前自分に都合よく過去を改変したのが自分だから。小高君が小説を書くという事は、星さんが自責の念に苛まれる事でもある」
僕は小さく頷く。このまま何もせず何事も無く、何も変えようと思わないならそうなる。その時点で僕が小説を書くのか否かという選択に迫られる。
「ならいっそ小高君を忘れるのか、小高君が星さんを忘れるのか、それとも両方か。それを女神様にお願いできる。どう転ぶにしても、女神様の思惑通りに復讐は果たされる」
改めて聴いても女神様の計算には非の打ち所がない。和香那が苦しむように設計されている。こういう時だけ地頭の良さを発揮するのは、やっぱり同じ人間だなと感じさせる。
「一応の確認だけど、女神様の気が変わる可能性は?」
「無い。女神様の存在意義はそれだけだから」
「じゃあ女神様がいなくなったらどうなるの?」
「いなくなったところで過去は変えられない。和香那の苦しみは消えない」
包丁の柄を握った時の感覚を思い出す。可能性があるとすればやはり神様を殺す事だけだ。けれどそうするにはあまりにリスクが大きいし、何より僕にはその度胸が無いらしい。
「私が思うに〝正しい〟と思う択は二つ。小高君が小説を止めるか、お互いがお互いを忘れるか。このどっちかが尾を引かないと思う。そして同時に、一番安易な方法と一番嫌な方法でもある」
僕はその言葉にも同じように頷いた。渡良瀬さんはやっぱり頭が良い。和香那と僕の感情を正しく汲んでくれている。
小説を止める事は、はっきり言って簡単だ。でも和香那はやっぱり苦しむだろう。それは僕らがこれまで歩いてきた道のりを全て否定する事でもある。僕らはその為だけに手を取って生きていたのだから。そして何より、作られた過去だったとは言え「小説を書く」と約束をしてしまった。それもまた、和香那を苦しめる。
そして僕と和香那がお互いを忘れる。この選択が一番苦しくて、そして一番楽になれる方法だ。理屈では分かっている。どうせ忘れるのだから考えるだけ無駄だと。でもあまりに極端でもある。いじめがあるなら学校を爆破しよう。戦争があるなら人類を滅ぼそう。これはそういう考え方だ。加えて僕は和香那のいない世界で生きていく想像ができないし、それは和香那にしたって同じだろう。
「まあでも、何にせよ選択権があるのは小高君じゃない。星さんだよ」
「だからって考えるだけ無駄だって言いたいの?」
「そこまで心無い事を言うつもりはないけど。でも、小高君にできる事は少ない」
きっとそうなのだろう。僕ができる事、やるべき事は一つ。和香那に選択させる事。どう足掻いても苦しみしかない選択を強制させる事だ。飛び降りるしかない崖に突き落とすのが僕の役目だ。
「小高君に訊きたい事がある」
「え?」
渡良瀬さんが突然言った。僕は少し驚きながら渡良瀬さんの顔を見る。彼女は僕の顔を一瞥し、でもすぐに前を向いた。その横顔に感情は映っていない。いや、少し怒っているように見えるのは気のせいだろうか。
「神様から星さんの過去について聴いたあの日から、ずっと訊きたかった。小高君の返答によっては誰も苦しまずに済むかもしれない」
予想だにしない言葉に思わず言葉が詰まる。そんな方法があるなら、どうしてもっと早く言ってくれなかったのか。渡良瀬さんは僕が疑問を抱くのを分かっていたのか、僕が何か言うよりも先にその答えを教えてくれた。
「私なりに色々考えてたんだよ。もしかすると小高君をもっと傷付けるかもしれないから」
「……どういう事?」
「はっきり訊くけど、小高君は小説を書きたいの?」
あまりに突飛に投げられた言葉に、僕はまた反応できなかった。渡良瀬さんは静かな表情で前を向いたまま左耳のピアスを触っている。
「簡単な話じゃん。小高君が自分の意思で小説を書きたい、小説家になりたいって思えるならそれを目指せばいい。昔の約束とか関係ない。今の小高君がどうしたいか。それなら星さんだって前を向いて小高君を応援できるでしょ。ハッピーエンドじゃん」
今の僕がどうしたいか。小説を書きたいのか。
きっかけはもちろん十年前の約束だ。そして今に至るまで、僕はその為だけにキーボードを叩いてきた。約束を果たす為。和香那に応える為。例え紛い物だったとしてもその工程に偽りは無い。
けれど僕自身の気持ちはどうだろう。自分がそうしたくて物語を紡いだ瞬間があっただろうか。一度でも楽しいと、小説を書きたいと思った事があっただろうか。今の僕にその欲求はあるのだろうか。頭の中で考えを整理しつつ僕は口を開く。
「ふと考えるよ。これはネタとして活かせそうだ。次はこういう物語を書こう。そういう思考はある。それを早く小説として形に起こしたい情動が湧く。でもそれは、僕の中に書きたい気持ちがあるという事には直結しない。やりたくてやっているんだなんて、そんなの一度だって考えた事はない。僕にはこれしかない。こうする事でしか立てない。こうする事でしか和香那の隣に並べない。そういう焦りだ」
