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短編大作選

通過電車

【1】


茶色いベンチには、セーラー服を来た女子高生がいる。手を空いっぱいに伸ばして、ベンチにもたれ掛かっていた。傍らには、単行本がひとつ。その単行本は、全体的に暗い色で構成された表紙をしていた。それは確かに、僕が書いた小説の表紙だった。


彼女は、ベンチに平行になるように、きちんと置いてある本を、何気なく持ち上げる。そして、それをアナウンスや線路が刻むリズムのなかで、読み始めた。時折、笑顔を見せる彼女に、駅のホームはパッと煌めきを放つ。


僕の小説を、パラパラとスムーズに読み進めていく彼女を見て、目が釘付けになった。他の作家が書いた作品なら、そうはならないだろう。しかし、当然ながら、自分の小説を開いて読む女子高生に、興味がスッと湧いてくる。僕は彼女を電車が迎えに来るまで、ずっとずっと見つめていると決めた。




【2】


彼女は、頭上にある電工掲示板を覗き込み、ベンチから立ち上がった。その手には、しっかりと僕の単行本が抱えられていた。そこに、電車が通過することを知らせるアナウンスが響き渡る。彼女は次に来る電車に乗るためか、黄色いデコボコとした地面の前まで歩を進める。そして、立ち止まり、再び本を開く。


彼女は漆黒の栞をページから抜き取り、前表紙の裏に忍ばせた。そして、単行本の紙、一枚一枚に視線を集中させる。遠くの方に、目映いくらいの光と、騒音を兼ね備えた電車が見えてきた。ホームに差し込む光に照らされて、美しく彼女の横顔が煌めく。風により、ひとつに束ねられた彼女の髪は、ゆらゆらと揺れ動いた。


僕の視線と彼女の間に、人影が入る。それは、怪しい男子高生らしき人物だった。僕に負けないほど、落ち着きが感じられない。気になりつつも、特に何もすることなく、電車と喧騒が通りすぎるのを、ただただ待った。再び、あの怪しい男子が視界に入る。それと同時に、彼女の姿はホームの下に消えていた。


あの男子が、彼女を突き落とした時の手の形状が、まだそこに残っている。それを眺めている間もなく、身体が彼女を追いかけていた。線路上には、足をさすりながら震える彼女の姿がある。向かってくる電車の光の中心を、彼女はずっと見続けていた。


僕はとっさに線路に降りる。女性に触ることに対して躊躇を見せるのも忘れ、彼女を抱えていた。スカートの心地いい感触が、掌に纏い付く。彼女の度を越えた震えが、掌から心臓を貫き、足の先まで届く。顔を歪めながら足を擦る彼女に、神経を集中させる。そして、奥へ奥へと気持ちごと移動させた。


膝から先や、腕全体がもげそうなくらい、必死で身体を動かした。脳にほとんど血が行かないほど踏ん張り、顔が熱くなっているのが自分でも分かる。彼女の身体を、落ちたレールと奥のレールの間に、ようやく着地させた。その直後、列車はブレーキ音と共に、勢いが十分に収まることなく、隣を通りすぎた。




【3】


彼女は呼吸を乱し、壊れそうなくらいの吐息を、休む間もなく漏らす。瞳から溢れた涙が頬を伝い、次々と落ちてゆく。それが地面にある小石たちに、じわっと滲む。彼女は涙を流すことを止めず、ずっと僕の身体に、柔らかさを纏わり付かせていた。


周囲のざわめきと、尻の下にあるゴツゴツとした砂利たちが、耳を突く。体勢を変える度に、ガラスがぶつかり合ったような乾いた音を響かせる。それが、僕の心を割ろうとする。夢みたいにフワフワとハッキリしない視界が逆に、僕を現実へと引き寄せた。


彼女の顔周辺に目線を向けると、太い眉が映った。真ん中分けの長い髪をしていて、鼻筋はスッと通っている。間近で見る10代女性の美しい顔に、自然と唾を呑む。必死で、もがいていた彼女の瞳が、僕の視線の前で止まる。今までに一度も目線を心に突き刺された経験がない僕の、身体は石と化した。


彼女は、背筋が伸びた口角と赤い目で、免疫のない僕を見つめる。耐えることが出来ず、視線を頼りになる小石に向けた。そして、小石の硬質感を、いつまでも眺めるしかなかった。


彼女の気配や、小石たちに被さる影で、顔と顔が近づいていることに気付かされる。その一秒後にはもう、唇に暖かいものが触れていた。こんなに接近しているのに、彼女の息遣いはだいぶ薄い。その代わりに、僕の鼓動と息遣いは次第に高まってゆく。止められないほどに、身体が熱を帯びる。これが僕のファーストキスだった。


