鰐の池
「お前は、一体、鰐というものを実際に見たことがあるかい」
そう、友人がたずねてきたのは、秋の終わりの頃だった。
「いや、ない」
私は読みさしの本を読みながらそう答えた。いつもこの友人は出しぬけに突拍子もないことを言うが、適当な返事をすると決まってつむじを曲げるので、話題が始まった時にはこうして手を止めなければならない。
「それが出るんだよ。近所の公園に」
友人は、あたりをはばかるように声をひそめて言った。
「鰐か」
私は小さい頃に図鑑で見た鰐の姿を思い浮かべた。全身が硬い皮膚に覆われて、優しい心など破片も持ってなどいないようなあの縦長の眼。長い口元には無数の歯が覗いており、何でも恐ろしい力で獲物に噛みついて離さないのだということが、その図鑑には書いてあった。そんな鰐を、友人が本当に見たというのだろうか。
「近くというと、日野牛公園かい」
私は彼にそうたずねた。
「そうだ。なかなか察しがいいな。あの公園の、池のところに出るのだ」
私の住んでいる町にはいくつかの公園があるが、日野牛公園はその中でも大きな公園だった。中にある池は貸しボートが数台停まっており、天気の良い春の日などは、そのボートに乗る親子連れや恋人たちでにぎわっている。
いま時期は閑散としている状態だが、貸しボートはまだ稼働している筈だった。
「お前、本当に見たのかい」
「見たともさ」
友人は胸をドンとたたいた。
「三日前に見かけたから、まだいるはずだ。なあ、行ってみようぜ」
「そうだなあ」
私はしばらく考え込むフリをした。友人の話は、少し間を置いて返答をするのがちょうどいい。
「でも、そんな危険な鰐が出るんなら、きっと今頃見つかって、大騒ぎになっているんじゃないのかい」
私は純粋に浮かんだ疑問を彼に投げかけてみた。
「心配はいらん。この時期に、あの池へ来る奴なんて誰もいないさ。現におれがその鰐に会った時も、人っ子一人いなかったのだ」
「変な話だな」
「まあいいだろう。とにかく、今から池に行って確かめてみるぞ」
「わかったわかった」
私たちは件の池へ向かった。
「やあ、今日は晴れて気持ちがいいや」
友人が気持ちよさそうに伸びをする。
「そうか。それはよかった」
私は本の続きを読みながらそう答えた。
私たちは池で貸し出しをしている、手漕ぎのボートに乗っていた。
「ようし、まずはぐるっと一周してみるか」
そう言って、友人はオールを動かすため、体重をかけながら両手を後ろに引いた。
「あんまり飛ばすなよ。安定しないんだから」
私はそう釘をさした。
「なに、大丈夫さ」
おかまいなしに、友人はぐんぐんとボートを漕いでゆく。ボートは友人が力を入れるたびに、その速度を増した。
あたりでは鴨が数匹泳いでいる。茶と緑を混ぜたような水面は、よくよく覗き込むと魚が泳いでいるのが見える。
池は、まったく平穏そのものだった。
「ところで」
私は口を開いた。
「その鰐を見かけたときは、どういう状況だったんだい」
それを聞くなり、友人はうれしそうに、にやりと笑った。
「よしよし」
友人が言う。
「お前もようやく興味を持ってきたな」
「そんなんじゃないさ」
友人は依然として、にやにやと同じ表情を続けている。
「まあいいさ。事の顛末を話してあげよう」
そう言って、友人は一旦ボートを漕ぐ手を止めた。ボートはそのまま惰性で進んでゆく。
「あれは三日前のことだった」
友人は、おもむろに話しはじめた。
三日前、何の気なしに日野牛公園を訪れた友人は、池の周りをぼんやりと歩いていた。
既にボートの旬も過ぎ、閑散としている公園の中は、友人の心の琴線に触れたらしく、彼は長い間その中を散策していた。
池を見下ろせる欄干にもたれかかり、友人が静かに進む鴨たちを眺めていた時だった。
「あれは、絶対に鰐だった」
友人はそう繰り返した。
「見間違いじゃないのかい」
今度は交代して、私がボートを漕ぐ番になっていた。
「お前には、夢がないなあ」
友人はそう言って、不満げに私を見た。
「まあいいさ。その後のなりゆきを話そう」
