思い切りギターを弾く女
春とは思えない暑さにへこたれかけていた。
住宅街のコンクリートが太陽を反射して、逃げ場のない熱気が私を取り囲む。
溶けて塀の上で滴りそうになっている猫がうざったそうに私をチラリと見た。
ノルマは今日あと3件。
つまり1件もこなせていないのだ。
訪問した家に上がらせてもらい、話を聞いてもらうことが出来れば仕事をしたことになるのだが、気が進まない。
訪問営業の仕事なんかやめておけばよかった。お人好しの自分にはとても向いていない。
支店長は『口の上手な営業よりも、君みたいな素朴なキャラの女性のほうがお客さんも信頼するんだ』なんて言うけれど、その先の才能が私にはない。
素朴なキャラを駆使して、見ず知らずの人の家に上がり込み、言葉巧みに会社の商品を売り込み、ほぼ騙すようなやり方で購入まで漕ぎつける才能が。
自社の製品よりもよっぽど安くていいものなんていくらでもある。そのことを知っているだけに自分の勤めている会社が詐欺師集団に思えてならない。健全な社会に申し訳ない。自分の存在を消したくなってくる。
築20年は経っていそうな一軒家を見つけると、私はドアのチャイムを押した。
家の中にチャイムの音が谺するのが聞こえ、パタパタとスリッパの音を鳴らしながら「はーい」と熟年女性の声が近づいてくる。
「はい?」
ドアが開き、陽気な感じのおばさんが私の顔を見て、首を傾げた。
「どなた?」
「あっ……、あの……」
何回訪問を重ねても慣れない。内気な性格が言葉をどもらせる。
「その……。こちらのお宅、そろそろ外壁塗装をしたほうがよろしいかとお見受けしまして」
「あー、リフォーム屋さん?」
おばさんは笑い飛ばすように言った。
「くたびれてるように見えるかもしれないけどね、この家、腕のいい大工さんに建ててもらったものだから、あと10年は大丈夫なのよ〜」
「とりあえず現状のチェックだけでもされてみませんか? 無料でうちの職人が……その……」
するすると言葉が出てこない。
「む、無料でですね。外壁の状態を点検するだけなら、無料で出来ますから」
「お嬢ちゃん」
おばさんが気の毒そうな顔になり、言う。
「へんな会社で働いてないで、まともな仕事見つけなさいよ? どうせまともじゃない会社に入っちまって後悔してんだろ? そんな顔だよ、あんた」
私はお嬢ちゃんと呼ばれるほど若くない。
そう呼ばれて嬉しかったのもあったが、なんだかおばさんの言葉が胸に染みたのだった。それでこんなことを言い出した。
「……はい。正直うちの会社、そういうことをやっているようです」
おばさんが話を聞く人のモードに入ったので、私の口からは珍しくスラスラと言葉が飛び出した。
「訪問営業を使っているぶん、うちは割高ですし、何より仕事が雑でして……。雑というよりもう、悪徳の域に入ってます。どうせ無料で点検とか言っといて、自発的に壁にヒビを入れて、『ほら! こんなことになっています! 一刻も早く修繕が必要だ! とりあえずの処置はしておきましたんで、二万円いただきます』とか言い出すんですよ。で、強引に契約させといて、テキトーな仕事だけして逃げ出すんです。支店長がもう、詐欺師みたいな人で……」
呆気に取られた顔で聞いていたおばさんが、唾を吐くように表情を険しくし、急いでドアを閉めながら、言った。
「二度とくんな! アホ!」
正直すぎるのはいけないことなのだろうか。私はトボトボと住宅街を歩いた。
公園を見つけてベンチに座り、自動販売機で買ったスポーツドリンクを飲んだ。
いつまでこんなことを自分は続けるつもりなのだろうと思った。周囲では学校帰りの子供たちの無邪気な声が聞こえている。
同じぐらいの歳の頃、私の夢は何だっただろうか。もう忘れてしまった。
ふと、気になる音が聞こえはじめ、私は灯りに誘われる蛾のように、ふらふらとその方向へ向かって歩き出した。
大型トラックのウィングを片側だけ開けて、そこに三人のお兄さんがいた。
それぞれにドラム、ベース、ギターに向かい、サウンドチェックをしている。
その前には数人ほどだが観客も待っていた。
そこは住宅街を外れたところにある広い空き地で、どうやらこれからフリーライブをやるようだ。
それを見て、思い出した。
小学生の頃の将来の夢は忘れてしまったけれど、中学生からしばらくの間、私の夢はロックスターになることだった。
