【第三部】第10話.再飛行
夜の冷たさが残る早朝。水面は静かに繊細な光を纏っていた。整備棟のシャッターが上がると同時に、整備士達が早足でそれぞれの持ち場についた。
「旗か……」
トリィは呟いた。いつだったか、自分のために飛ぼうと決めた。それが誰かに届く印になっているとは考えもしなかった。だがウナが言ったその言葉は、彼女の中に新しい何かを残していった。
「おい、嬢ちゃん!今日は良いぞ。機体も、風も。あとはなんとでもならぁな」
整備主任がトリィに声をかけた。冗談めかした台詞だったが、その声は微かな緊張を含んでいた。
「はい。今日はきっちり帰ってきます」
飛行艇は速やかに運び出されて、桟橋の先に繋がれた。ひんやりとした空気の中に、金属と油の匂いがうっすらと広がっていく。木製のプロペラは、水気を帯びて丘の上より濃く見えた。
トリィは翼に手を添えて、ひとつ息を吸った。
「大丈夫、行ける」
そう呟くとヘルメットを被り操縦席に身を滑り込ませた。革製のシートが、背中を冷やす。
「緊張しているかな、でも大丈夫」
彼女は自分に言い聞かせるようにそう呟いて、その時を待った。岸では明継が大きく手を振っている。
「いいかー!行くぞーっ!!点火準備!」
整備主任がプロペラを回し始める。再び血が通った原動機が、その力を取り戻していく。
「点火ッ!!」
トリィが叫ぶ。整備主任が大きくプロペラを回した。一度だけ咳き込むようにエンジンが震えて、止まる。
「もういっちょぉ!行くぞぉーーっ!!」
主任が大きく声を上げる。同時にボンッ!と音を立てて原動機全体が生き物のように震え始めた。煙を吐き出して、トリィの身体にも振動が伝わる。
ボボボッ!!
「よし!回転を保て!」
「はい」
この時代の原動機はまだ機嫌を損ねればすぐに止まってしまう。トリィがレバーを操作して、回転を安定させる。彼女の気持ちに応えるように音が伸びて、機体がゆっくりと進もうとする。整備主任が親指を立てた。
「スロットル開けぇ!」
トリィは息を整えて、スロットルを押し込んだ。機体が水を蹴って、水面が左右に分かれていく。水が重い、だがそれを振り切って急に軽くなった。翼が風を掴み、機体はゆっくりと水面を離れる。湖がすっと下へ遠ざかっていった。翼が震えながらも確かに風に乗り、機体は朝の光の中に飛び込んで行く。
「よし……」
空へ抜け出すと、風はさらに冷たくなった。湖面に漂っていた霧は、上から見ると白くて薄い膜に過ぎなかった。機体は軽やかに高度を上げた。トリィは計器に目を落とす、細かに震えるそれらは機体に問題がないことを教えてくれた。
彼女は視線を遠くへ向けた。湖を囲む山々は朝の光に塗られて濃淡の影を残している。しばらくすると、前回失敗したポイントが見えてきた。湖の北側の岬だ。昨日はここで失速した。
だが今日は違う、エンジンは規則正しいリズムを刻み、翼は空気をしっかりと掴んでいる。旋回は成功した、岬を半周して湖全体が視野に入った。
空は広く、どこまでも澄んで続いていた。昨日の失敗した自分は、霧の向こうに遠ざかっていくようだった。トリィは翼の先を見て、もう一度上昇に入った。




