③ 喉の渇き
「……あれっ?」
突然、奈緒が立ち上がった。
「ケータイが、ないんだけど!」
奈緒は周囲を見回した。
「ちょっと、それ貸して!」
真一から懐中電灯を借りた奈緒は、辺りを照らし始めた。
「バッグも、ないじゃん!」
「あぁ……廊下に落としたんでしょう。もう埋もれちゃいましたね……」
「はあっ? 埋もれちゃいましたね、じゃねーよ! あんたが急に引っ張るからでしょ! 弁償してよ!」
奈緒の厳しい口調に、真一が怖気付く。
「いや……そんな事を言われても……」
「もうっ! マジ最悪なんだけど……。てかさ、あんたのケータイは?」
「僕のも、埋もれちゃいました。玄関の靴箱の上で充電してたんで……」
「なにそれ。ったく、使えねー……」
しばらく気まずい沈黙が続いた後、奈緒が真一に懐中電灯を返した。
受け取った真一は、それを勉強机の上に置いた。
部屋の中央を照らす形になり、壁には二人の大きな影が映し出される。
「そう言えば、まだ自己紹介してないですよね? 僕、荻野と言います。荻野真一です」
「あっそ」
奈緒は、投げやりに言い放つと、座卓の上に腰を下ろした。
細く長い足を組むと、だるそうに首を斜めにする。
「あ、あの……お名前は?」
「知らね」
顔を背ける奈緒。
その視線の先に、ビデオテープがズラリと並ぶ棚があった。
背表紙は、全て洋画のタイトルだ。
映画に詳しくない奈緒でも、一度は聞いた事のあるタイトルばかりだった。
刑務所脱走の映画。
殺し屋の男と女の子が、主人公の映画。
手がハサミになっている男の映画。
豪華客船が沈没する映画、など。
「……映画、好きなんだ」
奈緒が、呟くように言う。
「ええ、洋画は大好きですよ」
「ふぅん。こんなに買ったんだね」
「まあ中古で買った物もありますけど」
しばらくして「そうだ!」と真一。
「もし、ここから出れたら、一緒に映画でも行きません?」
「はあ? なんで私が、あんたと行かなきゃいけないのよ。ナンパしてんの?」
「あ、いえ、なんて言うか、これも何かの縁ですし……」
「一人で行けば? つーかさー、まずここから出る方法を考えてよ」
真一は「まあ確かに、ここから出ないと……ですよねぇ。うーん、うーん」と言って、右手で顎を触り、考えるポーズをとった。
まるで他人事の様な言い方に、奈緒は呆れた。
「あんたさー、いつもそんな感じなの? 自分の家が土に埋まったんだよ! そんで私達、閉じ込められたの! このままだと死ぬんだよ!」
「ええ、ですから今、考えてるんですよ。でも大人しく救助を待つ以外は、ないんじゃないですかねぇ?」
「なんかさー、あんた、冷静というより呑気だよね。普段、焦ったりしりしないの?」
「ははは、それ生徒にも、よく言われますね」
「生徒?」
「僕、隣町の小学校で教員をしてるんですよ」
「あんた、先生なの?」
奈緒は驚き、眉を吊り上げた。
「はい、今年の春からなんで、まだまだ新米教師ですけど」
「マジで? うわぁ……頼りなさそうな、センセー」
その時、奈緒の額から、また一筋の汗が流れた。
「ねえ、エアコンないの?」
「扇風機ならありますけど……」と言いながら、パチパチとスイッチを入れる真一。
「ご覧の通り、電気が来てないので……」
奈緒は肩をすくめると、落ちていた映画のパンフレットを拾った。
それで自分の顔を扇ぎながら「じゃあさ、タオルくらいないの?」と訊く。
「ティッシュならありますよ」
真一は、側にあったティッシュ箱を、奈緒に差し出した。
「……ったく、マジ使えねー」
奈緒は悪態をつきながら、仕方なくティッシュで汗を拭った。
その時だった。
——ブウッ。
不愉快な音がした。
真一が、豪快なオナラをしたのだ。
「え、嘘でしょ?」
奈緒が愕然とした表情で、座卓から立ち上がった。
