絵師狩り
作者は生成AIによる無断学習、著作者の権利侵害、偽情報の発信に反対です。適切な法整備が進むよう願っています。
※2023年6月3日 01:42に別名義でpixivに投稿した作品を加筆修正しました。
人気セーユーの声を録音して作られた自動音声機能付きの人工知能が、耳をくすぐるような甘ったるい喋り方で俺を急かしてくる。
「出力できるのは、あと三回です!」
ディスプレイの中で女の子がR240、G140、B150のツインテールを揺らして「プレミアムプランならプラス五百回で二割引! 超お得ですよ! 逃す手はない、買いどき!」なんて宣伝を挟んできた。海外製のソフトウェアだから、かなり翻訳が怪しい。そんなところも含めて可愛いバーチャルアシスタントなのである。
アーティフィシャル・イラストレーション社製の画像生成AIは、一日あたり二百枚の画像を出力できる。今日は既に百九十七枚出力済みで、あと三枚しか生成出来ない。締切まで三十分。プレミアムプランに加入する金銭的な余裕はない。
あと三回で納得のいく出来栄えの画像が生成できるだろうか。空っぽのテキスト入力フォームでカーソルが点滅している。早く記入しろと爪先を小刻みに揺すって催促しているかのように見えた。
「えーと、『健全な』『明るい未来』『成長する』『雨上がりの虹』……それから『構図は黄金比』『彩度高め』で……」
融通の効かない人工知能を相手に、何とか望むものを出力させようと様々な言葉を組み合わせる。
「そのワードを含んだ画像は既に出力済みですが、よろしいですか?」
「いいんだよ。さっきは構図や色については違う指示だっただろ。これで出力して」
「了解しました! イラスト・ララスト・ラララライ〜!」
生成された画像を見る。この瞬間は何回やってもどきどきする。わくわくと言い換えてもいいかもしれない。心臓が心地良く跳ねるのを味わいながら、絵のバランスが崩れていないか、現実と矛盾していないか、細かい部分にも目を光らせる。
「指の関節がおかしい。これさえ無ければなあ。修正して」
「残り二回です。同じ内容に修正を加えて再出力します。よろしいですか?」
「うん、やっちゃって」
児童向けアニメみたいな陽気な呪文と共に画像が生成される。
「何か違うんだよな。うーん……『水滴』『太陽』『プリズム』も加えて……」
「本日最後の画像生成です。よろしいですか?」
「うん」
祈るような気持ちで処理を待つ。コンテストで入賞、いや、あわよくば最優秀賞をとってAI画像生成師として市民権を得るのだ。今はアルバイトをしないと食べていけないけれど、いつかは画像出力一本で暮らしていけるようになりたい。実家の母ちゃんに培養肉じゃなくて本物の牛肉を奢るのが夢だ。
目を開ける。出力された画像を見て、これだと思った。即座に右クリック、ダウンロード。
「すごく良い。俺の想像通りの絵だ」
「9Xn8BQ2sGkさんに喜んでもらえて、私も嬉しいです。可能であればアプリケーションに関するアンケートにご協力ください!」
「アンケは面倒くさいから書かないって言ってるじゃん」
「失礼しました。謝罪!」
それにしても良い絵だ。俺には画像を出力する才能があるのかもしれない。
虹は単純に七つの色を並べただけではなく、プリズムの輝きを想起させるような淡い光を放っていた。雨降って地固まる。陽はまた昇る。この画像を見る者には、そんな前向きな言葉を抱かせることができるだろう。
コンテストの応募画面を開く。出力したてほやほやのデータを添付して送信。マウスを握る手が汗を掻いてびしょびしょに濡れていた。
「良い結果になると良いですね。私もマスカット祈祷しておきます」
AIもお祈りしてくれるらしい。機械が祈りを捧げたところでご利益があるのか分からないが、神の前では機械も人も変わらないだろう。
「マスカットって何? マジで翻訳が雑だな」
「フィードバックするには高評価をクリック!」
「あー、うん。また今度ね」
俺の作品が新宿の画廊に展示されることになった!
