第39話.帰還
第39話.帰還
点々と続く足跡。
「ふぅっーふぅっー」
高尾教諭を背負ったまま斜面を登りきった所で、雪面に片膝をついた。汗が眉間の間を流れて止まる。
指先の感覚が無い、手のひらを握ったり開いたりして凍傷予防のために動かす。しかし酷使された上に極限に冷やされた指は、上手く動かず、もはやその握力は赤子のようである。
「ふぅ、ふぅ、ふっ」
短く息を吐き出して、再び立ち上がった。
一度止まると、二度と動き出せなくなる気がしたからだ。そして、それはきっと正しい。
今、私の四肢を動かしているのは、石にかじりついてでも生き残るという精神力だけだ。
体力など、とうの昔に限界を迎えている。
雪崩で打ちのめされた上に、自分より頭一つ大きな人間を背負っての登攀は肉体の限界を超えるものだった。
ふと右手を見る。
手袋を紛失した事もあり、その指先の爪が三つ剥がれてしまっていた。赤いものが滲んだまま固まっている。
それでも痛みが無いのだから、これが余計に恐ろしい。
二、三歩歩いて立ち止まり。二、三歩歩いて息を整えた。天を仰げば、いつの間にか空には太陽が昇っている。
「……良し」
天候は好転した。
私も教諭も生きている。別行動した学生達も生きていた。後は戻るだけだ。
戻れば万事解決だ。
皆の元へ。
踏み出そうとした足が動かず、前につんのめった。ばさっと雪を盛大に蹴り込む。雪の結晶が煙をたてた。
必死に足を踏み出そうとするが、身体はもはや言うことを聞かない。引きずるように少し動いた後、前のめりに倒れた。
ぼす。
目の前が真っ暗になる。顔を、全身を雪が覆っている。さあ立たねば、立ち上がって歩かねば。
「ああ」
しかし疲れた。
少しだけ、ほんの少しだけここで休んでから臨もう。
そうして目を閉じる。
脳まで凍りついてしまったのか、時間の流れが、やけにゆっくりに感じる。
一分か十分か。
音のない世界で、その場から動けないでいると、突然首根っこを掴まれて強引に引き起こされた。
「おい!穂高大丈夫か!?」
「息がある、良かった!教諭も無事のようだ」
薄ぼんやりした視界の中で、二つの人影が聞き覚えのある声で話しかけてきた。
「吾妻、吉野?お前ら……」
「お。意識もあるな、助けに来たで!」
私の体の雪を払いながら、吉野がそう言った。
「教諭は足を負傷しているな、俺が背負おう」
吾妻は私の体に縄でくくりつけていた教諭を外して、代わりに背負った。私は吉野の肩を借りて立ち上がりながら、疑問を口にした。
「お前ら一体なぜ。岩木教諭を通して、待機していろと言ったはずだが」
吾妻は「はぁ」とわざと聞こえるような音量でため息をついて見せる。作業の手は止めないまま応えた。
「一方的にそう言って一人で捜索に出て。そんなことで俺たちが納得すると思っているのか」
「仲間ちゃうんか、相談せえや!……そんな事も分からんのか」
「……仲間」
仲間、そうか。彼らは守るべき仲間でもあり頼るべき仲間でもあるのだ。全く思い上がっていた。
少しばかり山に詳しいだけで、私が助けてやろうなどと、そういった驕りがあった。
「すまん。いや、ありがとう」
「ああ良いよ。歩けるか?荷物はこっちに」
「頼んだ」
そう言って、荷物と教諭を引き渡した。
そして足を踏み出す。本当に頼りない、力の入らない一歩だった。しかし心なしか、彼らと共に踏み出したその一歩は今までより軽かった。
私は超人ではない。
ただ人より少し人間をやっている時間が長いだけの、普通の人間だ。
こんな雪山の自然の大きさから考えると本当にちっぽけな存在。他人と助け合って、それでなんとか生きていける。
それが人間という存在なのだろう。




