婚約の顛末
わたくしエイプリル・ケアリーフォードには幼い頃よりの婚約者がおりました。ハーヴェイ・トウェルマンと申します。家同士の付き合いから成った婚約で、特に何かの利益を鑑みて、というような理由ではありませんでした。強いて言うなら、わたくしが子爵家の一人娘で婿を取る必要があること、彼、ハーヴェイが子爵家の次男であった、という事情がございました。
ハーヴェイは文武に優れておりましたので、わたくしの家でなくとも、婿に迎えたい、というような申し入れは引きも切らなかったのでした。
なぜそんな事をわたくしが知っているかと言うと、わたくしがハーヴェイの婚約者だと知る令嬢たちから、手を引くようにとお茶会の片隅で諭される事が度々あったからです。
その度に両親には報告しておりましたが、それほどまでに容姿と能力が評判になるハーヴェイと、肩を並べての舞踏会や行事はなかなか辛いものがございました。
不器量とは言わないまでも、華やかさに欠けるわたくしは、子爵位に相応な装いと教育を受けた、低位貴族の令嬢でございましたから。
それでもハーヴェイはわたくしを婚約者として好意をもって対応してくれましたし、わたくしはもちろん彼を好いておりましたので、このまま結婚することになるのだろうと、わたくしはいずれ迎える式典に向けて準備を始めておりました。
ドレスの布を選び、形を決めるのは大変楽しゅうございました。隣に立つハーヴェイの意匠を考えては、自然と顔をほころばせて、母に笑われたりしておりました。
ふわふわと宙に浮いたように過ごすわたくしは、ハーヴェイとの逢瀬で見られる彼の笑顔と、儀礼的ではあるものの婚約者であるわたくしへの甘い言葉に浮かれて過ごしておりました。
わたくしとハーヴェイがすれ違い始めたのは、学園の二年の頃でした。王立の貴族学園というのがございまして、王国の貴族の子女は、皆この学園に通うことが義務付けられています。
他国であれば、デビュタントというのが貴族の名乗りになるのでしょうが、この国にあっては、この学園の卒業資格を持ち、その卒業の式典に参加して初めて、貴族の一員として認められるのでした。
わたくしは領主科に所属しておりまして、ハーヴェイは騎士科で学んでおりました。わたくしは子爵家の跡取り娘ですので、自領に関しては父からある程度学んではおりましたが、儀式を始めとした王宮での振る舞い方や王国の法律や申請手続きなどを、二年ほどかけて身につけるための選択でした。
ハーヴェイは騎士科で、わたくしとの結婚後に率いることになる子爵領の騎士団長としての教養を学んでおりました。と言うかそのはずでした。
カリキュラムの違いから、わたくしとハーヴェイは学園で共に勉強することはございません。ですので、お昼の休憩や放課後に食事やお茶を一緒に、というのが二人の過ごし方でございました。
二年になってから、ハーヴェイはランチやお茶を騎士科の女生徒と過ごすことが増えたのです。たまにというのならば、わたくしもお付き合いもあるでしょうと納得したのですが、徐々にその回数が増えていきまして、わたくしとの逢瀬の方がたまの出来事になりつつありました。
流石に、ハーヴェイにも遠慮がちにではありますが、女生徒との距離が近いのではないかと、不満を訴えました。
彼は騎士科の女生徒は数が少なく、将来は女性王族の近衛として働くことが決まっているので、繋がりを持っておくために社交が必要だ、と申しました。
成程、それは確かに将来に大事かもしれません、ですが、彼はいずれわたくしと結婚して、領地の騎士団を率いるのです。近衛や王族との繋がりがそれ程必要なのでしょうか?