友人は話を続けた。
橋の上から鰐らしきものを見た友人は、もっとはっきり見てみようと思い、橋からボート乗り場の水際の近くに身を移した。あたりは気味が悪いほどに静まりかえっていて、風の音だけが友人の耳を通り抜けた。
「実を言うと、そのときは俺も、何かの間違いなんじゃないかと思ったのさ」
友人はボートに近付いた鴨に手をかざして触れようとしながら、そう漏らした。
「ところが妙に気になってな。時間もあったことだし、しばらくそこで鰐がまた出てこないか、ねばってみたんだ」
しかし、その後かなり長い時間を過ごした友人は、何の手がかりも得ることが出来なかったようだ。
「さすがに俺も、もう帰ろうかと思ったものだ」
ところがその時だ、と友人は続けた。
「後ろを振り返って歩きだした時、急に後ろから派手な水音が聞こえてきた」
「そこには、さっきまで鴨がいた筈なんだ」
友人が前にのめり込む。
「振り向いた時には、もう鴨はいなかった。その代わり、水面の色がそこだけ赤くなって、羽根がいくらか散らばっていたんだよ」
そこで一旦、友人は深いため息をついた。
「あれは絶対に、鰐の仕業だ」
私は黙ってボートを漕いでいた。秋ももう終わりに近付き、葉をすっかり落とした木々の数も少なくない。
「もしそれが本当なら」
私はボートを漕ぎ続けながら、言葉をついだ。
「まだ危ないんじゃないのかい。いるんだろう、どこかに」
「そうだろうな。だから、お前を誘ったんだ」
友人は妙に神妙な顔で、にやりとしながら言ってきた。
私は、少し不愉快な気持ちになった。
「おとりにでもするつもりかい」
「まさか」
友人は、おどけてみせた。
「それならもっと、うまく誘い出すさ」
「信用できないな」
私は、あとで折半だと言って友人が出してくれたボートの貸し賃を、踏み倒すことに決めた。
「まあ、もう少し景色を楽しもうぜ。なかなか風情があるだろう」
ここにきて、友人はのんきなことを言いはじめた。
「ただ池の中をぐるぐるまわっているだけじゃないか」
この日野牛公園の池には、中央に小さい島が浮いている。ボートを漕いでいると、自然、その島を中心として池の中をまわり続けることになる。私たちは、もう三周目にさしかかろうとしていた。
「そこも含めて趣さ。ほら、向こうにとんびが飛んでいる」
私は友人の、のんきな態度にだんだんいらいらとしてきた。
「お前の暇つぶしに付き合っている暇はないんだ。鰐が出ないんなら、もう帰るぞ」
私はボートを乗り場の方へと近付けた。
「まあ、待てよ」
友人がなだめにかかる。
「もうすこしで出るはずなんだ。前回もそうだ。最初は鰐の方も様子をうかがってるんだよ」
「できれば、俺は鰐なんぞに会いたくないね」
「なんだ、それじゃあここまで来た意味がないじゃないか。本当はお前だって、見たいんだろう。なあ」
友人の絡み方がうっとうしくなってきたのに閉口していると、ふと目の端で何かが動いた。
「おい、あれが鰐じゃないのか」
「なんだって」
友人が身を乗り出す。
「どこにいるんだ」
さっきまでとはうってかわって、真剣な調子だ。私はさっき何かが見えた方を指さした。
「あのあたりだ。あの島の近くに、鰐の鼻面のようなものが見えた」
いきおい私たちは黙ってしまった。互いに鰐のことを考えていたのだろう。あたりは気味の悪いほどに静かだ。
「なあ、どうする」
友人が聞いてきた。
「どうするって、何が」
私は聞き返す。
「決まってるじゃないか。鰐を見に行くんだよ」
友人の眼は怪しい熱を帯びて輝きはじめた。
「本気なのか」
私は友人の顔をまじまじと見た。
「当たり前じゃないか。何のためにここまで来たと思っている」
「でも、やはり危ないよ」
友人はようやく出てきた鰐に興奮しているようだったが、私は現実味を帯びてきた鰐の存在に、いささか恐怖心を覚えていた。
「かまうもんか。こっちは二人だぞ」
いつになく無謀になっている友人を見ているうちに、私はあることを思いついた。
「なあ、鰐は腹が減ってるのかなあ」
