第一章 「遠く、あの星だけが僕の絶望」
高校二年生 八月最終日
もしもその再会を運命と呼ぶのなら、やっぱり僕は少しだけ悲しい。それは僕が何よりも望んでいなかったものだから。
八月の最終日、午前五時。花火セットの入ったレジ袋を片手に、海沿いの細い道を歩いていた。街の外れにあるような道で、僕の胸の高さくらいの防波堤がずっと伸びている。空はまだ薄っすらとだけ明るくて、早朝の澄んだ空気が少し肌寒かった。制服から伸びた二の腕が冷えているのが分かる。
その時僕はある用事の為に目的地へと向かっていた。こんな時間に花火なんて、僕一人なら絶対にやらない。朝早いのも寒いのも苦手だ。一刻も早く終わらせて、家に帰って二度寝をしよう。昼過ぎに起きてクーラーの効いた部屋で宿題をしよう。夕方には全て終わらせて、最後の休日をゆっくりと消化しよう。そんな事を思っていた時だった。
ふと、風が吹いた。
それは海沿い特有の潮風でも、早朝の澄んだ空気を含んだ冷たい風でもなかった。なんだか懐かしくて、暖かで。夏というよりは春風のような。そんな不思議な風だった。
風が運ばれてきた方を見る。目に少しかかるくらいだった前髪がふわりと持ち上がる。クリアになった視界の中に、一つの人影があった。数十メートル先、空は暗く顔は見えない。
「葵」
風に流された声が僕の耳に届く。前方にいるあの人が発したのだと分かった。こちらへとゆっくり歩み寄り、僕の顔を覗き込むように見ている。白いブラウスに暗い色のネクタイ、スカートが風に流れて優しくはためている。ここらでは見かけない学校の制服だった。
「やっぱり。葵でしょ?」
ようやく顔を認識できる距離になったところで、彼女が言った。声に聞き覚えは無い。でもそれ以外の部分、言葉のイントネーションや口調、声音の柔らかさ。そして彼女の顔を見て、ようやく僕は口を開く。
「……和香那?」
思い当たった名前を口に出したところで、彼女の方も「久しぶり」と感情の読めない顔で言った。
「びっくりだね。こんな所で会うなんて」
「うん。驚いた」
口ではそう言いながらも、自分があまり驚いていない事に気が付く。もしも彼女と再会する時が来るなら、もっと劇的な瞬間になると思っていた。こうもあっさりした再会だとなんだか気が抜けてしまう。
和香那もあまり驚いたような顔は見せなかったけど、これは元々だった気がする。感情をあまり表情に出さないのは昔からだ。「何年振りだっけ?」なんて首を傾げている。
「小学校卒業と同時に君が転校したから、五年ぶりくらいだ」
「五年か。長いのか短いのか分からないけど、葵はあんまり変わらないね」
「お互いそうかも。あの頃思い描いてた高校生はもう少し大人だった」
「言えてる」
彼女はそう言いながら長い髪を耳にかける所作を見せた。海の方から吹いている風に優しく揺れている。五年前と比べて変わった事と言えば、彼女の髪の長さくらいだろう。
「今時間ある? 少し歩かない?」
和香那はさっきまで自分が歩いてきた方の道を指差す。スマホを取り出して時間を確認する。予定まではもう少し時間があったから、僕は「大丈夫だよ」と言って頷いた。和香那の左隣に並ぶようにして歩き出す。
「変わらないって言ったけど、そうでもないかも。身長高くなったね」
「そうかな。お互い伸びたんだし、体感的には五年前と変わらないんじゃない?」
「あの時はまだ私の方が高かったよ。それにちょっと優越感あったから覚えてる」
「そんなの初めて聞いた」
「だって言って葵が傷付いたら嫌だから。葵ってすぐ泣くし」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
和香那は昔を懐かしむようにふっと笑う。その表情があまり見慣れなくて、身長差のせいなのかもしれないと少し思った。昔はもっと、こういう場面があったはずだ。
「あとは少し、大人っぽくなった」
「五年もあれば成長するよ。君も僕も」
「私も? 変わったかな」
「顔を見た一瞬だけ君だって分からなかった」
「それは葵の記憶力の問題じゃないの?」
「君が綺麗になったんだよ」
僕が言うと、和香那はこちらを見てほんの少しだけ目を大きくさせた、ような気がする。分からないけど、そのくらい些細な表情の変化だった。
「……お世辞が言えるようになるのも、大人になるって事なのかもね」
そう言ってまた何でもないような顔で前を見る。別にお世辞ではなかったけど、それを言うのはなんだか野暮な気がして止めた。
明日には忘れてしまうような、取り留めも無い話をしながら歩く。できればこのまま、どうでもいいような話だけをしていられますように。お互いに大切な事だけは言わないまま訊かないまま、ゆっくりと別れられますように。そんな風に祈りながら。
「葵はここで何してたの?」
「それを話すと少し長くなる」
「そっか。じゃあその花火セットは?」
「それも長くなる。先に君の話が聞きたいな。どうしてこんな所に?」
「私も少し長くなるけど、いい?」
「もちろん」
その時ちょうど、防波堤が途切れて海へと続く場所に辿り着いた。どちらからともなく海の方へと向かう。靴で砂浜を踏みしめる、柔らかな感触が足裏をくすぐる。
「どうしてこんな所に、っていうのは、私が海沿いを歩いてた理由を聞きたいだけじゃないよね?」
和香那の問いに僕は沈黙という形で肯定する。小学校を卒業と同時に彼女は隣県へ転校した。こんな早朝にこんな人気の無い場所を歩いているのは、どう考えても不自然だった。
「結局は遡ると小学校時代になるんだけどさ」
「ゆっくりでいいよ」
「端的に言えば、その時転校したのと私が今ここに立ってる理由は同じなんだ」
「えっと、つまり引っ越しって事?」
「引っ越しはそうなんだけど、それだけじゃないというか」
海辺まで数メートルという所で、僕らは同時に足を止めた。さざ波の寄せる音が静かに響いている。周囲は仄かに明るくなっていて、目を凝らすと波が動いているのが分かる。
「私の親、どんな感じだったか覚えてる?」
「……ああ、なるほどね」
和香那の一言で僕は全てを察した。彼女の両親については和香那の口から色々と聴いた事がある。そのせいで、和香那がどういう人生を歩んできたのかも。
和香那は「笑っちゃうよね」と真顔で言った。少し怒っているようにすら思えた。
「この付近に引っ越すって事はもう決まってるんだ。それで、どういう場所なのかなって気になって歩いてたの」
そう言いながら和香那は少し周りを見渡す。「ここは景色がいいね」と。
「また親の都合で振り回されて、どうしようもない気分になってた。でも、ここに来れてよかったよ」
「うん。いい場所だよ。この海沿いは特に人通りも少ないから、僕のお気に入りの場所の一つなんだ」
「そうじゃなくてさ」
和香那はそう言って、こちらを覗き込むように見ながらほんの少しだけ微笑えむ。
「だって、君に会えた」
彼女の珍しい表情に少し驚いていると、水平線の向こうから暖かな光が見えた。薄暗かった空の色が一瞬にして変わっていく。それに気付いた和香那がそちらに目を向ける。瞳に橙色を映す彼女の横顔は、とても綺麗だった。
「なんとなく知らない土地を歩いて、そっちには海があって、早朝には珍しい暖かい風が吹いて、前を見たら葵がいた。運が良かっただけかもしれない。でも、あえて別の言い方をするなら、私は」
その先を言わないで欲しいと、直感的に思った。だって僕は。
「私はこれを、運命って呼びたい」
僕は、君になんて会いたくなかった。
彼女と関わる事なく、人生をなんとなくで生きていたかった。彼女の隣にいる事はとても辛く、苦しいものだと知っている。彼女が隣にいれば彼女を、そして自分自身をもっと嫌いになってしまうと理解している。
「葵は?」
「……なに?」
「私と会えてどう思った?」
「もちろん、嬉しいよ」
そんな言葉と下手くそな作り笑いでごまかす。だって、それ以外に何を言えばいいのか分からない。「よかった」なんて、安心したような顔を見せる彼女を傷付けるくらいの勇気を僕はまだ持ち合わせていない。
「私の話は終わり。次は葵の番。どうしてここにいたの?」
「別に、ただここを通っただけ」
「はしょらずにちゃんと教えてよ」
「全部を話すと本当に長くなるんだ。正直面倒くさい」
「じゃあ花火セットの話は?」
「実はそっちの話の方が長い。もっと面倒くさい」
そう言うと和香那は「けち」とだけ文句を言った。実際そうなのだ。どうしてここにいるのか、どうして花火セットを持っているのか。全てを話すには時間が足りない。そう思った時、また彼女が口を開く。
「じゃあ代わりにさ、一つだけ訊きたいんだけど」
——ああ。その先は駄目だ。
直感的に思った。嫌な予感がした。だって、彼女が訊きたい事なんて一つに決まっている。僕が一番言われたくない事だ。
「葵はまだ——」
「ごめん。人を待たせてるんだった。そろそろ行かなくちゃ」
和香那の言葉を無理やり遮るように僕は言った。和香那は「そっか」と小さく呟く。その表情は見ないようにした。傷付いた顔をしているんじゃないかと思ったから。
「じゃあ、またどこかで会えたら」
あまり顔を合わせないようにしながら彼女に背を向ける。すると和香那は「まって」と僕の手首を優しく掴んだ。
「また会えたら、じゃなくてさ。多分また会えると思う。そう遠くないうちに」
「どうして?」
「それは、秘密」
「は?」
僕が眉をひそめると、和香那は手を離して右手の人差し指を唇にあてる。秘密とか内緒とか、そういうジェスチャーだ。
「だって葵は全然自分の話してくれないのに、私だけ話すのは不公平じゃん」
「それはそうかもしれないけど」
「もしまた会えたら、その時に話そうよ。お互いにね」
そう言いながら和香那はちらりと僕の胸元を見る。そこにはただ校章のワッペンが付けられている。
まあいいかと率直に思った。もしまた会えたらの話だ。今日みたいな偶然が無い限り、もう彼女と会う事はない。絶対にだ。
「ここで葵に会えてよかった。また会おうね」
和香那はそう言ってまたほんの少しだけ微笑む。僕はそれに「そうだね」と頷いた。
「じゃあ、また」
彼女に倣い、作り笑いを浮かべて手を振る。今度はちゃんと上手く笑えた自信があった。彼女に背を向けてそっと歩き出す。
僕は別に、彼女の事が嫌いなわけではない。「おはよう」とか「またね」とか挨拶はちゃんとしたいと思うし、もう二度と会えない別れなら「さよなら」くらいは言いたかった。
だからこそ、今この場で「さよなら」を言えない事を、ほんの少し残念に思った。
* * * * *
高校二年生 十月中旬
『私は世界の秘密を知っています W』
「……なにこれ」
自分の靴箱を開けて真っ先に目に入ってきたものがそれだった。折り紙ほどの大きさの紙の、その真ん中に縦書きで書いてある。意味が分からずその場に立ち尽くす。何かのいたずらだろうか。
「あれ? 小高君?」
名前を呼ばれて声のした方に顔を向ける。視線の先で、渡良瀬さんがこちらに向かって「よっ」と右手を上げた。左手にはパンがいくつか入ったレジ袋を持っている。購買に行った帰りなのだろう。手に握っていた紙をポケットに突っ込む。
「また遅刻? もう昼休みだよ」
「みたいだね。また先生に怒られる」
「単位大丈夫? 退学とかしないでよね」
靴から上履きに履き替え、渡良瀬さんと並んで教室へ向かう。隣の渡良瀬さんを見て、僕は「あれ」と声をあげた。渡良瀬さんが「ん? どうした?」とこちらを見る。
「渡良瀬さん、またピアス開けた?」
「あ、気付いた? いいでしょこれ」
首の辺りで切り揃えられていたショートボブを耳にかけ、左耳を見せる。分かるだけでも七つほどピアスが開いていた。渡良瀬さんは「昨日開けたんだ」と指を差したが、たくさんありすぎてどれの事を差しているか分からない。
「校則的にそれ大丈夫なの?」
「いや、めっちゃ怒られるよ。次は舌ピ考えてるんだけどマズいかな?」
「僕とは別の理由で退学になりそう」
そう言うと渡良瀬さんは「あはは」と大きく笑った。笑い声が少し大きいのと、大きな目を細めるのが彼女の笑い方の特徴だ。
僕らが所属している二年一組の教室は校舎の三階にある。「どうして踊らないのに踊り場って言うんだろうね」「好きでもないのにキスする男みたい」なんて意味の無い会話をしながら階段を上っていた時だった。
「そういえば今日はなに持ってきたの?」
渡良瀬さんが僕に訊ねる。僕は肩にかけていた鞄に手を入れ、そこから首輪を取り出した。黒色で、小さな鈴が取り付けられている。
「なにそれ、犬用?」
「いや、猫用」
「ふーん。本当に色々なんだね」
渡良瀬さんは持っていたレジ袋を広げ、そこからコロッケサンドを取り出す。レジ袋の中には見えただけでも同じものが五つくらい入っていた。正確に言えば二つが一袋に包まれているから合計十個。渡良瀬さんはよく食べる人だ。
ようやく階段を登り切り、少し長い廊下の先に二年一組の教室が見えた。校舎内を生徒達の喧騒が反響している。
「あ、そうだ。一番言わなきゃいけないこと思い出した」
早くもコロッケサンドを一袋食べ切った渡良瀬さんが言う。僕はそれに内心驚きつつ「なに?」と訊ねる。
「今日から転校生が来てるよ」
「本当に? 初耳だけど」
「一週間くらい前から告知されてたけど、その時も小高君いなかったから」
「そうだったっけ」
「いやまあそれはいいんだけどさ、問題はその人がさ」
渡良瀬さんが何を言いたかったのか、その続きはすぐに分かった。
数メートル先の二年一組の教室から、一人の生徒が出てきた。この学校の制服を着用した女子生徒だ。つい最近衣替えで長袖になったセーラー服。今時珍しくスカートも着崩さず規定通りに着用している。それは彼女が元来持っているものを引き出すのに充分だった。美しさとは、着飾るものではなく削り出すものなのかもしれない。
肩甲骨辺りまで伸びた綺麗な黒髪、少し切れ長で鋭い目、固く閉じられた口元。佇まいはこの世界には不自然なほど真っ直ぐで、いつか終末が訪れても彼女は何も変わらずにいるのではないかと思うくらいの強さを持っていた。
教室を出た彼女は一度僕らとは逆方向を見て、すぐにこちらを振り向いた。そしてこちらに向かって歩き出したところで僕に気が付き、「あ」と少し口を開ける。
「葵」
「……和香那」
気が付つくと僕はその場で立ち尽くしていた。迷いなくこちらへ近付いてくる彼女を見て、僕は困惑していたのだ。あり得ない。どうして彼女がここにいるんだ。彼女がここにいるはずがない。でも、僕が見間違うはずもない。彼女は紛れもなく星和香那だ。
「久しぶり。って言っても二か月ぶりくらいか」
「……そうだね。あまり久しぶりって感じじゃない」
「じゃあこういう時はなんて言えばいい?」
「朝ならおはよう、昼ならこんにちは、夜ならこんばんは、でいい」
「そっか、次からはそうする」
無理やり頭を動かして会話を続ける。隣にいた渡良瀬さんが「ほんとに知り合いだったんだ」と僕と和香那を交互に見ていた。
「星さん、ずっと小高君のこと探してたんだよ。どういう関係なのかなって気になってさ」
「葵とは小学校の頃からの友達だよ。……えっと」
「渡良瀬美鈴。渡良瀬橋の渡良瀬に美しい鈴って書く」
「ごめんなさい、一度聞いたのに」
「一回で覚えられる人の方が少ないよ。なんなら苗字より名前の方が読み数少ないし美鈴って呼んでいいよん」
「分かった。美鈴って呼ぶね」
和香那が頷くと、渡良瀬さんは驚いたように少し目を大きくさせた。渡良瀬さんも和香那とは別の理由で感情を顔に出す事が少ない。和香那がずっと無表情なのに対し、渡良瀬さんはいつも調子の良いような笑顔を浮かべている。
「美鈴はどうして葵と一緒に?」
「あ、えっと、購買に行った帰りちょうど小高君と会ったんだ。小高君って遅刻ばっかりするんだね」
渡良瀬さんの言葉に、和香那が少しだけ眉をひそめたのが分かった。彼女は遅刻とかサボりとか、そういう類のものにとても厳しい。
「どうして遅刻したの? しかも常習犯って事? 前はそんな事しなかったのに」
「僕にも事情があるんだよ」
「理由があるならちゃんと申告できるでしょ? そうしないって事はまともな事情じゃないに決まってる。どういう訳なのか今ここで私に説明できる?」
「説明すると長くなる。それに説明したところで君が納得するかどうかは別問題だ」
「またそうやって面倒くさがる。この前だって」
「小高」
和香那が矢継ぎ早に言うのと、後ろから名前を呼ばれたのは同時だった。振り返ると、廊下の先で担任がこちらに手招きしている。どこにでもいるような男性教師だ。
「ごめん、また後で話そう」
この時ばかりは教師に呼ばれた事をありがたく思った。いるはずのない彼女が現れた事実だけでも手一杯なのに、あれもこれもと訊かれてイライラしていた。一度頭を整理する時間が欲しかったのだ。僕は二人に「じゃあ」とだけ言って背を向ける。
「葵はどうして先生に呼ばれたの?」
「説教だよ。いつもの事」
「あ、じゃあ私も用事があるから一緒に職員室に」
数メートル後ろから二人の声が聞こえる。背中を冷ややかなものが伝う。冗談じゃない。今はもう、彼女の顔を少しだって見たくないんだ。
その時僕は、ある事を思い出した。
