【第三部】第6話.事故
湖面を離れ、黄金色の光が翼を染めた。凪いだ湖が小さく見える。空が顔をかすめて、白い空気がはるか後方に流れていく。
順調だ。
そう思ったのも束の間、突然エンジンの振動が微かにかわった。トリィは咄嗟に計器盤を睨む。回転数が徐々に低下している。油圧は正常だが、プロペラが不安定で僅かに右手に引かれる。
「どうしたって……」
スロットルを微調整するものの、エンジンの息遣いは荒く鈍く唸る。冷たく湿った空気は、キャブレターの呼吸を弱めていく。
「大丈夫、大丈夫。もう少し……お願い!」
トリィは祈るように操縦桿を握り、スロットルを操作した。燃料比をもう少しだけ吸気に偏らせて、鉄の心臓に酸素を送る。振動はわずかに収まった。だが、完全ではない。翼が右に引かれ、水平を保つのが精いっぱいだ。あの空が遠ざかっていく。あの遠く小さかった湖が大きな口を開けようとしている、プロペラの叫び声は掠れたうめきに変わって耳に届く。墜落の二文字が頭に浮かぶ。
「大丈夫だっ……!」
彼女は息を詰めて操縦桿を微調整する。あっという間に霧の中に突入して、視界が白い光に包まれた。翼端が水面に触れる、そう感じた瞬間に滑空角を変えて持ち直した。だがエンジンが悲鳴を上げる、油圧計の針が小刻みに触れて、プロペラの回転は不規則に跳ねた!
湖面までは数メートルか。霧の向こう側で何者かの叫び声がかすかに聞こえた、幻聴か真実の声か、もうわからない。霧の中に水飛沫がちらちらと光の粒になって消える。翼が水を掠めた!機体が右に傾く、大きく舵を切って水平に戻した。
ドッ!!
次の瞬間、水面が飛行艇の腹を受け止めた。大きな衝撃と共に機体が跳ねる。水飛沫が上がる、なおもまだプロペラは空気を求めて唸る。
「……っ!!!」
機体は水面を切るように滑る。轟音で何も聞こえない。視界は大きく揺れて真っ白だ。歯を食いしばって身体を支える。少しずつ速度が落ちて、飛行艇は湖の中央付近で静止した。
「はっはっ……はーっ」
トリィは胸を押さえて、呼吸を整える。どうなった?機体は?操縦席から身を乗り出して、水面に映った自分の姿と、朝の光に濡れる飛行艇の翼を確認した。ヘルメットを外す。遠くから人の声が聞こえてくる。岸の方から整備士たちに混ざって明次が何か叫んでいる。
トリィはそれらに無事を伝えるように手を振った。優しい風の音が耳を過ぎ、波の揺れが身体を伝わった。




