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★オススメ短編集★

舟型棺桶性硬化症(BSCS)

作者: 尾妻 和宥

 横断歩道を渡る三角みかど 怜花れいか溌溂はつらつとしていた。黒のジャケットを着た胸を張り、ワイドパンツの裾を翻らせ、高らかにパンプスの靴音を鳴らしながら颯爽と歩いていく。

 花の26歳! ウエディングプランナーの仕事も脂が乗りはじめ、やることなすこと楽しかった。半年前に付き合っていた彼氏とすっぱり別れた。新たな恋人を作る暇すらない。

 ちょっとくらいのトラブルなど、どんと来いだった。後輩たちはこぞって、そんな怜花を慕ってくれていた。


 両親は子どものときに車の事故で亡くし、7つ違いの兄しか肉親はいなかったが、寂しいと思ったことはない。もとより笑顔の絶えない兄妹は、プラス思考でいくつもの難局を乗り越えてきたのだ。

 怜花の人生は順風満帆に見えた。




 ところがある日の朝である。

 ベッドから起きあがろうにも、うまく起きられない。

 体温を測ると微熱もあった。


 きっと日ごろの無理が祟ったにちがいない。――ウエディングプランナーとして、何組ものカップルの要望をヒアリングし綿密なプランを立て、限られた予算内でいくつもの事前準備を決めなくてはならない。責任は重かった。残業をくり返した結果か。


 顧客にとっては、結婚式こそ人生における一大イベントである。期待と不安で不慣れなカップルをサポートし、業界の専門家として式をプロデュースしていく。不手際による失敗は許されない。新人のうちは、式前日、緊張で眠れない夜もあった。


 会社には1日休みをもらい、安静にしていれば治ると思っていた。

 ところが風邪に似た症状はしだいに重くなり、身体の節々までこわばる始末。寝返りを打つのさえ、ままならなくなった。

 

 体調はますます悪化した。

 2日目には、なんと肌が硬化したのだ。まるで皮膚がプラスチックになったみたいに弾力を失った。関節まで自在に曲げられない。無理に曲げると、骨が疼くような痛みに襲われるほど。


 これはただ事ならぬと、遅まきながら病院へ車を走らせた。

 診察してもらったところ、医師から思いがけない病名を告知され、怜花は愕然とする。

 それが舟型ふながた棺桶性かんおけせい硬化症こうかしょう(boat・shaped・coffin・sclerosis『BSCS』)であった。難病に指定されており、日本における患者数は1000人ほどで、毎年10人前後が新たに診断されるという。


 身体を動かすのに必要な筋肉が徐々にキチン質様相の成分で硬化し、思うように動かせなくなる進行性の病気なのだそうだ。最終的によろいをまとったような姿に変容してしまい、死が避けられない奇病だとされている。

 筋肉を動かしている脳や脊髄の神経が、なんらかのダメージを受けることで発症。脳から筋肉への指令が途絶され、手足や喉、舌の筋肉や呼吸筋さえもが硬化してしまうのだと医師は説明した。


 筋肉が硬化すると、身体をうまく動かすことができず、やがては寝たきりになる。呼吸筋まで硬くなれば呼吸困難に陥り、人工呼吸器なしでは生きられないそうだ。


 一般的に症状は恐るべき速さで進行し、末期になると人工呼吸器を使用しなければ発症から1~3年で死に至るとされている。むろん個人差もあり、7年以上かけてゆっくり病状が進む場合もあるようだが、極めてレアケースらしい。


 舟型棺桶性硬化症は症状は悪化することはあっても、軽くなったり自然緩解することはありえない。

 その一方で、病状が進んだとしても、視力や聴力などの五感、内臓機能などは正常に機能しているため、患者本人は精神的苦痛に身をよじらせるという。

 ただただ、肉体だけが異形化していく様子を、なす術もなく見守るしかないというのだ。



 患者の男女比は1:1.3~1.4とやや女性に多い傾向にあり、年々微増しているとの報告がある。

 本来は中年以降に発症するのがほとんどながら、稀に若くして発病してしまう事例もあるようだ。まさか怜花自身がそれに該当するとは……。


 BSCSの原因は現代医学ではまだはっきりとわかっておらず、根治療法はおろか、これといった緩和する治療薬すら確立されていないのが現状である。遺伝子研究や医療機器開発によると、神経の老化のほか、体内で発生した活性酸素によって組織にダメージが加わる酸化ストレスなどが要因ではないかとの声も集められている。

