【第二部】第65話.水中歩行
【第二部】第65話.水中歩行
太い立木に絡まっていた蔓を切断して持ってきた。これがロープの代わりであり、まさに命綱になる。親指ほどの太さのそれだが十分な長さはあった。両の手で引っ張ってみるが、しっかりとした手応えを感じる。
蔓を太い木に回しかけると、背中と股下へと通して二十メートルほど下の水面へ向けて垂らす。
「ふぅぅー」
一つ深呼吸。
これは訓練ではない。安全の保証されていないし、降下した先にあるものも未知数だ。
まったく普通じゃない、普通の神経ならこんなリスクは冒すまい。私もどうかしてしまったのだろうか。
しかし明継のこと、そしてあの建物内の発動機の音。確信にも似た何かが、私の心の奥から湧き上がってくる。
今、私は行かねば後悔する。
両の腕に力を込めて、絶壁の岩場に足を踏み出した。大きく身体が傾いて、半身が奈落に吸い込まれそうになる。一本の蔓を信頼して体重を預けた。
大丈夫だ。
これは私の体重ぐらいではびくともしない。
慎重に蔓を繰り出しながら、ゆっくりと降下する。
水面まで後、十数メートル。
命懸けの作業ではあるが、自身の心音は一定のリズムを刻み平常心であることを示している。
後、八メートルほどか。
上部で蔓がギッと異音を放ち始めた。少し突き出た岩に擦れているようだ。一旦足を止めて様子を見る。致命的な破損ではないが、確かに摩擦を受けている。下に着くまでに保ってくれるだろうか。信じて降下を続けるしかない。
後、五メートル。水の音がすぐそばに聞こえる。もう飛び込んでしまいそうになる気持ちを抑えて、ゆっくりと足を運んでいく。
水があるからと言って飛び込んで良いわけではない。思ったより浅く、下が岩場の場合、この高さでも骨の一本や二本もいかれる可能性は十分にある。こんなところで負傷すれば、どうなるのかは想像に難くない。
後、ニメートル。
ギチギチ。もはや見えないが、上の方で何かが引っかかっている感触がする。もう限界だろう。
そして、ついに下まで到達した。足元はでこぼこした岩場だが、濡れていてよく滑る。
もはや駄目かと思ったが、即席ロープにしてはよく保ってくれた。
「助かったよ」
そう言って、蔦を手放した。
そして早速服を脱いでしまった。ふんどしを残して、靴から銃から荷物を全て風呂敷代わりの上着にくるんで頭の上に乗せた。
できる限り身体も装備も水にぬらしたくはない。
このまま浅瀬を伝って、向こうの建物の近くまで歩いて行こう。幸い、この辺りは膝下までの水位しかないようだ。
崖のような岩場に片手をつきながら、慎重に歩を進めていく。
しばらく進んでいると、壁面に洞穴のような窪みがあり、その付近だけ少し深くなっていた。
足はつくようだが、どこまで……。
少し流れがあり、水は濁っている。足元まではとても見えない。
一瞬考えたが、考えても仕方がない。
足がつくなら歩いて、そうでないなら途中から泳ぐしかないだろう。
気を取り直して、一歩踏み出した。
深いと言っても腰下くらいの水位か。洞穴の横を横切るように歩いていく。
「ぬっ」
足が滑った。が、なんとか踏みとどまる。
深い部分はすり鉢のようにくぼんでいたようだ。水底もぬるぬるしていたので滑ってしまった。
気を取り直して、足裏で水底を探りながらさらに慎重に進んでいく。なるべく浅い場所を探して、浮かぶように歩いていった。
洞穴の前を通り過ぎると、再び浅くなって岩がゴツゴツし始めた。
少し平らになっている場所に乗って、一息ついた。一番深い場所では胸あたりまで水が来たようだ、その辺りまで水に濡れている。
まだ頭の上の装備は無事である。
後ろを振り返ると、先ほど放置した蔦がそのままの状態で岩場に置かれていた。
かなり歩いた気がしたが、思ったより距離は稼げていないようだ。
「はぁ、はぁ。はぁー」
呼吸を整える。
地上を歩くのはそう難しい話ではないが、水中を歩くというのは思った以上に体力を使うな。
目標の建物に目を向ける。まだ、もう少し距離がある。今はまだ全体の三分の一といったところか。
「もうひと踏ん張りだな」
そう呟いて、再び水中に足を踏み入れた。




