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奈緒  作者: 岡本圭地
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⑤ 遠い日の記憶



 さらに時間が経過した。


 夜、八時過ぎ。


 相変わらず、救助が来る気配はない。



「寝てますか?」と、暗闇の中で真一の声がした。


「……寝てない」


 奈緒が答えると、懐中電灯がパッと付いた。



 眩しそうに、目を細める奈緒。


「何?」


 真一は、申し訳なさそうな顔をしている。



「ちょっと、言いにくいんですけど……」


 モジモジする真一。


「だから、何?」


「……おしっこ」



 途端に、奈緒の表情が凍りついた。


「……嘘でしょ?」


「あの……隅っこの方で……」


 奈緒に背を向けて、何やらモソモソしだした。



「ちょ、ちょっと、やめてっ! 我慢してっ!」


「む、無理ですよ!」



 真一は部屋の隅に転がる透明のコップを、素早く拾った。


「じゃ、じゃあ、このコップの中に……」



「マジかよ、コイツ……!」


 奈緒は引きつった顔で、後退りした。




 しかし、その辺にされるくらいなら、コップの方が方がマシかもしれない。


 そう思った奈緒は、我慢する事にした。



「じゃあ、絶対に溢さないで! あと、袋とかで包んで、私の見えない所に置いてよ!」


「は、はひぃ……」


 膀胱、破裂寸前まで追い込まれた真一は、情けない声を出した。



 奈緒は背を向けて、両耳を塞いだ。


 排尿音を、聴きたくなかったからだ。




 しばらくして、奈緒が片目だけ開けて真一を見た。


「……終わった?」


 真一は「はい、バッチリです!」と、清々しい顔で、コップを持ち上げた。


「だから、見せんなって!」


「あっ、すみません」


 真一が、急いでコップをビニール袋で包み、物陰に隠した。



「あの……もう……そろそろ寝ますか?」


 真一の声は、尻すぼみに小さくなっていく。


 奈緒が、嫌悪感に満ちた目で睨んでいるからだ。



「か……懐中電灯、消します……よ?」


 真一は、その目に怯えながら、懐中電灯をそっと消した。


 辺りが暗闇に包まれると、疲弊した二人は、静かに眠りに落ちていくのだった。






 ◇ ◇ ◇






 奈緒は夢を見た。


 遠い日の記憶だ——




「お父さーん、ただいまー!」


 学校から家に帰った奈緒が、快活な声を上げた。



「奈緒か、おかえり」


 優しそうな、男性の声が出迎えた。


 父親の、白石和夫だ。



 コトン、コトンと杖をつき、廊下の向こうからやってくる。


 彼は右脚に障害があり、歩行の補助として、杖を使用していた。



「お父さん、夜ご飯、なーにー?」


「今日は奈緒の大好きな、オムライスだぞ」


「わーい、やったぁ! ねぇねぇ、ケチャップは私がかけるからね!」


「ははは、またケチャップで、絵を描くつもりだろ?」




 その後、二人はリビングのソファに腰掛けた。


 ランドセルを側に置いた奈緒が「あれっ?」と声を出した。


 和夫の後方に、目を奪われる奈緒。


 今朝まではなかった額が、壁に掛けられていたのだ。



 額の中には、奈緒が描いた絵が入っている。


 その絵は、三人の人物が描かれていた。


 奈緒と父親、そして頭の上に輪っかのある母親だ。



 奈緒を真ん中にして、三人が手を繋いで、笑っている。


 学校の授業で『家族』をテーマに、奈緒が描いたものだ。




 和夫は誇らしげに、絵を眺めた。


「奈緒の絵を飾ろうと思って、今朝、額縁を買ってきたんだよ。それにしても、奈緒は絵が上手だな。とても小学三年生の絵とは思えないよ」


「うん、先生も絵も才能があるって、褒めてくれたよ」


「ははは、良かったな。奈緒は将来、画家になれるかもな」