 いずれにせよデータ不足により、解明まで年月を要するようだ。


◆◆◆◆◆


「私の人生、今まで怖いくらいにうまくいってたから、どこかで落とし穴にはまるんじゃないかと思ってたの。やっぱりねって感じ」


 ベッドで横になった怜花は、サバサバした口調で言った。

 入院初日だった。窓からは淡い光が斜めに差し込んでいる。

 レースのカーテンが、そよ風に揺れていた。


 医師から舟型棺桶性硬化症と診断されたものの、怜花はいまだ実感がなかった。

 近い将来、この若々しい身体が鎧状に硬化し、やがて元の肉体とは似ても似つかぬ姿に変容してしまうとは、にわかに信じ難い……。


 むろんテレビなどで、この病気に冒された患者の苦悩を描いたドキュメンタリー番組を観たことがある。

 はじめて末期患者の姿を眼にしたときの衝撃たるや忘れられない。とはいえ頭の片隅では、しょせん他人事として捉えている冷静な自分もいたのは事実だ。


 サイドテーブルには、今しがた飾られたばかりのハーバリウム――ガラス瓶にシリコンオイルを充填し、本物の花を閉じ込めたインテリアグッズ――が、怜花の眼の保養になった。見舞いに駆けつけてくれた兄の手土産だった。


「そう悲観的になるな。マイナス思考になると、悪いことを呼び寄せるぞ。おまえだって、長いこと営業職を経験してたんだからわかるだろ」


 サイドテーブルの横の椅子に腰かけた兄、達樹たつきが言った。

 そんな達樹も大手広告代理店の営業マンだった。外回りと称して抜け出し、スーツ姿のまま病院へ立ち寄ったのだった。


「うん、わかってる。ネガティブになると、よくないことが起きる法則ってあるよね」と、怜花はまぶたの上に手のひらをかざして洩らした。泣きそうになるのを、兄には見せまいとする。「……だからこそスマイル!」


 手をどけて、無理して口角をあげ、白い歯列を見せる。


「そうだ、前向きになるしかない。嘆いたところで、結果は変わらないだろ」


「眼がめたら夢だった……ということもない。あー、これが現実なんだ!」


 仕事を断念しなければならないのが悔やまれた。せっかく顧客と結んだ契約をいくつも抱えていたのに、志半ばで同僚や後輩に引継ぎするしかなかった。

 見舞いに来てくれた戦友たちを前に、必ず復帰すると誓った。それが午前中の出来事だった。


 こうして彼女の闘病がはじまった。

 と言っても、個室のベッドに横になり、気休めの治療薬を1日2回、朝と夕食前に経口投与するだけである。

 1日のほとんどを病室の天井と、窓の外の景色を眺めるしかない。気が向いたらスマホを触るか、読書してもよかった。


 はじめは身体の痛みは耐えられた。人は痛みと折り合いをつけられるものである。

 しかしながら2週間もすれば、やせ我慢さえできなくなる。

 骨のきしむような耐え難い苦痛が襲うようになり、ベッドの上で悶絶し、右に左に反転するようになった。


 関節部が硬化し、折り曲げるのも難儀した。

 歩行できなくなるのも時間の問題だった。

 じっさい、入院してから1カ月もしないうちに、ほぼベッドから離れられない身となった。


 しだいに全身は謎のキチン質様相の甲羅に覆われるようになった。

 見た目はインドサイの皮膚を彷彿とさせた。分厚い鎧状のパーツが顔以外の肩や胸、腰、四肢にそれぞれに発現した。身じろぎすると、隣接した硬い部位がこすれ、ぎこちない動きとなる。かつてのしなやかさは望むべくもない。


 達樹に連絡したことは数え切れなかった。元気なころは泣き言など洩らさなかったのに、兄にだけは吐いた。

 そのたびに達樹は、仕事を放り出して駆けつけてくれた。

 日ごと変容していく己の姿を見せるのは恥ずかしくもあったが、唯一の肉親だからこそさらすことができた。さすがに職場のみんなには、こんな姿、見せられなかったし、見られたくもなかった。