躊躇なく小石を踏みつける大きな音が、急激に迫る。何もない空間へと、僕は身体の正面を向けた。駅員らしき男性が、小走りでこちらに近づいていた。しゃんと美しく着こなされた制服とは裏腹に、帽子は傾きを許す。気が付けば、駅員は立て膝を付き、すぐ隣にいた。慣れているような少し震えた声で、彼女に優しさを送り続ける。だが、彼女の耳には、近くにある僕の心臓の音しか、聞こえていないようだった。


駅員の声が存在しなければ、閑散とした空虚の空間。線路にポツンと三人、取り残されたようで空しかった。横で不意に止められた巨大な車体は、そっと呼吸を整えている途中。対岸のホームに目を移すと、そこの世界では、慌ただしさが溢れ続いていた。次々と声や足音などが現れてゆく。それらの音や、目まぐるしく突き刺す鋭い目線が、心臓を激しく殴打することを止めなかった。




【4】


彼女は僕に何の抵抗も表さず、話してくれた。彼女は他人の目が気になり、見映えを気にするタイプだという。自分の意志とは関係なしに、ただ他人に合わせてしまう。そして、他人の気持ちを考えすぎて、断ることが出来なくなってしまう。そんな女子高生みたいだ。


美しく他人の瞳に映ること。そればかり、彼女は考えている。だから、時には邪魔な存在が心に付き纏う。近寄ってきた女の子は、ほぼ無条件で受け入れる。身なりは、差し支えのない流行でまとめる。それ故に、好きでもないイケメンの告白も、躊躇いながら受け入れてしまったのだ。


それがこの事件の始まり。心は見映えの良さを欲している。しかし、それとは裏腹になかなか人との距離を縮められない。交際しているのに、上辺を撫でる程度の気持ちしか返せない。そんな彼女に、彼はイライラし、線路に突き落としたのだ。


ズラズラと本音を並べ、ぶつけてくれた彼女に、柔らかな感情が芽生えた。この喜びに似た感情が、恋であるかは分からない。僕は、狭い空間に閉じ籠るだけの人生を送ってきたのだから。彼女の一言一言に新鮮さを感じた。こんなに頼りにされることなんて、生まれて初めてだったから。




【5】


彼女は、全てを世間からの印象に注いでいる。対して僕は、全ての欲望を小説で済ませてしまう。周りに笑顔を振り撒く彼女と、周りに見えない暗い場所で潜む僕。端から見れば対照的だと感じるかもしれない。だが、僕も彼女も、人が苦手という点では同じだ。そういった共通項があるというだけで、彼女と繋がっているような感覚になれた。


恋愛も仕事も、理想を思うがままに執筆することで満たしている。小説内では、世間にも、人々の性格にも流されずに歩んでいくことが出来る。小説の上を離れると、もう何も出来ない。家族像も、一般人が日常と呼んでいる事柄も、ほとんど小説に書くことで疑似体験している。これを究極の逃げと呼ばないとしたら、何と呼べばいいのだろうか。


僕は顔や情報を全て隠して、作家の活動をしている。それほどの嫌悪感を抱き、世間に背を向けてきたのだ。僕がしてきたことは、正真正銘の逃げ。でも、彼女は僕と違う。人から逃げることをしていない。だから、僕より立派であることに偽りはない。


この性格に時々、虫酸が走る。現実世界に交わりきれていない僕に時々、真の孤独が押し寄せる。でも、変えられるほど強くはない。彼女を拒む体勢は、いつでも整えられている。いつでも気持ちは切り離せる。こんな性格だからこそ、僕は作家として活動することが出来ているのかもしれない。




【6】


命を助けたことで生まれた好意は、好きではない。人助けという行為に高められているだけだ。それは、好きとは別の箱に入れられているもの。キスをしてきたのも、きっと好意のすぐ横にある何かだろう。好きに感覚が近い、他の何かだろう。僕が誰かに好かれるのは、文章上だけの話なのだから。


彼女に向けられた僕の好意も、いつか消える。執筆中の作品のアイデアの中へと、次第に埋もれてゆくだろう。衝撃を恋の衝撃と勘違いする。そのような現象しか、僕の周りには存在しない。もし、それ以外のものが存在していても、僕にまともに降り掛かることない。僕が男性というカテゴリーに存在しているかも、定かではないのだから。


彼女が持っていた単行本は、電車に跳ねられ、数え切れないほどの傷を負った。その本には、僕の思考や価値観を紡いだ物語が閉じ込められている。その物語とは異なった想いが今、音をたてて次第に生まれゆく。あの小説を僕が書いたことを彼女はまだ知らない。もう、ずっと知らないままでいい。