「……つまり?」
「やっぱり、小説なんて書きたくないんだろうね。僕の中にあるのはきっと彼女への愛だけだ。それを証明したいだけなんだ」
僕がそう言った時、慰めのように優しい風が吹いた。前髪が右に流れる。それと同時に気持ちが楽になったような気がした。創作なんて嫌いだ。でもそうする事でしか生きられない。それ以外にあの遠い星に手を伸ばす方法を知らない。僕が小説を書いてきた理由なんて、それだけで充分だ。
「ごめんね。せっかく色々と考えてくれたのに」
僕の中に好きという一筋の気持ちさえあれば、渡良瀬さんの言う通りに全て解決したかもしれない。でも僕はきっと和香那のいない世界で小説を書く事を選べないだろう。
隣の渡良瀬さんを見る。彼女はまだ前を向いたまま、でも少し眉をひそめて不機嫌そうな顔をしていた。僕はそれに違和感を覚える。
「どうしたの?」
僕が訊ねると、彼女はこちらを数秒見た後で煙草の箱から二本目を取り出した。それを口に咥えようとして、でも少し考えた後に箱に戻す。そして深く息を吐いて、「言いたくない事を言うね」と言った。
「やっぱり私は、星さんが小高君を忘れるべきだと思う。もちろん小高君は星さんを覚えたまま」
その言葉に僕はまた驚かされる。だってその選択肢は除外されたものだと思っていたから。さっき彼女自身が挙げた二つのうちのどちらでもない。
「どうして、急に」
「小高君が言ったからだよ。小説は好きじゃない。星さんの為に、約束を守る為に書いてるだけだって」
話が見えなくて僕は顔をしかめる。渡良瀬さんは煙草の箱を握った手を見つめ、俯いたまま話を続けた。
「だったら小高君は小説を書く。そして星さんはもう苦しまないよう、小高君を忘れてもらう。それが最悪の、最善手だと思う」
また優しく風が吹く。僕の前髪を左に流す。渡良瀬さんの髪も同じように風向きをなぞって揺れる。それで、彼女の顔が少し隠れて見えなくなった。
「……僕には無理だ」
「どうせ何を選んでもそうだよ」
「そうかもしれないけど、でも」
だってそれは、つまり。
「僕は小説を書く。それは、和香那がこれからも僕を苦しめ続ける事を意味してる。でも和香那は僕を忘れる。多分、和香那が一番苦しむ」
この選択を取った時に一番苦しいのは僕だ。だからこそ、和香那がそれ以上に苦しむ。僕が苦しむくらいなら自分が苦しんだ方がいいと彼女なら考えるから。
「でも星さんは全部忘れるんだよ? ならもうそんなの関係ない」
「だったらいっそお互いを忘れた方が楽になれる」
「それは星さんが自分を許さない。問題を全部無視して楽になるなんてあの人の倫理に反してる」
「じゃあ和香那だけが僕を忘れるのだって同じだよ。自分だけ楽になるなんて和香那が自分を許さない」
「だからじゃん」
渡良瀬さんが少し大きな声で叫ぶ。手にあった煙草の箱が強く握りしめられる。中身ごと、くしゃりと潰れている。
「あんたの口から言ってやらないといけないんだよ。星さんが自分を許せないなら、あんたがそれ以上に強く星さんに言うんだよ。自分を忘れてくれって。自分を諦めてくれって。星さんの分も、これからずっと自分が苦しむからって。約束は絶対に守るからって。あんたの口から言ってやらないといけないんだよ」
渡良瀬さんの口から掠れた声が漏れる。彼女の言う通りならどれだけよかっただろう。僕にそう言えるくらいの強さがあれば、和香那を救えたのだろうか。でも僕は想い人一人の為に猫も神様も殺せないような臆病者だ。
「……僕には、できない」
そう言った瞬間だった。渡良瀬さんの両手が僕の襟元を強く掴んだ。顔を上げて僕を強く睨む。彼女の瞳には今にも零れそうな涙があった。
「本当は、もういいよって言いたい。小説なんか書かなくていい。星さんを忘れていいって言いたい。辛い事とか苦しい事とか、そういうのは無関係な場所に行こうって。全部忘れて生きようって。二人でどこまでも行こうって。そう言いたい。でも、小高君はそうじゃない」
強く叫んだ拍子に涙が零れる。頬を伝って下へと落ちていく。
「何があっても傍にいる。どんな形でもずっと背中を追い続ける。星に手を伸ばし続ける。どうなってでも、星さんを愛し続ける。それが私の知ってる小高葵だから」
襟を掴む手が緩み、そっと離れていく。渡良瀬さんは乱暴に自分の目元を拭った。
「小高君にしか、星さんを傷付けられないんだよ」
僕の中にあるのはただ一つ。彼女への愛だけ。遠く瞬く星への憧れだけ。
それすら手元に残せない僕に、一体何の価値がある?