「あ、あはは……な、なんか出ちゃいました」
「ふっざんけんなよ! こんな狭い部屋で!」
奈緒は、座布団を両手で持ち上げ、バタバタと扇ぎ始めた。
「あはは……」
「笑ってんじゃねえよ、屁こき虫!」
「ぐわっ!」
奈緒は座布団を、真一の顔面へと叩きつけた。
「……次やったら、マジ殺すからね」
奈緒の殺意に満ちた低い声に、真一は萎縮するのだった。
◇ ◇ ◇
懐中電灯の灯りしかない、仄暗い部屋。
密閉された熱気、畳の匂い。
そして無言の二人。
まず沈黙を破ったのは、真一だ。
「今、何時かな……」
真一は呟いて、畳の上をミシミシと歩いた。
床に転がる置き時計を、拾い上げる。
時刻は午前、八時半。
この状況になって、一時間以上が過ぎた事になる。
真一の背中に、奈緒の声が飛んできた。
「ねぇ、喉乾いたんだけど」
「え、あぁ、飲み物ですか?」
真一はキョロキョロと、部屋の中を見回した。
醤油のボトルがあった。
昨夜、ここで冷奴を食べた時に使用した物だ。
醤油は、五百ミリリットルのペットボトル容器に、半分ほどが残っている。
「醤油ならありますけど……」
途端に、奈緒が顔をしかめた。
「はあ? ふざけてんの?」
「でも、他に無いですよ」
真一は再度、部屋を確認した。
「あっ、そう言えば……」
何かを思い出した真一は、押し入れを開けた。
押し入れは、上下二段になっている。
上段には布団、下段には掃除機や映画雑誌、小物類などがある。
真一は、下段に身体を突っ込むと、ガサゴソと何かを探し始めた。
そして、一本の缶ジュースを取り出した。
コーンポタージュだった。
「これ、どうぞ」
「え? なんで、夏にコンポタ?」
「でも、これしかないですよ」
「……じゃあ、それでいいよ」
仕方がないと、缶を受け取る奈緒。
「それ、冬に一ケース買ってたんですよ。確か一本だけ残ってたような気がして……」
知らねーよ、と心の中で呟いた奈緒が、缶のプルタブを開けようとした。
しかし、奈緒の長い爪では、なかなか開けられない。
「開けましょうか?」と、真一が気遣った。
奈緒は掌を向け、真一を寄せ付けない。
「いいって、来ないで。醤油でも飲んでなよ」
「そうですか、分かりました」
真一は、先ほどの醤油ボトルの蓋を開けた。
そして、勢いよくガブリ、ゴブリと喉に流し込む。
「うっぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
その直後、真一は断末魔の叫び声を上げた。
畳の上を転がり、何度も咳き込んだ。
「ガハッ、ゲホッ、ゴホッ!」
奈緒が吹き出した。
「アハハハッ。あんた馬鹿だねー。醤油なんか飲めるわけないでしょ? 本当に先生なの?」
真一は、少し辛いくらいだろうと予想していたが、とんでもなかった。
まるで猛毒だ。
とんでもないほど、辛くて苦い。
結局、真一は、ほとんどを吐き出してしまった。
「きったなー」
奈緒は、汚物を見るような目で真一を見た。
「水で薄めないと飲めませんよ、こんなの。水、持ってませんか?」
「水があったら、コンポタなんか貰わないって!」
「コ、コンポタ……」
そう呟いた真一が、奈緒の持つコーンポタージュの缶を見つめた。
真一からの熱視線に気付いた奈緒が、缶を背中に隠す。
「これは、返さないからねっ!」
「う、ううぅ……」
真一は、残念そうに唸った。
「はあぁぁ」
とうとう真一が、大きな溜息をついた。
「くっさ! ちょっとぉ、醤油くさいんだけど! こっち向いて息しないでよ!」
鼻と口を押さえた奈緒は、生ゴミを見るような目で真一を見た。
「え? ああっ、すみません。別にわざとじゃなく……」
「喋んなって! 向こう行って!」
奈緒が片足を上げて、蹴り飛ばす様な動作をした。
つづく……