【第三部】第7話.再生
湖面はいまだ機体の波紋を飲み込みきれずにいた。淡い光が、水の上をゆっくり揺れている。トリィは操縦席に座り直して、自らの手のひらを見る。鉄の振動が消えた後も、それはまだ細かな震えを残していた。耳の奥にまだ、あのプロペラの悲鳴が聞こえてくるようだ。
「ふぅー……」
大きく息を一つ。計器盤ではランプが心細く明滅している。手袋を外して機体のパネルを撫でる。油か汗か、じっとりとした感触。
「私たちは生きている、なんとかなったんだ」
彼女は小さく呟いた。未だ空は遠い。シートに深く腰掛ける、少しだけ。目を閉じた。機体がわずかに軋む音と、水面の波だけが世界の全てになった。
桟橋に戻ったトリィを明次らが迎えた。
「おい!大丈夫か!?」
駆け寄ってきた明継がトリィの肩を掴む。震える手で、力強く。
「トリィ!」
「聞こえてるよ、大丈夫。ありがとう」
彼女は小さく笑みを浮かべて機体を振り返った。先程の騒ぎが嘘だったように静かに、飛行艇は水面に揺れている。ちらちらと朝日を反射して。改めて離れてみれば、腹のあたりに黒い焦げ跡が見える。油圧管のあたりだろうか。
「オイルが漏れてる。熱で変形しちまったかな」
整備主任が、使い古された布で、焦げて何かが滲んだ腹を拭きながら言った。フロートと翼も少し歪んでいるかもしれない。
「着水の衝撃が悪かったかもしれません。……私の責任です」
「何言ってんだ、命があっただけで儲けもんだ。機械なんて直しゃ良いんだよ」
整備主任は機体をぐるりと見回した。翼端から頭まで、慎重に手を触れながら確認していく。
「油圧管は交換か、フロートと翼のねじれも直さねえとな。よっしゃ、引き上げて修理するぞ!」
主任の掛け声に応じて、それを生業にしている男たちがロープに沿って飛行艇を引き寄せていく。トリィは機体の下から覗き込む。やはり翼端は少し歪んでいた。
「……」
表現のできないものが、胸の奥に溜まっていく気がする。トリィは黙って翼に手を触れる。ひとつ息を吸って、吐いた。
飛行艇は桟橋の傍らに引き上げられ、その腹を見せるように傾けて固定されていた。トリィは水と油が入り混じった地面に膝をつき、整備士に混じって損傷箇所を確認する。整備主任が指を指してみせた。
「油圧管、ここが割れてるな。接合部に焦げがある、溶接しても歪みが残るかなぁ……」
整備主任はトリィの顔を見たまま、ぶつぶつと一人の世界に入っていった。結論が出たのか、にわかに声を上げた。
「取り替えた方が早いな。おい!」
何人かの他の整備士に声をかけて、必要な道具を持ってこさせた。整備主任が切断器具で古い管を外す。トリィは布で内側を拭き取って、新しい管を慎重に通した。
「圧、かけてみるぞ」
「はい」
トリィはそう言って頷き、数歩後ろに下がった。整備主任がつなぎ目を軽く締め直し、ポンプのハンドルをゆっくり操作した。カチ、カチと小さな音を響かせる。鉄の血管に血が通い、金属の芯がわずかに軋む音がした。
「漏れはないな。止まった、か」
そう言いながら、整備主任は一旦工具を置いた。
「ま、今日飛ばすのは無理だな。きっちり点検してからじゃねえと、油圧が抜けたら舵は効かねえし、今度は焦げただけじゃ済まねえぞ」
トリィは頷いた。焦げ跡を見ると、油が薄く滲んで光っている。まだ操縦桿の感覚が手に残っている気がする。
「キャブも直接損傷はしていないようだが、どうも気になるしな」
そう言いながら整備主任はトリィの方を向いた。彼女は黙って機体を見つめている。
「嬢ちゃん。キッチリこいつを地面に返してくれたんだ、よくやったよ。次は上手くいくさ」
「はい」
トリィははっきりとした声で、そう返事をする。何かを主張するかのように、翼下部のリベットが光っていた。