彼女との約束すら守れず、どうして生きていられる?
僕は選ばなければいけない。彼女を愛する為、彼女を傷付ける事を。彼女を苦しめる事を。
「……僕は」
その時だった。ポケットに入れていたスマホから通知音が鳴った。なんとなく嫌な予感がしてすぐに取り出して操作する。トークアプリにはやはり彼女からのメッセージがあった。
「和香那だ」
僕が呟くと、渡良瀬さんは顔を上げてこちらを見た。まだ少し赤い目で「内容は?」と問う。アプリを開いて真っ先に飛び込んできたのはこんな文字列だった。
『お別れの挨拶』
まるでメールの件名みたいに、長い文章の最初にそう添えられていた。ふざけるな。こんな勝手で一方的な挨拶があるかよ。そう思うと同時に、かつての自分が全く同じだった事を思い出して嫌になった。送られてきたメッセージを流し読みする。
「……和香那は決めたみたいだ。どうするか」
顔を上げる。渡良瀬さんと目が合う。僕は少し迷い、でも伝える事にした。
「僕の記憶から和香那の存在を消すように、女神様に頼むって」
渡良瀬さんの目が大きく開かれる。全部女神様の言う通りになってしまった。和香那は僕の前から姿を消すつもりだ。そして跡を濁さぬように僕との関係を全て絶とうとしている。
「すぐに行かなくちゃ」
「でもどうやって星さんを止めるの? お願いしますって言って通じる人じゃないでしょ」
「大丈夫。いや、大丈夫か分からないけど、当てがないわけじゃない」
僕はベンチから立ち上がって「じゃあまた」とその場を去ろうとした。けれど渡良瀬さんは僕と同じように立ち上がり「まって」と少し大きな声で言った。
「……どうするつもり?」
一瞬、その言葉の意味が分からなかった。でもどうであれ、僕のやる事は決まっている。
「今、僕らがこうなっている根本的な原因は僕だ。僕が弱かったから彼女を傷付けた。僕が泣いたから彼女がそれを変えようとした。全部僕の責任なんだよ。ようやく、その罰を受けられる」
和香那を傷付ける。これからも苦しみ続ける。その十字架を背負ってようやく贖われるだろうか。そう信じたい。僕にできるのはたかがそのくらいだ。
「……僕は天国に行けない。でもどこにも行かない。同じ場所でずっと一等星を観測できるなら、それでいい」
渡良瀬さんはしばらく僕の目を見つめていたが、やがて「そっか」とほんの少しだけ笑った。悲しみと諦めが詰まったような、そんな「そっか」だった。
「なら、しょうがない。私は行くよ」
「……うん。ありがとう」
そして今度こそ、僕は彼女に背を向けて走り出す。
顔を背けた瞬間にふと、渡良瀬さんの右耳にピアスがあったような気がした。左耳にはたくさんあるけど、確か右耳には一つも無かったはずだ。そして僕の見間違いじゃなければ、シンプルな黒いリング状のピアスだった。あれは確か。
でももう、僕は振り返らなかった。
* * * * *
耳元で風を切る音が聞こえる。それよりもずっと大きく、自分の荒い息が聞こえる。靴裏で地面を踏みしめる。強く、何度も、何度も。
やがて目的地に辿り着く。数十メートル先、二人の影が見える。その向こうには海が広がっていて、水面は斜陽の赤色を乱反射させながら揺らめいていた。もうすぐ日が暮れる。
「和香那」
名前を叫ぶ。強く。和香那と女神様が同時にこちらを振り向く。
和香那は目を伏せて生気のない目でこちらを見た。彼女はジーパンに少し厚い白のセーターを着ていた。
対して過去の和香那は、向こうに見える水面のように煌めいた瞳で楽しそうに僕を見た。いつものように、かつて僕らが通っていた高校の制服に身を包んでいる。
「よかった。間に合った」
僕はそこで走るのを止め、二人に向かってゆっくりと歩く。肺が苦しい。酸欠で視界は朦朧としている。覚束ない足取りでは、砂浜に足を取られてしまいそうで少し怖かった。
「……どうしてここに」
「いつもの公園に、いないから。あとはここしかない」
息も絶え絶えに和香那の言葉に応える。でも和香那は「そうじゃない」と少し感情的に言った。
「なんで。お別れの挨拶って文章を送ったでしょ」
「もちろん見た。でもそれを聞き入れる、義理は無い。挨拶ってのは直接、言うものだよ。特に、別れの挨拶なんて大事なものは」
やっとの思いで二人の傍まで来て、なんとか膝に手をつく。辛うじて和香那の靴だけが視界に入っているのを何となく確認した。
「でも葵は、挨拶すらせずに別れようとした」
「……うん。君の言う通りだ」
息を整えながら回らない頭で考える。言いたい事はすぐに分かった。かつてこの場所で、僕は彼女とお別れしようと思っていた。彼女が僕を見つけてくれなければ、何も言葉を交わせないまま全てが終わっていた。
「本当に嫌になるよ。悪い事ってのは自分に返ってくるものだね」