ハーヴェイの騎士科での努力を無下にするようで、彼に向かって口に出すことは出来ませんでしたが。
それでも何とか、頻度からしてわたくしではなく、彼女が婚約者であるかのように振る舞われるのは困る、とわたくしにしては強めに申したのでした。
美丈夫で、明るい性格の彼を慕うものも多く、家同士の繋がりが無ければ、きっと婚約など結べなかっただろうわたくしは、彼の婚約者であることに引け目がありました。
恋い慕っているのに、彼に釣り合わない辛さ。わたくしを、わたくしだけを見つめて欲しいのに、思慕の天秤は常にわたくしの乗った方が重く傾いているのでした。
ハーヴェイが仕方ないな、と微笑んでわたくしの話を聞いて下さったのも、初めの頃だけでございました。一月ほどもすれば、わたくしの顔を見ると、眉間にしわを寄せ、舌打ちの一つもされるようになってしまいました。
二ヶ月が過ぎる頃には、いかにもわたくしが彼女に危害を加えるかのように、かの方をかばうようにわたくしの前に立ちはだかるまでになりました。騎士科の彼らに、わたくしが何を出来るというのでしょうか。
胸の内に傷を作り、血を流しているのはわたくしの方ですのに。苦しく苦い嫉妬を隠して必死で笑顔を作るわたくしは、ハーヴェイに向き合う気力を無くしていきました。
思えば、わたくしが口煩く物を言う度に、ハーヴェイの気持ちは彼女に向かっていったのでしょう。そしてわたくしは、自分から離れていく彼の存在に執着してしまったのです。
かの方、と話しておりましたが、シェイラ・マーシャルトン嬢は騎士団長の親族の伯爵家の長女で、跡取り娘というわけでもなく、いずれ一門のどなたかと、もしくは優秀な平民の騎士を一門に迎え入れるために、婚姻を結ばれるのだろう、と思われていました。
武芸の一族として知られる家名のご出身で、いずれは女性王族の護衛となられることを期待されていらっしゃるのも事実でございました。
ご本人が、どうお考えになっていたのかは、存じません。
わたくしに分かるのは、シェイラ嬢がわたくしやハーヴェイの婚約を知りつつ、彼に近づき、わたくし達の間に距離を作ったことです。
シェイラ嬢も貴族女性です。ハーヴェイに近すぎると、わたくし以外の方からも注意されていたはずなのです。
同じようにハーヴェイも、わたくしの存在があることを、両親を含めた周りに注意されていたはずです。ましてや、彼は入婿となる予定なのです。
いくら彼に入婿の縁談が多数あったとしても、わたくしへの仕打ちを見るにつけ、その数を減らしたことでしょう。結婚前から不誠実な男性を、家族の一員として迎え入れたい者は、多くはございませんから。
ですが、その時のわたくしにはハーヴェイへの気持ちが強すぎて、ハーヴェイとシェイラ嬢のお二人から目が離せませんでした。お二人はお二人で、わたくしの強い視線に一層寄り添いあって互いの距離を縮めていったのでした。
恋のなんと恐ろしいことでしょうか?想うがゆえに、想う相手に距離を取られ、憎い恋敵へ近づけさせるとは。
わたくしの気持ちがこれほどで無ければ、おそらくハーヴェイはシェイラ嬢をここまで庇うことはなかったでしょう。
わたくしは、どうすればよかったのでしょう?初恋の相手である婚約者に、それ程理不尽なことを求めたつもりはございません。
日々憔悴していくわたくしに、とうとう両親は婚約の白紙化を提案して下さいました。実のところそれまでにも何度か、そういう話は出たことがありましたが、彼を想うわたくしはずっと断っておりました。
苦く重い感情に疲れ果ててしまったわたくしは、婚約の解消を、助けとばかり縋るように受け入れたのでした。
実情としては、ハーヴェイの有責による婚約破棄でございましたが、今までの家族同士の交流の過去も鑑みて、わたくしエイプリル・ケイリーフォードとハーヴェイ・トウェルマンの婚約は解消となったのでした。
婚約が解消となってしまえば、クラスもカリキュラムも違うわたくしとハーヴェイとが顔を合わせることはございません。もちろんシェイラ嬢とも。
ポッカリと穴の空いたような気持ちではございましたが、感情を揺らすことのない日々にわたくしはだんだんと落ち着いていきました。
領主科の同級生たちも、騎士科のハーヴェイと顔を合わせることのないように、気遣って下さいました。特に女生徒が、わたくしを守るように動いて下さったのです。
わたくしよりも高位貴族のお嬢様方でしたが、入婿の婚姻前からの裏切りは身分を問わず、許せることではなかったようです。
「ねえ、エイプリル、そろそろ気持ちも落ち着いたのではなくて?」
アドリアナ・ナイスミス侯爵令嬢が、わたくしに問いかけられたのは、授業期間も残すところ二ヶ月となった頃でした。
同じ領主クラスのご令嬢で、既に卒業後に侯爵家ご嫡男とのご結婚が決まっておられました。わたくしの、この度の婚約の解消時にも随分とご配慮をいただいておりました。
「ありがとうございます、アドリアナ様。みなさまのお陰で卒業後のことなど考えられるようになりました」
「まあ、卒業後のことを!ちょうど良かったわ。わたくしも貴女にそのことで話がございましたのよ」
アドリアナ様が仰るには、ナイスミス家の御親戚にシアースミス伯爵家、という家があるそうで、その三男が優秀な文官として王宮に上がっておられるのだそうです。
ただ三男なので爵位も領地もなく、ナイスミス家の後押しがあっても少しばかり立場が弱い、とのことでした。出世自体はナイスミス家が後押しするし、本人にもその力があるので心配は要らない、本人も穏やかな気質でエイプリルと気が合うと思うので、無理にとは言わないけど、会ってみない?
