【第二部】第92話.接近戦
蛇男の目玉が左頭上に動いた、一瞬虚空を見たのだ。何を見た?そう思う間もなく、一瞬で間合いを詰めてきた。爬虫類を思わせるようなぬるりとした動きで懐に入ってきた。彼奴の手刀が私の喉仏の下に突き刺さった。咄嗟に身を引いたものの、逃れることは出来ずに中指と薬指が気道を潰す。
「〜〜〜!」
その場に崩れ落ちそうになる。だが、身体は頭より早く判断し反撃に移った。空を舞う水滴をぬうようにナイフの刃が走る。だが黒い鋼がそれに吸い込まれ、ひとつの金属音と一瞬の火花。
ならぬならば、もう一太刀。ぬかるむ地面を右足の親指がしっかりと掴む。足指から腰へ腰から肩へ、捻れた筋肉の力が最短距離を真っ直ぐ刃を導いていく。無駄を廃した、最速、最短。真っ直ぐに伸びていく一筋の光。しかしそれは蛇の喉元に届く前に、黒い影と交わり、ゆっくりと火花を散らした。次に、もう一つ大きな金属音が耳に届く。
一瞬、蛇男の上半身が先程よりも大きく揺らいだ。得物の重量が効いたのか。単純な運動エネルギーと重量の関係だ。高速度でぶつかる二つの金属は打ち合って弾かれあうが、穂高のナイフの方が蛇の暗器よりも重い。軽い暗器の方が、より弾かれる距離は大きくなる。
空に点在する雨粒が、止まっているかのようにゆっくりと地面に呑まれていく。限りなく続く集中力は、時間の流れすらも緊張させてしまう。
呼吸を整える暇はない。
無呼吸のままもう一度、さらに速く。通常の稼働を超えた速度での捻りは、筋組織を引きちぎりながら異常な反応速度に応える。下半身の筋肉が声にならぬ悲鳴を上げている。蛇男の喉元に向けて、物理的に最も近いコースをなぞる最後の一突きを繰り出した。刃の先端が空気を切るのがわかる。足の親指の先から、右手に握るナイフの切先まで神経が通い詰めているようだ。
いくら蛇のごとき動体視力や技を持っているといえども、彼奴も人間であることには変わりない。視覚に対して真っ直ぐ迫ってくる突きは、人間の目で追うことはできない。この体勢からでは、もはや避けることは不可能。
取った!そう確信した瞬間。肉を裂くはずの刃の先に異なった感触を覚える。
ガキリ!!
僅かに頭を捻った蛇男が、喉元に迫った穂高のナイフを歯で挟んだ。馬鹿な!刃物を歯で止めるなどと、止まりきるものではない。何本かの歯を砕き折り、そのまま鋼の先端は喉の奥に突き刺さる。しかしそこまで。ズブりと一寸ほど肉に食い込んだところで、穂高の渾身の一撃は勢いを失った。
ドン!
背中に衝撃。肩甲骨のすぐ横に、蛇男の振り下ろした黒い金属が突き立てられた。逆手に持ち替えた暗器を引き抜くと、蛇男が衝撃によろめく穂高の顔を蹴り上げる。穂高は堪らず仰け反って体勢を崩した。ナイフは蛇の口の中だ。
「ゴボッ、ゴボッ!ばば……はははははっ!!」
蛇男は口内から穂高のナイフを引き抜くと、まるで戦利品でも掲げるかのように掲げてみせた。パックリと頬も切り裂かれており、赤いものが笑い声と共に溢れて出ている。
「……っヒュ、……ヒュっ」
狂人め、常軌を逸している。手傷を負わせたが、こちらは武器を奪われた上に背中に一発。喉を打たれたせいか背中を刺されたのが悪かったのか、声もでん。掠れた音をあげるのが精一杯だ。
「同じだ!ほら、同じ色だ!!俺もお前もそうだ!どちらでも同じだ!!ははははははっ!!」
蛇男はそう叫びながら、口から赤いものを撒き散らしている。落ち着こうにも、息が上がる。肺に穴でも空いたか酸素が足りない。
「ゴボッ……さあ!来い!来いよ穂高進一ッ!!神も見ているぞ!!さあ早く来い!!」
頬が大きく避けた口を大きく開いて、蛇男はそう叫んだ。彼奴は大仰な動作で暗器を捨てると、右手に穂高から奪ったナイフを構え直す。馬鹿が叫んでいる間に呼吸を整えようとするも、息苦しさは解消されない。どうやらこちらにも時間はなさそうだ。頼みの綱のナイフまでも奪われ、随分不利だがもはや行くしかないだろう。
「……ぉぉぉおおおお!!!」
ありったけの声を絞り出し、穂高は地面を蹴った。