僕はその場で振り返り、こちらに来ようとしている和香那に向かってあるハンドサインを送った。手をグーにして親指だけを立てる。つまり、傍から見ればただのグッドサインだ。渡良瀬さんはそれを見て不可解なものを見る目をした。
でも和香那は違った。一瞬だけ少し驚くような顔を見せた後、足を止めて軽く頷いてくれた。良かった。まだ覚えていたみたいだ。
「お前これで何回目の遅刻だよ。本当に留年するぞ」
「すいません」
先生の後を付いていきながら、和香那の顔を思い浮かべる。どうしてここにいたのかは分からない。でも、どうであれまた出会ってしまったものは仕方ない。
また彼女とお別れをしよう。今度はちゃんと、「さよなら」を言えるように。
その日は昼休みが終わるまで説教されて、そのまま五限と六限を受けて終わった。放課後に予定のあった僕はさっさと学校を出て、だから結局彼女とまた話したのは帰り道だ。
「葵」
後ろから声が聞こえたと思ったら和香那が小走りで右隣に並んできた。息が少し切れていて、綺麗な黒髪が汗ばんだ首筋に張り付いている。
僕は少し歩調を緩めて歩く。僕のすぐ左の車道を車が往来していた。
「帰るの早いよ。いつもこんな感じなの?」
「部活には入ってないし、談笑するような友達もいないから」
「美鈴は友達でしょ?」
「ただのクラスメイトだよ。今日からは君も」
「違う。私と葵は友達だよ。ずっと昔からそうだった」
「どっちでもいいんじゃない? 関係性に名前が必要だとは思わない」
僕と彼女の関係性なんて考えた事もない。考える必要が無かったから。友達なのかと訊かれたら頷くだろうし、恋人なのかと訊かれても面倒くさくて頷く気がする。当たり前のようにずっと一緒にいたけど、僕は今彼女とさよならする為だけに足を動かしている。こんな関係に名前を付けようというのが無理な話なのだ。
「葵は私と友達なのは嫌なの?」
「まさか。でも人から訊ねられたらクラスメイトって答える」
「じゃあ私は人から訊かれたらなんて言えばいい? 友達? クラスメイト?」
「それは君が決める事だよ。好きなようにしたらいい」
「それはなんだかずるいよ。それに、気持ち悪い」
「人間関係なんて大抵そんなもんだよ」
「納得できない」
「この世界は納得できる事の方が少ない」
それは君が一番わかってるだろ。口には出さなかったけど思った。納得できない、間違いだらけの世界で割りを食ってきたのは彼女のような人間だ。
和香那は難しい顔で俯いたまま歩いている。考え事を始めると周囲が見えなくなるのは彼女の悪い癖だ。後ろから自転車が近付いてきたから、ブラウスの袖口を掴んでこちら側に寄せた。それで彼女の集中力も切れたらしく、「色々言いたい事があるんだよ」と別の話題を口に出す。
「言いたい事もあるし、訊きたい事もある」
「なに?」
「でも、訊いたところで葵が素直に答えてくれるかは分からない。から、先に言いたい事だけ言う」
隣をゆったりとした速度で自転車が通っていく。和香那は後ろを振り返って誰も来ていない事を確認し、また同じ距離感で隣に並んだ。
「私がどうして学校にいたか分かる?」
「転校してきたから」
「そうだけど、そうじゃなくて。どうして葵のいる学校に転校してきたんだと思う?」
僕は答えを口に出そうとして、やっぱり止めた。彼女が答えを言いたそうに口調を柔らかくしていたから。大人しく分からないふりをして首を横に振る。
「正解はね、これだよ」
和香那はセーラー服の胸元に付けられている校章のワッペンを指差した。当然、僕のブラウスにも同じものが付けられている。
「海で会ったあの日、葵の胸元にこれがあった。それで高校が分かったから、同じ学校に行こうって思ったの」
「……なんとなく分かってたけどさ」
「え? どうして?」
「だって分かりやすいくらい、これをまじまじと見てたから」
僕は自分のワッペンを指差す。和香那は残念そうに、いや、不服そうに「そう」とだけ呟いた。同じ高校に転校してくるのでは、と少し思っていた。嫌な予感は的中してしまったわけだ。
でも重要なのはそこじゃない。それでも僕はまだ分からないのだ。どうして彼女がここにいるのか。どうしているはずのない彼女が転校してきたのか。
「たったそれだけの理由で転校してきたの?」
「私にとっては何より大事だよ。また葵と一緒にいられる」
「びっくりした?」と訊ねられ、どうしようか少し迷って結局は頷く。考える事を一旦諦めて和香那との会話に意識を戻した。
「伏線回収ってやつだよね。葵のワッペンが伏線になってくれた」
「その伏線回収、必要あったのかな」
「人生には伏線があった方が楽しいよ。そうそう。伏線と言えば、あのハンドサインよく覚えてたね」
和香那は右手で親指を立てて僕に見せる。昼休みに僕が彼女に見せたものと同じサイン。
これは昔、僕と和香那の間で使っていたハンドサインだ。どうしても自分に近付いてはいけない時、付いてきてはいけない時、その場に留まって欲しい時。そういう場合だけ緊急用として使っていた。僕らの間ではただ「そこにいて」などと言うよりも強い意味を持つ事が暗黙の了解だった。どうしてグッドサインと同じ形になったのか、何か成り立ちがあったような気がするけどもう忘れた。
「今日まで忘れてたけど、君を前にしたら咄嗟に出てきた。まさか君も覚えてるとは思わなかったけど」
「でもどうしてあそこで私を止めたの?」
「説教されてるところなんて人に見られたくない。特に君には」
「そんなの気にしないのに」
「僕が気にするんだよ」
歩行者用信号機が見えてきて僕は足を止める。隣の和香那を見ると、首筋に張り付いていた黒髪はいつのまにかサラサラに戻っていた。冬になりかけの乾いた空気がそうさせたのかもしれない。
「言いたい事は一通り言ったから訊きたいんだけど、どうして遅刻したの?」
目の前を車が通り過ぎていく。目にかかった前髪が風圧で横に流れる。和香那の黒髪も同じようにふわりと持ち上がっていた。
「昔はそんな事しなかったじゃん」
「ただサボってるだけだよ」
「嘘。葵はそういうタイプじゃない」
「学校をサボるって行為は、学校に通ってないとできないんだって気付いた。だからたまにこうして午後に登校してる」
実際それも嘘ではない。何かと理由を付けて午前中をサボっている事に間違いはないのだから。でも和香那は納得できないらしく「絶対嘘」と眉を寄せていた。
「あ、思い出した。あの日どうして海沿いを歩いてたのかまだ聞いてない。どうして花火セットを持ってたのかも。また会ったら話すって言った」
「君が勝手に言っただけだ。僕は話すなんて言ってない」
「あれ、そうだっけ」
信号機が青色に変わったから横断歩道を渡って右折する。車道が右側になったから和香那を引っ張って場所を交代した。そう言えば和香那の家はどの辺だろう。ここから近いのだろうか。
「遅刻してる理由、海にいた理由、花火セットを持ってた理由。この三つ」
「それ答えなきゃ駄目?」
「どうしても嫌なら答えなければいい。無理やり聞き出す方法を私は知らない。でも」
今度は左隣を歩く和香那を見る。いつもとあまり変わらない静かな表情だ。でもどうしてだろう。少しだけ弱々しく見えた。これも身長差が生んだ錯覚だろうか。
「少なくとも、遅刻してる理由は知りたいよ。何かあったんじゃないかって心配だから」
和香那は「これまでも、これからも」と小さく付け加えた。
納得できない事だらけのこの世界で、彼女はそれでも追い求める。何が正しいのかを。僕は昔と変わらず間違っていないと納得したいのだろう。それでも僕が間違っているなら、彼女はちゃんと正してくれるのだろう。
だから僕は彼女の傍にいられないのだ。彼女を傷付けてしまうと分かっているから。そんな自分と世界が嫌になってしまうから。
小さく息を吐き、視線の先に見えてきた目的地を見る。どの道あそこには行かないといけないし、このまま和香那も一緒だろう。僕は「分かった」と言い、隣の和香那を見る。
「時間ある? 少し寄り道しよう」
青を夕焼けの赤が少しずつ浸食しつつある。木々や僕らの影が少しずつ伸びていく。
僕らが辿り着いたのは人気の無い公園だった。小さな砂場と小さな東屋、それと申し訳程度に遊具としてブランコだけが置いてある。手入れが行き届いているとも言い難い。僕はここが好きだ。誰からも見向きもされない場所は安心感を覚える。
二つ並んだブランコのうち、一つに小さな女の子が腰かけている。この付近のものだろうと思われる小学校の制服と、赤いランドセル。膝には白猫を乗せていて優しい手付きで撫でていた。僕はその子に近付く。
「こんにちは」
声をかけるとゆっくり顔を上げる。そして口角を少しだけ上げるような表情を見せた。笑っている、のだと思う。断定できないのは、彼女の目元にマスクが付けられているからだ。仮面舞踏会で付けられているような鼻から上が隠されるタイプのもので、こちらも白猫を模したもの。その奥の瞳が笑っているのかどうか、僕には分からない。
「今日は天気がいいけど、段々と肌寒くなってきたね。風邪には気を付けないと」
僕が言うと、彼女はゆっくりと頷いて膝の白猫に目を戻した。白猫が気持ちよさそうに「にゃあ」と鳴く。
「この子は?」
後ろから様子を伺っていた和香那が訊ねる。僕は答えに迷った。どういう風に答えたところで納得されないのは分かっている。だから僕はたった一言、シンプルかつ端的に彼女を紹介する事にした。
「この子は女神様だよ」
そう言うと和香那は真顔のまま僕を見つめ、数秒経った後で眉をひそめて首を傾げた。まあ、そういう反応になるか。
僕は肩から下げていた鞄に手を入れ、そこから首輪を取り出す。そして「はい、これ」と女神様に差し出した。
「約束の首輪。鈴が付いてるのが黒色しかなかったけど、よかったかな?」
女神様は首輪を受け取り、品定めするようにしばらく見つめていた。やがてまた僕の方を見上げると口角を少しだけ上げる。気に入ってもらえたらしい。この白猫に着せるのだろう。僕の後ろから和香那が「ねえ」と制服の端をつまんだ。
「ちょっと待ってよ、説明してよ」
「説明の仕方が分からないんだよ。訊きたい事に答えるくらいはできるけど」
「この子は誰?」
「この子は女神様だってば」
「どういう関係?」
「そんなの無い。関係性に名前が必要だとは思わないってさっき言った」
「何も分からない」
「そんなこと言われても」
女神様を横目に見る。左手に首輪を持ったまま、右手で白猫を撫で続けていた。僕は和香那と共に女神様から少し距離を取る。
「君が知りたいのはさっき言った三つだよね? それに一回で答えられるから君とここに来た」
「つまり?」
「あの子は女神様。たまに持ってきて欲しいものをお願いされるんだ。僕はこれを供物って呼んでるんだけど。その供物を探して、たまに遅刻する事がある。今日は鈴の付いた首輪だった。あの日海にいたのは、あの時間にあの海で花火がしたいって言われてたから。供物って呼ぶには広義な気もするけど」
「なにも分からないってば」
困惑と苛立ちが混じったような声音で和香那が言った。彼女は感情が顔に出ない代わりに、声音に感情が乗る事が多い。
「どうしてそんな事を」
「女神様は願い事を叶えてくれる。でもタダじゃない。普段から供物を渡さないといけないんだ。女神様にこんな言い方は良くないけど、メーターを貯めるような感じかな」
「だから、それは」
和香那はそこまで言い、やがて諦めたように小さく息を吐いた。これ以上は平行線だと感じたらしい。そうなのだ。彼女が信じようと信じまいとそれが全部だ。事実、僕は何度か彼女に願い事を叶えてもらった事がある。
「……供物って、他にはどんなものがあるの?」
「首輪と花火の他には、飲み込むのに時間のかかる駄菓子、変なデザインのヘルメット、コンビニに入ってすぐ左手の棚の二段目にあるもの、白いカラスとかもあったかな」
「そんなの見つかるの?」
「いや、無理だよ。だから全部持ってこれるわけじゃない。できそうなものだけだ」
「願い事って、例えばどんな?」
「女神様だよ? 何でもできる。忘れたい出来事を忘れさせてくれたり、天気を変えたり。お願いした事は無いけど人を生かしたり殺したりもできるだろうね」
僕がそう言うと、和香那は振り向いて女神様を見た。信じたわけではないだろうけど、理解はしてくれただろうか。
「まあ、だからどうって話じゃない。君は普通に、小学生の女の子と接するようにあの子と話せばいい」
「……そんなこと言われても、納得できない」
そう言うと和香那は振り返って女神様の方に向かっていった。ブランコに腰かける女神様の前にしゃがみ込み、優しい声音で声をかける。
「こんにちは。初めまして。私は星和香那っていいます。貴女の名前を教えてくれる?」
女神様は猫を撫でる手を止め、首輪を一度足元に置く。そして右手の人差し指、中指、薬指を立て、左手は人差し指を立てて見せた。数字の三と一を表している形だ。
「……えっと、名前だよね? 〝みいち〟ちゃん、とかかな? 珍しい名前だね」
「名前じゃなくて年齢じゃないかな?」
「三十一歳には見えない」
「逆じゃない?」
「あ、十三歳か」
和香那は「そっか」とだけ言い立ち上がった。僕に顔を近付け、耳打ちするように小さな声で訊ねる。
「もしかしてこの子、喋るの苦手?」
「どうだろう。滅多に口は開かないけど、苦手って印象は無いかな」
「喋る事もある?」
「本当に稀に。だからなんとなく、表情とかで意図を汲み取るしかない」
「表情って、仮面付けてるんだけど」
和香那はそう言った後でまた女神様の前にしゃがみ込んだ。女神様はそのまま静かに和香那の顔を視線で追っている。
「じゃあ、年齢は十三歳って事でいいかな?」
和香那に訊ねられた女神様は、次は右手をパーに開いて見せる。数字の五を示しているのだろう。
「……えっと、五歳?」
「学年じゃないかな」
「あ、五年生って事か。じゃあ、小学五年生の十三歳だ」
合点がいったような声で言う。女神様は何も言わずただ微笑んでいた。白猫が「にゃあ」と鳴く。僕はそこで違和感を覚えた。小学校五年生って十三歳だっけ。
「やっぱりただの女の子だよ。供物なんておかしい」
僕の小さな違和感は、和香那が立ち上がりながら発した言葉に遮られた。仕方なく意識をそちらに向ける。
突飛な話をしているのは分かっている。信じてもらえないのも仕方がない。だから、和香那がそう言うならそれでいいだろうと思った。
僕は女神様の前にしゃがみ、また声をかける。
「次は何か決まってる?」
そう訊ねると、女神様はスカートのポケットから折りたたまれた一枚の紙を取り出した。「ありがとう」と言って受け取り、開いて見る。
「……『世界の秘密』?」
後ろから覗き込んだ和香那が、中に書かれていた文字を読み上げる。僕は二つの意味で困惑した。こんなお願いをされた事、そして「世界の秘密」という文字列に覚えがある事。
「世界の秘密をお供えするって事? いつもこんな感じ?」
「いや、こんなに抽象的なものは初めてだ」
僕は女神様に「どういう意味?」と訊ねてみた。けれど変わらず微笑んだまま、白猫を優しく撫でるだけだった。
「……まあ、頑張ってみるよ」
僕は立ち上がり、「行こうか」と和香那に声をかける。女神様に「またね」と言うと代わりに白猫が「にゃお」と鳴いてくれた。
「頑張ってみるって、どうするの?」
公園の出入り口に向かいながら、和香那が訊ねる。僕はそれに「どうだろね」と答えた。
「でもいくつか心当たりはある。それがそうなのかは分からないけど」
「いくつか」
「まあそれは明日話そう。もしかすると渡良瀬さんが関係してるかもしれない」
「美鈴が? どうして?」
「それを訊く為に明日話すんだよ」
公園を出て帰路に着く。しばらく歩き、視線の先に交差点が見えてきたところで「私はあそこを左」と和香那が言った。僕は右だからそこでお別れだ。
「なんだか凄く濃い一日だった。葵に会えて、遅刻魔になってて、その理由を訊いたら女神ちゃんにプレゼントしてて」
「女神ちゃんって呼ぶの?」
「だって名前教えてくれなかったから。小学生の女の子を女神様って呼ぶのも嫌だし。とりあえずちゃん付けで呼ぶ」
「なんでもいいけど」
「でもやっぱり、葵に会えたからそれが一番大きいよ。これからまた一緒の学校生活を送れるのは嬉しいね」
僕はそれに、また下手くそな作り笑いで「そうだね」と答えた。なんにせよ、少しずつやっていこう。ゆっくり、ゆっくり。彼女とのお別れの準備をしよう。
やがて別れ道である交差点に差し掛かった。僕は信号待ちの為に立ち止まる。和香那は逆方向だから、そのまま「また明日」と振り返ろうとした。僕もそれに「また」とだけ言う。
濃い一日だったのは僕も同じだ。いるはずのない和香那となぜか再会して、「世界の秘密」なんて無理難題を吹っ掛けられて。早く家に帰って頭を休めたかった。
「あ、そうだ。あと一つだけ、葵に訊き忘れてた」
だから、もう彼女の言葉に耳を傾けたくなかった。
彼女が何を訊ねようとしているか分かったから。僕が一番言われたくない言葉だと確信していたから。あの八月最終日、彼女が訊ねようとしていた事。
「葵はまだ、小説を書いてるよね?」
何も疑う事なく、ただの事実確認のように、当たり前に和香那は訊ねる。
果たしてどうだろう。いつもの僕なら適当にごまかしていただろうか。のらりくらりとはぐらかしていただろうか。いや、結局は破綻するのが怖くて、正直に答えていたような気がする。
