第56話.罠
第56話.罠
「良し、急げよ」
狭い山道に穴を掘らせる。兵らは小銃の代わりに円匙を持ち、縦穴をいくつもこしらえる。
「ルシヤはいつ来るかわからん。掘った後は逆茂木を穴に入れて蓋をしておけ」
いわゆる落とし穴である。
落とし穴と言っても人間がずぼりと入るような大きさではなく、片足が埋まるくらいの小さな穴である。
表面を草木で偽装してあり、足を乗せると踏み抜いてしまう。尖った枝が穴の中に入っており、運が悪ければそれらが突き刺さり負傷する。
「穂高少尉、用便の許可をお願いします」
顔を泥だらけにした国見二等卒が、汗をぬぐい、息を荒げながらやってきた。慣れない山中で、落とし穴作りというのはまた思った以上に重労働なのだ。
「ん?良し、その穴の中にしてやれ。糞と小便にまみれた穴に、ルシヤ兵を落としてやるんだ」
そう言ってやると、彼はぽかんと口を開けたまま、指示された内容を反芻しているようだった。数秒固まったと思うと、おもむろに笑いだした。
「ははははっ!了解しました、でかい糞をお見舞いしてやりますよ」
「うん」
糞尿まみれの棘を踏む方はご愁傷様だが。モノを穴を掘って埋める手間が省けるし、不衛生な傷口は感染症を起こす。文字通り汚い手段ではあるが、一石二鳥である。
「穂高少尉!天城小隊長がお呼びです」
声に振り返ると、一人の兵が離れた場所を指差していた。その方向を見ると、小隊長が何やら話し込んでいる。
「今行く」
すると小隊長の下には、中隊本部からの使いが来ていた。彼は中隊長の命令でルシヤの兵力を偵察したそうだ。報告によると先のルシヤ軍は五百名程である。
「しかし、五百。間違いないのか」
「はい。少なく見積もっても四百は」
「そうか」
息を吸いながら上を向く。小隊長も眉間にシワを寄せている。
「三倍の人数、相手にとって不足無し。我々の大和魂見せてやりましょう」
横にいた三輪一等卒が、そう言いながら歯を見せる。彼の気持ちは嬉しいが、そう言う問題ではない。
軍が動く場合、必ず目的がそこにある。ただ散歩するだけという事はありえないのだ。
五百のルシヤ兵がここにいる。それが何を意味しているのか、奴らの狙いはなんだ。
指揮官の目的は、なぜそれほどの人数を用意している。こちらの動きを察知されていたのか。
ぐるぐる回る思考の渦を、一旦切り替える。
どちらにせよこの場に五百名いると言うことは、その後ろには千五百は控えていると見て良いだろう。
そうなればまさに「死守」という事になる。
「穂高少尉?」
意識せずに難しい顔をしていたようだ。心配そうに三輪がこちらを見る。
何か言ってやらねば、そうして口を開きかけた時、小隊長がかぶせるように言った。
「意気は良し。貴様の戦働きに期待しているぞ」
「はい!」
しっかりと落とし穴を準備した後は、その道から離れた山中に両翼に潜んで敵兵の出現をただ待つ事になった。
そして日は暮れ、夕食としたいところだが、炊煙をあげるのは躊躇われた。
腹は減ったが火は使えぬ。
「生米ではな」
「はい、しかし。ここらで火を使うわけにはいかないですから。米は炊かず、妥協する他ないですね」
「そうだな、今日は手持ちの餅を食すように言おう」
交代で見張りを置き、雨よけの外套に包まって交代で仮眠を取りながら夜を過ごす。
月明かりの下、うとうとと微睡んでいるところに、九重一等卒が言った。
「ルシヤは来ませんね」
目を開けて、身を震わせる。
私の心のうちには「来てくれるな」という気持ちと、「目論み通りに事が運べば」という甘い気持ちが入り混じっている。
「ああ」
「怖気付いたのでしょうか」
「そうあって欲しいがな」
冷たく濡れるような夜の闇。いつの間にか月も雲間に隠れている、そこに男たちの瞳だけがぎょろりと光っていた。




