【第二部】第61話.獅子身中ノ虫
【第二部】第61話.獅子身中ノ虫
ふらりとウナの身体が横に逸れた。そこに観戦していた男たちが殺到して、勝者であるウナを支えた。
「ウナ様!大丈夫ですか!」
いつの間にか側にいたレタルが、彼にそう声をかける。しかし、もはやウナはそれに応える力も残されてはいなかった。静かに下を向いて、荒い呼吸を繰り返すのみである。
「ウナ様、気を確かに!」
レタルの呼びかけが数度。しばらくして、薄く目を開けたウナがやっと応えた。
「……はぁ、はぁ。やったか、俺の勝ちだな」
「はい」
「叔父さんに噛み付いてやった……俺はもう何も持ってなかったからな。犬みたいに噛み付いてさ。なぁ、俺は犬なのかな」
レタルは驚いたような顔をしたが、はっきりと言った。
「いえ。ウナ様は獅子です」
「獅子?」
「はい。見事な獅子吼でございました。我らニタイの民は、ウナ様の言葉にまさに奮い立ったのです」
ウナはその言葉を聞くと、ふふっと笑って目を閉じた。ウナ様、とレタルが再び声をかけるが返事はない。
「おい、皆どけ!我らが獅子の王を、首長を医者に診せるのだ!」
レタルがそう叫ぶと、人の壁がふたつに割れて道が作られた。その道を、レタルらがウナを背負って歩く。
皆が彼らを目で追った。そして無事を祈った。クンネ派も、ウナ派もない。ニタイの全ての民が、彼らの首長の無事を祈って送り出したのだ。
……
その頃。
ウナとクンネの意地をかけた勝負が始まり、それが終わりを告げるまでの間に、区役所の中に我が物顔で入っていく一団があった。
二十人ほどもいるだろうか。先頭に立つ男は、上機嫌な表情を隠そうともせず、鼻歌を歌いながら軽やかに足を運んでいる。細い目をさらに細めて、薄い唇に笑みを貼り付けたままだ。役所にいたニタイの人間が、その入ってきた男に親しげに話しかけた。
「司馬伟様」
「やあ。上手くやってくれたね」
「はい、全ては計画通りに。今、この場には同士しか残っておりません」
「最高だよ」
司馬伟と呼ばれた男は所内を闊歩して、一つの席を見つけるとそこへ腰掛けた。脚を組んで、手下の男たちに指示を出す。
「必要なものを集めろ。五分でやれ」
「はい」
彼の指示をうけて、男たちはすぐに散開した。余計な言葉を発せずに的確に動き出せたのは、日頃の訓練の賜物か。
「座り心地の良い椅子だねぇ。この首長の椅子は」
そう言いながら、さらに深く腰掛けて両脚を机の上に放り出した。整頓された卓上に靴を乗せると、綺麗な木製の天板が泥色に汚れる。その体勢のまま、近くにいたニタイの男に問うた。
「本当に皆が出払って、儀式とやらを見学しているんだね。何もかも放り出して」
「はい。クンネとウナの、首長を決める一戦ですから」
「ははっ。やっぱり面白いな君たちは」
「はははは」とひとしきり笑ったあと表情を戻して、彼は言った。
「手紙は届けてくれたのだろうね」
「はい。穂高進一と連れの男は、札幌に向かう途中の検問で発見されたと連絡が来ております」
「そうか、それは良かった」
司馬伟は手を叩いて喜んだ。
「ただ、穂高進一が連れていた子供が一人、ウナの邸宅に残されているようです」
「ふん。子供ねぇ、子供か……なんだろうなぁ」
ちろりと、細く先端が二つに割れた舌を覗かせる。それを一瞬視界に捉えたニタイの男は、目線を逸らした。
「おや、この舌が二つに割れているのが不思議かい」
「いえ、そういうわけでは」
司馬伟は、かぱりと大きく口を開けて舌を突き出した。二つにの分かれた舌先がそれぞれが意思を持っているように自在に動く。おもむろに紙巻き煙草を一本、取り出した。そして、それをまるで指先でつまむように、二本の舌先でつまんでみせた。
咥え直して、マッチで火をつける。
「ふぅー……」
口から紫煙を吐き出して、一呼吸置いてから言った。
「ほうら便利なもんだろう」
「は、はい」
そうして煙草をふかしながら、机の引き出しを開けて中を眺めているところへ、先ほど散開した彼の部下が戻ってきた。
「お待たせしました」
「ふん……五分と十二秒か、まぁ良いだろう。引き揚げだ」
そう言いながら、煙草を咥えたまま立ち上がる。
「あとはわかっているね。煙草の不始末には重々気をつけてくれよ」
司馬伟は、咥えていた煙草をその場に投げ捨てた。赤い火が、音も立てずに床を転がった。それをみたニタイの男は、頭を下げながら応える。
「はい。承知しております」
彼らが区役所を出て、しばらくすると建物から大きな破裂音と共に黒い煙が上がった。にわかに窓が割れて、大きく赤いものを吹き出している。ずいぶんな火勢だ、まともな火事ならこうはならないだろう。
安全な位置まで離れて司馬伟はそれを見て口の端を吊り上げた。想定通りだ、何もかも計画通りにことが進んでいる。満足げに、彼らの帰るべき場所に向けて足を踏み出そうとした時、ぴたりとそれを止めた。
「どうかしましたか」
「……いや、何か嫌な気配を感じてねぇ」
「周りは警戒させておりますが」
「そうだろうとも。しかし、何事にも規格外の者はいるんだ。あの場所に帰るまでは安心はできないから、いつも以上に用心をするように」
「はい」
赤い火を噴き出している区役所には、周りから人間が集まりだしている。「火事だ」という声がそこかしこで聞こえて来る、それに背を向けて彼らは歩き始めた。そんな非常時に、彼らに注目するものなどいない。
ただ、一人を除いては。




