第六夜
或る時、私は徹夜続きの学生だった。確か、私はなにがしかの論文を書かなければならなくて、その締め切りが、もう明後日に迫っている。そんな状況だったはずだ。
私は十分も前から何の変化もないノートパソコンに、ため息をつき、脇によける。
ぼおっとしたまま、私は、手癖の通りに、お気に入りのオレンジ色のマグカッブにドリップコーヒーを淹れていく。といっても、別に粉から淹れるわけではなく、パックをカップにセットし、湯を注いで待つだけという、お手軽なものだ。ぽとりぽとりと、珈琲が滴るたびに、その香りが、狭いワンルームに染み付いていく気さえする。
目の前にかかった電波時計は深夜の1時を示している。今の私にとって、時間とは親の敵のようなものだが、それは必ずしも、時計にまで当てはまるものではない。
特に、あの時計は神経質な自分の精神を鑑みて、秒針がうるさくないのを選んで買ったので、値段に比例する愛着があるのだ。
それもあって今この部屋の中で音を出すものは、目の前の珈琲と、私だけなのである。
しかし、ぽとり、ぽとりと、一定の拍を刻む珈琲を眺めていると、引きずられるように、どうしようもないほど眠くなってきてしまった。いっそ寝てしまおうか、という誘惑が頭をよぎる。
それでも、私も人並みには理性を持っているので、辛うじて踏みとどまり、首を左右に振って、眠気を振り払おうとした。けれど全くもって眠気は収まらない。むしろ頭が揺れたことで眠りに近づいた気さえする。
もうろうとする私の脳みそは、珈琲を飲むことだけがこの事態を収集する唯一の手段だと結論づけた。しかし、珈琲は落ち続ける。一粒、また一粒。いつまでたっても飲めるようにはならない。
「誰も寝てはならぬ」とは、誰が言った言葉だったろうか。眠りたい、その思いは誰によって妨げられているのだろうか。
珈琲を待つ間にそんなことを考えていると、私の思考はぐちゃぐちゃになる。
一秒前に考えていたことが、次の瞬間には泡と消える。部屋の隅に置いてあるみかんを取ってこよう。いや、あれは食べ尽くしたはずだ。いやいや、母が新しく置いていったものがあるだろう。ん?あれは断ったのだったか?
空想と、現実が、液体のように、あるいは、珈琲牛乳のように、入り雑じる。認知症とは、実はこういう状態なのではないだろうか。だとすれば、皮肉だ。1日の終わりも人生の終わりも、引き伸ばそうとすればするほど、本当の終わりとの境界が曖昧になるということなのだから。
目の前に、置いてある何かが、何なのかがわからない。みかんか?マグカップか?
そもそも珈琲を淹れたといったが、私は、やかんでお湯を沸かしただろうか?
そんな疑問を私は抱く。そして、その疑問を否定するように、珈琲は落ち続ける。
ふと、時計を見ると、秒針が止まっていた。「クロノスタシス」その言葉がよぎった瞬間に、やはりそれを否定するように、秒針が、あろうことか、反対側に、ぎぎぎ、と、動き出す。それは徐々になめらかになっていき、通常の何倍速かで動き続ける。
ぐるぐると、さかのぼる時間。落ち続ける珈琲。アパートのワンルームがぐにゃりと、歪み、捻れたまま、回転し。
そして、私の意識は、暗がりへと、転がった。