「もう書いてないよ」
そう、こんな風に。
和香那は「え」と呆気に取られたような表情を隠さなかった。そのタイミングでちょうど信号が切り替わり、僕は「じゃあね」とその場を去る。なるべく彼女の顔を見ないようにしながら。夕焼けに染まった彼女の、傷付いた瞬間の悲しいくらいに綺麗な顔を見たくなかったから。
* * * * *
どっちつかずの中途半端な人。それが、僕が渡良瀬さんに抱いた第一印象だった。
高校に入学してすぐ、学力を図る意図で行われた小テストがあった。全体の三割程度を解き終わった頃、隣からシャーペンを置く音が聞こえてちらりとそちらを見た。ピアスをいくつか開けた女の子が、早くも全てを解き終えて間違いが無いか一生懸命に見直している。凄いな、と率直に思った。でも「中途半端な人」という印象を抱いたのは、ピアスの数と学力の高さというアンバランスさ故ではない。もっと別にある。
彼女はいつもどこかに行きたがっていた。ここではない場所、自分ではない誰か。存在しないものの事ばかりをずっと妄想し、それを口に出す。でも、行動だけを見るとどこにでもいる普通の女の子。それこそ学校をサボったりもしなければ、成績も常にトップを維持している。渡良瀬さんはそんな自身の事を「勇気が無いのか、無力を痛感するのが嫌なのか、そのどっちか」と語っていた。
「脳内だけでも、口先だけでも憧れていたいんだよ。現状を飛び出す勇気も無ければ、そうするだけの力も持ち合わせていない。それを認識するのが嫌だから、行動に移すのが怖いんだ。緩やかに、ほんの少しだけでいいからはみ出していたいんだよね」
「これはその足掛かり」と言ってピアスを見せる渡良瀬さんに、僕は深く共感したのを覚えている。どっちつかずの中途半端な臆病者。人間なんて大抵そんなものだろう。
でも僕はたった一人だけ、例外を知っている。どうしようもなく潔癖に、悲しいくらいに強く在ってしまう人間は確かにいるのだ。
「ここ座っちゃお邪魔?」
昼休み、一緒にいた僕と和香那に声をかけたのは渡良瀬さんだった。和香那はフルーツサンドの綺麗な食べ方に苦戦しながら「もちろんいいよ」と言った。僕は何の味付けもしていない食パンを食べようとしていた。
「星さん甘いの好きなんだ。フルーツサンド美味しいよね」
「うん。でも正しい食べ方が分からないから、味以外の部分は嫌い」
「一番好きな食べ物ってなあに?」
「アボカド」
「……変なの」
どう齧ればクリームが付かないか考えている和香那を横目に、渡良瀬さんは僕の正面に座る。一つの机を僕と渡良瀬さんが共有し、その隣に和香那が別の机をくっ付けている形だ。
「小高君またそれ? 購買で一番不人気なの知らないの?」
「もちろん知ってるよ。味も無ければ食感も固い。はっきり言って美味しくない」
「じゃあなんで」
「一番不人気なものを好きになれたら、売り切れないからいつでも食べられると思ったんだ。でもそれを天秤にかけても割に合わないくらい不味い」
「……二人とも変だよ」
眉をひそめながら、渡良瀬さんは大量の焼きそばパンを僕の机に散乱させる。君も大概だと少し思ったけど言わなかった。
「二人って幼馴染なんだっけ? 昔の話とか聞きたいな」
「葵は今とあんまり変わらないよ。身長と顔以外」
「そりゃあ外見は成長するだろうけどさ」
僕の身長は一七〇センチで平均と同じくらい。和香那は僕より五センチくらい低い気がするから一六五センチとかだろうか。僕より低くはあるものの平均より少し高めだ。そこから考えるに渡良瀬さんは一五五センチくらいな気がする。
「強いて言えば、昔は凄く泣き虫だった」
「噓でしょ、なにその可愛いエピソード。もっと教えて」
「怪我したらすぐ泣いたし、かけっこで私に負けたら泣いてた」
「今の小高君からは想像できないね」
僕が固い食パンを嚙み切れないのをいい事に、目の前で勝手な会話が広げられる。和香那は人の嫌がる事は絶対しないけど、僕に対してだけはその判定が甘くなる節がある。
「じゃあさ、一番の思い出教えてよ。言える範囲でいいからさ」
「思い出というか、大切な記憶ならある。六年生の時、夏の終わりに——」
「和香那」
無理やり食パンを飲み下して名前を呼ぶ。和香那は両手でクリームサンドを持った態勢で、渡良瀬さんは焼きそばパンに齧り付こうと口を大きく開けた顔のままでこちらを見た。
「そんな話をする為に集まったんじゃないよ」
「あ、そうだった。葵の話はまた後でしよう」
和香那の言葉に、渡良瀬さんは咀嚼している口元を手で隠しながら首を傾げる。和香那も口元にクリームが付かないようパンを小さく一口齧った。
「渡良瀬さんに訊きたい事があるんだ」
二人とも口が塞がっていたので僕が口火を切る。さて、どこから説明しようか。
「昨日、和香那と二人で女神様の所に行ったんだ。首輪を渡すのと、欲しい供物について訊く為に」
「え、美鈴は女神ちゃんのこと知ってたの?」
和香那の問いに渡良瀬さんが首を縦に振る。口の中の物を飲み込んだ後で「女神ちゃんって呼んでるんだね」と驚いていた。僕はまた一口食パンを齧る。
「小高君と一緒に何回か会った事あるよ。可愛い子だよね」
「美鈴はどっち? 本当に女神様だって信じてる?」
「どっちでもいいって感じかな。どうであれ小高君を嫌がってる風にも見えないし、二人がいいならそこはあんまり重要じゃない」
「でもあの子は十三歳なんだよ。小学生なんだよ。自分で言ってた。その歳の普通の女の子が、赤の他人の男性から物を貰ってるのは、悪意が無くても健全じゃない」
「じゃあどうしたいの? 二人を引き離したい? そんな権利誰にも無いと思うけど」
「間違ってると思う事を正す権利は誰にでもあるよ。誰もやらないなら、私がやる」
「和香那」
食パンを飲み込んでまた名前を呼ぶ。和香那は一瞬だけこちらを見た後で、少し大きめにフルーツサンドに齧り付く。それを見て渡良瀬さんもまた焼きそばパンを食べる。早くも一つ食べ切っていた。二口で食べたのか。
また話を脱線させてしまった事に自覚があったのだろう。二人とも喋らないよう口に食べ物を頬張った。だから次は僕が話す番だ。
「女神様からお願いされたのは、『世界の秘密』っていうものだった。こんなのは初めてだ。どうすればいいか僕には分からない」
ポケットから昨日受け取った紙を取り出して机に置く。渡良瀬さんはそれを一瞥し、口元を手で隠しながら首を傾げた。
「ただ心当たりはいくつかあるんだ。そのうちの一つがこれなんだけど」
僕はそう言って、ポケットから別の紙を取り出す。『私は世界の秘密を知っています W』と書かれた紙。僕の靴箱に入っていたものだ。
「これがなぜか僕の靴箱に入ってた。意味は分からないけど、『世界の秘密』っていう単語が共通してる。偶然とは考えにくい。という事は、女神様を知ってる誰かのいたずらなんじゃないかと思ったんだ。あるいは、女神様と何かしら共通の考えを持っている誰か。僕が知っているのは和香那と渡良瀬さんだけ。でも和香那はつい昨日女神様の存在を知ったばかりだし違うだろうね。つまり、これを僕の靴箱に入れたのは渡良瀬さんじゃないかと思ったんだよ。このWっていうのは渡良瀬さんのイニシャルなんじゃないかって考えた」
少し早口に説明する。和香那は「なるほど」と呟いた。その口元には結局クリームが少し付いてしまっていた。
渡良瀬さんは少しの間口を動かして咀嚼していたが、しばらくしてごっくんという表現が似合うような動きで飲み込んで、そして「残念」と小さく言った。
「残念だけど私じゃないね。小高君の靴箱にそれを入れた人も意図も何も分からない」
「……そっか。当てが外れたか」
「Wってもちろん星さんのイニシャルでもあるけど、違うんだよね?」
渡良瀬さんが隣の和香那を見る。和香那も首を横に振った。
「でもさ、『世界の秘密』って言えばロストデイくらいじゃない? それ以外に思い付かない」
「まあそうだよね。僕も同じ事を考えてたよ」
「それの原因を考えるって事なのかな」
渡良瀬さんは「私達にどうこうできる問題かな」と言いながら二つ目の焼きそばパンを開けようとしていた。隣を見ると、きょとんとしたような顔をする和香那が目に入る。
「和香那? どうしたの?」
「……いや、二人とも何の話をしてるのかなって思って」
そこで僕と渡良瀬さんは同時に顔を見合わせる。逆に訊きたい。どういう事だろう。
「えっと、『ロストデイ』って何かなって」
「あ、もしかして呼び方に地域差があるのかな。あの三十一日の事だよ」
渡良瀬さんが少し戸惑ったように言う。ロストデイの呼称に種類があるなんて聞いた事がない。和香那は何を言っているのだろう。
「ごめんなさい、本当に何の話をしてるのか私には分からない」
「……三十一日の事、何も知らないとか言わないよね?」
渡良瀬さんの言葉に、和香那はまたきょとんとした顔で首を傾げる。そこで僕と渡良瀬さんは同時に「は?」と声を上げた。そんなのあり得るのか? ロストデイを知らないなんて。どうして。
「え、なんで? 不思議に思わないの? 何も覚えてないのに。なんで?」
渡良瀬さんは勢いよく立ち上がって途切れ途切れに訊いた。彼女がここまで取り乱した姿を僕は初めて見た。もちろん僕も驚いていた。和香那がこの学校にやって来た時と同じくらい驚いている。あの時といい、僕は本当に驚くと思考も言葉も止まってしまうらしい。
「どんな風に生きてたら知らずに生きていけるの? あ、ごめん馬鹿にしてるわけじゃなくてさ、でもほんとに信じられないというか、だってそんなの、あり得ない」
「ちょっと美鈴、落ち着いて」
和香那が困惑した様子で渡良瀬さんを制止させる。渡良瀬さんは「ご、ごめん」と座り直す。二人は同じタイミングで小さな深呼吸をした。
「葵、美鈴。教えて欲しい。私が何を知らないのか」
和香那はフルーツサンドを右手に、真剣な表情で言う。僕と渡良瀬さんはまた目を合わせて眉を寄せた。説明とは言っても、どこから何を説明すればいいのか分からないのだ。
「……一番分かりやすく言うね。人類の記憶から、その日の記憶が消えたの」
渡良瀬さんはそういう風に話を始めた。僕が説明するより、頭の良い渡良瀬さんが話した方が分かりやすいだろう。
始まりはなんだったか分からない。でも誰も、その日の事を思い出せない。
大抵の人は時計を見て不思議に感じるところから始まったのだと思う。日付を見ると一日分だけ飛んでいる。時計が壊れたのかな、とでも考える。
けれどその小さな違和感は一気に世界中へ伝播していった。そのたった一日の事を何も思い出せない。けれど時計やコンピュータ、明らかに積もり過ぎた雪とか乾き過ぎた水とか。そういう記憶以外の全てが丸一日経過した事を証明していた。
そして世界は正式に「人類の記憶から一日分の記憶が消えた」という事実を認めてしまった。誰が呼び始めたか、この現象の事は『ロストデイ』と名付けられたのだ。
「つまり日本時間では、それがちょうど八月三十一日に当たるの。日本人の誰も、八月三十一日の事を思い出せない」
渡良瀬さんが長い説明を終える。レジ袋から一五〇ミリリットルのお茶を取り出して、蓋を開けて一気に飲み下す。その後でまた「本当に?」と訊いた。
「本当に何も知らないの?」
「……うん。どうしてだろう」
「テレビとかネットとか見てたら分かるでしょ? 人と会話すればその話題にもなる」
「私はテレビ見ないし、スマホも持ってないからネットにも疎い。それに、どうでもいい会話をするような人は身近にいなかった」
渡良瀬さんはそこでこちらを見た。僕は小さく頷く。和香那が言っている事は全部事実だ。昔からテレビも機械類もあのパソコン以外に触らなかったし、僕が知っている限り友達もいなかった。親なんてもっての外だろう。
「だ、だって、考えてみてよ。八月三十一日の事、何か思い出せる?」
そう訊ねられた和香那は、口を少しだけ開けながら左上付近を見た。頑張って思い出そうとしているのだろう。しかしやっぱりというか、すぐに「だめ」と言って首を横に振る。
「本当だね。何も思い出せない、何も分からない」
「どんだけ鈍感なのこの人……」
渡良瀬さんが呆れたように言う。僕も同じ気持ちだ。
ロストデイの話だけではない。彼女が今この学校にいて僕と同じ教室で授業を受けている事も。全てが分からない。和香那は、世界の理から外れている。
どうしてこうも一々問題を持ってくるんだ。どうしてこんなにも僕の世界を壊そうとしてくるんだ。僕はただ、緩やかに生き延びていたいだけなのに。
「……ともかく。女神様の言う『世界の秘密』が、そのロストデイなんじゃないかって話だよ」
一旦僕は話を戻す為に言った。これ以上和香那の事を考えていると頭がおかしくなりそうだったから。渡良瀬さんは「そんな話だったね」と言って焼きそばパンを頬張る。大きな一口だった。
「でもそれは女神ちゃんに訊かないと何も分からないね。本当にその『ロストデイ』っていうものを差してるのかどうかも」
「そうだね。今日の放課後にでも公園に行こう」
女神様はいつもあの公園にいる。今日も行けば会えるだろう。
「結局、僕の靴箱に紙を入れたのが誰なのかも分からないままだ」
「それは今は置いておこうよ。逆に見ないと」
「……逆って?」
「分からない事がある時は物事を逆に見るんだよ。答えから逆算する。今、葵の靴箱に紙を入れたのが誰か分かっても特に意味は無い。だったら、女神ちゃんが欲しがってるものについて考える方がずっと有意義だよ」
「君は僕と女神様の関係について、否定的なんだろ?」
「もちろん。それは変わらない。でもその八月三十一日の正体が分かれば、世界にとって大きなプラスになる。だったら今はそっちを優先したい」
和香那はそう言ってフルーツサンドの最後の一欠片を口に入れる。相変わらず潔癖な考えだと同情してしまう。生きづらそうだ。
僕らの会話を聞いていた渡良瀬さんが「よし、決定」と元気に言った。もう二つ目を食べ終えたらしい。
「放課後、三人で女神様の所に行こう。『世界の秘密』について訊かないと」
「教えてくれるかどうかは分からないけどね」
僕が言うと渡良瀬さんは「確かに」と苦笑いした。女神様は口も心も滅多に開いてくれないから。
「……ごめんなさい。言いづらいんだけど、私は行けない」
その時、少し小さな声で和香那が言った。渡良瀬さんが「え?」と虚を突かれたような声を出す。
「えっと、その、少し予定があって」
何かを隠しているような雰囲気に、渡良瀬さんは「どうしたの?」と訊ねた。僕は少し考えて、一つ思い当たった節を口に出す。
「和香那、今日の英語の小テスト見せて」
僕がそう言っても、和香那は真顔のままじっと僕を見つめていた。しばらくそのまま見つめ合って約三十秒。僕の視線に耐え切れなかったのか、結局はゆっくりと机からプリント用紙を取り出す。
「ええ……」
絶句したように声を出したのは、テストの点数を見た渡良瀬さんだ。彼女くらい頭が良ければ、こんな数字は見た事ないのかもしれない。和香那はいつものように静かな表情だったけど耳が赤くなっているのが分かる。平静を装っているつもりだ。
「星さんって、あの、いや、……そっかあ」
「確かこれ、赤点だったら放課後に補習だもんね。だからでしょ?」
僕が訊ねると和香那はほんの少しだけぎこちない動きで小さく頷いた。渡良瀬さんはテスト用紙を眺めながら「まあまあ」と苦笑いしている。
「見た感じだけど、考え方の筋はいいんだよ。ほらこれとか、知識が情報として無かっただけで、考え方自体は悪くない」
渡良瀬さんが指差したのは、「女神」という単語を英訳する問い。正解は〝goddess〟だけど、和香那が書いていたのは少しだけニュアンスの違う英単語だった。
「だから後は知識を詰め込めこんで、それと掛け算すれば最強だよ。自頭が良いって星さんみたいな人の事なんだろうね」
それって頭が良くない人に言う慰めだって聞いた事がある。思ったけどさすがに口には出さなかった。代わりに食パンの最後の一口を食べる。
確かにそうだ。和香那は昔から、単純な学力の面ではあまり良い方ではなかった。でも時には大人でも驚くような考え方を見せ、誰も思い付かないような突飛な方法で問題を解決してきた。その背中を僕は見ていた。
和香那はテスト用紙を机に戻し、少し俯く。渡良瀬さんが「大丈夫だって」と肩を優しく叩いた。
「今から勉強すれば本当に凄く成績が伸びるよ。夢も叶うから」
「え? 和香那の夢?」
「あれ、聞いた事ない? 星さんは——」
「だめ」
僕と渡良瀬さんの会話を、和香那が遮る。もう耳は赤くなくて、いつものような感情の分かりづらい静かな顔に戻っていた。
「葵には言えない」
「え? なんで? 私には進路希望調査のやつ見せてくれたじゃん」
「葵に言うのは、まだ恥ずかしい」
和香那の言動に渡良瀬さんはまた「変なの」とだけ言った。僕は少し驚いていた。和香那に夢があったなんて知らなかった。口の中にあるものを飲み下す。
「私はまだ進路何も決まってないんだよねえ。どうしよう」
「渡良瀬さんくらい頭が良かったら何にでもなれるよ」
「小高君も成績はいいでしょ? 進路決めてるの?」
渡良瀬さんの問いに、僕は言葉が詰まってしまった。こちらをじっと見つめる和香那と目が合ったから。「葵はまだ、小説を書いてるよね?」。昨日の言葉を思い出す。
