贄喰様
Twitterで投稿情報などを呟いています。
ID:@nyudogumo_narou
寒さが和らぎ始めた2月の末に、妻の叶は何の前触れもなく、何でもないことのように言った。
「アナタ。最近、来てないの」
「それって……!」
いつもは鈍感だと怒られてばかりの俺も、今回ばかりは即座に理解できた。苦節2年、ようやく努力が実ってくれたのかと、心が打ち震えるのを感じた。
「そう、にえはみ様」
「え? 何々、怖っ、えっ?」
全然違った。
予想を裏切る物騒な響きに、俺は思わずたじろいだ。あたふたと怯える俺とは対照的に、叶はどこまでも冷静だった。
「漢字はね、”生贄”の贄に、”喰らう”の喰で贄喰様って書くの」
字面の説明なんて別に求めていない。しかも、想像を遥かに超える不穏さだった。
思わず辺りを見回してカメラを探す。それらしきものは見当たらない。ドッキリではないようだ。改めて妻の顔を見る。穏やかな、すべてを悟ったかのような顔をしていた。
「ちょちょ、ちょっと待って、想定と全く違う応えだったんだけど」
「あ、勿論妊娠もしているわ! だから、来るの」
「だから??」
会話がまったく噛み合わない。何で「だから」なんだ? それに、叶はどうしてそんなに平静を保っていられるんだ?
わからない。付き合っていた頃から合わせて十年以上一緒にいる妻の、叶の心の内が、まるでわからない。
「悟ったら、『意味が分からない』って、顔に書いてあるわよ」
ふふふと、いつもの様に可憐に微笑む妻の表情からは、今は底知れぬ不気味さしか感じ取れなかった。
「私が新潟のド田舎にある村の出身なのは知っているでしょ?」
突然、叶が言う。
「あ、あぁ」
話の展開に付いていけず、生返事しか出てこない。嫌な汗が頬を伝い、顎先からフローリングに垂れ落ちた。先程から、部屋の気温が徐々に下がっている気がする。気のせいだろうか。
「村ではね、年の初めに身籠った女性の元に、贄喰様がやってくるの。本当よ? ここで言う”贄”は、当然、赤ちゃんのことね」
お腹をさすり、晴れやかた表情で狂気的な風俗を語る妻を、俺は直視できなかった。つい先刻から鳴り始めた、何かを引っ掻くような奇怪な音のせいで。カリカリと、天井の辺りから聞こえてくるその音は、ネズミの類とはとても思えない悍ましさを孕んでいた。
「昔は反発する人も沢山いたらしいんだけどね、どれも悲惨な結末に終わったんだって。でもね、無抵抗を貫けば、胎内が空っぽになるだけ。母体は決して死なないの。不思議よね」
引っ搔くような音が、少し小さくなる。平静さを保てなくて、視界がぐらつくような錯覚に陥る。
「なぁ、なんなんだよ、さっきから。全然意味がわからないって。これまで一度もそんな話聞いたことなかったしさぁ。それに、少し落ち着き過ぎじゃないか? 俺たちの初めての子なんだぞ? そんなわけのわからない化物に奪われるなんて嫌じゃないのか?」
「嫌に決まってるでしょ!!」
叶の絶叫がリビングに響き渡り、ビクリと肩が跳ねる。瞬間、引っ掻くような音が大きくなった。叶にもこれが聞こえているハズなのに、一切の反応を示さない。
それが、たまらなく怖かった。
「けどね、ダメなの」
打って変わって、落ち着き払った声で叶が言う。
「……さっきは沢山って言ったけど、実は、被害者の正確な人数も記録されているの。一縷の望みに賭けて、対策と結果を纏めた偉い健気な人がいたみたい。……158人、だそうよ」
諦観の笑みを浮かべた彼女は、訥々と絶望的な事実を語った。ガリガリと天井を引っ搔く音は益々主張を激しくし、最早削る様な音を出している。
「なぁ何だよこの音!どうなってんだよ!」
たまらず妻の肩を掴んでしまう。身重の体にすることではないが、この時の俺に、彼女を気遣えるような冷静さは最早なかった。
「大丈夫大丈夫、贄喰様が来ただけだから」
そう言いながら笑う妻の顔は、泣いていた。
「逃げよう! 叶! 今すぐに!」
俺が強く引いた手を、叶はパシンと払って言った。
「今年のお米は、きっと豊作なんだろうなぁ……」
その直後目にしたモノに関しては、頭の隅々まで探しても、結局思い出せなかった。
ただ、妻は生きていて、リビングには血の一滴も無く、臍の緒だけが落ちていた。
そして後日、妻の実家から段ボールが届いた。中には一通の手紙と、食べきれない程のお米が入っていた。
「ありがとう」
涙の滲んだ跡のついた手紙には、その一言だけが書かれていた。
いいね、感想、評価をよろしくお願いします。
また、『定食屋を継ぎたかった勇者』という長編も投稿しています。よろしければご一読ください。
第一話URL:https://ncode.syosetu.com/n7408jd/1