コンテストに応募した『雨上がりの虹と明るい未来』が入賞を果たしたのだ。SNSでも沢山コメントが貰えるようになってフォロワーが増えたし、企業から仕事の依頼が入るようになった。俺の未来は明るいぞ。
光沢のあるコート紙に高精細印刷をした画像が金の額縁に入れて飾ってある。余白さえ美しい。もう目に入るもの全てが良いものに見えた。
AI社の営業部長と名刺を交換することができた。大企業の管理職ともなれば有名、無名関わらず平等に作品を評価するような審美眼も備わっているのだなと感心した。
「9Xn8BQ2sGkさんの画像は素晴らしいですねえ。写実的でありながら親しみやすいディフォルメが丁度よい塩梅で加わっている。普段はどのくらいのペースで投稿されているんですか?」
「え、えーと、出力するのは一日二百枚ほどなんですが……人に見せられるレベルの作品は三日に一枚くらいですね」
「確かレギュラープランでしたよね? もったいない! 絶対にプレミアムプランが良いですよ。もっと早いペースで投稿できるようになりますから。9Xn8BQ2sGkさんの作品を世に出す機会を増やしましょう!」
「そ、そうですね。もっとお仕事がもらえるようになったら……」
「よろしければご紹介させていただきますよ。クリーンで明るい作風ですから、保険会社や介護福祉サービスが合うと思うんです」
「ア、はあ……」
手渡されたのは依頼例をまとめたファイルだ。名前すら聞いたことがないような小さな会社ばかりだが、これまでに受けてきた依頼に比べて高額な報酬だった。
もっと高度なデザイン性を求められるような、創造的で豊かな発想力を発揮できる仕事こそが俺には相応しいはずだ。ゲームの販促とか、書籍の表紙とか。
だけど、こういう地道な積み重ねこそが大事なのだということも理解している。とにかく必要なのは知名度だ。どんなに良い絵を出力しても、誰も見てくれないのなら意味がない。
営業部長との挨拶を済ませた後、壁に敷き詰められた画像を眺めて歩いた。キャプションには題名と作者名、使用したソフトウェアが記されている。奥の方には人だかりが出来ていた。審査員特別賞や最優秀賞などの特別な作品が展示されているのだ。
俺よりも凄い画像。それがどんなものなのか気になって、人々を掻き分けて前へ出る。
「こんなポーズ見たことがない」
「人体の構造と矛盾しているのに自然体であるかのように見える」
「この稜線の色は何だ」
そこにあったのは、今まで見てきたどんな画像よりも鮮やかな命だった。線を簡略化している部分もあれば、緻密に配置されている所もある。強弱も細かく使い分けられていて、鳥が空を飛ぶような力強い曲線の勢いに目が釘付けになった。色の濃淡も演出に盛り込んで、光や空気の通り道をよく表している。
同じ210×297ミリ、2894×4093Pixel、350dpiなのに。俺は打ちのめされてベンチに座り込んだ。
浮かれていた自分が馬鹿みたいだ。俺の虹なんか、さっきの画像に比べたら有象無象に過ぎないのだろう。何も印象に残らない。くしゃくしゃに丸めてポイだ。
いいな。俺もああいう画像が出力できたらいいのに。
少し離れた所から画像を見つめていると、大学生くらいの男が隣に座ってきた。茶髪の襟足を刈り上げて、ブルーレンズのサングラスを掛けている。軟派な風体のくせにワイシャツの裾をグレーのスラックスにしっかりしまい込んでいた。
人の目を引く青年だな。もしかして、あの画像を出力したのは彼なのではないか。
「あの」
「え、ボク?」
「そう」
自分のことを「ボク」って言うのか。意外だった。
「最優秀賞とったのって、あなた……ですか?」
「あ、ハイ」
的中した。あの絵の作者を前にして、何と言えばいいのだろう。
もっと他の画像を見せて。どうやって生成したのか教えて。いつも画像出力をするとき何を考えているの。好きなものは何。どんなものに影響を受けたの。
とにかく青年のことが知りたくて仕方がなかった。彼のようになりたかったのだ。あんな画像を生み出してみたくなったのだ。
「え、えと、あの……あなたの画像、凄く好きです」
「あ、ありがとうございます」
褒められるとは思っていなかったのか、青年は少し驚いていた。
いや、いや。絶賛されて然るべきだろう。何をビックリしているんだ。お前が最優秀賞なんだぞ。最も優れた画像の作者なんだぞ!