「……僕は」
教室に予鈴が響いたのはその時だった。五、六限目は選択授業。三人とも別々の教室に移動だ。
「じゃあとりあえず、また放課後にね」
渡良瀬さんは僕にそれだけ言って「まだ食べ終わってないのにい」と席を離れる。僕も移動の為に席を立った。
「葵は小説家になるよね?」
ふと、和香那が僕の制服の袖口を掴んで言った。僕は少し迷い、「口にクリーム付いてるよ」とだけ言い残してその場を立ち去る。
和香那は「逆に見る」と言った。それと同じように優先順位を決めよう。色々あったけど、僕のすべき事は一つ。一刻も早く彼女の前から消える事だけだ。
「星さんって昔からああなの?」
公園に向かう道すがらで渡良瀬さんが訊ねる。僕は「何の話?」と空模様を見上げた。厚い雲の向こうに薄っすらと夕方の明るさが見える気がする。
「上手く言えないんだけど、その」
「思ったより馬鹿だったって話?」
「違うよ。小高君そんな風に思ってるの?」
「思ってるよ。あいつは馬鹿だ」
「最低」
渡良瀬さんは少し笑いながら言った。馬鹿だと思うのは本心だ。
「なんていうか、変な人だなって思っただけ」
「そうかな。馬鹿だと思うけど、変だと思った事はない」
「変だと思えない小高君もやっぱり変だよ」
「もしかして褒められてる?」
「どうして褒め言葉だと思ったの」
ちらりと左隣の渡良瀬さんを見る。彼女は「なんだろうね」と言葉に悩んでいたようだった。左耳のピアスを優しく触っている。
「私が名前で呼んでいいよって言った時、あっさり名前で呼んでくれたんだよね。それにびっくりした」
「どうして?」
「会ってまだ数時間だよ? ちょっとは躊躇うものじゃない? 呼ぶにしても『美鈴さん』とかさ」
「嫌なの?」
「まさか。嫌じゃないよ。でも、なんていうか」
渡良瀬さんはそこで口を噤む。僕は「まあ分かるよ」と言いたい事を引き継ぐように続ける。
「躊躇いが無いんだ。何にしても」
だから彼女に気を遣おうとか、そんな事を考えるだけ無駄だ。そうして欲しいならそう言うしかないし、止めて欲しいならそう言うしかない。
「でもたまに、自分の言動が不快じゃないか不安になって訊いてくる事もある。恐る恐るって感じで。可愛いもんだよ」
少なくとも僕以外には。心の内で思う。僕に対してもそういう心をちょっとばかり向けてくれたらと思う事もある。
渡良瀬さんは少しの間黙っていたようだったけど、やがて「羨ましいんだよね」と少し間延びしたような声で言った。何かを諦めているかのようにも聞こえる声だった。
「〝いい子は天国に行ける。でも悪い子はどこへでも行ける〟」
「なにそれ」
「私の好きな格言。昔の女優さんの言葉らしいんだけど、映画に詳しくないから誰の言葉なのか忘れちゃった」
渡良瀬さんは手を擦り合わせ、小さく息を吐く。気温は少し肌寒い。
「ほんとは悪い子になりたいんだ、私。誰かに間違ってるって言われても、自分が納得するなら我儘にそれを選びたい。好きなものは好きなんだからどうやっても手に入れたい。でもそうできるほどの力は無い。人間にできる事なんてたかが知れてる。高校生なんて無力。どうしようもないような理不尽に潰されるし、諦めた方が楽って事も分かってる。手を伸ばせる範囲でいいから、程々の満足で生きていく。それが私だし、多分普通の人間」
「……どうして急にそんな話を?」
「だって、星さんとは多分真逆でしょ?」
渡良瀬さんは困ったように笑いながら言った。時折雲の切れ目から差し込む赤色が、彼女の物悲しさを助長させているように見える。
「だから私、星さんが少し羨ましいんだ。だってあの人、嫌味なくらい真っ直ぐじゃん」
「……うん。よく分かる」
本当に、よく分かる。僕はずっとそれに当てられ続けてきたのだから。
横断歩道に差し掛かる。信号は青のままだったから、そのまま止まること無く進む。
「だから和香那は馬鹿なんだよ。そういう歩き方しか知らないから」
「……そうだね。それが羨ましくて、だからちょっと、嫌い」
掠れるように言う。「ごめんね」と言われて僕は首を横に振った。むしろ僕は「嫌い」とちゃんと言える渡良瀬さんにささやかな好意を抱いた。
「小高君はどうなの?」
「どうって?」
「星さんが好きなんじゃない?」
わざとらしくおちゃらけたように言われ、僕は「どうだろね」と呟く。車線が渡良瀬さんのいた右側に変わったので、歩く場所を交代する。
「渡良瀬さんにだけ言うけどね、僕は彼女にいなくなって欲しいんだ」
渡良瀬さんは何も言わなかった。右耳にピアスは開いていない。白く晒された肌は、ピアスを開けている方よりも綺麗に見える。
「和香那は昔からああだった。両親の影響だと思う。不確かで不透明なものを嫌った。ずっとひたすらに確かなものだけを求め続けた。僕にはそれが眩し過ぎた」
彼女の傍にいるとずっと何かを強制される。星の輝きと同じくらい、あるいはそれ以上に。悲しくて鮮烈で強くて、それと同等のものを求められる気がする。
星和香那は何も諦めないのだ。たった一つ、「正しさ」がある方へと強く歩み続ける。常人ならきっと耐えられない。その人生の過程にも、彼女の隣にいる事さえも。
彼女との思い出を、彼女の存在を額縁に入れて置けるならどれだけいいだろうと思う。多分僕がいなくても、彼女は平気な顔で進み続けるだろうから。
自分の言動が間違っていないか、人を不快にさせていないか、恐る恐る確かめる時もある。僕に対してもそうしてくれたらと少し思う。でも同時に、そんな事しないでくれとも思う。僕の事なんか振り返らず、背を向けたまま前だけを見ていて欲しい。その姿勢のまま、何も間違わないまま、何も変わらないまま、僕の前から消えてくれ。僕は君を信じたまま忘れていきたいから。この感情は多分、祈りとよく似ている。
「どれだけ苦しいものだったとしても、馬鹿みたいに理想に手を伸ばし続ける。僕はそんな風にはなれない。だから綺麗な彼女を大切に、静かに信仰したまま生きていたい」
数メートル先に公園が見えてきた。渡良瀬さんはまた少しの間黙っていたが、しばらくして「なんだ」と皮肉めいたように少し笑った。
「やっぱり好きなんじゃん。星さんが」
渡良瀬さんがそれをどんな意図で言ったのかは知らない。別に知りたいとも思わない。ただ僕はなんとなく、それを肯定したくなくて「違うよ」とだけ呟いてみる。でも吹いた横風が言葉を攫ってしまって、多分彼女には届かなかった。
シンプルで綺麗な言葉に表せたならどれほどよかっただろう。この感情を言葉にする術を知らない。だから僕は、名前のある関係性を嫌う。
「やっほー、女神様」
女神様はいつも通り、二つあるうちの一つのブランコに腰かけている。「久しぶり」という渡良瀬さんの声に反応し、ゆっくりと顔を上げて微笑んだ。
「あ、それ。小高君が持ってた首輪じゃない?」
女神様の膝上でくつろぐ白猫の首に、小さな鈴の付いた首輪が付けられている。僕は「本当だ」と彼女の前にしゃがんだ。
「どうかな? 気に入ってくれた?」
女神様は首を傾げる。
「そうだね。気に入るかどうかはこの子が決める事だね」
女神様は微笑む。
「撫でてみていい?」
女神様はゆっくりと首を縦に振る。僕はそっと白猫に手を伸ばし、顎を撫でる。「んにゃ」と声を上げた。
「そう言えばこの子って名前とかあるのかな?」
そう訊ねたのは渡良瀬さんだった。「私も撫でていい?」と僕の隣にしゃがむ。女神様はまたゆっくりと頷いた。
「確かに聞いた事ないね」
「そもそも名前とかある?」
渡良瀬さんが訊ねる。女神様は少し考え、首を傾げた。どういう意味だろう。
「じゃあ私が名付けてもいいかな?」
「教えてくれないだけで名前はあるかもしれないよ」
「でも教えてくれないなら私にとっては無いのと同じだよ」
「どうかな?」と渡良瀬さんは少し嬉しそうに訊ねる。女神様は首を傾げながら笑った。「どうだろうね」とでも言いたげな顔だ。あまり見せない類の表情だった。渡良瀬さんは構わず「どうしようかな」と名前について考え始めている。
「うーん、なんか判断材料が欲しいな」
「白い猫、黒い首輪、女神様のペット。あと他にあるかな」
「『女神様のペット』ってなんか使えそうだよね。聖典とか神話とか読んだらヒントありそうだけど、あんまり詳しくないし」
「太古の昔は猫も神様として崇めてたって聞いた事ある」
「そのくらいこの猫が長生きしてたら神様だったかもね」
「そう言えば何歳くらいなんだろう、この子」
「若くは見えないし、結構おじいさんっぽいけど」
渡良瀬さんはああでもないこうでもないと色々考えていたが、やがて「よし決めた」と決心したように言った。
「この子の名前は〝ジー〟にしよう」
「おじいさんって意味で?」
僕の問いに渡良瀬さんは頷く。その後で「どうかな?」と女神様に訊ねると、彼女はまた静かに微笑んでくれた。気に入ってもらえたらしい。渡良瀬さんが〝ジー〟を撫でると「にゃ」と短く鳴いた。
「おじいさんだから〝ジー〟って、私も安直だよね」
「そうかな? 分かりやすくていいと思うけど」
「だって本当にこの子がおじいさんなのかも分からないのにさ。この子達ってどのくらい一緒にいるんだろう。……あれ?」
渡良瀬さんはそこで不思議そうな顔をして僕の顔を見た。何か引っかかったものがあるような表情だ。
「そう言えば、小高君と女神様っていつからの知り合い?」
「え? 僕?」
「というか、どんな感じのファーストコンタクトだったの?」
そう訊ねられて僕は少し困ってしまった。正直に言うとあまり話したくはない。でも少しだけなら、渡良瀬さんにならいいかもしれないとも思う。和香那には絶対言えない事でも、僕と似たような部分がある渡良瀬さんになら共感してもらえるかもしれない。そう思って僕は女神様との邂逅について話す事を決めた。
「かいつまんで言うと、僕の悩みを解決してくれたんだ」
僕は中学を卒業するまで小説を書いていた。それ以外には何も手を付けないくらい、考えられないくらいにその事ばかり考えていた。和香那と約束をした「あの日」の事が呪いになっていたのかもしれない。でもいくら書いても文字を綴っても、得られるものは無かった。小説家になる夢なんて、どれだけ大それて馬鹿げた夢だろうと痛感する日々だった。
卒業式の後、僕は海に来ていた。和香那と再会したあの海だ。肩から下げていた鞄の中にはまた審査落ちした作品の原稿が入っていた。今まで書いてきたもの全てだ。いつでも読み直せるようにそうしていた。
新作を書かなくちゃ。いや、その前に一度読み直して手直しして別の場所に出そう。どこかには引っかかってくれるかもしれない。でももうボツにして気に入った設定とかセリフを抜き出して別の作品に回した方がいい気もする。頭の中ではずっと、そういう考えばかりがぐるぐると回っていた。
その時、僕の前に現れたのが女神様だった。
「女神様は僕の鞄を渡すように言った。そうすれば願いを叶えてあげるって。僕もどうかしてたんだと思う。赤いランドセルを背負って、仮面で顔を隠した小学生の女の子の言う事を聞くくらいには」
女神様に鞄を渡す。女神様はその時も、優しく微笑んだ。
その直後、突風が吹き荒れた。潮風とも違う強い風だ。横殴りされたように、僕は目を開ける事もままならなかった。
辛うじて薄目で捉えたのは、宙を舞って遠くへと運ばれていく原稿の紙だった。海へと沈んでいったり、目で追えないくらい勢いよく飛んでいったり。でも何より僕の目を惹いたのは、こんな状況でも優しい表情を一切変えなかった女神様だった。
「女神様は僕の大切なものをめちゃくちゃにした。でも同時に、もういいんだって安心もした。僕を縛っていたものを、ようやく諦めさせてくれたんだ」
僕はそれ以来、感謝の意味でなるべく供物を持ってくるようになった。願い事を叶えてくれるらしいけど、たった一度を除いて大きな願いを望んだ事はない。唐突に食べたくなったお菓子を出してもらって一緒に食べたとか、白猫、ジー用に高級なキャットフードを出してもらって食べさせてあげたとか、そのくらいのものだ。
僕と女神様に関する話を、渡良瀬さんはジーを撫でながら聞いていた。話し終えた後で「そっか」とだけ言った。物語のピリオドのように静かで小さな声だった。
「よかった。小高君が救われたなら」
「うん。僕もそう思う」
本当によかった。あのまま女神様に出会わなければ、叶わない理想に醜くしがみついたままだったかもしれない。どこにも行けないままだったかもしれない。僕は悪い子になってでも、どこかに逃げたい人間だったのだろう。やっぱり僕は渡良瀬さんに少し似ている。
それから一瞬だけ沈黙が流れた。公園近くの車道を車が通り過ぎる音が聞こえ、風に揺られる木々の葉擦れの音が流れ、渡良瀬さんが小さくくしゃみをした。空色を見て、完全な赤色になっているのに気付いた時、女神様がポケットから一枚の紙切れを取り出した。
「もしかして、新しい供物?」
女神様は静かに頷く。紙を開くと、そこには「傘」とだけ書いてあった。渡良瀬さんが「これなら簡単だね」と言う。
「でも直近で雨が降りそうな日ってあったかな」
「少なくとも予報では一週間晴れだった。私、毎朝占いのついでに天気予報見てるから覚えてる」
「意外だね。占いとか信じるタイプだとは思わなかった」
「悪い順位だったら女神様にお願いして一位に変えてもらおうかな」
冗談めかして渡良瀬さんが言う。女神様は何も言わなかった。
「あ、そう言えば『世界の秘密』の事、まだ訊いてないね」
渡良瀬さんは改めて女神様の目を見て、「よかったら教えて欲しいな」と優しい口調で訊ねる。
「『世界の秘密』って何かな? ロストデイと関係ある?」
女神様は何も言わない。静かに微笑んだ後、ジーに目をやってまた撫でた。「にゃあ」と鳴く。渡良瀬さんは少し残念そうに「そっか」と笑った。
「でも確か、難しいものは持ってこれない時もあるんだよね?」
「白いカラスは探せなかったからね」
「そもそもいたとして持ってくるつもりだったの? カラスを?」
「確かに、そこまで考えてなかったな。どうしたらよかったんだろう」
「ともかく、持ってこれないものもあるって話だよ。『世界の秘密』も答えを見つけたとして、貴女に差し出す方法が無いかもしれない。だから期待はしないでねって事」
渡良瀬さんの言葉に女神様はまた小さく頷いた。そんな事は女神様が一番分かっているだろう。
これは僕の考えだけど、必要なものなら自分で用意するくらい簡単なのだと思う。だって女神様なのだから。でもそれを僕にお願いするという事は、僕が持ってくるという行為そのものに何か意味があるのかもしれない。だったら、多少想定とは違ってもいい気もするのだ。
「じゃあそろそろ帰りますか」
そう言って渡良瀬さんが立ち上がった。うんと背伸びをして大きく欠伸をする。それを見ていた僕に気が付き、咄嗟に口元を手で覆い隠した。
「……ごめん。渡良瀬さん、先に帰っててくれないかな」
「え?」
僕はしゃがんだままだったから、空の明るさと重なる渡良瀬さんの顔が逆光で見えにくくなっていた。表情は分からないけど、声は随分と驚いていたように思える。
「ちょっと二人で話したい事があるんだ」
そう言って僕は女神様の顔を見る。女神様は涼しい顔のまま、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……そっか。分かった」
渡良瀬さんが少し残念そうに言う。僕が「ごめんね」と言うと首を横に振った。
「一緒に帰りたかったんだけどなあ。小高君ってすぐ一人で帰るから」
「今度また一緒に帰ろう。次は和香那も」
「私は二人がいいんだけど?」
そう言って渡良瀬さんは冗談っぽく笑った。それになんて返そうか逡巡している間に、彼女はもう「それじゃ」と歩き出していた。
「また学校で」
「うん。また」
手を振って背を向ける彼女の影を目で追いかける。公園を出ていった事を確認し、僕は「さて」ともう一度女神様を見た。
「もう分かってると思うけど、訊きたい事があるんだ」
女神様は首を傾げる。表情は変わらない。分からない。本当に知らないのか、知らないふりをしてるのか。
「『世界の秘密』について。どうして——」
* * * * *
昔の事を思い出そうとする時、最初に出てくるのは彼女の泣き顔だ。あの海で再会をするまで、僕が最後に見たのが彼女の涙だったから。僕は泣き虫だったらしいけど、和香那が泣いているところを見るのは初めてで、少し取り乱したのを覚えている。小学校を卒業する日の話だ。
卒業式後の校舎内は嫌なくらい静かだった。誰もいない廊下を歩く、自分の足音だけが響いている。廊下はいつもより長く感じた。
教室の扉に手をかけ、何の考えも無しに勢いよく開ける。それがまずかった。人がいるとは思いもしなかったのだ。
教室の真ん中の席に、和香那が座っていた。彼女は窓の外に見える桜を観ていたようだったけど、扉が開いたのに気付いて反射的にこちらを振り向いた。和香那は、涙を流していた。
「……どうしたの」
訊ねたのは僕だ。その問いには色々な意味があった。こんな所で何をしているのか、こんな時間にどうしてここにいるのか、何より、どうして泣いていたのか。
「私にだって、感傷的になる時くらいある」
和香那は涙を流したままの目で、真っ直ぐに僕を見つめながら言った。心臓が強く跳ねているのが分かる。初めて見た彼女の泣き顔は、あまりにも綺麗だった。
