【第三部】第11話.帰還
旋回が終わると、機体は東から吹き上げる風に乗ってさらに高度を増した。トリィの頬を冷たい風が撫でる。だが、不快感はなかった。
湖の向こう側には、ニタイの山々が横たわっている。薄い影のような稜線を彼女はなぞるようき飛んでいた。遠く、北の方角に細く白い筋が見えた。雲ではない、煙だろうか。一定のリズムで薄い灰色の帯がいくつも空へ吸い込まれている。彼女は機体を僅かに傾けて、それを見る。
その煙が何を意味しているのか、彼女にはそれを判断できるほどの経験は無い。だが、なんとも言えない不穏な感触があった。
「ウナさんの言っていた……まさか」
ルシヤ軍に動きがある、どうしてもそれが頭をよぎる。トリィは深く息を吸った。冷たい空気が肺を満たす。計器の針は静かに震え、飛行艇の原動機は規則正しく唸り続けている。信頼できるはずのその音が、なぜか胸の奥で孤独に響く。
チカチカと、さらに北の方角から光るものが見えた。その光の鋭さは自然のそれとは違う。トリィは機体を安定姿勢になおし、整備棟の方向へ進路を戻した。
もしも、あれがルシヤのものだったら。そこから何かが動き出したら。ウナの言った言葉が蘇る、自治区は日本とルシヤその両方に囲まれた細い土地だ。空の向こうの国境線が、妙に近くに感じる。
高度を落とし始めると、湖の水面が近づき霧がまるで薄い布切れのように裂けていく。整備棟の形がはっきり見えた。トリィの帰りを待つ人々の姿も。
朝の光を浴びた銀片が風に揺れている。彼女はスロットルを少し引いて、機体を僅かに倒した。原動機の唸りがひとつ低くなり、プロペラはゆっくり力を落としていく。じわじわと降下する機体に、胸の鼓動が速くなる。
「大丈夫、落ち着いて」
自分に言い聞かせるように呟いて、水面を読む。向こう側の岸では手を振る人影がはっきり見えた。操縦桿を引き、機体を水平に戻していく。スピードは落とし過ぎても駄目、速すぎれば着水の時に跳ね返されてしまう。一瞬の風の動きをみて、細かに角度を変えていく。
「よし……!」
いよいよ水面が近づく。水の匂いが風に乗って流れ込んでくる。
ザバッ!!
水柱を上げて、飛行艇が水面を滑った。水を切って進む感触が、足元を伝わってくる。トリィは呼吸を整えながらスロットルを絞る。原動機は弱々しい唸りへと変えて、ゆっくりと機体を岸へと進めていった。
岸辺が近づくと、整備士の面々がはっきりと見えた。明継が大きく手を振っている。機体は桟橋のすぐ脇にゆっくりと静止して、穏やかな波紋を残した。
「成功だ……」
その瞬間、張り詰めていたなにかが、ほどけていくのを感じた。