彼にも子爵家という身分が出来るし、ケアリーフォード家にも宰相府で出世する婿が出来ることだし、ナイスミス侯爵家との縁も出来ることも含めて悪い話ではないと思うの、というのがアドリアナ様のお話でした。
卒業を前にして破談になってしまったわたくしに、おそらくこれ以上に良いお話は無いだろうとの、わたくしと家族の判断でお見合いをすることになりました。
「レイモンド・シアースミスです。この度は会っていただけて感謝しております」落ち着いた物腰の二十代前半と思われる男性が、わたくしの眼の前に立っておられました。
お断りになっても構いませんわ、ただ、内密に願います、とのアドリアナ様からのお言葉で、わたくし達はアドリアナ様のご実家のお茶会という体でお見合いをしております。
お話がしっかり決まるまでは、対外的には単なるお茶会で通すようですが、わたくしも一度破談になってしまった身でございますので、その配慮は大変ありがたく思いました。
卒業の式典には、レイモンド様のエスコートで参加いたしました。レイモンド様とハーヴェイとでは目や髪の色合いが違うので、式典に向けての衣装の作成は大急ぎでございましたが、ナイスミス家のお力で以て仕上げてくださったのでした。
結婚式は、半年後となっております。
ハーヴェイと一緒のときとは考えられないくらいに、落ち着いて過ごせる気持ちの違いに、驚いております。だからといって、わたくしがレイモンド様を軽んじているわけでもありません。
きっと近い将来、わたくしはこの方を愛しい伴侶と考えるようになるだろう、と胸のうちに羽ばたくものがございます。そしてそれはレイモンド様の中にも在るようです。
あの恐ろしいまでに暴力的に思考を奪った初恋は、なんだったのでございましょうか?
もし、あのままハーヴェイと結婚していたとして、わたくしの結婚生活はどんなものになったでしょうか。
彼が目の前から消えて、わたくしは罹っていた熱病がすっかり消え去ってしまったように思います。目にせずにはいられなかった彼の姿と、欲しくてたまらなかった彼の心を、手にすることはありませんでしたが、代わりに私はレイモンド様と平穏を得たのでした。
わたくしが結婚して二年程した頃に、ハーヴェイ・トウェルマン子爵令息とシェイラ・マーシャルトン伯爵令嬢の婚姻が発表されました。思ったよりも遅い結婚でした。きっと他に婿入り先が見つからなかったのでしょう。
シェイラ嬢も、婚約者同士に割り込んだ女性として見られた為、近衛隊への入団は認められず、かと言って嫁ぎ先も見つからないまま、ハーヴェイと結婚するしかなかったのでしょう。
ハーヴェイへの恋慕はもちろん有ったことでしょうが、わたくしから庇われることに優越感が無かったとは思えません。一時の感情の為に、彼女は将来の希望を自ら潰してしまったのです。
二人の結婚の話を聞いて、思わず笑ってしまいましたわ。他に代わりの居ない唯一無二のお二人ですもの、きっとお幸せよね?うふふふ。
わたくしは、そろそろ一歳になる我が子を乳母に預けて、帰宅されたレイモンド様の出迎えに向かったのでした。
ハーヴェイがシェイラを、エイプリルから守るシーンで一文
騎士科の彼らに、わたくしが何を出来ると言うのでしょうか
を書き加えました。