教室に入り、少し迷って彼女の隣に腰をかける。依然、和香那は涙を流し続けている。泣いている事になんて気付いていないように、あまりにも自然に。
「君が『感傷的』なんて難しい言葉を知ってるとは思わなかった」
「葵に教えてもらったんだよ。葵の書いた小説に『感傷的』ってあって、私が意味を訊いた」
「忘れたよ。僕はなんていう風に意味を教えたの?」
「『どうしようもないものに傷付けられたくなって、それにどうしようもなく悲しまされたい瞬間。人間には時々、そういう事がある』。そう言ってた」
「僕の知ってる和香那は感傷的になんてならないよ。どうして泣いてたの?」
それほどに君は鈍いし、強い人間だろう。遠回しにそう言ったつもりだった。その意図が彼女に伝わったかどうかは分からない。でも和香那は「そうだね」とだけ静かに呟いた。
「私、引っ越すよ。遠くに」
「……知ってるよ。そんな事」
彼女が引っ越す先は隣県だったけど、小学生の僕にはそれが計り知れないくらい遠くに思えた。簡単に連絡を取って会える距離ではない事を漠然と感じ取っていた。
「その事で泣いてたの?」
「確かに、葵に会えないって事実には何度も悩んで、何度も悲しんだ。確かにそれも泣きたくなるくらい嫌な事だけど、でもそうじゃなくて」
他に何か言いたげな、要領を得ない言い回しだった。だから僕は待った。言いたいなら言うまで待つし、言いたくないなら聞くつもりもない。それが僕の和香那に対するスタンスだった。その逆で、和香那はずけずけと僕に踏み込んでくるけど。
黒板には生徒達の落書きがあちこちに書かれている。「また会おう」という文字を見て、僕は一種の気持ち悪さを覚えた。そんなあやふやな言葉を交わすより、ちゃんと悲しみながら「さよなら」と言う方が誠実なような気がしたのだ。あるいはそれは、隣にいるこの少女の価値観に影響されたのかもしれない。
「結局人ってね、何を信じるかってあんまり考えないの。自分が何を信じたいのか考える」
突然彼女が言った。黒板から隣に座る和香那に目を移す。頬に涙を伝わせたまま、彼女は真っ直ぐに前を見据えていた。
「……何の話?」
「自分で産んだ子供の言う事より、知らない人にお金を払って聞いた話の方が大事なんだ」
その一言で僕は全てを察した。つまりは彼女の両親についての話だ。
和香那の両親は悪い意味でスピリチュアルな人間らしい。占いを信じ過ぎると聞いた事がある。生まれた時からずっと、それに振り回されて生きてきたと。何をするにも自分には選択肢が無かった。自分の生き方はいつだって、形の無い強大な理不尽に定められていた。何度も、彼女は打ちひしがれていた。
僕は驚きと呆れとが混ざり合い、声も出せなかった。今このタイミングでその話をしたという事は、つまりそういう事だろう。
「じゃあ、引っ越す理由って」
和香那は静かに頷く。涙が水滴となって机に落ちた。
「昨日、初めて引っ越す理由を聞いたの。何か月も前、いつも通る道に知らない占い屋がいたらしくて。それで、なぜか分からないけど運命を感じて話を聞いて、引っ越した方がいいって言われたらしくて。だから、私が卒業するタイミングでそうしたって」
和香那は変わらず、声にも表情にも感情を乗せずに言った。僕は「クソだな」と言いかけて止めた。これまでの彼女の人生を否定する言葉だったように思えたから。でもせめて僕だけは否定してやった方がいいんじゃないかとも思って、結局は何を言えばいいか分からなくなった。
「私、嫌だって何度も言った。何度も怒った。何度も泣いた。でも駄目だった。『言う事を聞け』って怒ってくれたらまだよかったのかもしれない。『大丈夫だから』って優しく言われるだけ」
窓の外で、風に流れた桜の花弁が流れる。生徒達の喧騒が僅かに聞こえる。
「……なんの慰めにもならないって分かってるけど、僕にできる事はなんでもする」
心の底から思う。僕の中の何かを犠牲にして、それで少しでも彼女の助けになるならそうしたかった。和香那は「ありがとう」と言って、ようやくこちらを見た。
「葵は優しいね」
「違う。苦しむ君を見て苦しくなる自分を救いたいだけだ」
「違う誰かと一緒に苦しめるなら、私はそれを優しさって呼ぶ」
首を横に振りたかった。僕の心にあるのは、もっと黒くて汚くて醜いものだ。自分の事しか考えていない。本質的には彼女の両親と変わらない。僕は「優しいね」と言われるのが一番嫌いなのだ。
「一つだけ、決めた事があるんだ」
唐突に和香那が言った。僕はそれに無言で話の続きを促す。
「私、正しい人間になるよ。不確かなものとか、不透明なものとか。そういうものを全部、この世界から失くしたい。もっと強くなりたい」
よく通る綺麗な声で、彼女は宣言した。
ああ、本当に。彼女は一体、どれだけ悲しい人間なのだろう。
多少の迫害なら我慢すればいい。部屋の隅っこで縮こまって泣いて、時が過ぎるのを待てばいい。でもそれでは駄目なのだと、世界を変えたいのだと。どれだけの覚悟があれば、そんな綺麗事を本気で信じられるのだろう。彼女は本当に、苦しいくらいに強くて眩しくて、そして綺麗だ。
「もう迷わない。誰がどれだけ逃げたくなるような道でも、真っ直ぐに進み続ける。正解だけを目指して生きる」
僕は彼女のようになれない。彼女の隣に並べるような人間にもなれない。
だからせめて。彼女が自分の選択で傷付き血を流した時、それを止めてあげられるような。そんな瘡蓋になりたいと、その時は思ったのだ。痛みが無くなった時、また歩き出せるように。
彼女の頬に手を伸ばし、親指でそっと涙を拭う。和香那は「ありがとう」と言って、ほんの少し笑った。
「葵がいてくれるなら、私はなんだってできるんだよ」
これが、僕と和香那の最後の思い出だ。
それから約五年が経った。僕は変わり、僕を取り巻く環境も変わる。
僕はもう、彼女と共にはいられない。
* * * * *
お洒落というものが苦手だ。単純に面倒くさい。出かける時には目立つ色でなければなんでもいいし、そもそも大抵は制服でしか出かけない。その方が何かと便利だ。
僕がそう説明すると「少し分かるよ」と和香那は言った。
「センスっていうのかな。そういうものが問われるものが苦手。正解がないから」
「そんなところにまで正解を求めてるの?」
「だって、それ以外の判断基準が分からない」
「自分が好きなものを選べばいいんじゃない? ファミレスに行って、食べたいものを注文するのと同じだと思うけどね」
「ファミレスではとりあえず一番人気とかお勧めを選ぶ。美味しいものを食べたいならそれが一番確実でしょ?」
「観る作品は決めてないけど映画館に行ってみるとか、そういう経験は無いの?」
「あんまりない。けど想像できるよ。とりあえず一番人気の映画を観てみると思う」
和香那が一番人気のアクション映画を観る姿を想像してみる。内容があまり理解できないまま、少し不機嫌そうな顔をしながらスクリーンを眺めていそうだ。時々大きな爆発音が鳴ると体を反応させて驚くだろう。
「でも大抵はどうしても観たい映画がないと行かないよ。本屋にだって欲しい本があるから行くでしょ?」
「棚に並んだ本を眺めながら買うものを決めるのも楽しいけどね」
「とにかく。私の感性は絶対的じゃないから、正解を選ぼうとするとどうしても他の人の目が必要になる」
「じゃあ他の人に服を選んでもらうといい。渡良瀬さんとか。あの人はお洒落だよ」
「見た事あるの? 私服を?」
和香那の問いに「何度かね」と頷く。供物を選ぶ時には時折彼女に手伝ってもらう。「可愛いストラップ」とか「お洒落なリップ」とか、僕一人では決められないものもあるから。そのお礼としてファミレスで何か奢るのだけど、その出費が少し痛いのはどうでもいい話だ。
一瞬の沈黙が僕らを包む。肌寒い風が小さく吹いてそれに少し顔をしかめる。僕は学ランを着ているからまだいいけど、未だ長袖のブラウスだけの和香那は少し寒いかもしれない。
「なんか、ずるい」
「何が」
「私、葵と学校の外で会う事あんまりないのに」
「一緒に水族館でも行きたいの?」
「水族館よりは遊園地がいい」
「アトラクションは苦手だ。疲れる」
「じゃあコーヒーカップで我慢する」
そんな会話をしていると、気が付けば目的地に辿り着いていた。学校からそう遠くない雑貨屋だ。自動扉をくぐると店内の暖房が身を包む。店内はかなり広く、ここなら大抵の物は揃うだろう。
「傘だっけ?」
「そうだね。種類は指定されてないから日傘とかでもいいのかな」
女神様から指定されたのは〝傘〟。それを購入する為、わざわざ休日を利用してやってきたのだ。僕も和香那も、やはり制服姿だった。
「コンビニでビニール傘でも買ってくればよかったんじゃない?」
「せっかくだから喜びそうな物を選んであげたいんだ。喜ぶ顔を見せてくれるかは分からないけど」
「確かに、女神ちゃんあんまり笑わない子って感じがした」
「だから君に傘を選んで欲しい」
「なんで」
「僕より君の方が女の子の気持ちは分るだろ?」
「さっきの話聞いてた? 私にはセンスが無いんだってば」
「正解が無いから自分で選ばないって話だった。一回くらい自分で考えてみなよ」
しばらく店内を散策していると、日用品のコーナーに傘が置いてある箇所があった。大人向けのシックなものから、子供向けのカラフルなものまで置いてある。
「ほんとに私が選ぶの?」
彼女の問いに対し、僕は頷く代わりに子供向けの傘を視線で促した。和香那は「期待しないでね」とだけ言い、そのコーナーの前にしゃがみ込む。普段なら店内でそんな事しないのだろうけど、考えるスイッチが入ってしまったせいで周りが見えていないらしい。まあ、他に客も少ないしいいだろう。
僕は和香那を残して店内を巡ってみる事にした。傘を買う以外に用は無かったけど、こうやって物色するのは少し楽しい。必要のないものを眺めて、それが生活の一部になったらどうなるだろうと想像する。いざ実際に買ってみたら「やっぱりいらなかった」となるのが分り切っているからそれがベストだ。
とある場所にアクセサリーの棚があったのが目に入る。渡良瀬さんの影響か、ピアスに少しばかり目を惹かれた。自分がピアスを開けている姿を想像できなくて、代わりに和香那のピアス姿を思い浮かべてみる。似合うだろうけど、彼女は痛いのが苦手だから絶対に開けないだろう。
ふと、その隣に指輪が置いてあるのが目に留まった。並んでいたものを一つ手に取ってなんとなく人差し指にはめてみたが、あまりしっくりこなくてすぐに外す。こういうのなら和香那も興味があるだろうか。
しばらく時間を潰して和香那の元へ戻る。彼女は数十分前とまったく同じ態勢で同じ場所にいた。「決まった?」と声をかけると、「うん」「そうだね」と独り言を呟きながら一つの傘を手に取る。
「これにする」
和香那が選んだのは、全体的にピンクで一部に透明窓の付いた傘だった。透明窓の部分には猫のイラストが印刷されている。
「可愛いと思わない?」
「まあいいんじゃないかな」
「それだけ? 結構気に入ったんだけど。私が使いたいくらい」
そう言ってどこか嬉しそうな声音で傘をまじまじと見る。小学生の女の子を想定して選んだのではなく、単純な自分の好みで選んだらしい。
僕は一応、その場にあったシンプルなビニール傘も一つ手に取ってレジに持っていった。念の為だ。和香那の傘が気に入ってもらえなかったらこっちを渡そう。気に入るならそのまま渡してビニール傘は僕が使うし、そうでないならピンクの傘は和香那が使えばいい。
二つの傘を持って店を出る。冬の冷たく澄んだ空気が身をチクチクと刺す。空を見上げると少し曇っていて驚いた。家を出た時は快晴だったのに。
「僕はこのまま公園に行くけど」
「私も行くよ。女神ちゃんがどんな反応するかだけ見たい」
「急ぎ足だね。何か用事?」
「……補習」
「ああ」
和香那とは雑貨屋に向かう道中で偶然出会った。あまり広くない街だからそういう事もある。傘を買いに行くと言ったら「私も」とついてきたのだ。聞けば、補習へと向かう途中だったらしい。
「時間は大丈夫なの?」
「家をちょっと早めに出たから大丈夫。充分間に合う。それに訊きたい事もいくつかあったから丁度よかった」
店のすぐ前の交差点に差し掛かる。信号を待っている間、和香那は「未だに理解してないんだけど」と前置きをして話を続けた。
「ロストデイって、本当なの?」
僕はその問いに対する答えに迷った。ネットもテレビも見ない彼女が情勢に疎い事は知っていたが、こんなにも極端だとは思わなかったのだ。だから、どんな風に何を言えばいいかも分からない。
「例えばの話。人類が初めて月に着陸した時、世界は盛り上がっただろうと思う。その時代にテレビがあったかどうかは僕も知らないけど、それでも人類の殆どは何らかの手段でそれを知ったんだよ」
「新聞とかかな。私読まないけど」
「君が馬鹿な理由の一端が分かった気がする」
「でも美鈴は知識が無いだけで筋は良いって言ってくれた」
「その知識が極端に欠如してるのが問題なんだよ。君はもう少し世界を知ろうとするべきだ」
信号が青になったのを確認して同時に歩き出す。彼女は歩くのが少し遅いから、それに合わせて僕の歩調も緩やかになる。普段歩いている速度だと見逃す風景もあって、それを発見できる事だけは少し嬉しい。
「月面着陸は、科学の進歩だから納得できる。でもいきなり人類の記憶から一日の記憶が無くなりましたって、話が飛躍し過ぎてるよ。信じられると思う?」
「それでも、君が信じるかどうかは関係ない」
「どうして」
「どうであれ、そういう現象が起こったのが事実だから」
僕が言うと和香那は少しだけ眉を寄せた。どういう意味の表情だろう。
「それに月面着陸は科学的に信じられるのに、君が理解できないだけの事を非科学的だって言うのは間違ってる。君の言葉を借りるなら、否定する順番が逆だ」
それを聞いた和香那は少しの間、考えるような表情で前を見て歩いていた。多分、自分なりに考えを整理していたのだと思う。そして僕が言ったことが正しいと判断したのか、すぐ「確かにね」と納得したように言った。どこまでも正しさを追い求める彼女は、自分が間違っていると分かると非を認める。素直なのはいい事だ。
「なら私はロストデイの原因を突き止めるよ。分からない事が分からないままなのは間違ってる。私にとっても、世界にとっても」
「そっか。勝手に頑張れ」
「葵も一緒に頑張るんだよ」
「なんで」
「だって、私一人じゃ何も分からないよ。つい最近、八月三十一日の記憶が無いって気付いたばっかりだよ? 思い出すっていう考えすらなかった。どう足掻いてもそれしか分からない」
和香那の言葉に、今度は僕が眉を寄せる番だった。やっぱり彼女はおかしい。言動の全てが矛盾している。いい加減に終わらせるべきだろうか。
「和香那、君はどうして——」
和香那に訊ねようと顔を見る。言葉を止めたのは、和香那が空を見上げていたからだ。つられて僕も空を見る。いつの間にか空が段々と暗くなっていた。雲は重そうな鈍色に変化している。ひょっとしたら一雨降るかもしれない。
「訊きたい事はもう一つある。でも迷ってる」
和香那は前に顔を戻しながら言った。話の腰を折られてしまい、仕方なく僕の疑問は一旦置いておく事にする。
「迷ってるって、何を」
僕の問いに彼女はたった一言、「タイミング」とだけ言った。僕はそれに「だろうね」と答える。彼女が僕に対して何かを躊躇う事はない。悩んでいるとすれば、それを実行するタイミングだけだ。
「でも葵から訊いてくれたから、今訊く事にする」
「沈黙は金だな。言うんじゃなかった」
「どうして小説を止めたの?」
少し速いスピードで車が通りすぎていく。僕はそれに紛れさせるようにして溜め息を吐いた。だろうね。言わないけど、心底思う。彼女が訊きたい事なんてもうそれくらいだ。
「初めて女神ちゃんに会った日の帰り、もう書いてないって言ったよね。それからずっと、その事だけを考えてた。どうしてだろうって。小説を書く事より、もっと何か大切で優先する事があるなら納得できる。でもあの日の約束以上に大切なものって、少なくとも私には思い浮かばなかった」
情景は少し朧気だ。忘れてしまった事の方が多い。パソコン室はどのくらいの広さだったっけ。パソコンのモニターには何が映っていたっけ。窓の外に見えた空は何色だっけ。でもあの日の会話と絡めた小指の体温と、埃っぽい空気の香りは今でも思い出せる。
「前の学校でもたまに、いや、結構な頻度で葵の事を想ってた。今この瞬間も小説を書いてるのかなって。頑張ってるのかなって。辛いかもしれない。苦しいかもしれない。それでも葵は絶対に足を止めないはずだって。信じてた」
「君はどうしたいの? 僕が小説を止めた理由を知りたいだけなの?」
「納得がしたい。自分が一度決めた事、約束した事を守れない理由があるんでしょ? 自分自身と私を裏切るしかなかったんでしょ? 理由を聞いて、それならしょうがないねって納得したい。小説を止めて正解だったねって言ってあげたい」
「単純に苦しかった。ずっと諦めたかった。そう言ったらどうする?」
「そんなのあり得ないけど、でももしそうなら、私は葵を許さない」
その時だった。首筋に冷たいものが当たる。同時に和香那が空を見上げる。いつの間にか空は完全な雨雲になっている。それに気付いた瞬間にはもう既に、大粒の雨が学ランを打ち付けていた。