だからこそ思う。今この瞬間、この場所で。君を見つけられてよかった。
汗を拭いながら顔を上げる。和香那と目が合う。彼女は何かに縋るような、何かを懇願するような顔でこちらを見ていた。
「もう会いたくなかった。葵の顔を見たら、決意が鈍ってしまいそうだから」
「その程度で鈍る決意ならしない方がいい」
「葵に何が分かるの? 私がどれだけ苦しんだかも知らないくせに」
「知らないよ。知りたいとも思わない」
「ならもう何も言わないで。何もしないで。このまま全部終わらせたいの」
隣の女神様を見る。彼女は少し寂しそうな目で、でも明確に笑った。
「私の言った通りでしょ。こいつはこうするしかないの。葵の記憶から自分を消して、自分は消える。それが正しいから。それが葵を一番傷付けないから」
もう一度和香那を見る。僕と一度目を合わせた後で、少し俯いて目を逸らす。そして瞼を閉じて息を吸い、ゆっくりと吐く。顔を上げてもう一度僕と目を合わせ、そして笑った。無理やり口角を少しだけ上げて、目を細めて。
「葵の中の私が綺麗なうちに。私の中の葵が愛おしいうちに。さよならしたい。だから、こうしたい」
僕は、彼女を否定する術を持たない。
彼女と僕が別たれてしまうのは逃れられない運命だ。かつての彼女がそういう風に仕組んだから。かつての僕が泣いてしまったから。かつての彼女が全て捻じ曲げてしまったから。
どうしようもないなら、やっぱり彼女の言う通りなのだろう。和香那の顔を見つめながら、ゆっくりと溶けていく和香那を最後まで想っているべきなのだろう。でも、それでも。
「……嘘つくなよ」
自分でも驚くくらいに声は震えていた。どうしてだろう。分からない。
和香那は「なに、それ」と絞り出したような声で僕に言う。
「どういう意味」
「そのままの意味。思ってもない事を言うな」
「嘘なんかじゃない。分かってるはずだよ。これが最善だって」
「じゃあどうして、そんな泣きそうな顔してるんだよ」
和香那は一瞬だけ驚いたように目を丸くさせた。僕はそのまま続ける。
「君が諦めるな。僕から、世界から、正しさから、君自身から。僕はもう二度と目を逸らしたりしない。ずっと見ててやるから」
君が僕を救ってくれたように。今この瞬間、僕はこんなにも君を救いたい。
「約束は守るべきなんだろ? 僕を見ててくれるんだろ?」
そして、君が僕の絶望になってくれたように。今この瞬間、僕はこんなにも君を許したくない。
和香那はまた俯き、目を伏せたまま強張ったような顔をする。何かを我慢するように、拳を固く握りしめている。
「……その約束は、私が勝手に作った妄想だよ。何もかも間違いだらけの約束。こんなの、正しくない」
その通りだ。誰が何と言おうとそれが全部だ。僕らが信じていたものは根本から間違っている。彼女が信じていたものは、彼女が信じたいだけのものだった。
「確かに、君は正しいよ。夏は暑くて冬は寒い、クリームは甘くてフルーツサンドは食べにくい。正しい事は正しくて、そして、間違いはどこまでいっても間違いだ。でも」
こうなったのは僕が裏切ったせいだ。僕が弱かったせいだ。僕が泣いてしまったせいだ。僕が正しく在れなかったせいだ。どこまでも美しい彼女を否定できるはずもないのに。だからこそ。
「でも。間違いを間違ったままで肯定する事はできる。あの間違いは正しかったんだって叫ぶ事はきっとできる。君がそれを選ぶなら。僕がそれを選ぶから」
だからこそ僕は、彼女に報いなければならない。今までの全てを罪にして罰を受けなければいけない。彼女を傷付けて、傷付き続ける事を選ばなければいけない。
和香那が震える唇を開く。「私は」と、何かを言葉にしようとする。
「……今更何言ってるの」
和香那の言葉を遮ったのは他でもない、女神様だった。彼女の顔を見る。不快感を露わにした顔で強く僕を睨んでいた。
「葵はこいつのせいで苦しんだのに。今更、過去の過ちを肯定できていいはずがない。罪は消えない。だってそのせいで私が生まれたんだから」
「なら僕もそうだよ。僕が弱かったせいで、和香那から逃げたせいで和香那を苦しめた。君を生んでしまった。僕らは同罪だ」
僕の言葉に女神様はそれ以上何も言わず、ただ鋭い目つきで睨んでいた。それこそ、とても苦しんでいるように。僕は優しい表情を作って女神様を見つめる。そんな顔できていたかどうか自分では分からないけど。でも、そうするよう努めた。
「ここに来たのは和香那を止める為だけじゃない。もう一つ、君に言いたい事があったからだ」
「……私に?」
「覚えてるかな。前に『おすすめの小説』ってお題をくれた事」
僕はポケットからスマホを取り出し、とあるサイトを開いて二人に画面を見せる。その瞬間、女神様は目を大きくさせて驚いた。和香那が息を呑んだのが分かった。