 奈緒は、父子家庭だった。


 奈緒が小さかった頃、母が亡くなったのだ。



 それは交通事故だった。


 奈緒達、三人が乗る車に、居眠り運転の大型トラックがぶつかってきたのだ。


 助手席の母は亡くなり、運転席にいた和夫も大怪我をした。


 その時、後部座席のチャイルドシートにいた奈緒は、幸運にも軽傷で済んだ。



 事故後、右足が麻痺した和夫は、杖をつくようになった。


 だが仕事自体に、支障はなかった。


 彼は、そこそこ売れている小説家だった。



 主に仕事は、自宅の書斎で行っている。


 これは、足の不自由な和夫にとって、不幸中の幸いと言えよう。



 そんな彼の執筆活動は、いつも締め切りに追われる日々で大変だった。


 それでも和夫は、奈緒と過ごす時間を何よりも大切にした。


 母親のいない淋しさを埋めるべく、たっぷりと愛情を注ぐよう、心がけたのだ。



 そんな仲睦まじい父娘に、突然の悲劇が訪れる。


 昭和から平成へと元号が変わった、1989年、一月の事だった。





 深夜、二階の自室で眠っていた奈緒は、ある異変に気付き目を覚ました。


 目をこすりながら見たカーテンが、妙に明るい。


 ほのかに、焦げ臭い匂いもした。



「奈緒ぉぉぉ!」


 突然、父親の大きな声がした。


 驚いた奈緒がベッドから飛び起きた。


 すぐに部屋のドアを開ける。



 その瞬間、奈緒は咳き込んだ。


 モクモクと、煙が立ち込めていたのだ。


 奈緒は、パジャマの袖で口元を押さえながら、灯りの点いた階段へと向かった。


 その灯りも、煙のせいで薄暗い。



 得体の知れない恐怖に怯えながら、奈緒は階段の下を覗いた。


 杖を脇に抱えた和夫が、手すりを使いながら、必死に登ってくる。



「お父さん、どうしたの?」


 不安そうに、奈緒が声をかけた。


「奈緒! 火事だ、火事!」


「えっ!」


「もう一階は駄目だ! 二階の窓から、外へ逃げるんだ!」



 和夫は、奈緒の部屋に入った。


 その瞬間、ガシャーン! と窓ガラスが割れた。


 火の熱に、窓ガラスが耐えられなくなったのだ。



 途端に、火はカーテンへと燃え移った。


「うわっ、だめだ!」



 和夫は、他の部屋も確認したが、火の勢いは激しく、中に入れなかった。


 切羽詰まった状況に、戸惑う和夫。


 唯一、南側に位置する個室のトイレだけが、燃えていなかった。



「こっちだ! 奈緒!」


 和夫が、奈緒の小さな手を引っ張った。


 個室に入ると、ドアを閉める。



 和夫は、便座の上に位置する小窓から、外を覗いた。


 遠くから、消防車のサイレンが聴こえた。


 続いて、激しく回転する赤色灯も見えた。


 やがて家の前に、何台もの消防車が到着する。



 和夫は、小窓のガラス戸を外すと、そこから外に顔を出した。


「消防士の方! こっち、こっち!」


 車から降り、消火活動をしようとした消防士が、二階から叫ぶ和夫に気付いた。


 和夫を指差し、周りの消防士に話しかけている。



 和夫は、再び叫んだ。


「女の子がいるんです! この子を、お願いします!」



 消防士の一人が、和夫に声をかけた。


「そこで待っていて下さーい! すぐに行きます! 煙は吸わない様に!」


 するとハシゴ車が動き出した。


 この小窓へと、ハシゴを伸ばすのだろう。



 和夫は「よかった……」と小声を漏らし、手の甲で汗を拭った。


 そして和夫は、奈緒の両肩に手を置いた。


 慰めるように、優しく言い聞かせる。



「奈緒、今から消防士さんがハシゴで、ここに来るからな。この窓から出るんだよ。いいね?」


「う……うん」


 奈緒は、憂いを含んだ瞳で、父親を見上げた。






つづく……

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