僕は咄嗟にビニール傘を差し、和香那もそれを見てピンク色の傘を広げた。けど、和香那の小学生用の小さな傘ではあまり意味を成さなくて、結局二人で公園まで走った。傘を交代しようかとも思ったけど、そのやり取りの時間すら惜しいくらいに雨は降り続けていた。
霞む視界の中に公園がぼんやりと目に入り、なんとか東屋まで駆け込む。雨の中走った事や途中の信号待ちが長かった事、色々あって結局は二人ともずぶ濡れだった。こういう時、先の事を考えるのが億劫で生きる事すら放棄したくなる。
「びっくりしたね」
和香那がそう言いながら傘を閉じる。白い制服が肌に張り付いていたから、僕は自分の学ランを脱いで雨粒を落としてから和香那に着せた。少し濡れているけど、何も無いよりいくらかましだろう。
「あ、ありがとう」
「許さないってどういう意味?」
「え?」
少しだけ大きく開いた和香那の瞳を見つめる。長いまつ毛に小さく水滴がしたたっている。瞬きする度にそれが落ちて、でもすぐにまた額から伝ってくる。
「苦しかった。辛かった。あの日の約束がずっと僕を縛っていた。諦めていいんだって分かった時、僕は確かに救われたんだよ。君に、僕を断罪する権利があるの?」
そこまで聞いて、ようやくさっきの話の続きだと分かったらしい。和香那は僕からゆっくりと視線を逸らし、ただ真っ直ぐに前を見つめた。そこには雨に煙る公園の敷地が広がっている。白く、霞んでいる。
「……間違っていると思う事を正す権利は、誰にでもある」
「僕が間違っているって証拠は?」
「葵にとってはそれが最良だったのかもしれない。でも私達は確かに約束をした。約束は守られる方が正しい」
あの日を思い出す。和香那の手を見る。水滴が白くて細い左手の小指を伝い、そして落ちていく。
もし和香那が寒がっているなら、上着を着せてやりたいと思う。血や涙を流したなら止めてやりたいとも思う。「おはよう」「またね」の挨拶くらいはしたいし、もう二度と会えない別れなら「さよなら」と言いたい。でもそれは、彼女の隣にいたいという証明にはなり得ない。彼女の隣にいられるのはきっと、彼女と同じくらいの強さを持った人間だけだ。彼女のように一等星の輝きを放つ星だけ。大抵の人間は、それが眩しくて瞼を閉じてしまう。
「君は正しさを信じている。でも誰もがそうなれるわけじゃない。普通に弱い人間は、正しい事だけが正しいわけじゃないってある程度理解しているんだよ」
「夏は暑くて冬は寒い、クリームは甘くてフルーツサンドは食べにくい。正しい事は正しくて約束は守るもの。ただそれだけの話だよ」
「そうだとしたら約束を『破る』なんて言葉は生まれていない。誰かが約束を破ったから、破ろうとしたからその概念はある」
「それでも、今その話は関係ない」
「どうして」
「約束をしたのは、知らない誰かと誰かじゃない」
和香那が僕を見る。ただ僕を見ただけだ。でも、鋭く射貫くような目だった。彼女の目が怖いと思ったのは、それが初めてだった。
「あの日君と約束したのは、ただ私だよ」
彼女の言葉に何か言おうとして口を開いた、まさにその時だ。
遠くからバシャバシャと雨の地面を蹴る音が聞こえてきた。僕らは同時にそちらを見る。公園の入り口から誰かがこちらに走ってきている。小さな体躯、体に不相応な少し大きなランドセル、何より、顔に付けた猫の仮面。
「……女神様?」
女神様は一直線に東屋まで走ってきて、そしてその勢いのまま僕の腰の裾を掴んだ。下を向いたまま息を切らしている。
「ど、どうしたの?」
戸惑いを隠せない声で訊ねる。明らかに異常事態だった。
女神様はしばらくの間息を整えていたらしかった。しかしそれも数秒で、すぐに勢いよく顔を上げて僕を見る。裾を掴む手は震えていた。
「ジーがいなくなった」
「どうしたの急に」
そう言って傘を閉じる渡良瀬さんは、灰色のカーゴパンツと黒のパーカー、黒い縁の眼鏡と黒いキャップという服装でやってきた。いつもと比べるとシンプルな装いだ。慌てて来てくれたのだろう。隣で和香那が「おしゃれ」と呟いたのが辛うじて聞こえた。
「本当にごめん急に」
「いや暇だったし全然いいんだけど」
そう言いながら背負っていたリュックから、大きなタオルを三枚取り出して僕らに配っていく。その時、渡良瀬さんの右手が目に入った。手の側面、手掌が少し黒くなっている。右手で文字を書き続けた際に付着する、鉛筆の色が写った時の汚れだ。勉強していたのかもしれない。申し訳なく思う。
「状況を教えて欲しいんだけど」
渡良瀬さんはちらりと隣を見る。和香那が自分の拭き取りはそこそこに、女神様の髪をタオルで乾かしていた。女神様は仮面が取れないよう両手で抑えている。僕はそれを横目に「さっき電話で話した通りだよ」と説明する。
「突然ジーがいなくなった。探すのを手伝って欲しい」
そう言うと渡良瀬さんは女神様の方を見た。女神様はその視線に気が付き、目を伏せて気まずそうにする。それを和香那が動かすタオルが覆い隠した。
「探すってどこを?」
「普段ここからはあまり動かないらしいから、この公園を中心に探そう。僕は女神様と一緒にいるから二手に別れる」
本当は渡良瀬さんと女神様を一緒に行動させてもいいけど、女神様は多分僕以外に口を開かない。渡良瀬さんを一人にさせて悪いけど、こういう行動の仕方がベストだ。
「二手? 小高君と女神様は分かるけど、私と星さんは別でよくない?」
「和香那は行けない。この後学校で補習があるんだって」
「いや、私も探すよ」
和香那が何でもないように言った。僕は驚きそちらを見る。ある程度拭き取りが終わったのか、女神様の首にタオルを優しくかけていた。
「葵と女神ちゃんは二人でいて。とりあえず車の往来が少なそうなあっちをなんとなく探してみて。私と美鈴はこっち方面ね。私はあっちに行ってみるから、美鈴はあっち側に」
「いやいや待ってよ」
あちこちを指差しながら指示するする和香那を止める。和香那は腕を上げて遠くを指差した態勢のまま「なに?」とこちらを見た。
「君は学校に行きなよ。補習は受けないとまずい」
「まずいって?」
「成績の話だよ。そうじゃないと進路に響くし、いよいよ留年が見えてくる」
「葵だって成績はまずいんでしょ?」
「僕は考えながらサボってるからいいんだよ。違う、そういう話じゃない」
僕は後頭部を強く抑える。彼女と僕は、根本的に違っている。だからこういう必要のない苛立ちが生まれる瞬間がある。
「ジーを探すなら二人で充分だ。君一人がいなくても変わらない」
「でも二人より三人がいい。私がいる事でマイナスにはならない」
「自分の事を考えて行動しろって言ってるんだよ。言い方は悪いけど自分の人生と猫一匹、どっちが大切なのか考えるまでもないだろ」
「うん。そうだね。だから言ってるんだよ。私も探すって」
和香那はなんでもないように、当たり前に言う。
どうしてだ。普通に考えれば分かるだろ。二人もいれば大丈夫だって。この一時のせいで自分の人生が台無しになる可能性があるって。苛立ちが強くなるのが自分で分かる。
でも同時に、こうなる予感がしていたのも事実だ。いつだって彼女は、正しさだけを指針に生きている。
「もちろん自分の人生も大切だよ。でもだからと言って、目の前の女の子の涙を無視するような人間にはなりたくない。それが、私にとって『自分の事を考える』って事だよ」
女神様の顔を見る。拭き終えたはずの目元、仮面の下からまだ水滴が伝っている。渡良瀬さんが小さく「やっぱり馬鹿だ」と溜め息交じりに呟いたのが聞こえた。
和香那は傍に置いてあったピンクの傘を手に取り、女神様にそっと手渡す。
「これ、私が選んだの。可愛い?」
女神様は受け取った傘を数秒、まじまじと見つめた。そして少し戸惑いながら、ぎこちない様子でゆっくりと頷く。和香那はその様子を見て「よかった」とほんの少し微笑んだ。
「大切にしてね」
それだけ言い残し、和香那は東屋を飛び出してしまう。渡良瀬さんが「ちょっと」と自分の傘を差しながら慌てて追いかけていった。
やっぱり馬鹿だ。いくら小さいとは言え、この子供用の傘でも無いよりは随分とましなはずだ。それでも、雨に消されそうなほど小さな涙を止めてあげようとする、その姿勢こそがどこまでも星和香那をたらしめている。
公園を出て行った二人が見えなくなり、隣にいた女神様に顔を向ける。さっき見せた不安そうな表情は見る影もなく、いつも通りの穏やかな顔だった。
僕はそれを確認し、「一応訊いていいかな?」と言ってみる。なるべく優しい声音を選んで。
「もしかして君が降らせた?」
渡良瀬さんいわく天気予報はずっと晴れだったらしい。僅か数時間、数分で空模様が変化するのは少し不自然だ。それに加えて嫌に急な雨だった。まるで誰かが仕組んだように。
仮にそうだったとしても、別に文句があるわけじゃない。女神様としてそうせざるを得ないような、何かしらの意図があっての行動かもしれない。だからこの質問自体あまり意味は無い。それでも、なぜか訊いてみたかった。
女神様は何も答えない。ただピンクの傘をずっと握りしめている。天気を変えるようお願いしようかとも思ったけど、少し考えてやっぱり止めた。もし彼女が仕組んだものでないのなら、これは誰の意思も介入していない自然現象だ。それを誰かの一存で変えていい道理はない。
「とりあえず行こうか。ここにいても仕方ない」
僕が言うと女神様は傘を開き、東屋を出てゆっくりと歩き出した。僕もそれについていくようにして傘を広げながら歩く。ここに来てから渡良瀬さんを待つ間で、雨は少し小降りになっていた。
女神様は行く方向を決めているのか、こちらを振り返らず迷いもせずに進む。和香那と渡良瀬さんが走っていった方向とは逆の道だ。車の往来は無いが道が細い。もし走ってきたら跳ねた水でずぶ濡れになりそうで少し嫌だった。
「ジーが行きそうな場所に心当たりはある?」
当たり前だけど、僕と女神様にはかなり身長差がある。僕の視線からだと角度的に彼女の顔は傘で隠れて見えない。だから僕の質問に彼女がどんな反応をしたのか分からない。でも心当たりがあったなら、声に出して教えてくれただろうと思う。
歩いている間、僕らはずっと無言だった。彼女と会う場所は決まってあの公園だったから、こうやって一緒に歩くのは珍しい。無言の時間が少しだけ気まずい。
「そう言えば、君の声を聞いたのは随分と久しぶりだったね」
前を歩く彼女に投げかける。別に返事が欲しいわけではない。空白を埋める為の雑談だ。
女神様の声はとても綺麗だ。よく通る綺麗な声で、天空から人間に対して何かを訴えかける為の声という感じがする。
「前に聞いたのはいつだっけな」
一軒家の並ぶ道に差し掛かり、家の軒下を一軒一軒確認しながら歩く。猫は水が嫌いだと聞いた事がある。どこかで雨宿りしているならいいけど、そうじゃないなら今頃どこかで震えているかもしれない。
「そうだ、花火の日だ。思い出した」
停まっている車の下を確認しながら僕は言う。女神様はこちらを振り返りしゃがんでいる僕を見て、真似して別の車の下を確認した。
早朝に花火をしたあの夏の日、つまり再会した和香那と別れた後。空が完全な青になった時間に線香花火をした。明るい時間にする花火、青空の下で淡く弾ける火花。全てがアンバランスで僕はその光景に疑問を抱いた。でも女神様はたった一言、聞き逃しそうなほど小さな声で「きれい」とだけ呟いたのだ。
「また花火したいね。冬にする花火も楽しそうだ」
しゃがんだ態勢のまま、僕は少し微笑んで言う。女神様は僕と同じく、しゃがんだままの態勢でこちらを見ている。丸くて澄んだ目を見ていると、あの日彼女の瞳に映っていた火花を思い出す。
「追いかけないの?」
突然、掠れたような声で彼女が言った。
僕は少し驚いて声を発せなかった。彼女が一日に二度も口を開くなんて。今までにこんな事あっただろうか。女神様の言葉を頭で反芻し、それに答える為に口を開く。
「もしかして、和香那の事?」
思い当たった節を口にすると、女神様はこくんと小さく頷く。僕は「大丈夫だよ」と少し笑いながら言った。
「いや、正確に言えば大丈夫かどうかは僕が決める事じゃない。でももう、和香那は走り出したんだよ。ならしょうがないんだ」
例えば昔、こんな事があった。僕らが小学校一年生の頃、ある男子児童が上級生からの虐めを受けていた。クラスメイトは見ぬふりをし、教師は当事者を呼び出して謝らせて形だけ終わらせた。そして和香那は、なぜか放送室を占拠した。
「どういう立場の人かは知らない。でも先生も『失礼のないように』ってうるさく言ってたから」
和香那はそう言いながら、どこかに置いてあった書類らしきものを取り出す。放送機器の使い方を探しているらしかった。暖房の無い放送室は異様に寒い。進級を間近に控えた三月の事だった。
その日はとにかく偉い人が来る、とだけ生徒達にも伝えられていた。教育委員会だとか教育事務所だとかその辺だろう。和香那は狙ってこの日に放送室に侵入したのだ。そんな彼女に「ここまでする必要ある?」と訊ねたのは僕だ。
「このくらいしないと虐めは無くならないよ」
「もうすぐ進級だ。元凶のあいつらは卒業する。それまで待ってもいいんじゃないの?」
「私の目的は虐めを失くす事。あいつらをどうにかしたいわけじゃない」
「それは同じ意味でしょ?」
「葵ってゲームする? 私はあんまりしないんだけど」
「急に何の話?」
僕は眉をひそめて訊ねる。和香那は「鍵閉めて」と僕の傍にあった扉を指差した。僕は少し迷ったが結局は鍵をかけた。扉は和香那の傍の方にもう一つあったが、そちらは鍵をしていなかった。
「ゲームって魔王を倒すのが目的になる事が多い。でも違うよ。目的は世界平和でしょ?」
和香那は「うん、何となくわかった」と頷き、説明書のようなものを元あった場所に戻した。まずは電源を入れ、放送を流す場所を指定するスイッチを押す。端から端まで躊躇いなく押していた。
和香那の言葉は僕の肌にすんなりと馴染んだ。今回の件を解決したいわけではない。彼女は最初から、虐めという果てしなく強大な敵と戦っていたのだ。
「じゃあ、この一件を学校全体に周知させて、虐めそのものの存在を失くしたいって事?」
「一つ間違い、一つ補足がある」
和香那が押していたスイッチには、学校のどの場所なのかもよく分からないものもあった。僕は今からやろうとしている事の大きさが怖くなり、急に寒くなった。体の震えが止まらない。
「まず一つ目。あいつらが今後、またどこかで同じような事をしないとも限らない。だからそれを止める。さすがに名前は出さないけど、それでもバレるのは時間の問題だろうからね」
当時その上級生が行っていたのは殴る蹴るの手前くらいの、言わば幼稚なものだった。高校生の今思うと匿名とは言え放送までしなくてもよかったのでは、と少し思う。でも虐められている人間は今その瞬間が苦しいのだから、こんな風に軽んじた見積もりはよくない。それに当時和香那が言ったように、咎められなかった加害者が違う場所で同じ事をしないとも限らないのだ。悪い芽は早く摘むに越した事はない。まあ、小学一年生の和香那がここまで小難しい事を考えて行動したとも思えないが。
「もう一つ。ゲームの中では魔王を倒す事じゃなく、世界を平和にする事が目的。じゃあその中でも最良の終着点ってなんだと思う?」
「……それはゲームによって違うんじゃないの」
「それはそうかもしれないけど」
「でも単純な事だよ」と言いながら、放送機器の最終確認をする。準備は整ったらしい。後はもう、マイクをオンにして声を乗せるだけだ。
「終着点はきっと、皆が笑って暮らせる世界。馬鹿らしい綺麗事だと思うけど、その馬鹿みたいな綺麗事を成すのがどれだけ難しいか。私はゲームでも現実でも変わらず、そういう綺麗事だけを目指すつもりだよ」
スイッチをオンにする。彼女は目を閉じて一度小さく息を吸う。そしてゆっくりと瞼を開き、刺すような目をして声を発した。
『突然の放送失礼します。一年一組の生徒である小高葵は、上級生である六年一組の生徒達に虐められています。どうか目を逸らさないでください。繰り返します——』
後で聞いた話だけど、和香那は当時の出来事をたった一言、「悔しかった」とだけ言った。自分に人を変えられるだけの力があれば、自分自身の力で問題を解決できたのに、と。僕はそれを聞いて思わず笑ってしまった。やっぱり思考の根底が小学一年生のそれではない。親や学校が世界の全ての子供が、一体どうすれば「自分自身」なんてものを持てるのだろう。
学校中に響いた彼女の声はとても綺麗だった。ある種のお告げでもあり、ある種の福音でもあった。
「よし、逃げるよ」
和香那はスイッチをオフにして僕の手を取る。そして迷うことなく放送室から全速力で逃げ出した。そういう昔話だ。
「放たれた光は誰にも止められない。そういう節理だ」
僕の話を聞き終えた女神様は、理解しているようなしていないような、よく分からない表情をしていた。僕は少し苦笑いをする。
「長くなってごめん。行こうか」
僕は立ち上がり、「あっち探してみよう」と別方向を指差す。初めて通る道沿いだ。女神様はそれに黙って頷いた。道が悪くなっていたら怖いから、今度は僕が先導する。
