中編
ホラー本番
周りと代わり映えのない普通の一軒家。そんな家に帰宅した太一は、玄関の鍵を閉める。親に口酸っぱく言われた事だ。
そういえば、ここ数か月で猟奇殺人事件が多発しているとネットニュースで見た気がする。自分には関係ないと、すぐにページを変えたので、詳しいことなど知らない。
自室に入ってすぐに鞄を投げ捨て、ベッドに寝転ぶ。
まずはアプリだ。自分のスマホを掲げ、どのアプリからプレイするかをニヤニヤしながら選んだ。
何だろう。妙な不快感が身体を襲う。どことなく、肌寒い。
時間を確認すれば、夜の七時を超えていた。だが、夏の夜がこんなに寒い物だろうか。少なくとも、ここ最近は寝苦しい夜が続いたはずだ。
ゲームを続ける気が削がれ、ベッドから起き上がる。
直後、窓ガラスが強く叩かれた。
「っ!?」
驚き過ぎて声が出ない。すぐさま窓へ振り返り、目を見開いた。
黒い手が張り付いている。
灯りがない夜闇の中でも、はっきりと認識できてしまう。ここは二階で、ベランダもない。手など、着くはずがないのに。
指紋も手相も何もない手は、熟れた果実の様に押し付けた部位から黒い液体を滴らせて存在を主張する。
明らかに異質の物体。恐怖で固まる太一の目の前で、新たな手が窓ガラスを叩いてきた。反射的に身体がびくっと動く。
三回目、四回目、五回六回七回八回九回。
次々と増殖して窓ガラスを叩く黒い手。連続する大きな音に耳を塞ぐ太一。
あっという間に窓が黒い手で埋め尽くされた。やっと終わりかと、太一は安堵する。
その考えをあざ笑うように、黒い手がぐにゃりと形を変えていく。ぐちゃぐちゃと水音を立て、周りと同化し、窓ガラスに大きな人面を作り上げた。
それは青白い顔の太一と目を合わせ、大きな口ににちゃりと笑みを浮かべる。
「うわああああ!」
限界だった。太一はばねの様に飛び降りると、後ろを見向きもせずに部屋を出た。
足をもつれさせながらも走り、階段を落ちる様に駆け下りる。そこで、ようやく太一は足を止めて一息ついた。息が荒い。それは体力的な物ではなく、精神的な物からだ。
身体が震える。寒い。怖い。あれが何かは知らないが、太一の生きている世界に合ってはならないものだとは本能で察した。
二階にはもう、上がりたくない。階段を見上げる太一。その耳に、とてつもない轟音が届いた。
「っんだよ!?」
血の気が失せた顔で叫ぶ。音は、一階から聞こえてきた。その方向には、玄関がある。先程の件がある。確かめたくない。だが、再び響く轟音。
恐る恐る、玄関の方へと向かう。玄関は開けない。インターホンで確認ができるはずだ。そう考え、隣のリビングへと入る。
電気をつけ、インターホンの画面の前に立つ。心臓が張り裂けそうな程、強く動く。
息が上がる。指が震える。電源ボタンに触れるだけで、力が入らない。葛藤する太一をよそに、三度目の轟音が響いた。唇を引き締め、電源をつける。
「ヒィィッ!」
映される玄関の映像。それを見た瞬間、太一は腰を抜かして座り込んだ。
そこにいたのは、まさしく鬼。赤黒い肌に獰猛な顔つき。額から二本の角を生やした鬼が、金棒を手に陣取っている。
唸りながら金棒を振り上げ、扉に向けて振り下ろす。凄まじい音がするが、扉は破壊されずにいる。
ガチ、ガチという音がする。自分の歯が鳴らす音だった。今まで生きていた中で、想像だにしなかった恐怖。
黒い手といい、この鬼といい、何だというのだ。震える身体を抱きしめる太一は、ふと視線を感じた。
見なければいいのに、つい振り返ってしまう。そして、後悔した。
リビングの窓の外。制服を着た少女が立っている。普通の少女ではない。首が長く、顔がある位置にない。長い首がどこまで伸びているが分からないが、どこかで下り曲がっているようだ。
長い首の先、頭が逆さまでリビングを覗き込んでいる。目も口もぽっかりと開いており、その中はどこまでも闇だ。
