第七話:あたたかく、やさしい
静かに扉が開き、グレイソンが戻ってきた。
先ほどとは違い、その姿には魔族の象徴である角も翼もない。
人間に近しい容姿へと変身魔法で偽装したその顔には、いつもの穏やかな表情が浮かんでいる。
手には掃除用具と、子供用の服が数点。
その上に乗せられていたフリルのついた白い服を見た瞬間、ヴァリオスは視線を逸らした。
「ふふ、只今戻りました。…こちらは覚えておいでですか?」
グレイソンがワンピースのような服を掲げ、うっすらと笑みを浮かべる。
「……それは、着なかったはずだ」
「ええ。可愛らしすぎると仰って、一度も袖を通しませんでしたね。
そのとき一緒に仕立てたこの“かぼちゃパンツ”も。サイズは調整済みです」
そう言って差し出されたのは、ふわふわと丸みのある白いズボン。
装飾の金糸が控えめにきらめいている。
ヴァリオスが何か言いかけたとき、グレイソンはさらりと続けた。
「……夜中、トイレに間に合わず粗相をされたのも、確かこの服を受け取った翌日でしたかね」
ヴァリオスの表情が固まる。
「……覚えていたのか」
「もちろんです。王の名にかけて、しっかり記録しておりますとも」
冗談めかした調子に、ヴァリオスは何も言い返せずに小さくため息を吐いた。
そのやり取りを聞いていた小さな存在——子供は、布に包まれたまま、そっと首を動かす。
怒鳴り声も、怖い音もない。
ここにいる人たちの声は、柔らかく、優しい。
ゆっくりと顔を上げた子供の瞳が、ふたりを見上げる。
怯えの色は完全には消えていないが、先ほどのような強い恐怖ではなかった。
◇
服を着替え終えた子供を、そっとベッドに戻す。
黒と金を基調とした豪奢な寝台に、小さな白がぽつりと横たわるその姿は、まるで夜の中に咲いた花のようだった。
グレイソンはすぐさま手際よく床の掃除を済ませ、淡々とした所作でタオルを交換していく。
部屋の空気は落ち着きを取り戻し、ようやく一息ついたそのとき——
クゥ~と、小さく可愛らしい音が部屋に響いた。
小さな腹の音は、夜の静けさに紛れながらも、確かに響いた。
少年は驚いたように腹を抱え、音を止めるように体を丸める。
怒られると思ったのだろう。目も合わせず、じっと身を縮めるその姿に、ヴァリオスは静かに息をついた。
「……元気そうで何よりだ」
ごくわずかに口元をゆるめ、そう呟いた。
それは決して嘲るようなものではなく、ただ、安心をにじませた声だった。
ヴァリオスはすぐにグレイソンへと視線を向ける。
「軽いものでいい。あたたかいものを」
「すぐに」
深く一礼し、執事はすぐに部屋を後にした。
◇
しばらくして戻ってきた彼の手には、小ぶりな銀のトレイが一つ。
その上には、湯気を立てる深皿が載せられていた。
中身は、薄い青緑色のスープ。
豆をすり潰し、塩も香辛料もごくわずかに抑えられた、胃にやさしい滋養の一品だった。
「目が覚めたばかりの体には、これくらいがちょうどよいでしょう」
グレイソンはそう言って、ヴァリオスのそばにスプーンと共にトレイを差し出した。
ヴァリオスはそれを受け取り、そっとベッドの脇に膝をつく。
「……飲めるか?」
問いかける声に、少年はおそるおそる顔を上げた。
恐怖はまだ完全には消えていない。それでも、怒声が飛ばないことに、ほんのわずかに緊張が解けている。
ヴァリオスはスプーンにスープをすくい、少し冷ましてから差し出した。
「熱いぞ。ゆっくりでいい」
少年はほんの数秒、躊躇したのち、そっと口を開けた。
トロリとした温かなスープが、乾いた喉をゆっくりと潤していく。
夜明けはまだ遠い。
けれどこの部屋だけは、すこしずつ、ほんの少しずつ温度を帯びはじめていた。