【第二部】第45話.金剛辰巳
【第二部】第45話.金剛辰巳
夕食、ウナの屋敷には客人が増えていた。一人は穂高の姉、穂高みすず。身体を清潔にして、新しい服を着ており出会った当初とはまるで別人のようである。整った顔つきに、強い意思の感じさせる瞳。長い黒髪を束ねた姿がどうに入っていた。
はじめに汚れたなりのまま姉をウナに会わせたが、ウナは気にしないどころか被服など気になってもいないようであった。さすがにこちらが気を使ってしまうので、風呂を借りた後、ばあやの持っていた服を一着譲りうけたのだ。
この日、客人はみすずだけではなかった。もう一人は、進一には面識のない一八〇センチはあろうかという大きな男だ。日本人らしき顔つきであるが、短髪で鋭い目つきをした筋骨隆々の男である。眉間の間に切り裂かれたような古傷があるところを見るとまともな人間ではなさそうだ。
「ああ。紹介するわ、この人はしばらくうちの銃後会で働いてくれる従業員や」
「金剛辰巳です」
吉野が連れてきたらしい。ごつい顔つきのその男が、手をついて礼をした。年は穂高より少し上、三十代半ばくらいだろうか。
「ああ。穂高進一だ、よろしく頼む」
そう挨拶をしたものの、どういう事だと視線を吉野に送る。相変わらず飄々とした様子で彼は答えた。
「この人の噂は前から聞いていてな、こっちにいるって言うんで、探して声をかけてみたんや」
「どんな噂だ」
「素手でヒグマを殺した男やって」
「そんな馬鹿な」
ヒグマを素手で殺したなどと、ありえない。訝しんでいると、金剛辰巳と名乗った男が笑いながら話し始めた。
「くく、ヒグマね。勝った、勝った。散々に蹴散らしたよ」
グッと握り拳を作って見せた。ゴツゴツしたその巨大な拳はまるで岩のようだ。
「だがヒグマ殺し、というのは少し違うわい。殺せた試しがない。弱肉強食の世界に生きる野生というのは、敵わんと思えばすぐに音を上げて逃げおる」
「それでも、素手で熊を圧倒したちゅうのはすごいで」
確かにそれはすごい。野生のヒグマと人間は鉄と火を持ってようやく対等だろう。しかし。
「しかし、何のために熊に挑むのか」
そんな無謀な、命を縮めるだけの行為。穂高の問いに金剛はニヤリと唇の端を歪めて笑った。
「くく、俺ぁ三度の飯より喧嘩が好きでね。この年になっても腕力で一番になりたいのさ。つまるところただの力試しよ」
「本気で言ってるのか」
「もちろん本気だ」
バカなのかと思ったが、本当のバカだ。誰の都合もお構いなしで、まったくひどい喧嘩太郎だ。
穂高があきれた顔をしていると、一本指を指して金剛が言った。
「ところで、穂高さん。あんた強ええだろ」
「……強いも弱いもない」
「なぁ、俺と喧嘩してくんねえか。軍隊だと戦闘の稽古があるだろう?一回、俺に稽古をつけてくれよ」
「ばかばかしい」
ふっと一笑に付した。
私も腕に自信がないわけではないが、初めて出会った男と喜んで殴り合いをするような人種ではない。そうしていると、吉野が余計な事を言い始めた。
「いいやん、やってやれよ。俺も見たいわ、ヒグマを倒す喧嘩太郎と前戦争の英雄が素手の喧嘩や。こりゃおもろなるで」
簡単に言ってくれる。何が悲しゅうてこんなゴリラみたいなやつと喧嘩せにゃならんのだ。ふと視線を金剛に向けると、彼は随分と嬉しそうな顔をしていた。ワクワクと言う表現が、ぴったり合いそうな表情である。
「はぁ。私は喧嘩はしない。稽古をつけろと言ったな、手合わせだ。それなら良い」
「いや十分だ。ありがてぇ」
「ならば場所は……」
「どこでも良いぜ。ここで、今すぐでも」
金剛の目玉がぎらりと光った。食堂の椅子に座ったままだが、その表情は、どこからでも来いと言わんばかりだ。ただいますぐに殴りかかっても、その覚悟は出来ているということだろう。
「待て待て。何も殺し合いをするわけではないんだ。そうだな、庭に出よう」
「どこへなりと」
庭で、正面から穂高と金剛が対峙する。立ち上がって比べてみると、高身長で丸太のような手足を持つ金剛に対して穂高のなりはまるで大人と子供だ。ギャラリーにはウナと吉野が立っている。
姉は今日はこの屋敷に泊まるらしい、婆やに連れられてもう部屋に引っ込んでいった。
先ほどから何が面白いのか、金剛はずっと笑顔である。
「もう、はじめても良いかい」
「いや待て、ルールを定めよう」
「ルール?」
「なんでもありというわけにはいかんだろう。そうだな、ルールは土が付いたら負けとしよう」
つまり足の裏以外のどこかが、地面に接触したら負けだ。倒れても膝をついても敗北である。
「それと握り拳で殴るのは禁止だな。怪我をせぬように」
「良し。それだけか」
「それだけだ。準備が良ければ始めて良いぞ」
そう言いながら履き物を脱いで裸足になった。足の裏に土のヒヤリとした感触が広がる。
「もうはじまってる」
瞬間、同時に金剛が踏み込んだ。