【第二部】第38話.勝者
【第二部】第38話.勝者
その場に倒れたままの大男を見て、蛇男は満足げに唇を吊り上げた。今日はなかなか良い仕事ができた、そんな職人のような心持ちでいるのだろうか。軽快な足取りで男に近づいていく。
「まだ息がありますか」
蛇男は彼の横っ腹を蹴り上げて仰向けに倒した。男は低い声で一度ぐぅと唸って、身体を開いて転がった。その顔は険しく歪んでいるが、なるほど死んではいない。
流れ出る血を止めようとしているのか、それとも本能からか、男は首筋を手のひらで押さえつけている。しかし彼の指の間からは押さえきれぬ血があふれて、その左前腕をべっとりと濡らしていた。
「駄目ですねぇ、大人しく死んでいなきゃ」
興が削がれたのだろうか、満足げな表情が一転して不快感が露わになる。蛇男は静かに隅に転がっていたナイフを拾い上げた。刃物の重みを確かめるように手のひらで転がして、止めを刺そうと握りなおす。
「さて……おや」
何かに気がついたように、ふっと首を振る。先程までボロ雑巾のように転がっていた明継がいなくなっていた。かわりに足を引きずって歩いたような跡が残っている。
「まるでネズミだね、痛めつけるのが足りなかったかな」
すぐにその後を追いかけようとした時、彼の足首を男が掴んだ。血塗られたその手で、追い縋るように裾を握る。
「……ごぼ、ま、まて」
口から血をこぼしながら、かすれた声でそう言った。蛇男はその姿を見ると、汚いものでも触れたような態度で振り解く。
「あぁ、後でちゃんと殺してあげますから。ここで待っていて下さいね」
そう言って、明継の足跡を追跡していった。
……
明継は片手で腹を押さえながら歩いた。あいつが見ていないうちに、一歩でも遠くに逃げるために。どうやら塀に叩きつけられた時に、腹を打ったらしい。じんじんと無視できない痛みが続いている。顔をぶつけた時に鼻血もでた。しかし、痛みや出血に負けて立ち止まっては蛇の餌食になるのは目に見えている。今にも追いかけてくるだろう。
必死で一つ角を曲がったところで、あれと目があった。明継はジッとその目を見据える。どうしても、このままでは逃げきれそうにない。彼は一つ何か思いついたような顔をして、片膝をついた。
「このあいだはごめん。いま大変なんだけど、手を貸してくれないかな」
下がった目線のままそう言った。すると願いが通じたのだろうか、それは軽い足取りで近くまで寄ってきた。
「そっか。ありがとう、本当にありがとう」
明継は近くに寄ったそれを、ぎゅっと抱き寄せた。自分の手ぬぐいに鼻から垂れて来た血で何事かを記して、その首にぎゅっと結びつけた。
「ほぉらぁ、見つけた」
ぞくり、とするような冷たい声がした。どんな感情からきたものか、全くわからない異質な声だ。振り返りもせず、明継は抱いてた猫をその両手から離した。
白黒の眉間に八の字のある猫は、ぱっと軽やかなステップで、塀の上に登って行った。まるでスカーフのように、明継の託した手ぬぐいを首に巻いたまま。
「うん、なんだあの猫。明継君、きみは一体何をしたのかな」
「何も」
明継は座り込んだまま振り返り、蛇男の目を睨みつけた。
「……何も?何もしていない訳ないですよねぇ」
蛇男がそう言った瞬間、猫はその仕事を全うするためだろうか、塀の向こう側へ飛び降りて消えていった。何事かに気がついたらしい蛇男の表情に変化が起こった。
「お前、何をしたッ!」
座ったままの明継に、大上段から蛇男が大きな声で威嚇する。彼の襟首を掴みあげて無理に立ちあがらせた。
「あの手ぬぐいを結んだのはお前だな。あの猫に何を持たせた!」
「大きな声を出していいのかな」
「何だと……?」
蛇男は首を絞めるように襟首を掴む手に力を込める。
「こ、この塀の向こう、僕にはもうよじ登るような元気はないけど。あの子にはあったんだ」
「何を言っている、質問に答えろ」
「この塀の向こうは、おれの爺ちゃんの屋敷だ」
「爺ちゃん?赤石か……!」
明継の祖父にあたる赤石は北部方面総合学校の校長であり、皇国陸軍所属の将校である。そうしているうちに、塀の向こうが騒がしくなった。何かを気取られたのかもしれない。
「おまえはもう終わりだ。おまえみたいなやつは札幌にはいられないし、日本にもいられない!」
「……ぐぅぅ。クソ、僕の予定が」
飄々とした普段の表情は消え去り、彼の顔は怒りに支配されている。
「何が予定だ、ひとごろしめ!お前なんか爺ちゃんに捕まってしまえ!」
「がぁああ!黙れ!黙れ黙れ黙れ黙れぇ!」
蛇男は襟首を掴んだまま、彼を持ち上げる。明継は首が絞まる格好で吊り上げられて、足をばたつかせた。そしてそのまま顔を赤くして意識を失った。
「かっ……かは!」
蛇男が手を離すと、力なく明継は地面に倒れ込んだ。息はあるが意識はなく、ぐったりとしている。それを見下ろしながら、蛇男は誰にともなくつぶやいた。
「はぁ、はぁ。殺すわけにはいかない。クソ、予定外だ。予定外だが、お前は僕と一緒に来てもらうぞ」