和香那はたった一言、「悔しかった」と言っていた。ふざけるなと思う。あれだけの事をできる人間に力が無いなんて、本気で言っているのか。
彼女が僕の前に現れなければ、僕の人生は未だ暗がりだっただろう。何も無い宇宙空間でただ歩き続けるだけだっただろう。でもたった一つ、絶対的な光があった。だから僕は迷わない。その光に背を向けて歩ける。自分の影を見つめながら。
ふと後ろを振り向く。女神様が僕の服を弱々しく引っ張っていたから。
「……そのあとは?」
また、女神様が口を開く。一体どうしたのだろう。今日はやけに喋る。僕の問いに答える事は何度かあるけど、こんなにも自発的に何かを発するのは初めてだ。ジーがいなくなった不安からだろうか。
「まあ、虐めっ子の六年生は卒業するわけだし、虐めは無くなったよ。彼らがどうなったのかは知らないけど」
僕が言うと女神様は首を横に振った。どういう意味だろう。
「もしかして、放送室を出た後の話?」
今度は首を縦に振る。僕は「どうだったかな」と記憶を遡ってみる。不思議とその時の記憶が朧気だ。
「確か二人で放送室を出て、走って逃げて、そしたら案の定先生が追いかけてきて、……あ」
そこで僕は思い出した。そうだ。あの時だ。
走っている途中、運動神経の悪い僕は転んでしまった。それで前を走っていた和香那が僕に気が付いて、僕の傍に駆け寄って、先生に追いつかれた。
それで二人とも叱られるだけならよかったのだ。でも和香那は僕を庇うようにして僕と先生の間に割って入った。
「私一人でやりました。葵は無理やり連れてきただけです」
彼女は先生から目を逸らさずに強く言った。
違う。違うんだ。弱かった僕は和香那に助けを求めたんだ。だから彼女はあんな行動に出た。全て僕のせいなんだ。
でも僕は何も言えなかった。ただ縮こまって、行く末をぼうっと眺めていただけ。口も足も手も動かなかった。ただ強く、正しく在る彼女に守られていた。僕が弱かったせいで。
些細な事かもしれない。取るに足らないと思われるかもしれない。でも僕は、ずっとその出来事がトラウマだった。だから記憶から消していた。
彼女の傍にいれば、僕はいつまでも彼女を傷付けてしまう。一刻も早く、僕は。
その時だった。
ポケットに入れていたスマホから着信音が鳴った。僕は少し驚きつつ画面を見る。そこには渡良瀬さんの名前が表示されていた。画面を操作し耳に当てる。僕が何かを言う間も無く、『小高君』と渡良瀬さんの声が聞こえた。
『ジーを見つけたよ。場所を教えるから来て』
まず遠目に廃れた鳥居が見えて、その下に傘を差す渡良瀬さんを見つけた。「渡良瀬さん」と名前を呼ぶとこちらを見て、「こっち」と手招きをされる。
「やっぱり和香那はいないんだ」
「うん。途中で勝手にいなくなった」
なんとなく分かっていた。どうせ和香那は一人でどこかに突っ走る。スマホも持っていないから連絡手段も無い。むしろジーを保護した後、どうやって彼女を探すかの方が問題だ。
「ここなんだけど」
渡良瀬さんが鳥居の先を指差す。そこには長い石階段があって、木々に隠れた向こう側に社があるのだろうとなんとなく察した。
「途中でジーっぽい猫を見つけてさ、追いかけたらここに辿り着いた」
「なんでこんな危ない所に」
「分からないよ。私なんか無視してずんずん階段上っていくんだもん。流されないか冷や冷やした」
石階段からは水が大量に流れていて、僕や渡良瀬さんはともかく、女神様は足を取られるかもしれない。ここを猫が一匹で上っていったなんて信じられなかった。
「僕が行くから、渡良瀬さんと女神様はここで待ってて」
僕が言うと渡良瀬さんは「分かった」と言い、女神様も小さく頷く。僕は二人に背を向けて階段を上り始めた。
階段は一歩一歩が無駄に高くて歩きづらい。靴の中に水が浸み込んでぐじゅぐじゅと不快だった。傘を差しているものの、あちこちから水滴が跳ねてくるからあまり意味を為していない。目もまともに開けられなかった。
ゆっくり、ゆっくりと階段を上り、そしてようやく目の前に社が現れる。ボロボロで塗装もされていない、古びた木製の社だった。
屋根の下を見て回ったが、どこにもジーはいなかった。辺りを見渡しても姿は見えない。建物がある場所以外は少し開けているから、見落とすという事もないだろう。となればもう建物の裏しかない。
社を迂回するようにして裏手に回ってみる。すると、そこに一本の大木を見つけた。木の根元にはいない。まさかと思い、顔をしかめながら見上げてみる。複雑に広がる枝の一つに、綺麗な白い猫を見つけた。首元には僕が買った首輪が付いている。
足元に気を付けてもう少し進む。するとすぐそばを川が流れているのを発見した。元から川だったのか、雨が川のように流れているのか。どちらかは分からないが、足を入れれば流されてしまいそうだ。
さて、どうしたものか。登るしかないのか。木登りなんて人生で初めてだ。もし失敗すれば怪我は免れない。骨折で済むといいけど。そもそもなんであんな所にいるんだ。どうやって登ったんだ。すぐ下の川に落ちれば間違いなく流される。猫は水を嫌うんじゃなかったのか? 雨の打ち付ける音と、頭を反芻する思考とがぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
「葵」
雨の中、薄っすらと聞こえた声に振り向く。
まさかと思った。それと同時に、そんな気もしていた。彼女はいつだって、そんな風にして僕の前に現れる。
「……和香那」
彼女はゆっくりとこちらへ向かってくる。もちろん傘は差していない。風呂上がりのように髪は濡れていて、僕の貸した学ランだけが辛うじて水を弾いていた。
「どうして来たんだよ。渡良瀬さんから何も聞いてないの?」
「聞いたよ。だから来た」
和香那らしい言い回しだ。本当に呆れる。やっぱりこいつは馬鹿だ。
「……なるほど。あそこか」
「僕が登るから、君はここで待って。もしかしたらジーを落としちゃうかもしれない。キャッチできるように準備だけしてて」
僕はそんな風に説明して傘を差しだす。和香那は傘を握る僕の手を少し見つめ、その後で僕の目を見た。
「葵って猫アレルギーとかあったっけ」
「……もしあったらジーを撫でたりしない」
「まあそうだよね。学ランに毛が付くけど、ごめんね」
僕が言葉の真意を訊く前に、和香那はそのまま木の根元まで歩いていく。その意味に気が付き「待って」と彼女の背に言う。でも彼女は止まらない。僕は傘を差しているのに、彼女はずっと雨に打たれているままだ。
「僕が登るから君はここで待てって」
「だって葵、私より運動神経悪いじゃん。私が登った方が確実」
「確実な方法なんて無い。君に怪我をさせるわけにはいかない」
「それにもしどっちかが死ぬならそれは葵じゃない。女神ちゃんと仲が良いのは葵の方なんだから。女神ちゃんが悲しむ」
「いい加減にしろ」
雨の音に負けぬよう強く叫ぶ。彼女の背を追おうとする。
和香那は一瞬だけこちらを振り向く。そして、右手を差し出して親指を立てた。あのハンドサインは。
「……大丈夫。私を見てて」
ああ。そうだ。これが星和香那だ。そして、これが弱い僕だ。
いつだってそうだ。彼女の背を追う事すら許してくれないんだ。ただずっと彼女を傷付けるだけなんだ。全部、僕が彼女の傍にいるせいだ。頼むから、もう。
「……僕を、許さないでくれ」
掠れ出た声を、容赦のない雨音が掻き消す。
和香那は木を見上げて少し考えた後、躊躇なく右足を幹にかけた。左手を伸ばし、足に力を入れて木の枝を掴む。その要領でゆっくりと、でも確実に木を登っていく。
木の枝から強く落ちる水滴をものともしない。目を開いたまま、ジーのいる方だけを見ている。歯を強く食いしばりながら、次の枝に手をかける。張り付いた前髪が邪魔だったのか、右手でそれを掻き上げた。
体は冷えているだろう。手の感覚なんて無いだろう。それでも、彼女は諦めないのだろう。彼女が悲しいくらいに強い事を、そして隣にいるだけの僕が無力な事も、僕はよく知っている。
どれくらいの時間をかけただろうか。和香那はようやくジーと同じくらいの高さにまで辿り着いた。比較的太い枝にまたがり、位置を調整して手を伸ばせば届く距離になったところで学ランを脱ぐ。そしてジーを包み込むとゆっくりと抱き寄せた。つかまえた。そう言ったのが分かった。
その時だった。
「あ」
鈍く、重々しい音がした。
木の根元に丸まった体躯が転がっている。
一瞬の出来事で、彼女が落ちたのだと理解するのに数秒時間がかかった。
「和香那」
彼女の名を叫び、傘を捨てて走る。
彼女の傍に寄って肩を揺さぶる。和香那は声にもならない呻き声に近い息を吐きながら、ゆっくりとこちらを見た。
「和香那」
「……ちょっと、痛かった」
そう言って顔をしかめる彼女の左頬から、赤黒い血が流れている。それが雨と混ざり合って絵の具のように滲んでいた。
「大丈夫か」
僕が訊ねると、和香那は腕をゆっくりと開く。学ランの中で、ジーが弱々しく鳴き声を発した。それを見て和香那は安心したように笑う。
「多分、大丈夫。でもすぐに暖めてあげないと」
「違うだろ、馬鹿」
怒りを含んだ声で叫ぶ。和香那は少し驚いたように目を開く。自分の手でそっと頬に触れ、それでようやく血が流れている事に気が付いたらしかった。
「平気だよ。多分」
「平気なわけあるか。どうして君はいつも」
「大丈夫って言ったでしょ。私を見ててって言ったでしょ」
「……何も大丈夫じゃない。頼むからもう、傷付かないで」
君を傷付けてしまう僕を許さないでくれ。血に染まった君を美しいと思ってしまう僕を、どうか許さないでくれ。
僕の言葉に彼女は少し不思議そうな顔をする。そして僕の顔をしばらく見つめた後で、ゆっくりと腕を伸ばして親指で僕の目元を拭った。
「……なんだよ」
「泣いてる」
「違う。雨だ」
「じゃあそんな顔しないで」
僕が泣いているのかどうか、僕自身にも分からなかった。確かなのは、泣いてしまいたくなるくらいの胸の痛みだけだ。でも、彼女の方がもっと痛いはずだ。なのに、どうしてそんな顔できるんだ。
「私は笑ってる葵が好きだよ」
どうしてそんな、愛おしいものを見るような目で僕を見るんだ。
「ちょっとちょっと」
後ろから声がした。振り向くと、渡良瀬さんと女神様が慎重な足取りでこちらにやってきていた。渡良瀬さんは一度僕を見て、次に和香那に視線を移すと信じられないものを目にしたような顔で驚く。
「血が出てる」
渡良瀬さんは鞄からタオルを取り出し、それを拭おうとする。和香那はゆっくりと身体を起こしてそれを制止した。学ランにくるまれたジーを女神様に託す。
「無事だよ。ちゃんと暖めて、ちゃんと美味しいもの食べさせてあげて。心配なら病院に連れて行くのが確実だけど」
女神様はジーを受け取り、和香那の顔をじっと見つめた後でゆっくりと頷いた。その表情はいつもと変わらないように見えるし、でもどこか安心したようにも見える。
「なんでこうなったの」
渡良瀬さんが改めてタオルで和香那の左頬を抑える。少し痛そうな顔をしながら「落ちちゃった」と和香那は言った。
「でも、よかった」
全てが終わったように、一安心したように和香那が言う。いいわけがあるか。強く思う。
僕のせいで彼女は傷付き続ける。そういう風にしか歩けなくなる。
だから、僕は決めたのだ。和香那に消えてもらうんじゃなく、僕が彼女の前から消えようと。ようやくその覚悟が定まった気がした。
「……あ」
左頬を抑えながら和香那が空を見上げる。いつの間にか雨は止んでいた。薄い雲の向こう側にぼんやりと太陽が見える。
「葵」
和香那が僕の名を呼ぶ。僕が顔を見ると、彼女は笑いながら「覚えてる?」と訊ねた。
「ゲオスミン」
和香那が突然発した言葉に、僕はすぐに五年前の出来事を思い出した。あの日も君は、同じような顔で少し笑っていたっけ。
「確かに、いい匂いだね」
「……そうだね」
僕らの会話に渡良瀬さんが「なんの話?」と首を傾げる。和香那がそれに「ないしょ」と笑うのを見て、僕も少しだけ笑った。
* * * * *
昇降口から見える冬の寒空は青く、高く澄んでいた。靴箱から靴を取り出してすぐに手をポケットにしまう。道中でカイロでも買おうか、それとも手袋でも買うべきか。そんな事を思いながら校舎を出ようとした時だった。
「小高君」
後ろから声がした。振り向くと、冬服の上から自前のアウターを着た渡良瀬さんが立っている。
「珍しいね。遅刻じゃなくて早退って。しかもお昼休みに」
「うん。用事があってね」
「星さん、もうちょっとで来るかもよ? 風邪も治ったんでしょ?」
「お見舞いに行ったら元気そうにプリン食べてたよ」
「じゃあどうして?」
渡良瀬さんの問いに、僕はどう答えるべきか迷った。僕自身どうして今日なのか分からない。でもやっぱり一番は、和香那の顔を見ると決断が鈍ってしまいそうだからなのだろう。
僕の無言に何を察したのか、渡良瀬さんは「まあいいや」と言い、左耳のピアスをそっと触った。彼女は不安になるとピアスを触る癖がある。
「どこに行くの?」
その問いにもやはり答え方を悩む。何をどう言っても正確に伝えられる気がしないし、正確に答えようとすると時間がかかりすぎる。
もう一度沈黙を選んでみようとする。しかし今度は逃す気が無いらしく、渡良瀬さんはじっと僕の顔を見つめている。僕は仕方なく、彼女の問いにこういう風に答えてみた。
「『世界の秘密』の謎を解き明かそうと思って」
* * * * *
ぱちぱちと夏の青空の下で弾ける線香花火。女神様はそれを見て小さく「きれい」と呟く。僕は邪魔にならないようずっと見つめていたが、火花はしばらくしてぱっと落ちてしまった。僕はそれを確認して「訊いてもいいかな?」と口を開く。
「一つだけ、お願いしたい事があるんだ」
女神様が顔を上げて僕を見る。仮面の向こうの目はどんな形をしているのだろう。気にならないわけではない。
「僕自身の我儘の為だけに、君の力を貸して欲しい」
女神様が少し驚いたのが分かる。こんな事をお願いするのは初めてだったから。
「ついさっき、昔の知り合いと会ったんだ。たまたまね。名前は星和香那って言うんだけど」
和香那と別れてから、こうしようと決めていた。
僕はもう彼女と会いたくない。彼女の強さには耐えられない。きっと昔の約束を、小説を書くという約束について言及してくるだろう。もし予想通り、僕と同じ高校に入学してくるならその学校生活にも耐えられない。だったらするべき事は一つだ。今日の出来事を無かった事にすればいい。
「星和香那の記憶から、今日の記憶を消して欲しい。八月三十一日の出来事を無かった事にして欲しい」
そうすれば和香那が僕の校章を見る事も、そして同じ高校に入学してくる可能性も無くなる。もう彼女の顔を見ずに済むのだ。それで僕はまた、穏やかでなあなあの人生を歩める。
女神様は何も言わず、花火セットからまた線香花火を取り出した。僕はポケットからライターを取り出して先端に火を付ける。ぱちぱちと、淡い線香が弾ける。
「一人だけっていうのは、少し難しい」
序盤の弱々しい光は、徐々に明るくて大きな花へと成長していく。僕はそれを見つめながら考える。女神様の言葉の隙間を埋めるように。
一人だけじゃない。つまり、他にも同じような現象に合う人間がいるという事らしい。今日の出来事、八月三十一日の記憶を失くす人間が。一人だけが難しいのはどうしてだろう。繊細な作業だからだろうか。それよりは範囲を広くした方がやりやすい、みたいなのがあるのかもしれない。
「どのくらいの人がそうなるの?」
「世界」
火花が落ちる。
つまり彼女はこう言いたいのだ。僕のたった一度の我儘の為に、世界から今日の出来事を失くす覚悟があるのか、と。あるわけがない。それがどのくらい大それた事で、どのくらい深い罪なのかさえ想像できないのだ。
でもそれ以上に、和香那とまた一緒に過ごす事を覚悟する方が難しかった。たったそれだけの為に世界を変えてしまおうと思うくらいには。だから僕は、彼女に対して小さく頷いた後でこう言った。
「いい感じにしてね。世界を終わらせないように」
僕が言うと女神様は次の花火を取り出しながら頷く。「分かってるよ」と言いたげに。まるでゲーム中に宿題をしろと言われた子供みたいだ。
世界から一日分の出来事が無くなれば、その損害は計り知れない。だからそうならないよう調整するのも女神様の仕事だ。事実、今までもそうしてきた事は何度かあったし、信用して大丈夫だろう。
女神様が次に選んだのは線香花火ではなく、普通の手持ち花火だった。しゃがんだままだと少し危ないと思い、一緒に立つよう促してから先端に火を付ける。すぐに激しい火花が噴き出し、色を次々と変化させていく。僕は女神様の隣に立ちながら、それをぼうっと眺めていた。
「……花火にも花言葉があるって知ってた?」
火花の音に消されるくらい、小さな声で呟く。
花火の花言葉は〝口実〟。一緒に花火を見に行こうと、そんな口実をつけてでも共に過ごしたい相手がいる。そんな人間が考えたのだろう。
今ここに咲いている花は、そんな綺麗な言葉を持っていない。和香那を忘れる為、世界を変えてしまう為、僕は彼女と花火をしている。そんな身勝手な口実だ。
僕の言葉は女神様に届かなかったらしい。彼女はただずっと、目の前の火花を見つめていた。
「また学校で」
「うん。また」