熱が込み上げる。もちろん賞の重さも自覚すべきだが、何よりも、あの画像を出力してみせたことがどれほど凄いことなのかを分からせなければ気が済まなかった。
「どうやってあの画像を生み出したんですか? あんな線も影指定も配色も、今まで見たことがありませんでした。それでいて、AIが苦手としている指や髪を正確に表現している。特に、個人的な好みですが指のしなりが堪りません。あそこだけ線が太いのも良い。余白に敢えて何も配置しないのも格好いい。……俺もああいう画像を作ってみたい」
喋り始めると止まらなくなる。息継ぎを忘れて一気に捲し立ててしまった。心臓がバクバクと鳴って血液がびゅんびゅんと全身をめぐる。
青年は黙って俺の言葉を聞いていた。しまった、気持ち悪い奴だと思われたかな。
「す、すみません。興奮してしまって」
「……いま、あなた……『作ってみたい』と言いました? 『出力』や『生成』ではなく『作る』と……」
青年が辺りを窺いながら喋るので、俺も同じように声を潜めて「言いました」と返した。すると彼は肩がぶつかるくらい近くに座り直して、更に小さな声で囁いた。
「もし良ければ教えますよ。絵の描き方を」
絵の……なんだって? 初めて聞く言葉だった。
「エガキ、カタ……?」
「自分の思うままに画像を生み出す方法ですよ。『描く』という動詞です」
違う世界の話をされているかのようだった。エガクって何だ。AIに出力させる以外に画像を生成する方法があるとでもいうのだろうか。そんな馬鹿な。信じ難い。だけど、誘いを無視できるほど俺に宿った熱の温度は低くなかった。
未知の世界への扉。その鍵が目の前にある。扉を開くか否かは俺の決断しだいだ。
「教えてください。『描く』とはどういうことなのかを」
新宿の中心部から離れて住宅街に入る。小さな商店が軒を連ね、様々な国の言葉が乱れ飛び、独特の雰囲気を醸し出していた。謎の専門学校や楽器屋、歴史を感じる喫茶店、古びたアパート、怪しい風俗店の入り乱れる混沌とした道を歩いていく。青年に連れられて辿り着いたのは、蔦の張り付いた倉庫だった。草木の手入れをしていないらしく伸び放題で、昼間なのにフェンスの向こう側は薄暗かった。
ここで俺は、まさか騙されたのかなと嫌な想像が頭をよぎった。マルチ商法、投資詐欺、新興宗教。風が吹いてざわざわと葉が揺れる。詐欺師が手ぐすね引いて待っているのかもしれない。どんな契約書であってもサインしないし、絶対に一銭も払わないぞと決意する。
青年は南京錠の鍵を開けてフェンスの奥へ進む。倉庫の扉は背の高い草に隠れるようにして設置されていた。軽く二回ノックすると、一拍の間を置いて、扉の向こうから短く鋭い男の声がした。
「エノグ」
間髪入れずに青年は応じる。
「フデ」
ガチャンと音がして錆びついた扉が開かれる。早く中へ入るように促されて、俺は酸っぱい臭いのする倉庫に足を踏み入れた。門番に合言葉なんて、まるで秘密基地みたいだ。騙されたのではないかという思いは高揚感に掻き消された。
「撮影禁止、他言無用でお願いしますね」
そこに広がっていたのは絵の森だった。四角い木枠に張られた布の上で、色鮮やかに紅葉した野山が秋の到来を告げている。また別の布では、葉っぱの上で羽を休める赤トンボの姿があった。机の上から床まで散乱している白い紙には、様々なポージングをした人間が黒一色で表現されている。リング状の金具で薄い紙を束ねたものを手に取る。どの紙を捲っても人体のパーツがあって、角度や大きさを変えて並んでいた。
「な、なんだこれは……紙に――絵が――」
「絵描きの互助組織みたいなもので、こういう場所が全国にあるんですよ」
息が弾む。こんなにたくさんの紙を見たのは初めてだった。書類は全て電子化されていて、本なんて博物館にしか置いていないのに。
頭がくらくらして机に手をついた。ぐちゃり。
「うわっ」
指先で何かを潰してしまったらしい。咄嗟に手をどける。
「色!」
R100とG100のねばねばしたものがべったりと手についてしまった。指を擦り合わせると茶色になった。
凪いだ水面に雫が落ちて波紋が広がるように、頭に浮かんだ考えが心を強く揺り動かす。この手を白い紙に滑らせたらどうなるか。色彩、陰影、濃淡、剛柔、構図――閃きが頭から溢れて破裂してしまいそうだった。
「どうぞ、これに描いてください」
白い厚紙を手渡される。俺が何をしようとしているのか、この衝動の正体を彼は知っているらしい。
エガク!
