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【第二部】第44話.みすず

【第二部】第44話.みすず



ある昼下がり穂高は一人、ふらりと外に出ていた。

自治区の異国のような街並みが面白くて、つい路地の間などまで覗いてしまう。決して綺麗だとは言えぬ暗がりである、生活感を感じさせる生乾きの洗濯物、壁に寄り添うように座る老人、数人でなにか楽しそうに話をする痩せた子供。そんな混沌とした空間が妙に興味をそそる。

そんなとき、一人の女の後ろ姿が目に止まった。黒髪を後ろで縛っている。何が入っているのか、木箱を椅子がわりに座りながら何事か作業をしているようであった。一度は通り過ぎてしまうところだったが、思い直して振り返る。そこで、ふと顔を上げた女と、穂高の視線が交わった。


「しん、いち?」

「何?」

「お前、進一。穂高進一か」


炭のような汚れをほおにつけたまま女は言った。その姿からは日々の苦労がしのばれる。


「いかにも、私は穂高進一だが」


そう応えた。その時、彼の記憶の底がぱっときらめいて脳を叩いた。どうにも面影がある。


「あなたは、まさか」

「そう、私は穂高みすず。お前の姉だ」


その言葉を聞いた瞬間に、幼い頃に別れた長姉の後ろ姿を思い出した。ぐわっと言葉が押し寄せてきたが、胸から先の喉を通らない。口から漏れるものは音のない息だけだ。姉を名乗る女も無言で、目が少し赤くなっていた。やっとのことで、一つ言葉を発した。


「なぜここに。いや、まて違う、爺様(じさま)もたいそう心配しているぞ。なぜ便りを送らなかった。いや……そんなことより」


んっと喉のつかえをとるように咳払いをして続ける。


「姉さん、生きていて良かった」

「ありがとう。また会えるとは思わなかった、良かったよ」


姉はくしゃりと顔を歪めて下を向いた。こんな場所で意図せず出会うとは、降って沸いた奇跡である。


「姉さんはルシヤの男と結婚したと聞いた」

「うん、うん。そうだよ」


そこまでは爺様へ便りが届いていたため知っている。問題はそのあと、ある日突然音信不通となっていたことだ。しばらく間を置いて問う。


「何があったのか」


穂高の長姉は顔を上げて答えた。


「引き揚げさ。戦後この街からルシヤ人の引き揚げがあった。もう街をひっくり返しての大混乱だったよ。船が出ると、そんな話が広まった。ルシヤ人の主人と息子はそうなったが、私はここに残された。私は乗れなかったんだ」


姉の口から、わっと言葉が溢れる。


「短期間で引き揚げるということだった。みんな混乱していたんだよ。いつどこに船が来るのか、それすらもわからない。日本人が略奪に来るなんて根の葉もない噂もずいぶん流れた。爺様には手紙を出していたんだけど、ひとつも返事がなかったところを見ると……」

「届いていないな」

「だろうね。戦争の前から、もうぱたりと手紙が来なくなったからね。どこかで止まってるんだろう」


戦中は当然だがそれに輪をかけて戦後は特に混乱が酷く、情報が錯綜していたようだ。


「結局、家族とはあれから連絡が取れてないんだ。息子が無事だと良いんだけどね、向こうでどうなっていることやら」

「……」


乱雑に縛った黒髪を揺らす姉には、いつかのような笑顔はない。戦果として日本に権利が渡った北の大地であるが、実際に人が住んでいるのだ。地図を書き換えておしまいとはいかない、土地の人間は国の揺らぎに大きく揺さぶられる結果となる。この地には姉のような人間がごまんといるのだろう。


「おたまで掬った味噌汁みたいなものさ。大雑把に引き揚げたあとこぼれ落ちた具は、かき回されて濁った鍋に取り残されてしまったんだよ」


そう言ったあと、数秒間の沈黙があった。ふと思い出したように姉が続けた。


「進一は軍人になったと聞いたけど、戦争にも出たのかい?」

「ああ。軍隊の飯を食ってなんとか生きながらえているよ」

「そうか。立派になったね」

「いや、それほど出世はしていないがね」


進一はところで、と続ける。


「すずね姉さんは、一緒じゃなかったのか?あの人もルシヤの者と一緒になったと聞いているが」

「ああ、引き揚げの前までは近くにいたよ。でも、あの子は特別製だろ。無茶してルシヤの引き揚げ船に乗ったよ。家族揃ってね、まあ運も良かったんだ」


穂高すずねは真ん中の姉である。彼女も長姉のみすずと同様に、ある時からルシヤ人に嫁いだのだ。

進一はそうかと返事をすると、懐から財布を取り出して、それをそのまま姉に渡した。


「姉さん、これ使ってくれ。あんまり入ってはいないが生活費の足しにでも。私にはこれくらいしかできんから」


姉は、その財布と進一の顔を交互に見た。そして、財布をあらためる事なく胸中に仕舞った。


「助かるよ。ありがとう、進一」

「うん」


この貧しく不清潔で可哀想な姉をなんとかしてやりたい。そこまでは思っていないにせよ、進一は姉に何か手を貸してやりたくてしようがなかった。続けてたずねる。


「今日のゆうげの段取りはもうあるのか?」

「いや、これからだけどね」

「ならば今日のところは、私と共にウナの屋敷に来ると良い。今、私は彼に世話になっているのだが、世話になりついでに一人増えたところで構わんだろう」

「ウナさんって……首長さんのお屋敷だろ。こんな格好でお目見えできないよ」


姉は手を開いて見せる。確かににずいぶん汚れた格好だ、どう贔屓目に見てもディナーにお呼ばれするような服装ではない。


「お目見えか、江戸時代じゃあるまいし。大丈夫だ、ウナは土がついている者を排するような人間ではないよ」

「そうかい、なら良いんだけどね……」


そういってもなかなか納得しない姉を、半ば無理矢理誘ってウナの屋敷に連れて帰る事にしたのだった。

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