【第二部】第72話.追走
【第二部】第72話.追走
機関銃や見張りの人間の配置は先だって把握している。穂高は明継を背負って偽装集落の中を駆け抜けた。闇の中を、月明かりによってのみ濡れる大地を蹴って。
背中の向こうから、笛の音が響いた。続いて犬の吠える声。犬を放ったらしい。
果たして逃れられるだろうか。ふと頭によぎる悪い考えを排除して、今の自分にできる最善の手を探り出す。
後ろを振り返って、追っ手の姿が見えないことを確認して立ち止まった。
中折れ式の回転式拳銃の弾倉を確認する。回転式拳銃のレンコンのような弾倉は、横に振り出したり、お辞儀をするように縦に折り畳んで開放させる。清国の男から奪った拳銃は後者の構造を持っていた。残弾は三発。
「大丈夫か」
「はい」
背負っていた明継を地面に立たせて、その表情を見た。緊急を要するものではないが、監禁されていたことから、少し衰弱しているのが見て取れる。水筒の水を飲ませてやると、少し落ち着いたようでいくらか目の色も良くなった。
空を見上げると、先程まで出ていた月に雲がかかりかけていた。雲間に月が隠れるのは追い風だ。冷えた宵闇は輪郭を背景に溶け込ませる。
明継を背中に背負う。彼に走らせるより、荷と共に背負った方が速い。雨が来そうだ。匂いがする。気を取り直して、穂高は再び走り出した。
……
「なぜ子供連れの日本人ひとり捕らえられんのか!司馬伟様の精鋭が聞いて呆れるわ!」
清国の男がそう叫んで、部下に指図していた。視界の効かない夜だとて、逃亡した人間をいくら追っ手を出しても捕まえられないのが不満なのだ。
彼は眉間に皺を寄せながら壁際に並べられた麻袋を見た。それは先程まで夕食で顔を合わせていた彼の部下達である。変わり果てた彼らのその姿が、彼の胸中を掻き回すのだろう。苛立ちを隠すこともしない。
その隣では、司馬伟が月を見上げながら煙草を燻らせていた。苛立っているこの男とは対照的に、その表情からは焦りも、悲しみも見て取れない。
「蜻蛉は飛ぶかな」
「は……」
一服を終えた蛇男は、その吸い殻を地面に投げた。赤い火が二度三度、足元を跳ねたところを踏みつける。
「蜻蛉は飛ぶのかと聞いているんだよ」
「はい。いつでも飛びます」
「なら良い。飛ばせるように備えておけよ」
一瞬の沈黙。司馬伟の言葉を咀嚼すると、男は言った。
「では、ついに始まるのですか」
「そうだよ。我々の世界が始まる」
近くにいるもの全てに稲妻の如く何かが伝わった。彼のその言葉を聞いた者たちの目が変わる。「おぉ」と感嘆の声をあげて、皆が司馬伟を見る。それはもはや信奉者の顔であった。
「時は来た。神の国は終わり、我々が歴史を刻むときがねぇ」
視線を麻袋に向けると、芝居がかった口調で彼は続ける。
「彼らは残念だった。しかしその血肉は、我々の大地の国礎となるだろう」
ジッと彼の言葉に皆が耳を傾けた。
しばらくして、司馬伟の隣に立つ男が、手を止めて聞きいる兵らに向けて叫んだ。
「さあ、貴様らの仕事を果たせ!あの日本人を確保するのだ!」
その言葉と共に、全てのものが再び動き始めた。