それを聞いて、友人の勢いはいくらか落ち着いた。
「どうだろうな。鴨は食べれるだろうが、数はそう多くないだろう。鰐は魚も食べられるのだろうか」
うまい具合いに、話がそれてきた。この調子だ。
「おびき寄せるのなら、なにかエサがあったほうがいいんじゃないか」
私はそう提案してみた。
ふむ、と友人が考え込む。
「それもそうだな……」
こんなものじゃあエサにはならないだろうし、と、友人はポケットの中から食べかけの菓子パンを取り出した。
「そうだろう。ここは一旦退こう」
私はそううながした。
ボート乗り場まで帰ってきた私たちは、受付の老人に一言あいさつをしてから、ボート乗り場へと上がった。池の中はまた静けさに包まれた。
そんな池を眺めながら、私たち二人は、しばらくぼうっとしていた。
「結局、鰐は見れなかったなあ」
友人が残念そうにつぶやく。
「俺は見れたよ。多分」
友人を悔しがらせるために、私は冗談めかしてそう言った。
友人はうらめしそうに私の方を見た。
「ふん、いいさ。俺もちゃんと見たことはあるんだからな。おあいこだ」
そうして友人は再びポケットの中の菓子パンを取り出した。
「あーあ、せっかくまた見れると思ったのになあ」
そう言って、菓子パンを池に近付けだした。
「魚のエサくらいにはなるだろうか」
私はそれを見とがめた。
「おい、やめろよ。公園の迷惑になるだろう」
しかし、友人はどこ吹く風だ。
「こんな客の入りじゃ、魚たちだってろくなものが食えてないだろうさ。善行だと思って、ひとつくれてやるか」
そう言うが早いが、友人はその菓子パンをこっそり池の中に落とした。
少し離れたところにいる受付の老人は、そのことに気付いていないようだった。
友人は、悪いことをしたいたずら坊主のように、声を抑えて笑っている。
「知らないぞ」
私はなんだか、友人のやることにあきれてしまった。
「まあまあ、魚たちも鰐のおかげで生活が厳しいだろうし、持ちつ持たれつってやつだよ」
「物は言いようだな」
「なんでもいいさ。さ、そろそろ帰ろう。駅前の定食屋に、新しいメニューが出来てたんだ」
友人は、鰐を見つけることを諦めたようだった。気楽そうに歩いていくそのあとを、私は釈然としない気持ちではあるが、ついていった。
(あ、そうだ)
ふと、私はボートに読んでいた本を忘れたことを思い出した。
「おい、すまん。先に行っていてくれ。ボートに本を置いてきた」
しっかりしろよな、という友人の声を背に受けつつ、私はボート乗り場へ戻った。
「たしか、このあたりに……」
私は乗っていたボートの底を探した。
「あったあった」
本は、やはりボートの中に残っていた。
「あいつも待っているだろうし、早く戻るとするか」
ボートから出てボート乗り場に戻ったとき、ふと近くの水面に目がいった。
そこはたしか、友人が菓子パンを落とした場所のはずだった。
そこには池の中から、こんなに数がいたのかと思うほどに、大量の魚が集まっていた。おそらく、友人が落としたパンを求めて、そこかしこから集まってきたに違いなかった。
その光景にいくぶんの薄気味悪さを感じた私は、早々にここを立ち去ってしまおうと考えた。
ボートに背を向ける。私は歩きだす。
ふと、背後から野獣のうなり声が聞こえたような気がした。
私は歩みを止めた。それにもかかわらず、すぐには振り返ってはいけないような気がした。
しかし、好奇心には勝てない。私は意を決して振り返った。
そこには、何もいなかった。
先ほどと同じ池の水が、そこにはたたえられていた。
しばらく水面を見ていた私だったが、友人が待っていることを思い出すと、また引き返そうとした。
すると、再び後ろで同じようなうなり声がした。そうしてバキリと、何かが砕かれるような大きな音がした。
私は振り返った。
するとそこでは、噛み砕かれて真っ二つになったボートのオールが、何かの長い口に引きずり込まれていく姿があった。私はあまりのことに何も言うことができず、ただその様子を眺めていた。
そのオールは、二度と水面に浮かんでくることはなかった。