【第二部】第66話.水上ノ翼
【第二部】第66話.水上ノ翼
ざぶりざぶりと水をかき分け進んでいく。
建物がはっきり見える距離まで来た、こちらに向けてぽっかりと大きく口を開けている。中の様子はこの角度からではまだ窺えない。
さらに開いた口の前からコンクリートでできた坂道が水中に向けて大きく突き出していた。
日は西の空へ沈みつつあり、辺りを夕暮れ色に染めている。白熱電灯の灯りが見えるが、視界に映る人影はない。崖を下って池を渡って来た甲斐があるというものだ。
船の陸揚げ用のスリップ(すべり)だろうか。漁船のために用意された訳がないが、それにしても少し大きい。大きいというより長いか。水面に向かって緩やかに傾斜している。
なるほど、近づいてみるほど人の手が加えられていることがわかる。原動機を有する大型の船舶の基地なのだろうか。
水から上がり、大事に頭の上に抱えていた装備を点検する。無事だ。ほとんど濡れてはいない、衣類も拳銃も風呂敷包に包んだ時のままだ。
内心ほっと胸を撫で下ろしつつ、身体についた水滴を払ってから装備を身につけた。ペタペタと水を滴らせながら足跡がついていくようでは、潜入も何もないからな。装備を点検して、脱落したものがないことを確かめると、岩陰に身を隠しながら考える。
おそらくスリップ正面の大きな建物が、原動機音の元凶だろう。明継のことも気になるが、まずはそこから確かめるか。監視の人間がいないことを確認すると、ゆっくりとそちらに向けて歩いていく。集落に偽装しているためか、見張り台のようなものが無いのはありがたい。
スリップの脇を通り、建物の中を覗き込める位置まで近づいた時に人の声が聞こえた。素早く身体をかがめて身を隠す。
「今日はもう終わりだ!防水布だけ、かけておけよ」
その呼びかけに、何名かが威勢のいい声で返事した。ばさり、ばさりと物音を立てて慌ただしく人が動いている。「こちらに来てくれるなよ」内心そう願いながら、しばらくジッと堪えて、人が居なくなるのを待った。
祈りが神に届いたのか、辺りから人の気配が消えた。どうやら今日はもう店じまいのようだな。
用心しながら上体を上げて、油断なく建物内を見回したが誰もいない。つぎはぎだらけの防水布をかけられた大きな塊が、視界の中央にドンと据えられている。脇には工具のようなものが、木製のテーブルの上に所狭しと置かれていた。作業場だろうか、まるで工場だ。空気は油の匂いがする。
「さて、蛇男は何を企んでいるのか。見せてもらおうか」
足音のないように静かに歩み寄ると、乱雑にかけられた防水布を持ち上げて、その中に隠されたものを見た。はじめに目についたのはプロペラだ、そして大きな木製の胴体に、布張りの主翼。主翼は二枚。
「航空機だと……まさか」
そんなことが。
大征五年の事である。まさかというのは「まさか」航空機が存在するとは、という意味ではない。「まさか」国内に清国軍人である蛇男が航空機を持ち込んでいるとはということだ。状況からして、ここで組み立てているんだろう。
「飛行機……ではないな。飛行艇か」
船のように反った胴体部分に、主翼は上下に一枚づつ。翼間には支柱がありそれぞれを保持している。主翼の間に挟まれるように原動機とプロペラ。いわゆる木製の複葉機だ。
地上の滑走路から離着陸する飛行機と違い、飛行艇はその名のとおり水面を滑走路とする。水上にある場合、艇体をもって船のようにその重量を支えることができるのだ。
なるほど飛行場などが整備させていない今の時代において、海面や湖面を滑走路として利用できるこれは効率的かもしれん。
しかし、こんなものを持ち込んで、一体何を企んでいるというのか。
原動機音の正体はこれだ、そしてガワは組み上がっているように見える。すでに稼働可能であるか、もしくはもうそこまで来ているのだろう。
こんなものがここから飛び立って、まさか札幌の上空にでもこようものなら北海道は大きく脅かされる。いや、影響は北海道だけにとどまらないだろう。
カタン。
どこかで扉が開く音がした。
瞬発的に防水布を飛行艇にかけ戻し、同時に自らの身体もその中に含めて身を隠した。
かつり、かつり。
足音が近づいてくる。何か異変に気がついたのだろうか。靴音は一人分だ。慌てている様子はないが、何かに向けてまっすぐ迷いなく歩いているようだ。
「……」
浅い呼吸を一つ、二つ。吐息の音さえも気にかかる。この場から早く消えてくれ、そう願う。
「ん。この防水布……」
願いは聞き届けられない。何か変化に気がついたのか、こちらに向かって足音が近づいてくる。その瞬間。
「おい!早くしろよ!照明を切るのにどれだけ時間がかかっているんだ!」
そこで大きな声がした。どうやら近づいている男にかけられたものらしい。上官だろうか、その言葉の勢いには苛立ちが隠れていない。
「はっ!」
こちらに向かっていた足音が、くるりと向きを変えて小走りに遠ざかって行く。
「飯だぞ、俺を巻き添えにするなよ」
「はい!」
そんなやりとりが聞こえたかと思うと、照明がふっと消えて、すぐに大きく扉が閉まる音がした。
どうやら、ひとまず危機は脱したらしい。