生まれた欲求に従って、白の世界に指を走らせる。もう我慢できなかった。トンボの絵を見たときから、強烈な赤と緑のコントラストが頭から離れなかったのだ。記憶の中に閉じ込められている情景を表に出したい。俺が見た景色の中で美しいと思う緑と赤はこれだと突き付けたい。
「これも使っていいですよ」
色彩を指で掬って塗りたくっていた俺に、彼が差し出したのは先端に毛が付いた棒だった。
これは毛先を使って色を伸ばすものだ。誰に教えられるでもなく、直感で使い方を察する。箸を持つみたいに片手で棒を取って、毛先を色彩の沼に浸してから紙の上に滑らせた。
スーッ。紙に色が乗る。始めは濃く、終わりは薄く。指先と違ってふわりと柔らかい線が引けた。
「ボクも一緒に描いてもいいですか」
俺は夢中で手を動かしながら、こくこくと頷いた。
青年はサングラスを外して筆を持つ。絵に余計な手を加えて像を崩すようなことはせず、塗り方や道具の使い方を実践で教えてくれた。絵具と画溶液を混ぜて色を作る手順。筆を走らせるときの手の動かし方。ペインティングナイフで色を削ったり平たく塗ったりする表現の仕方。
ひとつひとつの技術を己の手で実践する度、それが形になって絵に表れることの面白さ。空を飛ぶための翼を手に入れたような心地だった。
「楽しいでしょう、絵を描くのって」
「はい……!」
俺は青年の手を借りて一枚の絵を完成させた。懐かしい思い出。夏の終わりに見た、赤い提灯みたいな実をぶら下げる鬼灯だ。
「……子どものとき、公園の砂を指でなぞって絵を描いたことがあったんです。でも、友達も親も『絵を描く』なんてことを知らないから、周りの人に気味悪がられて。みんな『画像はAIが出力するものだ』って思っているんです。だから、俺は絵を描くことを封印して、そのまま忘れていたんだ……」
誰にも習わなくたって、人間は絵を描く喜びを知っているはずだ。会話によるコミュニケーションと同じ。頭の中で膨らませたイメージを発露する手段のひとつなのだ。
「ありがとうございます。絵を描くことを思い出させてくれて。でも、俺はもう二度と筆を取りません」
「どうして。あんなに楽しそうに描いていたじゃないですか。この鬼灯だって初めて筆を使ったとは思えないくらい素敵ですよ」
ただ、大きな問題があった。他の技能にも等しく言えることだが、人間は自分の理想通りに能力値を振り分けることはできないし、才能を自覚して最適な学習環境を得られるとは限らない。
「俺はあなたみたいに上手く描けません」
筆を握ったからこそ理解できてしまう。注がれた年月が違うのだ。自分が四苦八苦して描いた葉脈よりも、彼が軽快にすらりと筆を走らせて生み出した線の方がどう見ても美しいのである。迷いなく筆を動かせるようになるまで、一体どれほどの絵を描いてきたのだろう。
「せっかく教えてくださったのに、すみません。俺にはAIで画像を生成する方が向いているみたいです」
「……そうですか。残念です」
近くの道路をガタガタと積荷を揺らして大型トラックが通り過ぎていく。筆が紙を擦る音が響いていたのに、今は風が止んでしまったかのように静かだった。
何と声をかけていいのか分からない。気の利いた話題を持たない俺の口は、勝手に自分のことを語り始めていた。
「あ、えと、実はプロのAI画像生成師を目指していて。AI社の営業部長さんに名刺をもらったから、プレミアムプランにしようかなって。ほら、見て」
「ピンチはあと二百回です!」
小型端末に指示を送って画像出力AIを立ち上げる。相変わらず変な日本語を使って、バーチャルアシスタントが残りの画像生成回数を読み上げた。
「AIと一緒にイラストレーションをたくさん生成しましょう! めざせ、一日千枚! 万枚! 億枚! 兆枚マイ〜!」