「……これ」
そこには、大きく太い文字でこんな風に書いてある。
『大賞 「ゼータ・ヒュドラェと、その追いかけ方について」 小高葵』
「実は少し前から決まってたんだ。でもこうやってちゃんと見せられる時まで待ってた」
『おすすめの小説』と言われた時点で、自分の本が出る事は決まっていた。色々あってうやむやになりかけたけど。でも、ちゃんと伝えられてよかった。そして。
「もちろん、この結果は真っ先に君に伝えたかった。他でもない、君のおかげだ」
和香那の目を見てしっかりと伝える。和香那は一瞬何かを言いかけて、でもすぐに目を逸らした。言いたい事は分かる。何を考えているか、何となく分かる気がする。
僕はスマホをポケットにしまい、少し迷って左手の小指を彼女の小指に絡めた。彼女の体温は夏のように、こんなにも暖かい。
「僕はまだ小説家になったとは思ってない。本が出て、それを君が読んでくれて、初めてそう呼びたい。その時、君にいて欲しい」
このまま君を忘れてしまったら、それすらも叶わなくなる。約束を守った僕を君に見て欲しい。君の元に走りたい。例えその時、君が僕を忘れていても。
「和香那。僕は選ぶよ」
小指に力を込める。忘れるけど、忘れないように、離れるけど、離れないように。
「僕は約束を守る。小説家になる。真っ先に君に会いに行く。これからも苦しみ続ける。だから」
和香那が顔を上げる。目が合う。彼女の眼は、永遠みたいに澄み切ったその瞳は。やっぱり星そのものみたいに美しい。その星に僕はたった一つの祈りを捧げる。
「僕を忘れてくれ」
口から零れた声はやっぱり震えていた。なんて弱々しい僕だろう。嘘じゃない。本心だ。それがこんなにも苦しいなんて。彼女の世界から僕がいなくなってしまうなんて信じたくない。それでも僕は、選ばなければいけない。
「……でも」
僕と同じように、弱々しい言葉で和香那が続けようとする。その時だった。
「ふざけんな」
女神様が叫ぶ。その声に驚いた和香那の体が少し跳ね上がって、繋がっていた小指が離れる。女神様の声は広い砂浜に静かに広がり、そして水平線の向こうに消えていった。
「こんなの、許されるわけあるか。私が十年、どんな思いで生きてたか知らないくせに。どれだけこいつを殺したかったか知らないくせに。なんで救われたような気になってるんだよ。私は、お前を苦しめる為だけにここにいるんだよ。こんなので、いいわけあるか」
「神様」と女神様がまた叫ぶ。すると彼女の足元から猫の姿をした神様が「うるせえな」と文句を言いながら現れた。今までどこにいたのか。いや、もしかすると今この瞬間までここにいなかったのかもしれない。
「でけえ声出さなくても聞こえてるよ」
「神様、こいつら消して。二人とも」
そう言って怒ったような顔のまま僕らを交互に指差す。神様は数秒だけ女神様の様子を伺うように顔を上げていたが、やがて溜め息のような動作の後、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「さて、お前はどう思う?」
神様が僕の顔を見上げたまま訊ねる。その表情からは感情も思考も読めない。僕は何を言えばいいか分からず顔をしかめる。
「質問の意図が分からない」
「お前らを消せって話だけど、それが正解だと思うか?」
「正解不正解は誰にも決められない。君が選んだ選択肢が正解になるだけだ」
「それで納得するのかよ」
「納得するかどうかなんて二の次だ。でも一つ言わせてもらうなら、君は」
隣の和香那を見る。まだ少し不安げな目で僕を見つめている。
女神様を見る。眉間に皺を寄せ握り拳に力を入れ、苛立った様子で僕を見ている。
もう一度神様を見る。虚無そのものみたいに真っ暗な瞳で、僕を見ている。その穴に向かって僕は言葉を投げ入れる。
「親としても神としても、務めを果たすべきだと、僕は思う」
僕がそう言うと、神様は「そうか」とだけ小さく呟き、目を逸らして俯いてしまった。その様子を見て女神様が「なにやってるの」とまた少し大きな声で言う。
「聞こえなかったの? こいつらを消すんだってば。早くしてよ」
「もういいんじゃねえの」
神様が女神様の方を振り向く。女神様は「なに、それ」と絶望したように掠れた声で言った。血が滲みそうな程に握っていた手から、少しずつ力が抜けていく。
「もういいって、どういう意味?」
「そもそも約束は『和香那が懇願してきた事を聞き入れる』までだったはずだ。もうすぐそれは果たされる。和香那が葵を忘れて、それで終わりだ」
「……え、なに? じゃあ、私の言う事が聞けないって事?」
震える声で女神様が言う。二人は、いや一人と一匹はしばらくそのまま睨み合っていたが、先に神様の方が痺れを切らしたように顔を背けた。