◆◆◆◆◆


 来る日も来る日も、病室の白い天井を見つめ、行く末を案じた。

 そして時折襲ってくる激しい発作に懊悩おうのうし、ベッドでのたうち回る。嵐よ、早く去ってくれと祈った。

 こうして怜花の全身は、完全に甲羅のようなもので覆われてしまった。

 とくに腕と脚の部位からなる硬質化は極端に出っ張ることにより、人間とは思えぬ異様な身体へと変貌していた。


 おのずと我が身を抱き、膝を折り曲げた胎児そのものの恰好になっていく。

 専門の医師いわく、最終的には、甲羅で構成された一個のカプセル状の物体になってしまうのだという。

 身体を縮め、胎児の姿勢をとることにより、複雑な殻が幾重にも折り重なり、それはまさに、棺桶コフィンそのものにちがいない。生きながらえるひつぎ。この形状だからこそ不吉な病名が冠されたのだ。


 入院生活が半年もすぎると、症状はいよいよ末期に近づきつつあった。

 意識や思考能力こそあれ、身体は完全に甲羅に包まれて置物と化し、介助なしでは生きていくこともままならない。


 すでに舌の筋肉や呼吸筋もが硬化がはじまっていた。たんを飲み込む力さえなくなっている。

 喉に気管カニューレをつけ、誰かに吸引チューブで、気管のそれを除去してもらわなくてはならなかった。

 人工呼吸器をつけるか否かの選択に迫られていた。


 ある日、達樹は医師に呼ばれた。

 別室で説明を受けたようだ。

 しばらくすると、ドアを開けて、達樹だけが病室に入ってくる。

 いつになく暗い顔をしていた。


 ゲリラ豪雨のような発作がおさまり、ベッドに丸まった怜花。棺桶状の身体へと姿を変え、顔の部分の面積が狭まりつつあった。

 かたわらには若い看護師がいた。痛み止めを注射してもらったあと、身体――というより、楕円形になった甲羅の外側を清拭せいしきしてもらったばかりだった。巨大なラグビーボールを思わせた。


「怜花。今、人工呼吸器のことで先生と話し合ってきたんだが――」


 しゃがれた声で達樹は切り出した。


「……私……もういい。……あきらめるから」と、怜花はもごもごと言った。口の中にベアリングのボールをいくつも頬張っているかのようなしゃべり辛さだった。「……気にしないで、兄さん。……そのことで先生と相談したんでしょ。私はこのままで――」


「それ以上言うな、怜花。おれはな、おまえに生き続けてほしいんだ。たとえ、どんな姿に変わろうと」


「それは……兄さんのエゴ……」


 怜花は言ったあと、顔をしかめた。

 息をつまらせて咳き込む。

 救いを求めるように、そばの看護師に眼で合図を送った。


 看護師はゴム手袋をつけ、吸引チューブを手にし、怜花の喉につけられた気管カニューレに挿入した。

 手慣れた仕草で、痰をバキュームする。

 ズルズルズル……という虚ろな音が、病室に響く。


「先生はこう言ってた。――BSCSは今の医療じゃ、確たる治療法もなく、不治ふじの病だと」と、達樹はベッドの横でしゃがみ、堅牢な殻に囲まれた妹の顔をのぞき込みながら言った。「だけど、医学は日々進歩してる。じっさい遺伝子研究の分野で、急ピッチで臨床試験が行われているそうだ。いつか特効薬が開発されるかもしれん。あきらめず生き続けるべきだろ。だから人工呼吸器をつけよう。経済的なことなんか気にすんな。おまえなんかより、おれの方が稼ぎがいいし、貯蓄だってある。嫁さんだって理解を示してくれてる」


「……そんな問題じゃない。……私にはわかるの」


「なにが」


「……BSCSは重くなれば、さらに身体は縮こまる。そのくせ意識はあるって言ってたけど……、私はそうじゃないと思う」


「そうじゃない?」


私が(、、)私じゃなくなるときが(、、、、、、、、、、)来ると思うの(、、、、、、)。私である感覚がある前に、いっそ――」


「もういい。言うな」ぴしゃりと達樹はさえぎった。立ちあがる。「おまえがどんな病気であろうと、いつまでもいてほしいんだ。おれのエゴだって構わやしない。たった一人の肉親だろ。辛抱すればきっと新薬が開発される。そう信じろ」


「……ひどくない? だって私……こんなだよ?」と、怜花は甲羅の中ではじめて涙を見せた。痰を吸引していた看護師はチューブを戻し、下を向いている。「……こんな姿で前向きになれる? 笑おうとしても、頬の筋肉まで強ばっちゃって、もう笑えないの。……人工呼吸器をつけたところで、結局は人の手を借りないと生きられないのに。……こんなみじめな毎日、耐えられない!」


