【第三部】第8話.生キル
作業が一段落した頃、もう陽は西に向かって傾いていた。湖面は細かく揺れて、光を飲んだ銀の粒がきらめていた。先程まで賑わっていた整備棟も、今は静けさを取り戻しつつある。トリィは桟橋に腰を下ろし、手拭いで額の汗を拭った。指先からはまだ油の匂いがした。
「終わった?」
「だいたいね」
後ろからかけられた声に、彼女は振り向かずに応えた。トンっと軽やかな足音ひとつ、明継がトリィの横に座る。
「お疲れ様。ウナさんもまた夜にはこっちに来るんだって」
「そっか。今日の事、もう知ってるのかな」
「整備士の人が連絡してたよ」
「ああ〜……」
トリィは親指で自分の額を押しながら、情けない声を上げた。
「みんな気にすんなって言ってた」
「そうなんだけどさ」
トリィも明継も、元々このニタイ自治区の民ではない。明継は日本人であるし、トリィに至ってはルシヤからの逃亡の身だ。居場所を与えてくれているウナには感謝しているし、役に立ちたいという思いがあった。
「うーん……」
トリィはなんの気なしに小さく呟いた。首長は、十五そこそこの少女を一人養ったところで何も思わないだろう。それでも、だからこそ何かできるということを証明したいのだ。
「とにかく生きてて良かったよ」
「ふふっ、ありがとう」
トリィは笑いながら感謝の言葉を言った。
「生きる……か。生きるってなんだろうね」
「うん?」
「心臓が動いてて、息をしていたら生きてるのかな」
トリィは視線を空に向けた。自分が飛んでいた空だ。明次もつられて空を見る。
「ここに逃げて来るまで、いわゆる“生きる”ことに必死で。考えたこともなかったんだけど、最近思うんだ」
「何を」
「生きるってそれだけじゃない。心臓を動かして、息をして、身体や心を動かして、自分にできることをやるんだ。それが生きるってことじゃないかなって」
「うん……」
明継は小さく相槌を打ったあと、口を開いた。
「俺は……トリィが何をしたって、してなくったって生きていると思うよ。そこにいるだけで」
そう言って少年は視線を落とした。
「そっか」
トリィも同じように湖面を見つめた。風が止むと、空の色を映すかのように鏡のような静けさを取り戻していった。
「ねぇ、明継」
「なに」
「生きてるって、一人じゃわからないのかもね。誰かがいて、私がいて、その中ではじめて生きてるってわかるのかも」
明継は足元にあった小石を拾って、ひとつ湖に投げ入れた。ほんの小さな波紋が浮かぶ。トリィはそれを見て、すぐ近くに小石をほうりこんだ。二つの波が、ぶつかって、一瞬大きくなって消えた。
「明日も飛ぶよ」
トリィは続ける。
「空高く飛んで、今度は綺麗に戻ってくる」
「うん」
にっとわらった明継の顔が、陽の光に照らされた。




