【第三部】第9話.空ノ旗
日が落ちると湖の上には冷たい風が吹き、その空気は金属の匂いがした。整備棟の灯りが水面に入って、おぼろげな光の球をいくつも浮かべていた。
トリィが桟橋の近くでぼうっと空を眺めていると、原動機の音が近づいてきた。静かな湖に不釣り合いな音を立てて、一台の車両が整備棟の前に止まった
車のドアが開き、中からウナが姿を現した。その瞳は、いつもより鋭く光って見えた。
「ウナさん」
トリィが声をかけると、ウナはいつも通りの表情に戻る。
「トリィか、どうした外で。いや、ちょうど良いちょっと話があるんだ」
「はい」
整備棟に入っていったウナに続き、彼女はそれを追いかけた。大きく口を開けていたシャッターを下ろし、ランプに光を灯す。木製の古びた大きな机に向かい合って座る。
「今日は大変だったそうだな」
「まぁ、その。はい」
「怪我はないのか?」
「それは大丈夫です。ただ機体の方が……」
言いかけたところにウナが手で合図をした。
「身体が無事なら良い」
「はい」
ぎしっと古い椅子が軋んだ音を立てる。ふぅっとひとつ息をして、ウナが口を開いた。
「ルシヤ軍に動きがある。樺太に通信車両や野戦機器が運ばれているようだ。日本への牽制だろうが……」
ニタイ自治区は南はホッカイドウ南部の日本領と陸続きで、北は海を挟んですぐそこがルシヤ領である。日本とルシヤ、どちらが動いても大きく影響を受けざるを得ない。
「自治区政府としては何も言えんよな」
「……」
「ルシヤが動けば、日本側としては防衛のために自治区を日本に併合する方向に動くかもしれない。しかし日本が動かなければ、何か理由をつけてルシヤが越境してくる可能性もある」
ニタイ自治区は戦後に生まれた小さな自治領だ。日本政府の直接統治から外れ、彼らニタイの民と呼ばれた者が中心になって独自に行政を行なっている。
「私はどうすれば……。試験飛行は中止ですか?」
トリィは声を絞り出した。ウナの話は彼女には大きすぎる。
「いや、予定通り飛んで欲しい。ただあまり遠くには行くな。ルシヤも日本も刺激したくない。それだけ頭に入れておいてくれ」
ウナは椅子にもたれ掛かりながら続けた。
「空は誰のものでもないが、誰の目にも映る」
「はい」
「それでも飛ばなけりゃ。宙ぶらりんな我々がここで生きているぞと示すんだ。そのためには……」
ウナはそう言うと立ち上がり机の端に手をついた。ランプの光がその顔を一瞬照らし、影を落とした。
「お前達の。いや俺たちの飛行は、旗なんだ」
穏やかだが、確かに力を感じる声でウナはそう言った。




