④ 空腹
四時間が過ぎた。
部屋の入り口付近で、体育座りをしている真一が奈緒を一瞥した。
奈緒は部屋の奥で、背を向けたまま寝転がっている。
真一は、視線を時計へと移した。
まもなく正午。
「……お腹、空きましたねぇ」
真一は、続けて言った。
「朝、何か食べました? 僕はバナナと、バナナチップスと、あとバナナジュース……」
「……猿かよ」
奈緒がボソリと呟く。
「でも、バナナには栄養が……」
「黙って」
奈緒の不機嫌な声に、真一の言葉は遮られた。
言いかけた言葉を飲み込んだ真一は、代わりにフゥと吐息を吐いた。
その数秒後、真一が叫んだ。
「ああぁーーっ!」
「うるさいって! 急に大声出さないでよっ!」
「そうだ! 食べる物あります!」
「えっ……本当?」
真一が、一心不乱にゴミ箱を漁り始める。
「これこれ!」
そして取り出した物。
それはバナナの皮だった。
「は?」
奈緒が眉根を寄せた。
「さっき、バナナの話をしたでしょう? それで思い出したんですよ。そういえば、皮をゴミ箱に捨てたなって」
「……マジかよ、コイツ」
奈緒は、呆気に取られた。
そんな奈緒に、バナナの皮を差し出す真一。
「半分、食べます?」
「食べるわけないでしょ」
「えっ、でも、貴重な食糧ですよ」
「いらないって!」
奈緒は、ハエを払うように手を振った。
「そうですか? じゃあ僕、食べますね」
真一はバナナの皮を、ハグハグと食べ出した。
奈緒はその一部始終を、夜道にある嘔吐物を見るような目で見た。
「なんかもう……猿以下だね、あんた」
「しょうがないですよ。緊急事態ですから。でも思ったほど不味くないですよ。ちょっと苦いですけど」
ウンザリした奈緒は、元いた場所へと戻った。
さらに、三時間が経過した。
何もする事のない二人は、畳の上に寝転がるだけだった。
真一の提案で、懐中電灯は消してある。
電池の消費を防ぐためだ。
パチリ。
その懐中電灯を、真一が点けた。
「あの……」
真一が半身を起こし、奈緒に問いかけた。
「寝てるんですか?」
「寝てない」
真一に背を向け横になる奈緒が、面倒くさそうに答える。
「そろそろ、お名前、教えて頂けませんか?」
真一を無視するように、奈緒は欠伸をする。
「お互いの名前くらい知らないと、コミニュケーションが取りづらいじゃないですか」
「別に、私はあんたとコミニュケーション取りたくないんだけど」
「でも……」
「しつこい!」
奈緒が怒鳴った。
真一は仕方なく、沈黙する。
しばらくして、奈緒は観念したように、半身を起こした。
名乗らなければ、きっとまた真一が訊いてくると思ったからだ。
「……奈緒。白石奈緒。十九歳。これでいいですかー?」
奈緒が投げやりに言う。
真一は満足したように、微笑んだ。
「奈緒さんですか、良い名前ですね」
「はい、どーも」
奈緒は無表情で答えると、テッシュで顔の汗を拭った。
「それにしても、本当に蒸し暑いですよね。僕も汗っかきなんで、シャツが身体に貼り付いて……」
真一は言いかけて、言葉を詰まらせた。
奈緒の濃いメイクがとれて、素顔が露わになったからだ。
キリッとした、芯の強そうな瞳。
形の良い鼻筋、魅力的な唇。
日本人ばなれした顔立ちは、ハーフのようだ。
真一は呼吸を忘れ、見惚れた。
こんな美人を見た事がない。
犯罪者のような目で近づく真一に、奈緒は警戒した。
「えっ、ちょっ、何?」
「奈緒さんて、もしかして芸能人の方ですか? モデルとかやってます?」
「はあ? やってないけど。てか顔が近いって、キモい!」
「ああっ、すみません!」
真一は身を引いた。
しかし、それにしても美人だ。
なぜ、ガングロメイクをするのだろう?