「この場においては、そうだ。もうこれ以上お前の我儘で世界の理を曲げるわけにはいかない。全部俺のせいだから」
彼の言う事が正しいのかどうか、僕には分かりっこない。僕は世界の事を一欠片も知らないし、理解しようとするにはあまりに未熟だから。でも、神なんていうあやふやなものじゃなく、ただ一人の親として向き合う彼の姿勢は正しいんじゃないかと、そう思いたい。
「……どいつもこいつも、なんで、ここまできて」
ふと気付くと女神様は泣いていた。神様から目を逸らし、今度は僕の隣にいる和香那を睨み付ける。
「ぜんぶ、お前のせいだ。お前がいなければ。お前が」
そう叫び、彼女は少し小走り気味に和香那の方へ向かってくる。その時、僕は見てしまった。彼女の手に握られていたものを。見覚えのある、明るい緑色の持ち手。
「和香那」
名前を呼んだ。僕の足は自然と動いていた。
数秒のようなコンマ数秒後、僕が真っ先に感じたのは左頬を走る熱さに似た痛みだった。
僕の手は、包丁を強く握りしめる女神様の手首を掴んでいる。女神様は自分が何をしたのかようやく理解したのか、両手首を掴まれた態勢のまま酷く驚いた表情を見せた。左頬を、何か生暖かいものが伝っていく。
「葵」
僕の後ろで、和香那が震える声を漏らす。僕は「和香那」と、もう一度だけ強く彼女の名を呼んだ。
「逃げるな。僕を傷付ける事から」
そうだ。ずっとそうだった。
僕らは極端にそれを恐れていた。お互いが傷付いてしまう事を。
だから僕は彼女とさよならしようと決めた。彼女はどこまでも正しく在ろうとした。そうしないといずれは破滅してしまうと、心のどこかで予感していたから。それは正しくて、そして間違っている。
どうして僕らは出会ったのか。何の為に再会したのか。意味も理由も無いかもしれない。でも、あえて言うなら。
「……なんで、どうして」
固く力の入っていた女神様の手から力が抜けていくのが分かる。僕は少し迷ったけど彼女の手を離す事にした。振りかざしていた両手が下ろされる。右手に包丁を持ったまま、女神様はその場に呆然と立ち尽くす。
「どうして、止めるの」
彼女の発した言葉は、疑問というよりもやっぱり恨みのこもった口調だった。僕は左手で頬の血を拭い、女神様にこう答える。
「罪を償う為だ」
女神様は「意味わかんない」と、また絞り出したような声で言う。
その時、僕の後ろにいた和香那が傍を通り過ぎて女神様へと歩み寄っていった。女神様の手にはまだ包丁が握られている。「和香那」と声をかけたが、こちらを振り向く事はなかった。
橙色を乱反射させる海、明るく染まる砂浜。その中央で二人は相対している。今現在の和香那と、五年前の和香那が。
「……なんだよ」
女神様が和香那を睨む。包丁を握っている手にまた少し力が入ったのが分かった。その様子は当然、和香那の目にも入っていたはずだ。でも。
「殺してもいいよ。あなたにはその権利がある」
僕はいつでも間に入れるようにゆっくりと場所を移動する。丁度二人の横顔が見えている形だ。その向こうに眩しい水平線がある。
「私には罪がある。あなたがその罪そのもの。だからあなたに殺されるのは、きっと正しいんだと思う」
こんな時でも彼女は正しく在ろうとしていた。いや、こんな時だからこそだ。そうすべきだと彼女は芯で理解している。
「……本当に殺せるよ。いいの?」
女神様が怒りを多分に、でも僅かに戸惑いを含ませた声で言う。和香那はそれに首を縦に振った。
「でも、今の私にとっては殺されるよりも葵のいない世界で生きていく事の方が辛い。どっちを選ぶかは任せる」
和香那はそう言うとゆっくりと、ゆっくりと女神様との距離を縮めていった。何をするつもりかと女神様は警戒していたが、何かをする間も無く、和香那は女神様を優しく抱き締める。
「……あなたは、私。そして、私の罪。こんな事を言う権利も無いけど、それでも言わせて欲しい。本当に、ごめんなさい」
女神様の手に握られていた包丁が砂浜に落ちる。僕の方からは和香那の横顔しか見えず、それに隠された女神様がどんな表情をしているのかは分からなかった。
「私はもう逃げない。ちゃんと苦しむ。ちゃんと傷付く。葵のいない世界を生きていく。それが私なりの、償いだから」
もう大丈夫だろうと思い、僕は二人に聞こえないよう静かに息を吐いた。体から力が抜けていく。
女神様は少し強めに和香那を突き放し、また「意味わかんない」と小さな声で呟く。そして目をゴシゴシと擦ると、僕らに背を向けて歩き出してしまった。僕は少し迷い、その背中に声をかけた。
「和香那」
そのまま彼女の背を追いかけようと足を踏み出す。しかし彼女は一度だけこちら振り返ると、苦しそうな顔で右手の親指を立てて見せてきた。