「あ……ああ…………!」
もはや、悲鳴も出ない。身体も、動かない。得体の知れない化け物が、家の外にいる。あり得ない現実が、太一の精神を蝕んでいく。
股間の辺りが温かい。失禁したのだと、認識はできるがそれどころではない。
そういえば、弟の徹はよくお漏らしをして母に怒られていた。現実逃避の為か、ふと過去の記憶が蘇ってくる。
消した弟を今更思い出すとは。失笑する太一の視界に、白いものが映り込む。衝撃で、呼吸が止まりかけた。
家の中にもいる。ばっと顔を上げた太一の目に、あり得ない光景が映し出された。
「な、んで…………!」
消したはずの徹が、白く淡く輝いている。何もかもが白い徹は、明らかに化け物と同じ。しかし、太一に向ける笑顔は、今までと同じ物。
削除ができていなかったのか。その考えが浮かぶと同時に、少女の忠告が思い出される。
削除はきちんと、最後まですること。
もう片方のポケットに入れていた、あのスマホを取り出してアプリを確認する。いつも通りのカメラ画面。だが、太一は端に表示されたリストを見て驚愕した。このリスト、最初の唐木以降は見ていない。
慌ててそれを開けば、恐ろしい事が書かれていた。
今まで削除した対象の列。だが、それに百%となったゲージと変な文章が追加されている。
【変質が完了しました。】
変質。その言葉にハッとする。リビングの外にいる少女を観察する。長い黒髪と前髪に止めたピンに見覚えがある。クラスのアイドルだった少女がしていたものだ。
まさか。立ち上がってインターホン越しに鬼を観察する。よく見れば、目の上の傷がある。同じ物が唐木にもあった。
「まさか……まさか………………!」
削除した対象が、化け物となって外にいる。
あり得ない。あり得ないあり得ないあり得ない。だが、現実はそうとしか思えない状況だ。
髪を掻きむしり頭を振る。そんな太一を愉快そうに眺めている徹。それに気付き、太一は慌ててリストから徹を探す。
【変質完了まで九十九%。】
満タンになりかけているゲージと、あと数十秒と表示された残り時間。これが終わったら、家の中にいる徹も化け物だ。すぐに徹の欄をタップする。何も起こらない。
「消えろ、消えろ、消えろ!」
半狂乱になりながら、タップし続ける太一。もう時間がないのだ。早く、早く。そう願う太一の目の前で、アプリに新しいメッセージが表示される。
【変質が始まった対象は、完全削除できません。】
【変質が完了しました。】
「は、え……」
視界から入る情報が、理解できない。理解したくない。現実から逃れようとする太一の目の前に、白い徹が近づいてきた。
思わず顔を上げてしまう。目の前にいる徹だったものは、見た事がない程に綺麗で残虐な笑みで太一を覗き込んでいる。
声が出ない。何故か、足首がじんじんとする。茫然とする太一の前で、徹が楽しそうに両手を上げた。
掌に、口がある。鋭い歯に長い舌を持ったそれは、真っ赤な肉を貪り食っていた。
呼吸がし辛い。嘘だ、嘘だ。肉片の正体に予想がつくが、そうだと思いたくない。見てはいけない。その理性とは裏腹に、身体は正直に違和感のある足首へと視線を向けてしまった。
足首がない。抉れている。
赤い血がドクドクと流れる感触しかないが、白い骨のようなものが見えている。そして、認識してしまった傷は、忘れていた痛みを伝えてくる。
「ぐぎぃっ、がっ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
経験したことのない痛みが全身を走る。悲鳴を上げ、その場でのたうち回るしかできない。血だらけの傷口を押さえても、むき出しの神経に触れて言いようのない痛みが増える。
涙で視界が滲む中、徹が歩いていく後姿が見える。その先の玄関で、背伸びで鍵に手をかける。
「や゛、や゛め゛……」
懇願は届かない。かちゃんと軽い金属音を立てた扉は、ゆっくりと開いていった。