せっかくの美しい顔が、勿体無い。
真一は、そんな事を考えながら、首を傾げた。
真一が元いた場所に戻ると、奈緒から話しかけてきた。
「……親、いなくて良かったね」
「えっ?」
「あんたの親、旅行に行ってるんでしょ? 山崩れに巻き込まれなくて、良かったねって言ってんの」
「確かに……」
真一は、神妙な面持ちで頷いた。
奈緒は、話を続けた。
「私達は、土に埋まっちゃったけどね。この事を知ったらビックリするだろうね、あんたの親」
「そうですね……」
真一は相槌を打ちながら、奈緒を見た。
「奈緒さんのお父さんとお母さんも、奈緒さんがこんな状況にいる事を知ったら、さぞ心配するでしょうね」
その時、奈緒の表情が固まった。
顔を伏せ、一点を見つめた。
明らかに表情が曇っている。
「あれ、奈緒さん? どうかしました?」
「ん……別に……」
◇ ◇ ◇
例えるなら、光も音も届かない、深い洞窟。
地上から切り離された、別世界。
そんな場所に、二人の男女が閉じ込められて、もうどれくらい経つだろうか。
真一が、消していた懐中電灯を点ける。
無機質に、無感情に、一秒ずつを刻む時計。
それを手に取り、確認する真一。
時刻は夕方、五時過ぎだった。
おもむろに、真一が立ち上がる。
横になっていた奈緒が、チラリと見上げた。
真一は壁に耳を当て、外の様子を伺った。
微かな物音も聴き逃さないよう、目を閉じ耳に集中した。
だが、何も聴こえない。
あんなにうるさかった、蝉の鳴き声さえしない。
それほど深く、土砂に埋もれてしまったのだろうか。
真一は顎を触りながら、考えを巡らせた。
「……んん?」
ある不安が、沸き起こる。
「もしかしたら……でも、どうだろう……?」と、くぐもった声で独り言を呟いた。
横になっていた奈緒が、半身を起こす。
「なに一人で、ブツブツ言ってんの?」
「あ、いや、もしかしたら僕達、酸欠で死んじゃうのかもと思って……」
奈緒が、大きく目を見開いた。
「えっ、何で?」
「土砂に埋もれて、密閉されているからですよ。この部屋の広さだと、もって一日……? でも天井に隙間がありますから、屋根裏の酸素も合わせると、二日……?」
「うそ、マジで?」
奈緒は不安そうに、壁や天井を見る。
「もし息苦しくなってきたら、その可能性は高いですねぇ」
「なにそれ! 私達、超ピンチじゃん!」
「はい。なので、早く救助が来てくれると有難い……」
言い終える前に、真一のお腹が、グゥと鳴った。
「はあ……でも今は、空気よりも、食べ物が欲しいです」
真一は、バナナの皮を全部、食べてしまった事に後悔した。
貴重な食糧。
少しずつ、大事に食べれば良かった。
そんな真一とは対照的に、奈緒の方には、そこまで空腹感は無かった。
もともと少食な上、コーンポタージュの缶には粒が入っている。
僅かだが、食事が取れていたのだ。
真一は何かないだろうかと、薄暗い部屋を、キョロキョロと見回した。
奈緒の側にあるティッシュ箱に、目が止まる。
ティッシュに、醤油をかけて食べようか。
いや、お腹が痛くなりそうだ。
真一が悩んでいると、不意にある映画を思い出した。
「そう言えば……こんな映画がありましたね」
奈緒は返事をしない。
だが真一の発言には、耳を傾けていた。
「実話を元にした映画なんですけど、雪山に飛行機が墜落して、生存者がずっと救助を待っている話です」
すると真一は、不気味な笑みを浮かべて、奈緒を見つめた。
「その人達、食べる物が何もないのに、どうやって生き残ったと思います?」
「知らないよ……鳥でも捕まえたんじゃないの?」
真一はニヤニヤしながら、かぶりを振った。
「飛行機が墜落した時、亡くなった人もいますよねぇ……」
だから何、と言いかけた奈緒が、ハッとして言葉を飲み込んだ。
「……え、まさか」
「そのまさかです。亡くなった人を……いたっ!」
奈緒が、テッシュ箱を真一に投げつけた。
「聴きたくない、気持ち悪い!」
「いやいや、この状況ですからね。ふと、その映画を思い出して……」
すると奈緒が、今一度、ハッとした。
「……え? ちょっと待って! あんた、まさか」
「はい?」と真一。
「まさか、私を殺して食べる気?」
「いやいや、そんな事するわけ……」
奈緒は落ちていたボールペンを拾い上げた。
握りしめると、先端を真一を向けて威嚇する。
「近づいたら刺すよ! 両目つぶすから!」
「いや、大丈夫ですって」
真一が一歩踏み出すと、奈緒は右手に持ったボールペンを振り回した。
「来んなって! サイコ野郎!」
「うわっ、危ない!」
怖くなった真一は、部屋の入り口付近へ撤退した。
しばらくの間、奈緒はボールペンを強く握りしめ、真一を睨み続けた。
つづく……