⑥ 炎の中で
和夫は再び、小窓から顔を出した。
伸びたハシゴの先端部にある、四角いバスケットに、一人の消防士が乗っている。
和夫は叫んだ。
「この子を、お願いします!」
そう言って和夫は、奈緒を持ち上げた。
便座の後ろにあるタンクへ、奈緒の両足を乗せる。
次に、お尻を押して、小窓から奈緒を外へ出そうとした。
小窓から頭を出した奈緒は、心配そうな顔で振り向いた。
「お父さんは?」
和夫は、とっさに笑顔を作った。
「奈緒が出た後に、お父さんも行くから」
その時、消防士が小窓へと辿り着いた。
「ほら、君、もっと手を伸ばして!」
奈緒は言われるがまま、両手を伸ばし、消防士の腕を掴んだ。
消防士は、奈緒の両脇を抱えると、ひょいと持ち上げた。
そして奈緒は、消防士のいるバスケットへと降り立った。
——あれ?
奈緒は小窓を見て、おかしな事に気付いた。
この窓の大きさでは、父親が出られない。
「お父さーん! どうやって出るのー?」
その時、一段と強い風が吹いた。
火の勢いが増す中、和夫が消防士に叫んだ。
「消防士さん! 早く、行って下さい!」
和夫の言葉を聞いた瞬間、奈緒の心臓は止まりそうになった。
「……お父……さん?」
消防士は、苦渋に満ちた顔をした。
和夫に、かける言葉がなかったのだ。
完全に火に包まれたこの状況で、もはや彼を救う術はない。
沢山の消防士が消火活動をしているが、消し止めるには、まだ時間がかかるだろう。
消防士は、申し訳なさを噛み締める様に、唇を強く結んで目を伏せた。
その時、和夫は目を赤くさせながら、優しく奈緒を見つめた。
「奈緒……お父さんの分も、生きろよ。幸せになれよ」
奈緒の大きな目から、涙が溢れた。
「嫌だよぅ! お父さんも一緒に、逃げようよ!」
「奈緒、無理なんだよ。この窓じゃあ、お父さん、身体が大きくて出れないんだよ!」
「嘘つき! 一緒に出るって言った! あーん、お父さーん!」
奈緒は手すりに、よじ登ろうとした。
「お父さんが残るなら、私も残る!」
「何、馬鹿な事を言ってるんだ!」
奈緒が、手すりの上に足を置くと、トイレの小窓に戻ろうとした。
慌てて、消防士が奈緒を捕まえる。
しかし、奈緒は消防士の腕の中で、狂ったように暴れた。
消防士の顔も掻きむしった。
「いたたっ!」
消防士が怯んだ隙に、再び手すりによじ登る奈緒。
なんと、小窓へと飛び移ってしまった。
奈緒は、小窓から上半身を入れて、中へ戻ろうとした。
「こ、こら、奈緒!」
慌てた和夫が、それを制した。
「嫌だぁ! 嫌だぁ! お父さんと一緒にいるぅぅぅぅ!」
和夫は奈緒が落下しないよう両腕を掴んだ。
それと同時に、中に入ろうとするのも阻止した。
燃え盛る炎の中、小窓を挟み、父娘は抱きしめ合う格好で、お互いの腕を掴んでいる。
和夫は、汗と涙を流しながら、奈緒を見つめた。
その顔色は、良くない。
疲労困憊だった。
背中に、熱も感じた。
背後にあるドアまで、火が迫ってきているのだ。
和夫は、震える唇を舐めた。
「もう駄目なんだよ……奈緒。このままだと、二人とも死んじゃうぞ……」
「……お父さんさんがいないなら、生きてても、しょうがないよぅ! 私も一緒に死ぬぅ!」
「馬鹿な事を言うなよ……奈緒……」
和夫が祈る様に、目を閉じた。
その時、消防士の両手が、奈緒を後ろから掴んだ。
ハシゴが、小窓へと戻ってきたのだ。
それに気付いた和夫が、消防士に叫んだ。
「消防士さん、奈緒を……この子を! 早く!」
「嫌だぁぁぁ!」と、泣き叫ぶ奈緒。
消防士は、力のある三十代の男性だったが、どれだけ奈緒を強く引っ張っても、離れなかった。
まるで、くっついたように動かないのだ。
消防士は驚いた。
こんな小さな身体の、どこにそんな力があるのだろうかと。
消防士は、より一層力を込めた。
とうとう奈緒は、引き剥がされてしまった。
さすがに、大人の力には勝てなかったのだ。
「嫌だぁぁぁ! 離してぇ!」
奈緒は、消防士の腕に噛み付いた。
しかし、消防士が着る防火服は、素材が厚手のため、痛みを与える事は出来なかった。
ハシゴが、家から離れていく。
奈緒は遠くなっていく父親に、届かない手を伸ばした。
「お父さーん、お父ざーん、お父ざぁーん……! お父ざぁぁぁぁぁぁぁぁん……! ああああああああああああああああああ!」
消防士に、ガッチリと胴体を掴まれ、泣き叫ぶ奈緒。
和夫は、無理に微笑んで、口を動かした。
その瞬間、フッと雑音が消えた。
奈緒は、時間が止まったような気がした。
「奈緒が……道に……ずっと……からな」
父親の、最後の言葉。
しかし奈緒には、聞き取れなかった。
いや、聞こえてはいた。
だが心が拒絶してしまったのだ。
——言わないで……。
言わないでよ……。
お父さん……。
お別れの言葉なんて……言わないで……。
もう耐えられない。
奈緒の意識が、もうろうとする。
底無しの闇に堕ちていくようだ。
やがて奈緒は、涎を垂らしながら、消防士の腕の中で気絶してしまった。
白石家は全焼した。
火が消し止められたのは、消防車が到着して、約三時間後だった。
和夫の遺体は、一階のリビングで見つかった。
彼は燃え盛る炎の中、一階へと降りたのだ。
それはなぜか。
リビングに飾っていた額を、手にするためだった。
死を覚悟した彼は、奈緒が描いた家族の絵を、最後に抱きしめていたかったのだ。
つづく