【第三部】第5話.飛行艇
トリィは朝の日に一度目を細める。光の帯は整備棟の隅々に染み渡って、夜の冷たさを追い払っていく。湖の向こう側では山々の稜線が淡く霞み、細長い白い息のような雲が流れている。
「……」
今日はもっと上手く飛ぶよ。彼女は誰にも聞こえない声で呟く。それは誰に向けたものか、飛行艇か、彼女自身か、それとも表に出てこなくなったもう一人の彼女だろうか。
しばらくすると、出番かとばかりに、整備士たちがそこかしこから集まってくる。昨日見た面々である。誰が何を言うでもなく、手早くそれぞれの持ち場に入り作業を始める。髭面の整備主任が、トリィに声をかけた。
「いいお天気じゃあねえか。なぁ嬢ちゃん」
「そうですね」
「ちったあ寝たのか?」
「寝ましたよ。この子が寝かしつけてくれました」
そう言いながら、彼女は機体の方を見た。整備主任もつられてそちらを見る。
「湖面はちょっと霧が出てるからな、始動では昨日より混合比をちょっと薄くしたらどうだ」
「わかりました」
「空の具合は良さそうだ。楽しんでこい」
主任の言葉に彼女は頷いた。程なくして、試作機が再び湖面に浮かべられた。トリィがヘルメットを被り、操縦席に身体を滑り込ませる。岸を見ると、明次が大きく手を振っていた。
トリィはキャブレターの混合比調節ノブをひねる。昨晩の冷え込みのせいか昨日より僅かに重い。
「点火準備!」
ゆっくりプロペラを回しながら、整備主任が叫んだ。機体内部の血管に燃料が通る。鉄の心臓が、トリィのそれと同調する。
「点火!!」
トリィがそう返す。整備主任はそれを受けて、プロペラを思いっきり振り下ろす。機体の鼻先が大きく震えて、白煙を上げて原動機が唸った。
ボボボッ。
一瞬、鈍い音に変わる。やはり湿気で空気が薄い。トリィは混合比レバーをほんの僅かだけ戻す。燃料を薄くして、彼が呼吸しやすいように整えてやる。
「ちょっと息苦しい?……もう少しね」
回転が上がる。プロペラが息を吹き返し、轟音が湖面を駆けて跳ね回った。エンジンが安定した回転数を刻みはじめる。トリィはメーターに目を走らせて針の震えを読んだ。燃料圧、回転数、油圧、全て許容範囲。湖面の霧は、プロペラの風に押されてゆらりと形を変えていく。
「あせるな……」
トリィはそう呟きながら、スロットルをゆっくりと押し出した。機体は低く唸り、艀に繋いだロープが声を上げた。整備主任がそれを外す。トリィは軽く手を上げて合図を返した。
湖の水上で、試作機は自由の身になった。
スロットルを更に開く。いよいよ迫力を増したプロペラの風圧が湖面を叩き、表面を細かな波が走る。機体がジリジリと前に進む。水の粘りを振り切っていく。
「行ける、行こう」
トリィがそう言った。同時に水飛沫が跳ね上がり、一粒一粒が陽の光を吸ってきらめく。機体が軽くなる、水の抵抗がふっと消える。
湖面と機体の間に、僅かな影が生まれた。プロペラが空気を掴み、重い水の世界から自由な空へ。音が高く澄んでいく。湖面に残るのは一筋の線。霧の上に出ると、一気に視界がひらけた。東の空の先はまだ朝の残り香を残して、その向こう側で太陽が起きあがろうとしていた。トリィは操縦桿を軽く引く。翼が空を掴む感触が、彼女の手のひらを通して伝わってくる。
下を見ると、整備棟と小さな人影が見えた。彼女はそれに小さく手を上げる。
風の音に、全てが溶けていった。