「やめて!」
青年が耳を塞いで怒鳴る。空気を切り裂いて、広い倉庫に反響した。
「ボクのばあちゃんはそんなこと言わない」
「ばあちゃん?」
「その声ですよ」
手元の端末を見る。二つ結びにした#f08c96の髪をぴょこんと跳ねさせて、小柄な女の子が踊りながら俺の命令を待っていた。このバーチャル・アシスタントが彼の祖母であるはずがない。次元が違うし、歳だって合わないのだから。
青年はサングラスを掛け直して額に手を当てた。目を閉じて深呼吸を一回。冷静さを取り戻そうとしているらしい。
「マスカット・シスター・ナナ・ユリリン」
「なんて?」
彼の口から呪文が飛び出したので、驚いて聞き返してしまった。
「名前ですよ。ばあちゃんの名前……」
「め、珍しいお名前ですね」
十桁以上の不規則な英数字を用いて名前を付けるのが常識である。不正アクセスを防止する目的もあるが、一番の理由は人々の平等のためだった。二十一世紀頃に名付けによる多様性の否定が問題になって、このようなルールが世界に浸透していったのである。
「もちろん本名ではありません。芸名です。声優だった頃の……ばあちゃんは創作物に声を当てる仕事をしていたんです」
確か、このバーチャルアシスタントは人気セーユーの声を録音して制作されたはずだ。それが彼の祖母だとは知らなかった。
「すごい! これ、声が可愛いから使っているんですよ」
「すごいものか! このソフトを作った奴らはな、ボクのばあちゃんの仕事を奪ったんですよ。許諾も取らず、勝手に音声データをAIに学習させて、それを色んな媒体で使って利益を貪った。アニメも、映画も、ナレーションも、確かにばあちゃんの声を使っているのに、それを隠して売っていたんです」
「え……」
青年の激しい剣幕に押されて、俺は何も言えなかった。深く考えずに使っていたAIが、そんな経緯で作成されていたなんて。
「二十一世紀、AIが生まれた時代。あの時にコンテンツや制作者の権利を保護しなかったから、芸術の衰退が始まったんです」
無許可でAIに学習させることで、本当の作者から仕事を奪ってしまう。すると、創作活動をする人間がいなくなって新しいものが生まれなくなる。AIは学習するものを失い、既存の作品の焼き直しをするしかなくなる。悪循環に歯止めがかからなくなって現代に至る――と青年は説明してくれた。
「今や役者なんて存在しない。作家もいない。小説も戯曲も音楽も映像も絵も、全部AIが出力しているんですから」
彼の祖母が仕事を奪われたのは可哀想だと思う。人間がAIに淘汰されるというのは、どの職業にも言えることだ。芸術は聖域ではないのである。環境に適応できるものだけが残る。植物も動物も虫も、機械も人間も同じ。
でも、この楽園が踏み荒らされるのは見過ごせない。絵で埋め尽くされた倉庫を見つめる。青年が筆を折るなんてことになったら人類に大きな損失をもたらすだろう。世界には新しい絵が必要だ。
人類の発展のために楽園を守らなくてはならない。サングラスの向こうで燃え上がる炎を見た。
「おい、奴らが来たぞ」
「AI社か。まあ、嗅ぎ付けられるのも時間の問題だったかな」
「451プロトコル開始」
「了解」
門番の男が慌ただしく駆け込んできた。何やら隠語らしきものが飛び交う。ばたばたと二人が絵を掻き集め始めたので、俺も手伝うことにした。
AI社の人に絵を見せるのだろうか。こんなに綺麗な絵が描けるのだから、契約を結んでいるのかもしれない。でも、彼は人工知能を良く思っていないはずだ。疑問を感じながらも、彼らの真剣な表情に気圧されて口を挟むことはできなかった。
「よし、これで全部だな」