ある洋楽ロックバンドに衝撃を受けて、自分もあんな音楽をやってみたいと思った。
小さくてもいいからステージに上がって、一夜限りでいいから内気な自分を解き放ちたかった。
ギターを練習したが、速弾きなんて出来なかった。でも和音弾きならそこそこ身についた。
簡単な循環コードを弾きながらなら、歌うことも出来る。
でも、内気な性格が邪魔をして、バンドをやったことは一度もなかった。
「あれ?」と、ギターのお兄さんに言われた。
はっと気がつくと、私は大型トラックの鉄の荷台の上にハイヒールで立っていた。
「お姉さん、飛び入り希望?」
私より10歳は下だろうベースのお兄さんが、気さくに話しかけてくれた。
「ビジネススーツ姿にメガネでロックするとこ見たいな。入りなよ」
体は逃げ出したい動きをしながら、私の口は正反対のことを言った。
「ちょっと今の自分をぶっ壊してみたいの。ギター、弾かせてくれない?」
「いいよ。ちょうど二本ある」
ギターのお兄さんがそう言って、安そうなほうの、バッカスのテレキャスターを差し出してくれた。
「アホな会社に勤めてしまってムシャクシャしてるんだろ? ブッ放しなよ」
キラキラした青いメタリックのテレキャスターを装着すると、なんだか私の中から野性のようなものが湧き上がった。
観客はメンバーの知り合いらしき数人の他には通りすがりの人がチラホラいるだけだったけど、トラックの荷台の上はまるでステージで、気分を異常なまでにハイにさせてくれる。
アンプの電源が入り、私が弦に触れるとノイズが鳴って、ちょっとビクッとした。
指板を押さえ、ピックを振り下ろせば私は大音量のギターサウンドを世界に放つことが出来るだろう。
しかし私は遠慮がちに、少しの力で崩れてしまう砂のお城にでも触れる感覚で、弦を弱く弾いた。ささやくようなギターの音がゴニョゴニョと口ごもる。
「ロックじゃねーな、お姉さん」
ベースの彼が小馬鹿にするように笑った。
「もっとブッ放せよ」
その笑いが私に火を点けた。
思い切りAコードを掻き鳴らしてやった。
金属弦の鋭い和音が、トラックの荷台から世界へ向けて、発射された。
「いいね、いいね。いい音だ」
少し太っちょなドラムのお兄さんが、機嫌よさそうに声をあげた。
「セッションしようよ。リズムはどんな感じがいい?」
私は感動に震えていた。
声の小さい私が、なんて大きな音を出してしまったんだろう。
手も足も口元もビリビリと痺れながらも、私はもっとこの時を続けたくて仕方がなくなっていた。
ハイヒールの踵を鳴らし、腰を左右に揺らし、私は手を叩いた。BPM108ぐらいを意識して。
ドラムのお兄さんはそれを見ると、「あいよっ」と一声発し、ファンキーなロックのリズムを叩きはじめた。
見下ろす6本の弦が、私に踊らされるのを待っていた。
私はまず5弦と6弦を唸らせるように単音のリフを刻むと、思い切り、Aコードをブッ放した。
「おお! エアロスミスの『Walk this way』だ」
ギターのお兄さんがマイクに向かってそう言うと、即興でギターの音を合わせてきた。
「でも俺、歌えないよ?」
しなだれかかるようにしてお兄さんをどかせると、私はマイクに向かった。
マシンガンのような早口の英語で、マイクに大声をねじ込んだ。
ベースのお兄さんもノリノリになってアドリブで合わせてきた。
大型トラックの荷台が、あっという間に激しく燃え上がった。
曲を終えると、予期せず大きな拍手が湧き上がった。
「お姉さん、カッコいい!」
「ワイルドでよかったよー!」
「アンコール! アンコール!」
そんな言葉を女の子や男の子、おじさんからも飛ばしてもらい、私は笑った。
顔は真っ赤だったろうけど、夢だったロックスターになれた。
もう明日から職を失ってもいい気分になっていた。
どうにでもなれ。仕事なんかしなくても生きていける。
私に悪い仕事の手先をやらせる会社、ざまぁ!
私をアホの子呼ばわりした社会、ざまぁ!
メンバーもご機嫌で、女王様でも見るように私を讃えてくれる。
誰も「うまいね」とは言ってくれなかったが、ロックはスピリットでやるもんだ。
もう一曲、今度はギターボーカルの彼の選曲で、私の知らない日本のロックをやった。
私のギターはまるで騒音で、曲の邪魔をしているだけだったけど、思い切り弾いた。
明日なんて来なくてもいいつもりで、思い切り弾いた。