「みじめなもんか!」


 怜花は激しく身をよじらせた。

 ベッドが揺れ、そのせいで枕元に飾ってあったハーバリウムが床に落ちた。瓶が割れ、中の花が散乱する。床をオイルで濡らした。


「どれだけ話し合っても平行線……。しょせん兄さんは……、私の気持ち、わかんないんだ」と、怜花は大粒の涙をこぼしながらつぶやいた。「……もう帰って。一人にさせて。……出てって!」


「……わかった。今日のところは帰る」達樹は疲れた表情を見せ、殻に包まれた怜花を優しく撫でた。小脇に抱えた上着に袖を通すと、背中を見せる。「冷静になって考えてみてくれ。おれだけじゃない。職場のみんなだって、おまえが元気になることを望んでる。早まった結論を出すべきじゃない」


 と言って、ドアを押して出ていった。


◆◆◆◆◆


 かくなるうえは、他の方法(、、、、)を模索するしかあるまい。――怜花の意志は固かった。

 看護師にお願いし、特注のタブレットを甲羅のすき間に備え付けてもらった。これで音声と眼の動きによって入力、検索できる仕様だ。

 怜花は事ここに及んで、全国に散らばる約1,000人の同じ舟型棺桶性硬化症患者とコンタクトを取ろうと試みた。


 むろん、すべての患者がオンラインの環境で自身の思いを発信したり、誰かと交流しようとしているわけではない。

 じっさい、わずか20人足らずしかいなかった。ほとんどは行く末を絶望し、心を閉ざしている者が多いとされている。


 やはりBSCSに対して、進行を抑制、あるいは恢復かいふくさせる薬はなく、代替品さえも見つかっていないのが、患者たちに共通する嘆きの声であった。


 BSCSの研究の進捗状況はどうなのか?――怜花は主治医に質問してもはぐらかされるので、患者たちに問うてみた。

 手術、放射線治療、薬物療法による三大治療法をはじめ、免疫療法、緩和ケアの効果や副作用を確認するための臨床試験はくり返されているらしいので、けっして生存の可能性はゼロではないという。


 が、一度肉体が変容してしまえば、元には戻るまい。せいぜい進行を遅らせるのが関の山で、結局は死を引き伸ばしにしているにすぎないとのあきらめの論調ばかりが占めていた。


 焦る怜花の気持ちをよそに、日々変わりゆく肉体と痛み。かつての若々しさと美しい身体は見る影もない。

 排尿・排便さえ看護師の力を借りないとできなかった。時にはナースコールが間に合わず、失禁してしまうこともめずらしくない。


 病状が悪化すれば、ますます失敗が増えるだろう。

 交代制で面倒を見てくれる看護師たちは、いい人ばかりで、嫌な顔ひとつせず力を貸してくれた。しかし、いつか厄介者を扱うような眼差しを向けられるのではないか?――いくら仕事とはいえ、彼女らだって情緒をそなえた人間なのだ。


 加えて、家族の負担を考えると申し訳なさでいっぱいになった。

 怜花にとっては兄だけだったが、もし両親が健在だったならば、到底こんな姿は見せられないと思った。

 患者本人が一番苦しい立場とはいえ、それを支える人たちにとっても、精神的にも経済的にも圧迫を強いているにちがいない。

 いっそのこと、このまま心臓が――。


 だからこそ――。

 幻想にしがみついたとしても不思議ではあるまい。

 奇しくも舟型棺桶性硬化症の末期の身体的変化はこうだ――甲羅に包まれカプセル状になり、中が空洞になったいびつな舟に似るとされている。まさに舟型棺桶の形状に酷似していることからこう病名が冠されたのも言い得て妙だった。


 船出するのだ。一縷いちるの望みを賭けて航海に出るべきではないか――それが同じBSCS患者たちから得た情報だった。


◆◆◆◆◆


「……全国にいる患者たちと連絡を取り合った結果ね、……ある噂にたどり着いたの」


「噂?」


 今や怜花は、鼻から管を入れ、流動食を補給するようになっていた。

 ベッドの上で、殻で覆われた楕円形の塊となっていた。胎児のように丸めた身体に手足が癒着し、継ぎ目もなくなっている。文字どおり、硬い殻に包まれたクルミ然とした異形の物体に変わり果てていた。