彼女がどれほど小説家としての僕が好きでも、何の行動も起こさない。そっと、時の流れに風化するのを待つだけだ。あの本に書かれた物語を、紡ぎ出した小説家の正体は僕。だが、自分の口からは誰にも言わないと決めている。それは何が起きても変わることはない。




【7】


クリーム色のテーブルに、水が入ったコップが二つ。中ではプカプカと氷が浮かぶ。黒のワンピースを着た、彼女の手の定位置が定まらない。僕の目線は、彼女の襟元付近にいた。少し目線を上げれば、彼女のどっしりとした眼差しが映る。会話の投げ掛け方が、よく分からない。そんな僕に、彼女は優しい声を掛けてくれた。


「今日は本当にありがとうございました」


「は、はい」


彼女の言葉に僕は返事をした。その直後から、熱が上がってゆく。カランカランと氷を鳴らしながら、水を一口頬張る。瞳に馴染んでいるファミレスに、慣れない女性が一人加わる。ただそれだけで、水分は身体から頻繁に逃げていった。


「命を助けて貰ったので、ここは私が払いますね」


「高校生に奢らせるのは、申し訳ないです」


「御礼をさせてください。そうしないと、私の気持ちが収まらないので」


「わ、分かりました」


彼女の陰のある表情の中には、強い優しさが見える。顔を上げると、凛々しい眉やサラサラのロングヘアーが、美しく瞳に入ってくる。彼女の後ろを子供たちが走り抜ける。その激しさそのままに、二人きりの空間にいる僕の胸は暴れていた。


「たぶん、明日から、学校に私の居場所はないです」


「えっ」


「噂は広まるのが早いですから、彼だけではなく、私の方も色々と叩かれると思います」


「そ、そういうものなんですか」


ずっと、まっすぐ前を向いていた彼女が、俯き漏らした。重苦しい空気に押し潰されそうになり、透明に光るグラスを掴んだ。身体の熱が上がったせいか、冷たさがやけに染みる。グラスの表面に付いた水滴も、やけに手のひらにしつこく引っ付いてきた。


僕を追うように、彼女の手もグラスに伸びる。彼女はグラスを口に付けて、首を思い切り後ろに倒す。そして、体内に水分を流し込んだ。すると、再び強い眼差しでこちらを覗いた。僕は照れと、この場の空気を、控えめの咳で飛ばす。非現実的な状況に、汗が吹き出し、唾を呑む回数が徐々に増えていった。


僕の小説の見映えはそれほど良くない。男性が好むような世界で、物語は繰り広げられている。それなのに、彼女はあの時、線路に落ちていた僕の単行本に、すり減らした身体で、必死に駆け寄った。そして、ズタズタになり読むことが不可能になったその本を、優しく拾い上げて抱いていた。


彼女は小説の登場人物にしか、好意を抱かないタイプだろう。もしあっても、その小説の生みの親としてしか、作者に好意を抱くことはないだろう。胸が優しく締め付けられることが恋だとしたら、この息苦しさも恋なのだろうか。




【8】


初対面で、こんなに私を想ってくれた人は他にいない。距離を取っているように見えて、一番側で寄り添ってくれる。人と接することが苦手だからこそ、生まれる優しさというものだろう。


ボサボサ頭で、常に俯く。服にあるカラフルな部分は、ワンポイントや文字だけで、あとは黒一色。その全身の黒に負けないほどのユーモアがある。私の目線は、少しシワの深い彼の眉間を、ずっと撃ち抜き続けていた。


「これから先、気を付けて生活していってくださいね」


「ありがとうございます。今日は嬉しかったです」


「僕もです」


「私のワガママや、私の個人的なことに巻き込んでしまって、本当にすみませんでした」


「いいえ。大丈夫ですよ」


今の彼が一番自然体に見えた。顔からは余計な力が抜け、優しい笑顔を見せてくれた。人の評価が気になり、誰かに合わせていた頃とは景色が全く違う。


つい数時間前までは、どう思われているか気にして、視界はくすんでいた。いつも、このファミレスは、ボヤボヤとした表情を見せていた。でも、今は違う。いつも見ていたテーブルは、白に近い綺麗なクリーム色に。ガラスのコップに入った水と氷は、いつもよりキラキラ輝いて見えた。


数時間前、落ちた線路内でついキスをしてしまった。大好きな作家さんのイメージと似ている彼に。こんなことは初めてだった。以前は、自分から何かを仕掛けることに臆病だった。何をするにも、周りの目を考えていた。でも、彼の前では自然体になることが出来た。具体的に説明することの出来ない難しい感情なのだが、彼が心から大好きなことに間違いはない。

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