手を振って背を向ける渡良瀬さんの影を目で追いかける。公園を出ていった事を確認し、僕は「さて」ともう一度女神様を見た。
「もう分かってると思うけど、訊きたい事があるんだ」
女神様は首を傾げる。表情は変わらない。分からない。本当に知らないのか、知らないふりをしてるのか。
「『世界の秘密』について。どうして、和香那は八月三十一日を覚えているの?」
僕はじっと彼女の顔を見つめて訊ねる。女神様の口元は変わらず優し気なままだった。仮面の奥にある目はどんな感情なのだろう。
『世界の秘密』。それはつまり八月三十一日、ロストデイを指しているのだろう。それ以外には思い付かない。どうしてそんなものを僕にお願いしたのか。僕にどうして欲しかったのか。他にも色々と疑問は残るけど、そんなのは些細な事だ。僕にとってはそれ以上に大事な事がある。
「本当に忘れているなら、和香那は学校に来なかったはずなんだ。僕と海で再会した記憶が無くなっているから。なのに彼女は来た。でも『八月三十一日』の記憶は無いって言ってる。どういう事だろう?」
彼女の言動、存在。全てが矛盾している。
八月三十一日を忘れているなら学校には来れない。でも来ている。
じゃあ八月三十一日を忘れていないのか? でも忘れていると彼女は言っている。つまり女神様の力はちゃんと働いていると思われる。でも働いているのなら、彼女は学校には来れない。つまりは堂々巡りだ。わけが分からない。
「色々考えてみたけど、僕には想像もつかない。君になら分かるんじゃないかな? 世界に何が起こっているのか。和香那に何が起こっているのか」
どうであれ、女神様が関わっていると思っていた。そうでないと説明できない事が多すぎる。女神様が何かしらの理由で、僕に黙って何かをしている。失敗したという考えは毛頭ない。だって彼女は女神様だ。彼女の一挙手一投足全てがこの世界そのものなのだから、失敗なんて概念があるはずもない。
女神様はジーをゆっくりと撫でる。「にゃ」と短く鳴いた後で、ようやく口を開いてこう言った。
「わからない」
わからない? 本当に? 全知全能の彼女に分からない事があるのか? 彼女に分からないなら、誰にも何も分からない。それはそのまま文字通り世界の終わりに直結する。
女神様はそれ以上何も言わなかった。だから僕も、それ以上は何も訊かなかった。もし僕に嘘をついているのなら、それは僕が知るべきではないという事だ。一々僕が関与する事でもない。それにもし仮に、本当に女神様にも分からない事があるなら、世界の終わりについては何も知らないままゆっくりとそれを迎え入れたい。
だから僕は代わりに、彼女にこう訊ねてみた。
「じゃあまた、僕の我儘を一つ聞いてくれるかな?」
でも女神様はすぐ首を横に振った。まあ、何となく分かっていた。ジーが眠たそうに欠伸をする。僕はジーの口が閉じられるのを見た後で、もう一度彼女に訊ねてみる。
「それは供物が足りないから?」
女神様はゆっくりと頷く。僕は和香那に女神様について説明した時の会話を思い出していた。
『女神様は願い事を叶えてくれる。でもタダじゃない。普段から供物を渡さないといけないんだ。女神様にこんな言い方は良くないけど、メーターを貯めるような感じかな』
つまり、そのメーターのようなものが前回の件で無くなってしまったのだろう。普段から少しずつしか供物を渡せていないから、こんな短期間で何もしていなければそりゃあ受け入れてくれるはずもない。
でもこれでやるべき事は明確になった。一刻も早くそのメーターを貯めて、また女神様にお願いをする。今度こそちゃんと、彼女とお別れができるように。「さよなら」と言えるように。
* * * * *
息を吐く。白息が空に昇り、霞んで消えていく。さざ波の音が耳に入る。風が吹いていないのは珍しいなと少し思った。思ったより寒くなくて助かった。
「それとも、君が無風にしてるのかな?」
女神様に訊ねてみる。防波堤に腰をかけたまま、彼女は何も言わない。その代わりのように隣のジーが「にゃあ」と鳴く。よかった。元気そうだ。
風が無いとは言え海沿いの気温は低いままだ。用事を早く済ませた方がいいだろうと思い、僕は「本当にいいの?」と訊ねてみた。
「ジーを助けたのは僕じゃなくて和香那だ。だったら叶えるべきは僕じゃなくて、和香那の願い事だと思う」
ジーを助けた後、女神様はまた珍しく僕に話しかけてくれた。僕の願い事を叶えてもいいと。供物は渡していないが、ジーを助けてくれたお礼がしたいのだそうだ。
「……まあでも、和香那がここにいたら何を言うか何となく分かるか」
多分ロストデイについてだ。元に戻して欲しいとでも言うだろう。でもそれは無意味だ。僕が今からお願いしようとしているのも、似たようなものだから。
「和香那の記憶から、僕に関する記憶だけを全部消して欲しい。できる?」
僕が訊ねると、女神様は小さく微笑みながら頷いた。よかった。今度は世界を犠牲にせずに済みそうだ。
これでいいんだ。僕と和香那が共にいる限り、僕は彼女の光に苦しみ続ける。そして僕は彼女を傷付けてしまう。だから、もういいんだ。
「あの日君がいなかったら、こうならなかったかもね」
女神様が僕の書いた小説を滅茶苦茶にしてくれた日。僕が救われた日。もしあのままだったら、和香那とお別れする勇気も無いままだったかもしれない。
女神様は何も分かっていないように、少しだけ首を傾げた。だから僕は「ありがとう」とだけ言って少し笑ってみる。
これで世界は元通りだ。彼女はずっと強く、正しく在り続けるだろう。僕はそれに背を向けて影を見つめ続けるだろう。そう思えた。
なのに。
「葵」
——ああ。やっぱり。
彼女はいつだって、そういう風に僕の前に現れる。
僕を断罪するように。僕を否定するように。いつだってそうだ。僕の世界の邪魔をするのは、彼女だけだ。
後ろを振り返る。和香那は数メートル先に立っていた。息が荒い。ここまで走ってきたのだろうか。
「美鈴から聞いたよ。早退したって」
和香那の左頬には大きなガーゼが当てられていた。思っていたよりも大きな怪我だったのかもしれない。
「君が無事に進級できそうだって話も聞いた?」
「なにそれ」
「渡良瀬さん、先生に説明してくれたらしいよ」
子供の為、怪我を負ってまで飼い猫を救出した事。渡良瀬さんはそれを必死になって教師に説明していた。普段から素行も成績も良い渡良瀬さんの熱弁は、無事に教師を納得させたらしい。それを自分の口から和香那に説明しないのも渡良瀬さんらしい。
「なのにその親切を無下にするつもり? どうして来たんだよ」
「『世界の秘密』、ロストデイについて何か分かったって聞いたから」
「今なら間に合う。学校に戻りなよ」
「それに、葵はなぜか泣きそうな顔をしてたって」
和香那は少し目を細めながら、小さくそう呟いた。僕の手に自然と力が入る。なんだ、それ。どうして僕が泣きそうな顔をしなければならないんだ。一番泣きたいのは、一番叫びたいのは、誰よりも悲痛な彼女の方なのに。
「葵が泣きそうな顔をしていたらすぐに行く。葵が泣いているなら涙を拭う。私はずっと、そうやって葵の隣にいたんだよ」
違う。僕と彼女が隣に並んだ事なんて一度も無い。ずっと彼女の背中を見つめていた。彼女が振り返れば目を逸らした。勝手に手を伸ばして勝手に引っ張って行こうとするのが彼女だった。僕はそんなの、望んでいないのに。そう叫びたかった。
空を見上げる。空は馬鹿みたいに青くて高くて綺麗だ。遠くあるものはきっと綺麗に見えてしまう。思わず溜め息を吐きたくなるくらいに。
「まあ、考えようによっては良かったのかもしれない。君に言い忘れてた事があったんだ」
「なに?」
「お別れの挨拶」
和香那の目が大きく開く。僕は一度振り返って女神様の顔を見た。表情も変えなければ、否定も肯定もしない。なら、全部話していいのだろう。僕はもう一度和香那を見て口を開く。
「ロストデイを起こしたのは僕だ。僕が女神様にお願いした。説明はしない。話が長くなるから。ただ僕は、もう君に会いたくなかった。その為に行動した結果だ」
和香那はずっと僕の顔を見つめている。話が理解できないだろう。でももういい。何も分からないままでいい。どうしてロストデイが彼女との再会を阻止する事に繋がるのか、どうして彼女はロストデイの影響を受けていないのか。どうして三十一日の記憶が無いと言い張るのか。疑問は尽きないけど、もうどうでもいい。
「僕は二度と君の顔を見たくないんだ。だからまた女神様にお願いする。今度はもっと確実な方法で。君の記憶から僕の存在を消す。だから最後にお別れを言いたかった」
「……どうして」
「君の事が嫌いじゃないから、かな。挨拶はちゃんとしたいと思うし、もう二度と会えない別れなら『さよなら』くらいは言いたい。本当は再会した時、あの海でも言いたかったんだよ」
思えば、そこが全ての始まりだったように思う。
あの時あの場所で言えなかった言葉を。いや、もっと前かもしれない。一度彼女と別れて、僕の弱い部分が彼女を受け付けなくなって。それからずっとだ。そうだ、僕はただ。
「『さよなら』を言う為だけに、僕は君と出会ったのかもしれないね」
手に込めていた力が自然と抜けていく。冷汗が滲んでいるのが分かり、両手をポケットに入れる。やっぱり手袋を買おう。カイロは汗で濡れて駄目になってしまうかもしれないから。そんなどうでもいい事を思った。
「どうして、そんな」
「なんだよ? 僕が挨拶もしないような礼儀知らずに見えてたの?」
「親しい人に挨拶をするのは当たり前だよ。違う。私が訊きたいのはそこじゃない」
和香那の口から白息が漏れ出る。多分、彼女は戸惑っていた。「会いたくなかった」なんてそんな事を言われるとは思っていなかったから。
「どうして、私を遠ざけようとするの?」
「……どうしてって。そんなの、決まってるだろ」
君が眩しいからだ。君が強いからだ。君が真っ直ぐだからだ。君が綺麗だからだ。君が正しいからだ。だから遠く在って欲しいのだ。星のように、青空のように。手の届かないような場所で、視認できないような遥か彼方で君を想っていたいんだ。
この感情を言葉にする術を僕は知らない。だからたった一言、僕はこう言うしかないんだ。
「君を、愛したいからだ」
声にありったけの怒りと悲しみを乗せ、僕は言う。
自分が嫌いになるくらいに、目を逸らしたくなるほどに。僕はどうしようもなく、君の生き方の全てを愛したいのだ。
彼女が僕の言葉をどう受け取ったのかは分からない。ずっと不機嫌そうな顔で僕を睨んでいる。数十秒睨み合った後でたった一言だけ、僕にこう言った。
「嘘つき」
「……どういう意味だよ」
「そのままの意味だよ。思っても無い事を言わないで」
「君は僕をどうしたいんだよ。苛立たせたいの?」
「違う。でも、君の嘘を咎める事で結果的にそうなってるのかもしれない」
「僕が嘘を吐く理由があるか?」
「じゃあどうして、ずっと泣きそうな顔をしてるの」
そう言って和香那はゆっくりと僕に近付く。目を逸らさず、ずっと真っ直ぐに。その瞳は多分、この空のように何よりも透明に澄んでいる。
「本当は分かってるはずだよ。自分が何をすべきなのか」
そう言って静かに僕の手を取り、左手の小指を絡めた。あの日の約束を思い出す。もう叶わない約束を。
「……僕には無理だ」
「どうして?」
「言っただろ。苦しいんだよ。辛いんだよ。もう小説なんか書きたくないんだ。書きたくないのに、君が僕の邪魔ばかりする。君とお別れする為なら、僕は世界を犠牲にする」
「一度交わした約束は守るべきだよ」
「でも必要であればその限りじゃない。君の言い方をするなら正しさの為に、捨てていい約束だってある」
「私もそう思う。仕方のない事はきっとある」
「じゃあ今がそうだよ。あの時の約束は、果たされるべきじゃない」
「違う」
「どうして」
「だって、私がいる」
顔を上げる。和香那と目が合う。
和香那は真っ直ぐに僕を見つめている。衒いも不純物も何も無い、ただ強い眼差しで。
「もう君の隣には、私がいるから」
「……でも」
「逃げないで」
彼女は小指を離し、手を握る。ずっと強く、優しく。和香那の手は暖かい。
星はずっと遠くにあるから綺麗で、その輝きに思いを馳せる。
星が隣にあれば眩し過ぎて、直視なんてできないに決まってる。
なのに。
「君がどれだけ苦しくても辛くても傍にいる。ずっと君の隣にいる。だから、小説を書いて。約束の為に、私の為に。でも何より、葵自身の為に」
それすら君は許さないんだ。
逃げる事すら、自分を許す事すら許してくれないんだ。
そうか、君は。君だけが。
「……君だけが、僕の絶望だ」
和香那は僕の言葉に目を丸くして、でもまたすぐに微笑んだ。口角が少し、ほんの少しだけ上がっている。
「うん。私はずっと君の敵でいてあげる。ずっと君の味方になってあげる」
「どうしようもなくて逃げ出すかもしれない。小説から、世界から、君から」
「何をしてでも止めてあげるよ。殴ってでも縛ってでも」
「……つまり、僕はもう逃げられないんだね」
「そういうこと」
どうしてか少し楽しそうな声に聞こえた。やっぱり彼女は怖い。
「やってみるけど、期待はしないで」
「いやだ。期待する。やれるだけじゃだめ。やれない事もやって」
「無茶苦茶だ」
思わず笑ってしまう。和香那は少し微笑んだまま僕の手を握っている。もう手は冷たくなかった。
どうやら僕はもう一度だけ手を伸ばすらしい。あの眩しくて遠い星に。
どうやら彼女は二度といなくならないらしい。僕の隣から。
どうやら僕は三度言い損ねたらしい。『さよなら』の言葉を。
「葵は絶対、小説家になるんだよ」
僕はそれに頷かなかった。でも、その代わりに彼女の手をもっと強く握った。それだけで充分だった。
ふと気を抜くと涙を流してしまいそうで、僕はそれをずっと我慢していた。理由は分からない。でも強いて言うなら、やっぱりどうしようもなく彼女が美しかったからだろう。僕は泣き虫のままだ。
「ところで、どうするの?」
ふと和香那が呟く。その視線は僕の後ろに注がれていて、振り向くと女神様がずっとこちらを見ていた。ジーは退屈そうに膝上で寝転んでいる。
「お願い事を聞いてくれるんでしょ?」
「……そうだね」
僕は和香那から手を離して女神様と向かい合う。その隣に和香那も並んだ。
「やっぱりさっきのお願い事、取り消してもいいかな。ロストデイを無かった事にして欲しいんだ。本来ある形の八月三十一日に戻して欲しい」
「今からできるの?」
「大丈夫だよ。この子は女神様だ」
女神様は一度俯いて、何か考える様子を見せる。そして数十秒ほどが経った後にまた顔を上げて僕を見た。何を考えているのか、仮面越しではやっぱり分からない。
「……ほんとうにいいの?」
女神様が小さく訊ねる。僕はそれに微笑んでゆっくりと頷いた。僕の我儘で変えてしまった世界を元に戻すだけの話だ。和香那の言葉を借りるなら、正しい世界の在り方に。
女神様は僕の様子を見て、またゆっくり頷いた。それに安心してふと隣の和香那を見ると、目を丸くして何かに驚いている。
「女神ちゃんの声、初めて聞いたよ」
「綺麗な声だね」と優しい声で言う。女神様はそれに何も言わず、その代わりのようにジーが「にゃ」と短く鳴いた。
二人の靴音とさざ波の音が優しく耳に入る。結局僕と和香那は学校に戻る事にした。僕は帰ってもよかったけど、和香那がそれを許してくれなかった。
「家に帰ってパソコンを開かないと小説は書けない」
「それは放課後にやってよ。ちゃんと授業は受けないと」
「厳しいね」
「当たり前の事」
まあいいか。ゆっくりでいい。教師の言葉を聞き流しながら、次に書く小説について考えてみよう。なんとなくそう思った。
「そう言えば私まだ聞いてないんだけど、どうしてロストデイが私との再会を防ぐ事に繋がるの?」
「いつかちゃんと話すよ。話が長くなるからね」
彼女と再会した時の会話を思い出す。あの時は長くなるからと何も話さなかった。でも僕も彼女もどこにも行けないと分かった今、もう躊躇う必要はない。いくらでも時間はあるらしいから。
「でも本当に三十一日の記憶が戻るのかな。あんまり信じられない」
「女神様にできない事は無いよ。全人類ちゃんと思い出す。八月の最終日、自分が何をしていたのか」
あるいは無理やり付け足される感覚なのかもしれない。八月の三十一日、雪かきができなかったとか水を継ぎ足していなかったとか、そういう現実が後から付いてくる。まあ難しい話は女神様がどうにかしてくれるだろう。整合性も取ってくれる。何事も無く、普通に三十一日を思い出せるようになる。
「最終日?」
ふと後ろを振り向くと、和香那がその場に立ち止まっていた。僕は彼女の数歩先でそれに気が付き「どうしたの?」と訊ねる。
「無くなったのは八月三十一日じゃないの?」
「そうだよ。どうしたの?」
「でも今、最終日って言った」
「……どういう事?」
僕らの会話が食い違っている事に気が付く。そこでふと、僕はこんな事を思った。
どうして和香那はロストデイの影響を受けなかったのだろう。どうして和香那は三十一日の記憶が無いと言ったのだろう。
「おかしいよ。だって」
もし彼女が、最初から無いものの話をしていたとしたら?
最初から無いものを消そうとしていたら? 最初から無いものを無いと言い張って言っただけなら?
つまり。
「八月って、三十日までだよ」