 中央にはわずかなすき間があり、怜花の顔が見えるだけである。


 発症から8カ月経ち、体重は落ち、わずか30キロほどになっていた。

 看護師が殻全体を清拭するときも、片手で持ちあげ、つっかえ棒代わりの箱をかませたあと、裏面を拭く。そのころには有無を言わさず、人工呼吸器をつけさせていた。


「……舟葬しゅそうって言葉、知ってる、兄さん?……小舟の舟に、葬儀の葬と書いて舟葬」


しゅそう(、、、、)? 藪から棒に、なんの話だ?」


「……私の身体は舟になっちゃってるんだから、……いっそこのまま海に流してほしいの」と、怜花は眼をしばたたきながら言った。「昔、ポリネシアでは、ご遺体を舟に乗せて川や海に流した水葬があったそうなの。海の彼方とあの世がつながってるんだって」


 怜花は同じ舟型棺桶性硬化症と闘っている患者から得た不確かな情報を兄に説明した。

 噂によると、舟と化した末期患者は波に乗り、やがてはるか沖合の異界(、、)へと運ばれる。そこは苦しみのない楽園のような世界だとされている。


 舟葬ボート・ベリアルという風習自体は古代日本、とりわけ弥生時代でも同様のことが行われていたとされている。弥生遺跡から出土する人骨の数が他の時代に比べ、極端に少ないのもそのためだと研究者は言う。

 仮に川や海に流さなくても、り舟を棺として転用し、土中に埋めたケースもあった。

 九州や南方の島々では、人は亡くなると海の彼方に旅立つものと信じられている。海上他界ないし海底他界である。沖縄のニライカナイも同様の死生観から派生したものだろう。


 あるいは、平安時代末期から室町時代末期の間、紀伊地方で頻繁に行われた補陀落渡海ふだらくとかいも形を変えた舟葬と言えた。観音菩薩が住まう浄土、補陀落山ふだらくさんが南方にあると信じられ、そこをめざし沖へと僧侶たちが船出した。あくまで志願者による究極の捨身しゃしんぎょうであった。ひと月分の食料と水を積んでいるとはいえ、かいなどの制御装置もなく、ただ帆に風を受けて漂流するがままである。いずれは高波に揉まれ、海の藻屑もくずと消えただろう。この生きながらの船出は、同時に葬送儀礼でもあった。


「……私を海へ流して欲しいの。……このまま病室に閉じ込もり、……天井だけを見続ける生活はイヤ」怜花は涙をこぼしながら訴えた。もはや自力では行動に移せない。恐らく主治医に相談しても断られるに決まっているのだ。だからこそ兄に頼むしかなかった。「……ここから解放されたい。……私が私である前に」


 達樹はベッドのかたわらで頭を抱えた。


「そんな噂を信じるのか? しょせん噂は噂だ。そんな姿で海に出たくらいなら、取り返しのつかないことになる。楽園なんてあるもんか!」


「……それにしがみつくしかないの! もうそういうところまで来ちゃってるの!」


「ダメだ。行かせたくない!」


「……兄さん、充分生きたよ、私は。……そりゃ、やりたいことはいっぱいあって心残りだけど。……これで覚悟を決める」


「覚悟」


「……お願い。……私に船出させて」


「船出してほしくない。ここに残れ。おれが一生、面倒見てやるから。負担かけてるなんて思うな。ずっといてくれ!」


◆◆◆◆◆


 押し問答は、その後もくり返された。

 達樹が見舞いに訪れるたび、怜花は行かせてくれと懇願する。

 達樹は認めるわけにはいかなかった。頑なにその申し出を断った。自殺幇助(ほうじょ)をしたとして罪に問われるのを避けるため、我が身可愛さから拒否しているのではない。純粋に妹には旅立ってはほしくなかったのだ。命燃え尽きるまで、そばで見守りたかった。

 時間だけが無情にもすぎていった。


「……兄さん、私、こんな姿なのよ。……まるでピスタチオになったみたい。このまま生き恥晒すのは辛い」


「笑えないよ、怜花。ちょっとばかし、コンパクトになっただけさ」


 まだ会話が交わせるまではましだった。

 しだいに怜花は口を利かなくなった。

 ベッドに置かれた小型の棺桶(コフィン)そのものと言えた。


 人工呼吸器の管が伸び、生命維持装置とつながっている。

 見舞いに来てくれた兄に、恨めし気な眼を向ける。

 鼻から栄養剤を注入されているのが疎ましく、枕の横のパック剤を外してくれと目顔めがおで訴える。


 BSCSは末期となり、発症から1年半がすぎていた。

 達樹はなす術もなく、手をこまねいていた。ひどく疲れていた。

 怜花は、なにもしゃべらなくなってしまった。


 よもやその姿が鎧をまとっているように、心まで閉ざしてしまったのではないか?