サングラスの青年と門番の男は一枚ずつ小さな絵画を脇に抱えて、他は床に並べていた。俺は鬼灯の絵を持たされていた。
「それっ」
掛け声と同時に大きな缶を逆さにして、黒い塗料をぶち撒ける。絵の上にペンキが飛び散り、黒い洪水が色彩を台無しにしてしまった。
「何やってるんですか! 絵が!」
悲鳴を上げる。あんなに美しかった世界が壊れていく。せっかく描いた絵をどうして真っ黒に塗り潰すのか。もう元には戻らないと分かっていても、絵を汚す塗料を拭わずにはいられなかった。
暗黒の海に飛び込もうとしたところで青年に腕を掴まれる。彼の頬には黒く点々と塗料がこびり付いていた。
「こうしておかないと、AI社の社員に絵を撮影されて、勝手に人工知能の餌にされてしまうんです。奴らは新しい絵に飢えている。自分たちで排除しておきながら、絵描きを求めているんです」
「だからって、まだ世に出していない作品もあるでしょう! こんな、こんなことで……勿体ない――」
AIに学習されたくないからという理由で、俺は鬼灯を黒く染めることができるだろうか。宝物を目の前で破り捨てられるような悲しみに襲われる。彼だって同じ思いのはずだ。
だけど、もしAIに学習されてしまえば絵の氾濫が起きるに違いない。彼が描いていないのに、彼の画風で、彼ではない人物が作品を発表するのだ。
嫌だ。彼から絵を盗むな。筆を奪うな。頼むから、才能と努力を路傍の石みたいに蹴ってくれるな。
「お前ら、急げ! 奴らが鍵を壊して入ってくる。裏から逃げよう」
「鬼灯は持ちましたね。さあ、行きましょう」
侵入者は無理やり倉庫の扉を破ろうとしているらしく、金属のぶつかり合う硬い音がした。急いで裏口から外へ出る。
無事な絵は三枚だけ。三人で持ち運べる最大の数だ。落とさないように、ぎゅっと抱え直す。大切な我が子を侵略軍の魔の手から守るように。
「ボクは西に。お前は東に。あなたは真っ直ぐ北へ。三人ばらばらに逃げます」
「逃げる……?」
「絵師狩りですよ。絵描きを捕まえて、AIに食わせるための絵を描かせるんです」
「それって違法じゃないですか。不法侵入といい、やりすぎでは。警察は動かないんですか」
「治安維持AIの指示だと言えば、何でも許されるんですよ」
開いた口が塞がらない。治安維持AIは犯罪抑止のために使われているが、恣意的な運用が指摘されていた。確かにプロンプトをいじれば人間が望む通りの結果を出力させることが可能だ。まさか本当に一部の人間にとって都合が良いように運用されているとは思わなかった。
いや、恐ろしい現実から目を背けていただけかもしれない。AIは公正ではないのだ。SFでは人間が人工知能に支配されるなんて言うけれど、とんでもない。人間を支配するのは人間だ。AIはただのツールでしかない。どう使うかは人類の手に委ねられているのだ。
「また会う日まで、お元気で!」
青年は手を振って走り出す。外はすっかり暗くなっていて、街灯が俺たちの行く先を照らしていた。サングラスがきらりと光を反射する。
「あ、あの、どうか、連絡先を――」
「絵を描いていれば、また会えますよ!」
そう言い残して、彼らは去っていった。今日みたいにコンテストに応募したり、どこか別の場所で絵を描くのかもしれない。十桁の名前を反芻する。ただの英数字に特別な意味が生まれた。
また彼に会いたい。彼の絵が見たい。そのためには絵を描くしかない。AIにお任せで生成した画像では駄目だ。彼に振り向いてもらえないだろう。だったら、俺も筆を取るしかないじゃないか。
どうか、絵師狩りから生き残ってくれ。俺も頑張るから……筆で絵を描くから!
鬼灯を抱えて走る。どんな絵を描こうかと構図や色合いを考えながら、夜の街を駆け抜けた。