「……あれって」
隣の和香那が呟く。僕は小さく頷いた。あのハンドサイン。
彼女はまた前を向き、そのまま迷いなく砂浜を抜ける方へと歩いて行く。もう振り返る事はなかった。
「……ねえ、神様。あの子はどうなるの?」
遠くなる背中を見つめながら、和香那が問いかける。神様は僕らの足元で「さあな」とぶっきらぼうに言った。
「多分もう、俺もあいつとは会わねえよ。歩きたい方に行くんじゃねえの」
神様はそれだけ言うと、女神様と同じように背中を向けてどこかへと歩き出していった。いや、背中と言うか尻尾というか。
「君はどうするんだ」
今度は僕が彼に訊ねる。でも彼は黙ったまま、振り返る事もせずにそのまま進んでいった。白い砂浜の色に溶ける彼の姿は、すぐに見えなくなってしまう。
「……これでよかったのかな」
二人きりの海辺で、和香那がぽつりと呟く。僕はただ「分からない」と言うしかなかった。もしかすると他の方法もあったのかもしれない。和香那があの放送室で言ってくれたように、全員がこれでよかったと思えるような選択肢が。でももう、過ぎ去った話だ。
人生は、世界は。きっとそういう事の繰り返しだ。ふと過去を思い返しては苦難したり後悔したり。何が正しくて何が間違っていたのか。今更なのに、どうしようもないのに、無意味なのに。そしてそれが、僕らが人間であるというただ一つの証明でもある。
「正解だと信じるんだよ。せめて僕らは肯定していよう。それが僕らにできる、唯一の足掻き方だ」
さざ波の寄せる音が耳に心地良い。それに紛れて小さく「そうだね」と聞こえた。
「……それ、大丈夫?」
和香那が少し言いづらそうに、僕の左頬を指差す。僕は思い出したようにもう一度左手で拭ってみた。鋭い痛みが顔を走る。手の甲から手首にかけて血の跡が付いていた。
「まあ、大丈夫だよ。多分。それより」
僕は血の付いていない右手をゆっくりと上げ、和香那の左頬にそっと触れた。そこにはいつかの傷跡が残っている。
「お揃いだ」
そう言うと和香那は少し驚いた顔をした後、とても悲しそうな顔をした。頬に触れている僕の右手を両手で包み、また小さく「そうだね」と呟く。
「ねえ、葵。一つ訊いてもいい?」
「なに?」
「私、本当に忘れちゃうのかな」
耳を澄まさないと聞き逃してしまいそうなほど、小さくて震えた声。僕は何と答えようか迷い、ただ頷いてみる。
「きっと忘れる。僕はよく知ってる」
「あの子の気が変わってやっぱり何も起こらないとか」
「あの様子じゃ無理だろうね」
「じゃあ神様がどうにかしてくれるとか」
「無理だ」
「でも」
「和香那」
名前を呼ぶ。和香那は僕と目を合わせ、でもすぐに逸らした。数十秒の間があった後で「分かってるよ」と小さく言う。
「分かってる。もうどうしようもない。でもやっぱり、怖い」
和香那は両手で僕の右手を包んだまま、それを自分の顔の前に持ってくる。彼女の手は暖かく、そして震えている。
そして僕は気が付いた。和香那が涙を流している事に。彼女の泣き顔を見てしまったのは、これで三度目だ。
「忘れるなら、どうして私達はまた出会ってしまったの」
僕は彼女に対してあまりにも無力だ。彼女自身が言うように、もうどうしようもない事だから。「大丈夫」とか「忘れないよ」とか、そんな言葉が間違いな事くらい僕にも分かる。今必要なのはきっと、この場凌ぎの慰めだけだ。少しでいい。彼女にとっての救いになる何かを。だから。
「和香那」
右手を彼女の両手からそっと抜き取り、ポケットに手を入れる。そこから小さな立方体を取り出して和香那に見せた。
「なに、これ」
箱を開けて中を見せる。その瞬間、彼女の目が大きくなったのが分かった。僕はそれを見て少し安心する。
「本当は八月三十一日、告白の言葉と一緒に渡そうと思ってた」
シンプルなシルバーの指輪を取り出す。僕は和香那の左手を取り、人差し指にそっとはめてみた。よかった。サイズはぴったりだ。
「……綺麗」
和香那がぽつりと呟く。僕は箱に入っていたもう一つの指輪を取り出し、自分の人差し指にはめてみる。左手を和香那に見せると「おそろい」と少し嬉しそうに言ってくれた。
ああ。やっぱり。君の顔が、価値観が、声が、瞳が、体温が、思想が、心が、言葉が、生き方が、全てが。こんなにも愛おしい。何も失いたくない。
どうして僕らは出会ったのか。何の為に再会したのか。意味も理由も無いかもしれない。でも、あえて言うなら。
「やっぱり僕らは、『さよなら』を言う為だけに出会ったのかもしれないね」
僕は笑って言った。下手くそな作り笑いになっているのは自分でも分かる。それでも、この言葉だけは悲しい顔で言うわけにはいかなかった。
「……そうだね。挨拶は、ちゃんとしないと」