 まばたきによるイエス・ノーでのやりとりを最後に、殻はほとんど顔を隠してしまった。もう口の部分のわずかな穴しかない。


 達樹は医師を呼び、医療用ファイバースコープを穴に突っ込んでもらった。

 モニターに、涙をためた怜花の眼だけが見えた。まばたきをくり返している。

 もう残された時間は少ない、と主治医は首をふった。

 それで達樹は腹を括った。


◆◆◆◆◆


「あれから1年と7カ月か……。長いようであっという間だったな。どうだ、怜花、冷えるだろ。もうちょっとの辛抱だ」


 達樹は手押し台車に物言わぬ怜花を載せ、ゆっくりと押していた。

 医療センターの神経難病病棟から最寄りの港だった。

 湾を囲んだ防波堤を歩く。コロコロと車輪の転がる音がする。

 監視の目をあざむき、主治医には内緒で連れてきてしまった。

 もう後戻りはできない。

 最後の別れを惜しむかのように、ゆっくり歩き、物体と化した妹に話しかける。


 達樹は海を見た。

 わずかに波がある。ちょうど引き潮の時間帯か。好都合であった。

 台車に載せた怜花は、甲羅で密閉された一艘いっそうの小舟だった。すっかり硬い殻で顔の部分も隠されてしまった。

 唯一、小さな丸い穴が開いていた。そこから辛うじて呼吸しているのかもしれないが、人工呼吸器もはずしてあるのだ。もしかしたらすでに……。


 達樹は防波堤の突端まで来ると、怜花を地面におろした。

 そして、ベルトにしていた棒を小舟の中央の穴にセットする。

 帆柱だった。一定の深さまでねじ込めば、はずれないだろう。

 大きな帆布を広げ、ひもで括りつけた。――これで立派な帆船となる。


 防波堤の端に、海面すれすれまでおりられる石段があるのを知っていた。

 注意深く小舟を抱えた。もう重さは20キロもない。

 抱えたままギリギリまでおり、しゃがんだ。


「じゃ、お別れだ、怜花。おまえの望みどおり、船出させてやる」


 話しかけたが、返事はない。

 達樹は海に放した。

 はじめ、舟は養殖場のブイのように浮いているだけだったが、帆に風を集めると、しだいに防波堤から遠ざかっていく。

 いずれいくつもの波に引っ張られ、離岸流に乗るだろう。


 防波堤周辺の上空には厚い雲がさえぎり、鈍色にかげっている。季節も晩秋ということもあり、ひどく凍えた。

 はるか沖を見た。


 水平線上にはタンカーらしき形の船が三隻、左から右に横切っている最中だった。

 彼方の空は雲が切れ、青空がのぞいていた。陽光がいくつもの光の筋となって降り注いでおり、神秘的な光景だった。旧約聖書では天使の梯子はしごと称したのではなかったか。

 放射状に光が照らされ、海面は金色に輝いている。


 たしかに沖に出れば、もしかしたら希望が見つかるかもしれないし、むしろ残酷な現実を突きつけられるかもしれない。

 今となっては、これでよかったのかもしれないと思った。


 達樹の佇むコンクリートの陸地から、どんどん妹は遠のいていく。

 小舟は白い帆に風を受け、波にもてあそばれながら遠くへ運ばれていった。

 あたかもそれ自体が、怜花の自由意思が宿るかのように。


「……ありがとう」


 最初、空耳かと思った。


「……ありがとう」


 たしかに潮騒しおさいに混じり、怜花の声を聞いた。


「……ありがとう、兄さん!」


 まちがいなく、妹の声だった。

 懸命に叫んでいた。波音に負けじと声をらしている。

 防波堤から放つとき、話しかけても無反応だったのに、ここに来て心を開いたのか、それとも意識を取り戻したのかどうかして、叫んでいるにちがいない。


「ありがとう! 今まで支えてくれて!」


 今さら戻ってこいとも言えないほど、距離が離れすぎていた。

 達樹は手を振るしかなかった。

 そしてはっきりと、最後の別れのあいさつを聞いた。


「行ってくるね!」





        了

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― 新着の感想 ―
[良い点] 今回の作品は、いわゆるボディホラーと「その先」を描いたものだと思います。言い換えれば、心身の苦痛や変容による人間らしさの喪失とその恐怖、そして自己決定権の問題ということになるでしょうか。 …
[一言] 『国境のエミーリア』を彷彿させる 妖しくも、物悲しい雰囲気 ハッピーエンドなら良いですね (・∀・)
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