和香那も同じように、僕を見つめながら笑って言った。彼女の笑顔は僕と違ってとても静かで、優しくて、暖かくて、そして本当に綺麗だった。
彼女の頬に手を伸ばす。まだ流れる涙を手の親指でそっと拭ってみる。
「覚えてる? あのハンドサインができた理由」
和香那は「え?」と目を丸くしていった。どうやら覚えていないらしい。ついさっき女神様も見せてくれたあのサイン。
「僕が泣いた時、君が親指で涙を拭ってくれたんだ。それで君が『このサインは涙を止める合図』って言ってくれたんだよ」
頬からそっと手を離して涙を拭った親指を見せる。『涙を止める』がいつの間にか『行動を止める』に、そして『こっちに来ないで』になっていった。
「まあ、僕も今思い出したんだけど」
「……そうだったんだ。全然覚えてない」
バツが悪そうに和香那が言う。その表情がなんだかおかしくて僕は少し笑った。
あの頃の僕は泣き虫だった。僕の前を行く彼女が、時たま振り返っては僕の顔を覗き込んで涙を拭ってくれた。それで、僕の手を取って引っ張るようにしてまた歩き出して。それは今も変わっていない。多分これからも。
和香那は「懐かしいね」と優しい表情で言った。僕と同じように昔を思い出していたらしい。
「私も一つ、思い出した事がある。葵に言いたい事があった」
「え? なに?」
「五年前、私が転校してすぐのテストがあったでしょ。あの時、進路について言い淀んだの覚えてる?」
唐突に言われて、僕は五年前の記憶を掘り返してみる。確かに、言われてみたらそんな事があったような気もする。渡良瀬さんには教えたのに僕には教えてくれなかった。だから今でも、和香那が大学で何を学んでいるのかは知らないままだ。
「あの時は少し恥ずかしくて言えなかったんだけど、私、先生になりたいの」
はっきり言ってここ数日で一番驚いたと思う。和香那が教師に。そんな素振り、今まで一度も見せなかったのに。一体どうして。
「昔と変わってないよ。私はやっぱり正しくなりたい。正しくいれば世界もそうなるって信じたい。だから、それを小さな子供達に教えたいの。そうすればきっと世界はもっとよくなる。かつての私に必要だった大人に、私がなりたいんだ」
和香那は楽しそうに語った後で、ふと気付いたように恥ずかしそうに顔を逸らした。僕はしばらく呆気に取られていたけど、和香那の顔を見て「そっか」と少し笑った。
「君ならできるよ。絶対に」
心の底から強く、そう思う。
彼女にできないなら誰にもできない。魔王がいなくなった後のように穏やかな世界を目指すのだろう。かつて僕を救ってくれたように、かつての自分を救うように。今度は誰かを救うのだろう。
世の中には黒と白だけじゃなくてグレーもある。彼女が目指しているのは白色だけの世界だ。それは確かにさぞかし綺麗だと思う。でも綺麗なものはいつだって少しだけ怖くて寂しい。色々あった方がバランスはいい。本当はそんな風に、調和の取れた世界を目指すべきなのだろう。
でも、それでも。僕は彼女に変わって欲しくなかった。美しいままの君でいて欲しかった。これは本当に、どこまでも純粋な僕の我儘だ。
「遠くの星みたいに、君はずっと白色でいてね」
「……よく分からない」
和香那は少しだけ眉をよせて不満げに言った。僕はそれを見てまた笑う。分からなくていい。そのままでいい。それが君だ。
ふと、海の方から優しい風が吹いてきた。僕らは同時にそちらを見る。水平線の向こうで、太陽が沈もうとしている。
「……そう言えばもう一つ思い出したんだけど、まだ告白の言葉聞いてない」
「何の話?」
「葵が言った。私に告白してくれるって。今言って」
「嫌だ」
「なんで」
「なんとなく」
「恥ずかしいの?」
「違う」
「あ、顔赤い」
「太陽のせいだろ」
「とにかく、今じゃないといや」
そう言って少し力強く僕の両手を取り、こちらを向かせた。僕と同じく、少し顔を赤らめた和香那がこちらを見ている。
「恥ずかしくてもちゃんと言って。コーヒーは無いけど、ちゃんと全部聞くから」
「んふふ」と、どこにでもいる女の子みたいに笑う。なんだ、そんな顔もできるのか。可愛いだなんて、口に出すには少し恥ずかしい言葉が思い浮かんだ。
「……どうしても?」
「うん。今ここで告白して」
和香那が期待に満ちた嬉しそうな顔で見ていたから、僕はとうとう観念した。一度瞼を閉じて大きく息を吸い、そしてまた吐く。心の準備をする為に。もう一度目を開いて彼女を見つめ、そして口を開く。
夜が来るまで。夜が更けるまで。もしかすると、また夜が明けるまで。永遠みたいに長い時間をかけて君への愛を言葉にしてみよう。一遍の小説なんかじゃ足りないくらいの言葉を。
優しく風が吹いている。夏の空気の匂いがする。
彼女の後ろ、空のずっとずっと向こう。遥か遠くに一番星が見えた。